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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2朝鮮南日本海洋文化圏離脱し凋落李氏朝鮮と身分制度が亡国に更に拍車

2朝鮮南日本海洋文化圏離脱し凋落李氏朝鮮身分制度が亡国に更に拍車

 石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。

 紀元前8百~3百年(炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた)日本、弥生時代。弥生式土器。稲の水稲栽培開始の時代。

 紀元前9世紀に、大陸や南西諸島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。弥生時代早期に完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及した。また海洋人を経て朝鮮半島南、済州島に同様に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅国を生んだ。

 これまでの自給自足狩猟採取移動の生活を、稲の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水田作り、水路作りは集団が協力しないと出来ない。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力して作業に当たった。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進んだ。中国から農耕具の青銅器や鉄器も輸入し使用した。さらなる開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされ、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。稲の水稲栽培が国を造ったといえる。

 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。

 このようにして、狩猟採取定着の、あま(海)海洋文明集合体から、農耕定着の、あま(天)水稲文明集合体に権力が移動した。あま(海)の衰退ではない。あま(天)のほうが大きく勃興し、はるかに巨大化したため、権力は禅譲されただけである。あま(海)は以後も伝播に励み、隆盛を成し、島国日本の礎となった。水稲栽培は天候が命、集合体の命の要、あま(天)を神とし、太陽を最高神として崇めた。卑弥呼、天照大神となり、現代に至る。

黒曜石が語る邪馬壹国と卑弥呼
 前述のように島根県隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州で発見され、島根県出雲神話は、あま(海)の民、古代海洋国家を物語っている。

一方、九州佐賀県伊万里腰岳産の黒曜石も、沖縄本島や朝鮮南部で発見され、大分県国崎半島東端の姫島産も朝鮮南部で発見され古代朝鮮南部は、日本同様のあま(海)の民海洋文明圏で、3世紀末の魏志倭人伝にも、倭人の北岸狗邪韓国と明記され、中国も公認の、黒曜石海洋文明圏の継続を物語っている。

黒曜石、稲、青銅器鉄も、あま(海)の民が最初に入手し隆盛、伝播した。隆盛した国家(稲を最初に入手)魏志倭人伝中の邪馬壹国は、九州佐賀県伊万里腰岳黒曜石や、大分県国崎半島東端の姫島黒曜石を生業とした海洋文明国家あま(海)の民、子孫を物語って余りある。魏志倭人伝中「其山有丹」と記載された丹(丹砂、辰砂)は、いずれにも産地有り。青銅器鉄の伝来で黒曜石はすたれたが、あま(海)の道で得た稲と、あま(海)の道の交易(丹や稲の伝播と、青銅器鉄の入手伝播)で隆盛を築いた。祭神も、あま(海)とあま(天)になり、日巫女(卑弥呼)があま(天)に使えるようになった。この項は長くなるので、ここでは概略のみとします。

甕棺墓も語る
 韓半島南西や南部限定で、北九州と同類の甕棺墓が数多発掘されている。前2~3世紀が北九州発表、韓国は4~5世紀と発表。水稲のみが同時進行で墓制だけが遅れては、有得ない。韓国いつもの病気であろう。

日本人のルーツ
 7万年~1万年前の氷河時代最後の氷期に、大陸からナウマン象を追い氷河を渡り、後期旧石器人、モンゴロイドが渡来し定着。後に船が発明され、日本海海洋文化圏を築く。一方船を発明した南方のモンゴロイドも、陸伝い島伝いに北上し渡来、揚子江河畔の船を発明したモンゴロイドも渡来し、在来のモンゴロイドと融合した。モンゴロイド海洋文明圏を築いたあま(海)人。そして水稲文明圏を築いたあま(天)人。かれらが日本人の先祖と言える。
 耽羅(済州島)や半島南の祖先でもある。 

日本と朝鮮半島の年表 
BC1万年~BC千年日本、新石器時代(縄文時代)

BC5千年~BC千年朝鮮、新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器)。半島南は海洋文化圏(縄文時代)。

