QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 101234567891011121314151617181920212223242526272829302017 12

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


1真実史観沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


 20年6月6日、沖縄の海軍陸戦隊司令官大田実少将以下自決を決意し激戦のしじまにふりかえり
、海軍次官宛に打電。電文は沖縄県民がいかに軍に協力して郷土を護らんとしたかをつづり、沖縄県民の献身的な作戦協力について深謝し、多くを戦闘の巻き添えにし、痛ましい犠牲を払わされた沖縄県民を思い、後世にわたり沖縄県民への国の配慮を訴え、上記の文で結んでいる。赤心の真情あふるる無声滂沱の文だ。  真実史観意訳文

 

発 沖縄根拠地隊司令官

 

宛 海軍次官

 

 下記の電文を海軍次官に御通報の方は、願いが叶えられるよう取り計ってほしい。

 

 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力無く32軍司令部又通信の余力無しと認められるので、本職(沖縄根拠地隊司令官)、県知事の依頼を受けてはいないが、現状を看過するに忍びず、県知事に代って緊急御通知申上げる。

 

 沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみるいとまがなかった。しかれども、本職(沖縄根拠地隊司令官)の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ。

 

 残されたる老幼婦女子は、頼る者がなくなったため自力で、しかも相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却されたため、わが身一つで、軍の作戦に差支(さしつかえ)なき場所の小防空壕に避難。避難しても尚、小防空壕のため、砲爆撃の攻撃から完全には逃れられない。風雨に曝(さら)されつつ、乏しき生活に甘んじている。

 

 そんな境遇にもかかわらず、若き婦人は率先して軍に身を捧(ささ)げ、看護婦烹炊「ほうすい(煮ることと炊くこと)」婦は元より、砲弾運び、挺身「ていしん(捨て身)」斬込隊すら申出るものもいる。

 

 敵が来れば結局、老人子供は殺され、婦女子は後方に運び去られて毒牙にかけられるのだからと、親子生別れを決心し、軍に娘を守ってもらうため、娘を軍の衛門に捨てる親もいる。

 

 看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発しているので、身寄り無き重傷者を助けて移動。真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 

 更に、軍の作戦の大転換あるや、夜中に遥に遠隔地方の住居地区を指定され、トラックなどの輸送手段皆無の沖縄県民は、うらみ辛みも言わずに、ただ黙々として雨中を徒歩で荷物を運び、移動した。

 

 この沖縄県民の行動は要するに、陸海軍部隊が沖縄に進駐以来終始一貫、勤労奉仕物資節約を強要させられたのに、うらみもせず(一部には悪評なきにしもあらざるも)ただ只管(ひたすらに)日本人としての御奉公の護国を胸に抱き、軍、沖縄県民一丸の護国軍となり、いかに沖縄県民が御奉公にはげんだか、ということである。

 

 これほどまでして護国にはげんだが、遂には大打撃を与えことがなかった。最後の戦いと決断した沖縄県民と軍と沖縄島は、末期の運命を共にし、まさに今、一木一草亡き焦土と化すまで戦わんとす。

 

 糧食六月一杯を支ふるのみなりという。

 

沖縄県民斯ク戦ヘリ

 

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 

 沖縄県民へのほとばしる深謝の思いである。軍も民も無くまさしく団結した戦いであったことが彷彿する。20年6月13日、大田少将以下幹部は包囲されたため、自決し果てた。

 

人の将(まさに)に死なんとするや、その言や善し。

 

当時の真実(軍、沖縄県民護国一丸)を語る「伊波苗子(元従軍看護婦)」

【伊波苗子】元従軍看護婦の証言・第32軍司令部壕の真実[桜H23/11/28
 

 「日本九九年戦争・資源無き島国日本、適者生存戦国時代唯一の術は、先手あるのみ。後手の本土戦は、兵糧攻めで必滅。露西亜、清国(属国朝鮮)南下阻止が第一義、後手は必滅、先手で打って出た。 

 結果が台湾朝鮮(自立不能で)統治(極東共栄圏樹立着手)、満州建国尽力(凶産の砦)、日中戦争(中国凶産化での中ソ凶産連合阻止)、南京政府樹立尽力(中国凶産化阻止)で極東共栄圏構築。

 日中(反共)戦争で疲労困憊の日本は、戦国の定法弱肉強食、恰好の餌食となった。米英中蘭(ABCD)が兵糧攻め、ハル・ノートで降伏を迫った。出稼ぎ戦争対、日本は死活戦争。極東から大東亜に共栄圏樹立を拡大し、あらん限りに戦ったが、大東亜同胞の、完全覚醒追随まで戦いきれず、矢尽き刀折れ、敗れた。

 がしかし、戦いざまに共振した同胞が、一気に蜂起、独立。1960年の植民地独立付与宣言(互恵)が根幹となり、自由貿易64年開放経済)、平等65年人種差別撤廃を成し、凶産は残ったが、戦争目的は完遂した。弱肉強食の世に、戦後67年間のごとき無能無策の後手日本なら、何もかもが消滅していた。それでも戦後消滅しなかったのは、『身体を筆にし、流れる血と汗と涙でえがいた先人の、人類への遺書』以外、あろうか!

