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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観敗戦逃亡は古今東西世の習い逃亡せず従と共に「公」に殉じた天皇


天皇も臣も世の習い逃亡せず「公」に殉じた敗戦逃亡は古今東西世の習い

天皇とマッカーサーの第一次会談 

 昭和20年(1945年)9月27日、朝10時15分、会談は米国大使館で行われた。天皇が切望した会談であった。マッカーサーも天皇との会談直前までは、「命乞いでもするのだろうと、軽蔑していた」。ところが、天皇の口から出た言葉は、マッカーサーをいたく感動させた。

天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して、全責任を負う者として、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、あなたに会いに来ました」。この勇気ある態度は私の魂までも震わせた。私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである。マッカーサー回顧録

 ・・・陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えられている。

 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任はない。

 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の配慮をお願いしたい」。

 一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝「ひれき(打ち明ける)」になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ。

 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願いしたい」。藤田尚徳「侍従長の回想」(172-173ページ)

 この時マッカーサーは、お迎えはしなかったが、お見送りには出てきてお見送りをした。

ボナー・F・フェラーズ(1896~1973)元米軍陸軍准将(1944から2年間マッカーサーの軍事秘書)家族宛の手紙

 「1945年9月27日10時過ぎ天皇マッカーサーと会見。

 天皇がアメリカ大使館を出発したとき、マッカーサーは感動の面持ちでこういった。『私は自由主義者であり、民主主義国で育った。しかし、惨めな立場に立たされた天皇の姿を見ると、私の心は痛む」

 オフィスに向かう途中でマッカーサーは、天皇は困惑した様子だったが言葉を選んでしっかりと話をした、と語った。「天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した』

 私は言った『天皇は、あなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ』

 マッカーサーは答えた。『そうだな、彼はその覚悟が出来ている。処刑されてもしかたがないと考えている』」

 

昭和62年(11987)10月3日の中日新聞記事

(注・中日新聞のアメリカ総局長が、皇太子殿下「現天皇陛下」ご夫妻の訪米に際し、バイニング夫人の特別の了解を得て報道する許可を得た夫人の、滞日四年間の日記の記事である。皇太子殿下の家庭教師バイニング夫人は、マッカーサー元帥の信頼が厚く、元帥から直接聞かされた話が、日記には次々と書き残されていた)

「陛下 命投げ出すご覚悟」「バイニング夫人(皇太子殿下家庭教師)日記に生々しく」

1947年(昭和22年)12月7日、昭和天皇とマッカーサー元帥との第一回会談

 元帥は陛下に対して最初、厳しい態度で臨み、「戦争責任をおとりになるか」と質問した。これに対して陛下は「その質問に答える前に、私の方から話をしたい」と切り出され、「私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。絞首刑にされてもかまわない。(YOU MAY HANG ME.)・・・」

2009/07/02 動画 昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言

 1946年1月、昭和天皇は人間宣言して、その年の2月から9年かけて、日本各地を巡幸し、国民と直接言葉を交わした。1977年夏、那須御用邸で、初めて戦後の思い出を語った。しかし、マッカーサーの初会見で、何を話したかについては、言えないと答えた。「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと、約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と。

 1989年1月、昭和天皇が亡くなるまで、ついにマッカーサーとの会見の内容について語ることはなかった。

 昭和天皇初のヨーロッパ親善の旅では、ヒトラーと同次元で扱われ、酷評された。しかし昭和天皇のこの「公」に殉じた心や、WW2の本質が真実史観に晒されて、世界中が真実と向かい合うようになった。今年の皇太子ご一家の、オランダ招待の静養滞在が、すべてを物語っている。

 日本精神の根源には、必ず主従を一体とするこの呼応がある。「公」があって「私」が無い、この呼応が日本人の本質なのだ。「公」には主従というような上下はなく、「公」に殉じた「公」を実行するための主従が存在するだけだ。赤穂浪士は「公」に殉じ、捻じ曲げられた「公」を正すために戦った。

○フランスの詩人、弁護士、キリスト教の牧師ポール・アントワーヌ・リシャール(1916~1920年滞在)は日本人の「公」を喝破し述べている。

世界の救世主

 「世界人類の相愛と協力とを、人生の目的とするならば、いずれの国もことごとく、その武器を捨てる必要がある。それにはまず、世界の中の一つの国が、率先して、その範を示さねばならない。
 祝福されたる日本国民よ!あなたは世界の救い主として、神に選ばれた国家である。」