BC4千年日本、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培

BC2千年朝鮮陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培

BC600年日本、海洋文化圏、水稲(温帯ジャポニカ)栽培

BC700年ごろ、海洋文化圏、青銅器伝わる。

BC300~100海洋文化圏、初期鉄器時代。

B.C.108年 中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・臨屯・玄菟・真蕃の4郡を置く。

A.D.196年 この年、朝鮮に帯方郡が設けられる。

BC108~4世紀中葉朝鮮原三国時代楽浪郡・馬韓54国・辰韓12国・弁韓12国。三韓はいずれも川と平野が数多で、水稲好適平野は馬韓最多、結果が54国の分立。南部海洋民が水稲で隆盛を成し、水稲民と成り北上、三韓と成り、北部中国人や狩猟遊牧民ツングース系民族との対立が窺い知れる。狩猟、答えは明白、米が凌駕した。南部海洋民→水稲民三韓→新羅(水稲)→高麗(水稲)→李氏朝鮮(水稲)。仏教も南部が起源。この事は、海洋民を始祖とする水稲民文明が北上、狩猟遊牧民南下文明と融合し、韓半島文明の基盤と成った事を、明解に語っている。韓半島基礎民族は水稲民。したがって、朝鮮人の南部差別は、ご先祖冒涜の愚行。

57年 後漢の光武帝が日本、倭奴国王に金印を授ける。

107年 日本、『倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)との記述後漢書』孝安帝紀東夷伝

239年 日本、卑弥呼、明帝より親魏倭王の称号受ける。

 考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代中期~後期(5~6世紀)になると、朝鮮半島南部百済や伽耶諸国に、いくつも見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。長鼓山前方後円墳(全羅南道海南郡北日面方山里)龍頭里前方後円墳(全羅南道海南郡三山面三山里)

371年 百済、高句麗を侵し、平壌城を攻める。

382年 新羅が朝貢しないので、日本、襲津彦(そつひこ)を遣わして新羅を討たせる(神功皇后62年条)。

387年 百済王の使者、日本に朝貢する。朝廷、千熊長彦を新羅に遣わして、百済の献物を途中で襲った事を責める(日本書記 神功皇后47年上)

391年 高句麗の好太王(広開土王)が即位する。

384年 晋から百済に仏教伝来。日本への公式の仏教伝来、仏教公伝は538年か552年になり、蘇我氏は仏教崇拝、物部氏は排斥で対立激化。私的には中国、百済双方から伝わっていた。

397年 百済、倭国と通好し、太子を人質に差し出す。

412年 高句麗の広開土王が没する。

414年 好太王碑が鴨緑江畔に建てられる。「倭が海を渡って百済と新羅を臣民にした。日本、百済・任那(加羅)・新羅に兵を派遣して臣属させる好太王碑文(広開土王碑)。

430年 高句麗、平壌に遷都する。

443年 倭王・済(允恭天皇)、宋に使を遣わし奉献する。安東将軍倭国王を授けられる(宋書 宋文帝元嘉20年)。
451年 倭王・済、宋より使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓の六国諸軍事を加授される(宋書)。

