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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1欧米とソ連の植民地争奪(大航海時代)は1492年のコロンブスのアメリカ新大陸の発見から始まった

欧米とソ連の植民地争奪(大航海時代)は1492年のコロンブスのアメリカ新大陸の発見1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見から始まった

ウラジオストク・ロシア語の意味"東方を征服せよ”侵略国家ロシア
 十字軍の遠征以来、マルコ=ポーロの「東方見聞録」などでヨーロッパ人の間にアジアの物産に対する欲求が高まった。なかでも香辛料は非常に珍重され、最も需要が高かった。
 しかし、この欲求とは裏腹に、異教徒であるアラビア人の手になる東方貿易では、費用がかさみ、安全性にも乏しいという難点があった。
 ここに異教徒が支配する地中海東部を通過せず直接、アジア特にインドと交易をしようとする欲求が生まれた。これが、スペイン・ポルトガルの大航海開始の直接的動機となった。

1492年 
スペイン、コロンブスのアメリカ新大陸の発見。サンサルバドル島、キューバ、ジャマイカなど西インド諸島(メキシコ湾東方のカリブ海域の群島)を、支配。

1494年6月
 「トルデシリャス条約」が締結された。西経45度線を、両者の進出範囲の分界線とし、この分界線の西方全域をスペインの進出範囲、その東方全域をポルトガル進出範囲とした。後に1506年、この条約の分界点は教皇ユリウス2世によって承認され、まさにキリスト教権威のお墨付きを得た。スペイン・ポルトガルが世界を2分割し、支配しようとしたのだ。

1498年 ポルトガル、バスコ=ダ=ガマのインド航路発見。アフリカ及びインド洋の沿岸地域を中心に、武力を背景として貿易を強行し、インド洋周辺にアラビア勢力を打破してインド洋の制海権を獲得した。そしてアフリカの西海岸地域のギニアやアンゴラでは黒人奴隷貿易を行った。ポルトガル人は、スペイン人と同様に南米のブラジル地域の原住民を大量虐殺し、このために中南米の原住民人口は激減し、その労働力を失った。そこでポルトガルは、この深刻な労働力不足を補うべく、黒人奴隷貿易でアフリカから中南米に向けて多くの黒人を送り込んだ。

1521年 スペイン、メキシコのアズテク(アステカ)帝国を撃滅、征服。

1529年 サラゴサ条約。地球の裏側において2つの勢力のぶつかり合う分界線が、両国の間で定められた。この協定の分界線(ほぼ現在の東経135度)は丁度日本を真っ二つに分断するものであった。1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、相次いで1549年にスペインのフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸したのも、日本が丁度、2つの勢力の激突地点にあったことを裏付けるものである。

1533年 スペイン、ペルーのインカ帝国を撃滅、征服。

1565年 スペインは大砲や小銃で武装した300人ばかりの騎馬軍隊を本国から派遣してフィリピンのルソン島を占領。

1571年 スペインはマニラに首都を建設してマゼランのフィリピン群島の発見を理由にフィリピンを領有した。これ以降、スペインは約330年にわたってフィリピンの植民地支配を続け、絹などの物産資源を大量に本国スペインに持ち帰り、原住民をことごとくカトリック信徒に改宗させた。

 

イギリスのアメリカ大陸への進出
 イギリスの北米大陸における植民地活動が始まり、17世紀の初頭にはヴァージニア、ニューイングランドを中心に多くの植民地活動が開始された。この時イギリス本国内の国教強制化を逃れ、信仰の自由を求めていた清教徒や旧教徒が北米大陸に移住した。
 彼らの多くはスペイン・ポルトガルと同様に原住民のインディアンを虐待し、その土地を奪い取ながら植民地拡大を推し進め、次第にスペイン・ポルトガルに対抗する大きな勢力となっていった。


フランスのアメリカ大陸への進出

 フランスの植民地活動も、17世紀から積極的に始まった。イギリスと同様に北米大陸の探検を行い、セント=ローレンス川を逆上ってケベック市を立て、さらにモントリオールから、五大湖、カナダ一帯を支配した。また、ミシシッピー川流域一帯も占領し、ルイ14世の名にちなんで「ルイジアナ」と名付けた。こうしてフランスの植民地は、カナダ、ルイジアナにいたる広大な地域を占め、18世紀後半には、むしろイギリスより優勢になった。

 

オランダのアジア方面への進出

 17世紀の初頭よりアジア方面に進出したのが、1581年に旧強国(カトリック教国)のスペインから離脱・独立したオランダであった。この新教国の独立気運に燃えたオランダは、実利追求の通商国家として、まず北米大陸に進出を試みた。しかし、概存勢力であるイギリス・フランスにはねのけられ成功しなかった。
 そこで1595年より、インド航路によるアジア進出を試み、1602年に今までの諸会社を合同してオランダ東インド会社を設立し、これに貿易・軍事・外交・行政の独占権を与えて、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始した。

 オランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々と奪い取り、17世紀中期には、現在のインドネシアを中心とした地域に確固した拠点を築いた。これ以降インドネシアにおけるオランダの植民地支配は約320年間続いた。

インドネシアにおけるオランダの植民地支配の方法

○原住民を文盲のままに放置して土候を使って間接統治。 

○キリスト教に改宗したものは優遇して警察官や軍人として登用。

○オランダとインドネシアの混血児層を中間階級として使用し、民族の分断を図る。

○社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア人の憤慨と憎悪を華僑に集中させる。

○一切の集会や団体行動を禁止。

○全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、1つの共通語作成を禁止。

 

1639年 日本では徳川幕府の政策によって鎖国時代に入ったが、この日本との通商を独占したのは、このオランダであった。
1652年 1652年より3回にわたる英蘭戦争に勝利したイギリスは、オランダの海上権を奪い取った。