○西ドイツのボン大学教授オットー・カロン博士は、同じ敗戦国のドイツと日本を比べて、天皇の存在を賛辞し、日本人の「公」を喝破し述べている。

 ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。

 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。

 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。「天皇の真実」 河内正臣(たま出版) 

「公」とは何ぞや。摂理だ。真実史観

 

○昭和55(1980)年5月21日カトリックの総本山ヴァチカンに、ABC項目すべての戦犯が祀られた。「世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第3巻〉大東亜戦争の秘話 (歴史パノラマ写真集) 」名越二荒之助著展転社 (1999/11)より抜粋。

 ――ローマ法王庁・ヴァチカンには、昭和の殉難者1068柱の霊が祀られている。連合国の手で「戦犯」として裁かれたABC級すべての日本人「法務死」者の霊が、世界のキリスト教カトリックの総本山ヴァチカンに、他ならぬローマ法王によって祀られたのである。

 その多くはキリスト教信者であった連合国側にとって、これほどの皮肉はない。皮肉というよりは、勝者の驕りに対する「神の戒め」であるとも言えよう。

 時のローマ法王・パウロ六世に、日本人殉難者のためにミサを、と訴えたのは仏教徒の仲田順和師であった。

 昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた折に、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために、宗教の違いを超えて願い出たのである。

 順和師の父であり先代座主でもあった順海大僧正は、学徒兵や殉難者の法要を欠かさず、「七戦犯の鐘」など慰霊の鐘も護持している。

 先代座主の遺志をついだ真言宗醍醐寺派別格本山品川寺(ほんせんじ)の仲田順和師の願いを、パウロ六世は快く承諾した。しかし、喜んで帰国した順和師にその後届けられたのは、法王の訃報であった。その後を襲ったパウロ一世も急逝し、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。

 その順和師のもとに、ヨハネ・パウロ二世から親書が届けられたのは五年後の昭和五十五年四月、内容は「五年前の約束を果たしたい」との思いもかけぬものであった。

 ローマ法王庁は、異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。

 パウロ六世の真心に応えようと、帰国直後から作製を依頼していた五重塔に殉難者千六十八柱の位牌を納め、ヴァチカンに奉納されたのは、同年五月のことである。醍醐寺五重塔を精巧に模した塔は、「戦犯」慰霊に共鳴した栃木県大田原市の木工芸家星野皓穂氏が、三年の歳月をかけ無料奉仕で完成させたもの。

 五月二十一日には仲田・星野両氏も参列し、法王パウロ二世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンでとり行われた。――

 

ピオ11世、パウロ六世、パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世と、一貫するローマ法王

○昭和56年(1981)2月23日~26日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はローマ法王として初めて来日した。この時、法王は慣例を破って皇居に天皇陛下を訪ねられた(2月24日11時皇居で天皇と会見。14時法王庁大使館で鈴木善行首相と会見)。法王が外国を訪問してその国の元首や首相に会う時は、その国の方々が法王を訪ねて会いに来るのが慣例となっており、法王の皇居訪問は前例のないことなので、問題となった。その時法王は、一身を捨ててマッカーサー元帥の前に立たれた天皇をたたえての訪問であることを、キリストの精神をたたえての訪問であることを、皆に説いた。皆は、その一言で納得した。

 戦前狂惨の正体を喝破したローマ法王のピオ11世は、(反共戦争)(日中戦争・支那事変・日華事変)(1937年7月7日)が始まった年の10月に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」と。当時、共産ではなく狂惨(凶産)と喝破していたのは、全世界のカトリック信徒と日本だけだ。

 右も左も、既に結論ありきで、事実を捏造するか、事実を針小棒大にして、既決の結論に帰着させようとする。森を見ず木だけ見て、既決の結論に合致する部分だけつまみ食いしている。私は右でも左でもない、私にあるのは真実、史実、禍福史観(木ではなく森を見る)、真実史観、実事求是だ。私が昭和天皇を最大限に評価するのは、古今東西世界の常識をくつがえし、敗戦なのに逃げずに、天皇の役目護国のために十字架を背負い、命を懸けたことだ。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世も称賛したこの無私の行動が、世界の評価を一変させていることを、日本国民はしっかり認識しなければならない。

※上記の部分だけのコピペが、2ch等で一人歩きしているが、会見は、天皇と臣(国民)に対してである。戦犯合祀反対分祀等々と、よまい事を叫ぶ似て卑なる者よ、真の日本人となれ!参照→ポーランドシベリア難民の孤児救出一世紀にわたり語り継がれる真実
 