462年 3月、宋の孝武帝、詔して倭王・興(安康天皇)に爵号を授け、安東将軍倭国王とする(宋書)。

475年 高句麗に漢城を攻め落とされた時に百済は一度滅びた(475年)。『日本書紀』の雄略紀。

476年 4月、枕羅、百済の文周王に朝貢した。『三国史記』

477年 雄略天皇が百済王に熊津の地を与えて国を再興させた。『日本書紀』の雄略紀。

479年 倭王・武(雄略天皇)、南斉の高帝より鎮東大将軍を授けられる(南斉書 南斉高帝建元1年)。

498年  9月、枕羅、百済の東城王に服属した。『三国史記』

502年 倭王・武、鎮東大将軍を授けられる(梁書武帝紀 梁元監1年)。

508年12月、南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた。『日本書紀』

512年12月、倭王任那の4県を百済にあたえる(日本書記)。

527年 6月、日本、近江毛野臣に衆6万を率いて任那に往かせ、新羅に破られた地を復興しようとする。筑紫の国造磐井が、これを1年半にわたり妨害。磐井の乱。

537年10月、大伴大連金村に詔し、その子を遣わして新羅を討たせ、任那を救わせる(日本書記)。

538年 3年、百済、扶余に遷都する。

554年 2月、百済、使を遣わし援兵を請う。

556年10月、百済人・高麗人を倭国高市郡の屯倉に置く(日本書記)。

560年 9月、新羅、入貢する(日本書記)。

562年 1月、新羅が任那の官家を滅ぼす。

     7月、紀男麻呂宿禰を大将軍とし、任那の地に赴かせる(日本書記)。

    11月、新羅、入貢する(日本書記)。

568年    新羅王・興王、咸興その他に巡狩碑を建てる。

571年 4月、欽明天皇、任那再興を詔する(日本書記)。

572年11月、新羅、使を遣わして調を進める(日本書記)。

577年11月、百済王(威徳王)、経論若干巻および律師・禅師・比丘尼・咒禁師・造仏工・造寺工6人を献ずる(日本書記)。

597年 4月、百済王、王子阿佐を遣わして朝貢する。

600年 8月、この年、新羅と任那が戦い、任那救援の境部臣ら大いに新羅を破る。隋に使を出す(隋書)。

601年 2月、聖徳太子、斑鳩宮を造る。

    11月、新羅討伐を計画する。

602年 2月、来目皇子を撃新羅将軍として2万5千の兵を動員する。

603年 2月、来目皇子、筑紫に病死し、征新羅軍を中止する。

608年    この年、新羅人多く帰化する。

609年    この年、肥後国に百済人80人余漂着、帰化希望者を元興寺に置く。

610年10月、新羅・任那の使が入京する。

620年 8月、聖徳太子・蘇我馬子らが天皇紀・国紀等をつくる。

631年 3月、百済王子・豊璋、人質として来る。     

634年 8月、彗星見える。

556年10月、百済人・高麗人を倭国高市郡の屯倉に置く(日本書記)。    

608年    この年、新羅人多く帰化する。

609年    この年、肥後国に百済人80人余漂着、帰化希望者を元興寺に置く。

660年 9月、百済、新羅と唐が百済を滅ぼそうとすることを訴える。

    10月、百済の鬼室福信、使を遣わして救援を乞う。

    12月、百済救援軍を派遣することを決める。

         唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。

661年 5月 耽羅、王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った。

 8月、阿曇比邏夫、阿部比羅夫を遣わして百済を救わせる。

662年 1月、百済の鬼室福信に、兵器・食料を送る。

     2月、新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった。『三国史記』

     3月、唐・新羅が高句麗を討ち、高句麗は日本に援助を求める。

     5月、斉明天皇は百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに、阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。

662年 耽羅、新羅に服属したが、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けた『日本書紀』。

663年 白村江の戦い。 3月、上毛野稚子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。

     8月、やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国した。豊璋は密かに高句麗に逃れた。

     (これより日本は半島の権利を放棄)。

 豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えた。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献した。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

664年 5月、唐の百済鎮将の劉仁願が、使を遣わして物を献ずる。この年、筑紫に水城を造る。

665年 8月、耽羅、日本へ使者を送って来朝した。

665年 8月、耽羅(済州島)の使、来朝する。

666年 1月、高句麗の使、来る。耽羅王子始如ら、来朝する。

667年 7月、耽羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。

668年 唐と連合して百済・高句麗を滅ぼした新羅が半島の単独政権となったのは668年、大同江以南の地は唐を宗主国とした属国新羅が支配した。百済・高句麗の滅亡に伴ない、日本へ大勢の亡命者が押し寄せた。かくして朝鮮だけが海洋文化圏から撤退した。以後日本統治までは、陸路からの中国文化だけの伝播となり、朝鮮時代には両班思想がはびこり、文化は停滞した。

669年 3月、耽羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を授けた。

673年 6月、耽羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した。

676年10月、新羅に使を遣わす。11月、新羅の使、来朝する。

710年~784年 奈良時代。

779年 以後新羅と日本の国交は途絶した。

936年 朝鮮史上はじめての統一独立国家(334年間)高麗が誕生。朝鮮史上もっとも輝いた国家である。高麗で辞書を引くと高麗を冠した文字が続出する。朝鮮文化が花開いた時代である。英語のKoreaは高麗(コリョ)の転訛による名称である。この時代と次の朝鮮を比較すると、属国化がいかに民度を下げ、文化を破壊するか、一目瞭然だ。朝鮮末期の文化は、高麗、以前の文化のように思える。耽羅、済州と改称。

1270年 高麗、済州島(耽羅)中国元の属国となった。

13世紀から16世紀倭寇活動、日本人海洋文化圏を支配した。以後は日本国が支配。16世紀の華中、華南の倭寇は中国人。

1274年 元寇、文永の役。元と高麗日本侵略し、壱岐、対馬占領。日本勝利。

1281年 元寇、弘安の役。元と高麗再び日本侵略。大風雨の恵みもあり、元と高麗軍を全滅させた。

1392年 部下の李成桂が高麗国王を倒し国号を朝鮮とした。以後宗主国明、清の属国となり、身分制度(凶産化)で愚民にした。軍隊を持つと自分が裏切ったように狙われるので、持たず軍隊も清に依存した。朝鮮暗黒の時代である。3につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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