 “戦かわざれば”の平和論があるが、防共の砦日本が去るやいなやすぐさま凶産化、朝鮮戦争惹起したもう一方の真の敵、中ソ凶産連合軍隠蔽スパイの、工作論である。ABCDと“戦かわざれば”の降伏は、防共の砦無き丸裸日本で、中ソ凶産の、恰好の餌食となった。この戦いは、目的も無きただの防御戦。多勢に無勢で、瞬時に最後の独立国日本は潰え、日本族の名を残すのみの、まさに、犬死に無駄死にの戦争となっていた。同胞の、支配者からの独立も無い!新秩序など、当然無い!支配者と、被支配者の地球に成っていた!」

 

「公」に殉じた人と私利私欲の人

「軍命令」と初め救民のため、後に軍隊極悪宣伝用に悪用、捏造された沖縄戦集団自決事件、真相は次の通りである。 

 

 援護法が、軍人や軍属を対象としていたので、その死が軍部とかかわるようにしなければ、集団自決した人々の遺族が補償金を受けることが出来なかったのだ。座間味島の梅澤隊長、村の指導者として自決した宮里助役、戦後補償に情熱を傾けたその実弟の宮村幸延、渡嘉敷島の赤松隊長は、遺族が国の補償金を得るために、十字架を背負い遺族を救った。

 

 戦後補償の申請は、こうして昭和28年にされ、昭和31年3月、集団自決者(乳幼児を含む)全員「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が対象者として認定され、遺族は救われた。「援護金」例外支給は、沖縄のみ。大田実少将末期の打電、「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」に即刻呼応、天道(超法規)で、応えたのである。

 

 集団自決は「軍命令だった」と初めて書いたのは、昭和二十五年に朝日新聞社が出版した『鉄の暴風』だった。同書はその後、沖縄タイムス社発行となった。「梅澤少佐のごときが朝鮮人慰安婦と不明死をとげた(生存しているので現在は削除)」。「集団自決」をした場所も異なる。「地下壕」はなかったのに、「地下壕内」の将校会議と捏造。沖縄在住の知念元副官や比嘉(旧姓安里)喜順元巡査にすら、インタビューした形跡もない、でたらめな記述が満載の本である。

 

 その実情を調べもせず鵜呑みし、鵜人大江健三郎の『沖縄ノート』や、家永三郎の『太平洋戦争』などで拡大したため、集団自決は「軍命令だった」という話が、多くの出版物や教科書で独り歩きし定着してしまった。

 

 集団自決の「軍命令」を発した張本人が、自決もせず生きている不自然さに気付けば、すぐに事の真相が分かるのだ。背負った十字架の重さに気付いた政府も遺族も島民も、皆が暗黙の了解をしていた。戦後の貧しさの中で皆、助け合って生きていた。「朝日新聞」が捏造し騒いでいなければ、ここまで大騒動にならず、傷つく人もいなかったろう。

 

沖縄タイムス(「鉄の暴風」刊の無検証報道

沖縄タイムス1983(昭和58)年6月8日

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に故赤松大尉直筆の手紙を届ける

住民に「(敗戦について)申し訳ない」虐殺については否定?

 【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

 手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日(復帰の2年前)。 

 そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。

 ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。

※この、赤松嘉次大尉心中吐露の手紙、全文掲載はせず、下記のように、検証無き個人の勝手な感想を書いている。全文掲載し、検証後感想掲載が、新聞の本道だろう。これでは単なるゴシップ記事。沖縄の新聞はこの手合いが特に多い!

 仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。

※「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)のみの、一方ソースでは、話にはならない。

 中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

※「米軍による住民虐殺、住民による集団自決」が歴史の事実で、「日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決」は捏造である。新聞や新聞記者は識者ではない。ただの扇動屋詐欺師である!

 この記事は徳嵩力の写真(故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏)とともに、トップ大きく掲載された。

 

集団自決の真相目撃者比嘉(旧姓安里)喜順元巡査が同日送付した抗議の手紙

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届けるより抜粋転載

 比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

 その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

比嘉(旧姓安里)喜順元巡査の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

 あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。

 私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。

 それであなた様が「12年前より赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。

 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません

 責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません

 「鉄の暴風」が発刊されておるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。

 それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。

 沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません

 私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 

 それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃に沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。

 赤松隊の生存者もおられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みになられたらと思います。

 真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います。

 歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。

 只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。

 徳嵩様の重要な部所にお勤めなられており幸いと思います。

 益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

 

 そして十日後、比嘉喜順は徳嵩 力からの手紙を受け取った。

脈々と先人の一丸が生きてる返信

 直筆の手紙であるという。真摯な返信で共振している。ここには、脈々と先人の一丸が生きている!