 これまでの世界の国王は、我先に逃げ、逃げて、つかまり、つかまれば、命乞いし、殺され、亡国、が世界の常識だ。敗残の将は誇りを失わず、敢然と立ち、勝者と対峙し「公」に基づき真実を述べた。昭和天皇は古今東西の世界の常識をくつがえしたのだ。「公」に殉じた心、真実には感動がある。古今東西の世界の常識に反する、敗者なのに逃げない天皇と部下、この現実に対した時点でマッカーサーには天皇処刑の選択は消えていたはずだ。逃げず敗戦の責を一身に背負った天皇が処刑されれば、その時点で天皇は十字架を背負った大東亜共栄圏建設の、有色人種解放の殉難者となり、キリスト教国アメリカは十字架を背負った殉難者殺害者となるからだ。自殺と捏造し殉難者とならぬように東條英機を徹底的に貶め、処刑した理由は正にここにあるのだ。東條英機はアメリカの意図を読み阿吽の呼吸で呼応し天皇の身代わりとなり、部下と敗者の責任を果たした。家族に残した遺言「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ」身内は語るなは、評価は他人がすることで身内が評価することではない、身内以外の誰かがかならず己が生涯を正しく評価するはずだと戒めているのだ。赤心の東條はこうして「公」に殉じ、有色人種解放の殉難者となった。敗戦を引責し、天皇退位論など天皇非難論があるが、天皇の責任はすべて東條英機が受けて殉難者となった。退位などして天皇も責任を負えば、東條英機の死は即刻無駄死に犬死となる。天皇の身代わりとなった臣東條英機が願ったように、天皇は以後も「公」に殉じ、臣の願いに呼応し、日本の柱となり国民と共に復興を成し遂げた。これはまぎれもない戦後の事実だ。

 

『木戸幸一日記』昭和20年12月10日に記された昭和天皇の言葉。

「米国から見れば犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり」

 

「昭和天皇独白録」について

1988年、米国ワイオミング州キャスパーでマリコ・テラサキ・ミラーによって発見された、昭和天皇の口述書類。

 同書は、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成・御用掛が昭和天皇の記憶を聞き語りしたもので、その参考書類として「近衛公日記」と迫水久常の手記が添付されている。聞き語りが始まったのは昭和21(1946)年6月1日から、まず張作霖爆殺事件から起稿されている。四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである。この記録を残したのは、当時、昭和天皇の御用掛をつとめていた寺崎英成である。昭和天皇はここできわめてざっくばらんにその時々に感じたこと、また人物月旦評を語っており、きわめて興味深い。

 時の御用掛 寺崎英成は日米開戦まではワシントン日本大使館詰の一等書記官だったが、開戦後夫人(アメリカ人女性グエンドレン・ハロルド)と娘とともに、日本に送還された。終戦後は終戦連絡中央事務局に配属、日本政府と占領軍総司令部との間の連絡業務を担当したが、昭和21年2月に宮内省御用掛となった。寺崎が脳溢血でなくなられて、一家は夫人の故郷アメリカテネシーに帰国した。

 娘のマリコ・テラサキ・ミラーの息子のコール(娘の子供、寺崎氏の孫)が祖父の生涯について興味を抱き遺品を整理しているうちに、この記録を発見したものの、息子も日本語はダメなので、息子の知り合いの大学教授にみてもらい、さらに教授から東京在住の日本現代史研究の権威に転送された。そしてはじめて、この記録が 「歴史資料として稀有なものである」との回答を得た。これを機会に、娘は、この記録が持つ公共性に鑑み、これは我が家が独り占めにしておいてはいけない、公開されるべきものであると考え、1990年12月号「文藝春秋」に全文掲載され公開された。

 しかし、本書を読む上で注意すべき事は、「独白録」が東京裁判で天皇が訴追されないための弁明書であった点である。

 これは本書の英訳版が見つかったことで明かである。そのため、どうしても所々にその意図が現れていることに注意すべきであろう。昭和天皇が自分の戦争責任について『独白録』のような弁解と保身の文書をGHQに提出していたと、揶揄する者もいるが、天皇や護国指導者は逃亡していないのだ。逃亡もせず、敗戦の責任をとっている。揶揄する前にこの人としての重い事実を受けとめるのが先だ。敗戦、逃亡は世の習いだ。昭和天皇独白録
 「昭和天皇独白録」「昭和21(1946)年6月1日から、まず張作霖爆殺事件から起稿されている。四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものである」昭和21年は、日本中が東条叩き真最中で、東条の味方など皆無、しかも昭和天皇自身の処遇未だ定まらず、ましてやGHQ提出文書である。そして5人立会いの聞き書きでもある。これまでの富田元長官の出自不明のメモや、侍従一人の感想文とは、訳が違う。そして犯日団が無視した事は、語るに落ちている。まさに昭和天皇東条を語る、第一級の資料である。