1689年 イギリスは、それまで拮抗(きっこう)関係にあったフランスと、北米大陸、インドをはじめ、西インド諸島、アフリカの各方面の植民地において激しい植民地争奪戦を展開した。この争奪戦はヨーロッパ全土における戦争と結び付いて1689~1815年の約100年続いた。イギリスはヨーロッパ本土の戦争には深入りせず、多数の軍隊を北米大陸に集中させたために、最終的にフランス領カナダの中心地ケベックを占領し、これを機に形勢は一気にイギリス側に有利となった。勢いに乗ったイギリス軍は、さらに西インド諸島のスペイン領をも占領した。一方、この戦争は、インドにおける英仏間の抗争にも連鎖していった。
1757年 イギリスは、プラッシーの戦いでフランスを破り、ベンガル地方を獲得し英領インドの基礎を築いた。英仏のインド経営は、ムガール帝国の皇帝やその配下にある土候の許可のもとに行われていた。帝国の内部抗争に乗じて英仏は、それぞれ土候を買収し、自分達の権利拡張に都合のよい土候を手なずけ、互いに勢力圏を拡張し合っていた。この勢力件拡張の衝突が、インドにおける植民地戦争に発展したのだ。
1763年 パリ和約。この全面展開となった植民地戦争に決着をつけるため、ヨーロッパ諸国の間でパリ和約が結ばれた。この条約でフランスは、カナダをはじめとするミシシッピー川以東の北米大陸の領土と、西インド諸島のドミニカ、トバゴなどの島々をイギリスに譲り、ミシシッピー川下流流域のニューオーリンズとミシシッピー川以西の地をスペインに譲った。このためフランス勢力は、北米大陸、西インド諸島から完全に撤退した。これに対してイギリスは北米大陸やインドなど多くの植民地を独占することとなり、これまで拮抗関係にあった英仏の関係は、完全にイギリス優勢となった。またこの和約でスペイン・ポルトガルは、ほぼ完全に中南米大陸を支配することになった。

1765年 イギリス、ワット蒸気機関を改良。産業革命開始。
1775年 アメリカ、ジョージワシントンを植民地軍の総司令官とし、翌年独立宣言。イギリスと抗戦。

1776年 アメリカ独立宣言。

1783年 パリ条約で、アメリカの独立が承認された。独立戦争勃発当初より独立軍の敗戦寸前であったこの戦争が、北米大陸におけるイギリスの植民地支配の優勢を喜ばなかったフランス、スペイン、オランダが、苦境にあった独立軍を支援し、約8年という長期戦と成ったが、勝利し独立。

 このようにみてくると、アメリカ独立戦争は、自由と民主主義という理想主義に充ち満ちた輝かしい戦いであったと言うよりも、むしろ列強各国の植民地争奪戦の産物であったと言っても過言ではない。

1785年 イギリス、カーライトがワット蒸気機関(1765)を応用して力織機を発明するに至って綿布生産が飛躍的に増大した。

1789年~1799年 フランス革命。

 フランスもイギリスとの植民地争奪戦の敗北によってイギリス以上に国家財政難におちいっていた。そして、アメリカ独立戦争を支援したものの、その見返りがほとんどなかったためますます国家財政は困窮した。財政危機はますます進行し、一般国民の租税負担能力も限界に達していたため、ついに特権身分層に課税しようと、国王は1787年名士会を招集した。しかし僧侶・貴族の代表で構成されたこの名士会は、課税に反対した。
 フランス革命は、実にこの「貴族の反抗」が発端となって起こった。すなわち、革命の発端をつくり煽動した者が、実はそれまでフランス植民地主義を推進し、ベルサイユ宮殿に象徴される空前の絶対王制を形作って来た特権身分層の僧侶・貴族であったのである。

このような過程をみてもフランス革命は、アメリカ独立戦争と同様に、それまで植民地主義を推進して来たさまざまな階層の人々が国家財政の破綻(はたん)という国難に立ち至って急激に利害対立が深刻化し、その仲たがいの中で発生したと言っても過言でなかった。その意味でフランス革命は、フランスが植民地争奪戦に敗れた産物であったと言っても過言ではない。

 フランスに「革命」が起こり、何故にイギリスに革命が起こらなかったかという点である。
それは、イギリスが植民地争奪戦に勝利し多くの植民地を独占しそこに産業革命という結果を得ることができたからである。もちろんイギリスも植民地争奪戦によって国家財政が窮乏しアメリカの独立という痛手を負ったが、それを乗り越えるだけのものを得たのである。しかし、フランスは植民地争奪戦の敗北によってほとんどの植民地を失ったが故に、国家財政が破綻し革命が起こった。

 このような国運の対比を見ても分かるように彼らの運命は実に植民地を前提として成り立っていた。すなわち彼らの繁栄は有色民族を犠牲にした植民地の獲得によって初めて可能となり、その植民地を失えばたちまちにして破綻してしまうという極めて依存性の強いものであった。

 

 イギリス本国を取り巻く様相は、アメリカの独立の前後では、大きく変化していった。広大な植民地の喪失と、自治植民地という穏やかな支配への移行は、すべての植民地を圧倒的優位をもって支配して来たイギリス本国にとっては、明らかに後退であった。
 そこで、イギリスは、アメリカの独立を契機に、穏やかな支配へ移行しつつあった既存の植民地を保持させながら、その一方で、完全な優位の支配に立てる植民地の拡大に主力を注いでいった。その対象となったのが、まさにインドを中心とするアジアであった。すなわち、本国の産業革命の力を借り、プラッシーの戦いで獲得していたインドのベンガル地方を拠点に、着実にインド支配を押し広げていった。2につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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