続・沖タイの歪曲報道、徳嵩氏の返信より抜粋転載

拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました。比嘉様には昭和二十年にあの激戦の慶良間、渡嘉敷島警察官としてご勤務をされていた由、さぞかし大変なご苦労をされたことと心から感謝申しあげたい気持ちでおります。

 昭和十八年の学徒出陣を体験し、大正十年生まれの私にとりましても、今次大戦は以後の人の人生を一変させる位の大事件でありました。

 沖縄戦が世界の戦史上でも稀に見る住民をまきこんでの大激戦でありましたことが、今なお幾つもの大きな問題となって尾を引いており、沖縄の歴史とともに、私達の胸に大きな痛みを甦らせます。

 御手紙で御提示のありました曽野綾子著「ある神話の背景」を読了し、深く考えさせられました。

 御高説の通り、ものがどの一方からの見方のみでその本質、真相を判断してはならないことがよくわかりました。

 国会においても一貫して沖縄問題を担当し、殊に昭和四十四年に、衆議院職員初の調査団の一員として沖縄を視察いたしましてより、一種の使命観をもって復帰に関する諸々の案件と取り組み、沖縄問題はいささか精通していると内心自負して参りました私にとりまして、如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた次第でありまして、勉強し直し、かつ真実を知る機会を与えて下さった御手紙に対して衷心より感謝いたしたいと思います

 私は、昭和四十四年に沖縄に派遣されて以後、鉄の暴風、秘録沖縄戦記、沖縄ノート、沖縄問題二十二年等々沖縄に関する著書は次々と読んで、沖縄問題の本質と深淵を探り、そこで渡嘉敷の集団自決事件をと赤松大尉の存在を知りました。

 その後、赤松大尉から陣中日記と御手紙を頂いたのは四十五年の秋のことでした。

 戦争中は、その置かれた立場と環境によって軍もまた国民も半ば狂気のような行為、行動のあったことが思い出され、戦争というものが如何に人間を醜くするものか、それ故に平和がいかに尊いかを改めてかみしめている最近であります。

 巷に伝えられている赤松大尉の集団自決事件にいたしましても、私は私なりに当時弱冠二十五歳の赤松大尉が周囲を米軍に包囲され、とことん追い詰められた状況の中にあって自決命令を下したとしても、あり得んであろうというように思っておりましたが、-非常に残酷な話ですがー当時渡嘉敷で軍民のパイプ役として必死の御活躍をされました比嘉様の生きた証言によって真相を教えて頂きましたことは、非常に幸いであり、また救いでもありました。本当にありがとうございます

 実は先月ある席上で沖縄タイムスの某記者と同席いたしました折、たまたま私が赤松大尉の陣中日誌を持っていることに話しが及び、是非見せて頂きたいということでお貸ししましたが、今さら事件を暴きたてるといったような意図はもとよりなく、あのような記事となったことは心外でした。 かつて私は書き物にも、集団自決命令があったようなことを書いたものもありますが、今後は心して機会があるたびに赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真相はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っておりますので、どうぞそのように御高承を願います

 さて国民の1人として沖縄戦全体を考えますとき、大田海軍少将の最後の電報等はありましたが、戦争とは言え沖縄県民に余りにも大きな犠牲を払わせた結果につきまして深く反省し、県民に、遺族の方々に十分の償いと報いと感謝とを捧げなければならないと感じて今日まで過ごしてきました。

 沖縄に関して、私の書いた拙文を同封いたします。 御高覧願えましたら幸いに思います。

 最後に二十七年間に及ぶ異民族の支配下に苦労されました百万県民の御苦労をしのび、沖縄県の皆さんが真に他の府県同様に発展して参りますよう念ずるとともに、御年配の比嘉様がこれからの余生を大事にされまして、沖縄戦の貴重な体験を通じて反戦、平和の尊さを後進の者に御説諭下さいますよう、御健勝を切にお祈りいたします。       敬具

六月十八日           徳嵩 力

比嘉喜順様

 

比嘉旧姓安里喜順元巡査は「軍」と「民」とのパイプ役で生き証人

※曽野綾子の『ある神話の背景』は、昭和48年5月刊行。

当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏の証言「ある神話の背景」より抜粋)

 「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

 「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

 「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

 「ありません」

 「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

 「そうです」

 「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

 「私へ来るんです」

 「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

 「はい、ずっとです」

 「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

 「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

 古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。(P122~123)

比嘉旧姓安里喜順元巡査証言

『潮』(昭和46年11月号)星雅彦(沖縄在住の作家・詩人)

 「そこで安里(比嘉)巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。

 そのとき赤松隊長は次のように言った。

 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。

 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。

 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。 

 そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。

 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。 

 それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」

2につづく⇒

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/59-6ee3a8d5

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。