「昭和天皇独白録」東条という人物

 元来東条という人物は、話せばよくわかる、それが圧制家のような評版が立ったのは、本人が忙しすぎる為に、その気持ちが下に伝わらなかった事と憲兵を使いすぎた。東条は一生懸命仕事をやるし、平素云っている事も思慮周密で良い所があつた。「マリアナ」の防備も彼が参謀総長を兼ねてから後に、督促しやっと出来たが、時既に遅かったあの時、非戦闘員の玉砕には極力反対していたが、世間では東条が玉砕させた様に至っている。

・・・田中内閣の苦い経験である。東条を退けても、彼より力のある人物がいないこと、東条が大東亜の各地の人々と接触しているので、之を無視して内閣を更迭すれば、大東亜の人心収拾が出来なくなると考えたからである。

 東条は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れ「こんりょうのそでにかくれる(天子の威徳に隠れて勝手なことをする)」るのはいけないと云つて立派に提出したのである。

 私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。「昭和天皇独白録」マリコ・テラサキ・ミラー著文芸春秋

 

昭和天皇もう一つの「英語版独白録」

 1997年6月に放送されたNHKスペシャル『昭和天皇二つの「独白録」』の内容を中心に書き下ろされた本。「英語版」の原文と翻訳に加えて、元侍従長、稲田周一の「備忘録」が収録されている。フェラーズの日記や書簡など(「フェラーズ文書」)を発見し、その中に「独白録」の英語版とでもいうべきものを探し当てたという功績がある。この本では、その他にもフェラーズの細かな動きを再構成していて、太平洋戦争の後期から占領期にかけての事情がわかりやすく記されている。昭和天皇 二つの「独白録」東野真 / NHK出版 /1998年7月25日

全責任を負い「濁」併せ呑み、「公」に殉じた天皇。1006.12.9.

 東京裁判の判決が下され東條ほか7人に死刑判決が下された。死刑は皇太子(現天皇)誕生日12月23日執行された。侍従の村井長正によれば、この日、天皇は終日書斎にこもり、「泣きはらして真っ赤なお顔をされていた」という。(高橋絋「象徴天皇の誕生」金原左門編「戦後史の焦点」)

殉国七士追悼式に参加して 若狭 和朋氏より抜粋

http://www.k3.dion.ne.jp/~sangane/sangane20.htm

昭和天皇の墓参り

 ・・・三ヶ根山の七士の墓の極く近く(700メートルくらい)の山腹に一軒のホテルがある。昭和(1979)五十四年五月二十六日、天皇皇后両陛下はこのホテルに宿泊された。翌日の植樹祭に御出席のためである。植樹祭の行なわれる場所は当時の愛知県西加茂郡藤岡町(現豊田市)西山中地内の県有林(現・昭和の森)であった。開会は午前十時であった。三河の首邑は岡崎であり、現地には最も近い。名古屋からも現地は近い。最も遠いのが三ヶ根のホテルである。にもかかわらず、このホテルに御宿泊されたのは陛下の強い御内意によるという。

 当日の朝、お部屋で七士の墓の方角に対して両陛下は不動のままに佇立「ちょりつ(しばらくの間立ち止まる)」されていたという。御内意といい、御佇立といい、ともに責任のある地位にあった元政府高官の証言である。ホテルにその日の御様子を確かめても「私どものレベルでは:」と笑う。それはそうだ。「なぜおたくのホテルに:」と尋ねると、「JR系のホテルだからかと:」と困惑を隠さない。気の毒である。「両陛下にお泊りいただいたホテル」というのは本来なら金看板のはずだ。言葉の端々に「警戒」の気配りが見える。サヨクやその仲間のマスコミを警戒しているのだろうか。

 A級戦犯の靖国神社への合祀はこの「墓参り」の前年の昭和五十三(1978)年十月十七日である。・・・
頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史


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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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