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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2渡嘉敷島安里巡査赤松隊長玉井村長座間味島梅澤部隊長宮村幸延の英断

2渡嘉敷島安里巡査赤松隊長玉井村長座間味島梅澤部隊長宮村幸延の英断


比嘉
旧姓安里喜順元巡査(2008年94歳で永眠)証言(昭和63年沖縄県警察史)

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任。ところが、着任の一ヶ月足らずで本島への転勤が決まり、戻るはずが「集団自決に」に巻き込まれた。

 ――辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした――

軍隊任務が国と国民の護り。警察任務は住民の安全と秩序の守りである。島民代表は、安里巡査、村長、助役、校長等であった。島民を守るためのパイプ役安里巡査が、赤松隊長の守備軍に、相談しに行ったのが下記。「防衛隊員」とは、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の「県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ」方々で、村の助役や島民が兼任。

 

 ――赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。

 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。

 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談

 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。

 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。

 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。

 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。

 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。――

「比嘉旧姓安里喜順、伊礼蓉子らの証言」

「沖縄は日本兵に何をされたか」星雅彦の手記(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)

 村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。

※「防衛隊」とは、前述「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の「県民は青壮年の全部が防衛召集に参加し全員が防衛にはげんだ」人たちで、軍人ではない。

 村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。

 その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)

 

渡嘉敷村玉井喜八元村長証言

軍命で集団自決」は、援護法適用目的で、「国と両隊長関係者」が遺族のために背負った十字架

沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪より抜粋

 以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の抜粋。玉井喜八元村長1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長職。2000年8月79歳で没。

 

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

 ――遺族会発足当時は主として戦没者援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。

 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し戦没者全員戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。――

 

※「両隊長と関係者」の、背負った十字架の重さに気付いた政府も遺族も島民も、皆が「阿吽の呼吸」で、暗黙の了解をし、特殊事情として、「乳幼児を含む」戦没者全員に、「援護法」が適用された。大田実少将「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」等を考慮した、善意の了解で、国も、両隊長同様に十字架を背負い、集団自決も軍命と捏造し、援護法を適用したのだ。なんとすばらしい先人の配慮である。尊敬以外の何ものがあろうか!子孫は誇りとすべし。護国に殉じた同胞の、遺族を配慮こそすれ、とがめる者などあろうか。一人もいなかった!戦後の貧しさの中で皆、助け合って生きていたのだ。

 ところがこれにつけ込んだのがマスコミである、「国が認めたということは、集団自決は軍(国)の命令」と、好いとこ盗りつまみ食い捏造、「軍命で集団自決」と大宣伝し大騒ぎした。

 馬鹿マスコミとニセ識者が馬鹿騒ぎしなければ、誰も傷つく者などいなかったのだ!「言葉と文字界」、似非で詐欺師との白状である!

 

 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。

 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。

※実際に空港で、背広のボタンをも引きちぎる抗議をしたのは、僅か十数名の那覇市の市職労の組合員で、渡嘉敷住民は、赤松氏の慰霊祭参加をこのように歓迎していた。

 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。

※慰霊祭当日、前述の証人伊礼蓉子(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれたが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡らず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託した。

 昭和59(原文53は記憶違い)年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長(赤松)夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。――

 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

 

『ある神話の背景』で真実解明に挑んだ曽野綾子

1971年10月から1972年8月まで、11ヶ月にわたって『諸君』に連載された後、1973年(昭和48年5月)に、単行本として文芸春秋社から刊行された。

 ・・・曽野綾子が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、赤松・元大尉はこう答えた。手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵(注・前述の、部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。

 

 ・・・村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らな かった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。 彼女たちは曽野氏にこう語っている。 A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、 早まったことをしたなあ」 C 「誰が命令したねえ」 D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」と言った。

 

 ・・・女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言。 私は7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された。『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』曽野綾子著

 

 仮想現実界の鑑曽野綾子は知識を鵜呑みせず咀嚼し、不自然さにすぐ気付き、探究し、昭和四十八年に『ある神話の背景』を出版し、軍が命令したという「定説」に決定的な疑問を投げかけた。現在改題され「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!』となっている、WACが出版。九八○円(税込)。

 

 渡嘉敷島村長の玉井喜八村長と照屋さんが、終戦時に海上挺進隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(昭和五十六年死去)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。

 照屋さんと玉井喜八村長は、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 

 真実を語れば村民の「戦後補償」のからくり暴露になるので、語らず。昭和五十六年死去した赤松元大尉の心中は、想像に余りある。今では、赤松元大尉の慰霊蔡が、毎年行われているという。産経新聞2006年08月27日、実名、写真入りで照屋さんの証言を報じた。戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった、元琉球政府職員照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による自決命令ということにし、自分たちで書類を作った」と告白。

 

 大阪地裁で続いている「集団自決訴訟」について、被告側(岩波書店、大江健三郎)にとって不利なことを言っている元琉球政府職員照屋昇雄さん(82)について、経歴詐称だと主張し、証言も信用できないとする沖縄タイムスの記事。他人の経歴を沖縄タイムスと大江健三郎がグルになって捏造した。沖縄タイムスと大江健三郎の捏造  

 「座間味島昭和20年3月26日の集団自決は、梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命として申請したためのものであります」と昭和六十二年三月、宮村幸延氏の証言一札を梅澤元隊長に入れ謝罪。神戸新聞が取材し、62年4月18日付で伝えている。

 

 産経新聞・平成17(2005)年7月24日[日]沖縄座間味島守備隊長梅沢裕・元少佐(88)と遺族、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。「自決強制」記述誤り、名誉棄損と大江健三郎氏と岩波書店を提訴へ。同様の家永三郎著『太平洋戦争』(岩波書店)や、中 野好夫著『沖縄問題20年』(岩波書店)は、絶版となっている。

 

 「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが(座間味島)『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにしている。これまで真相が次々と究明されている。渡嘉敷島・座間味島の二人の隊長と関係者は救民のため、すべてを背負い戦後生き、生きた。まさしく日本精神だ。言葉遊びの非常識愚民鵜呑み知識の大江、家永や鵜呑み知識を撒き散らす朝日新聞社や三鵜人などには所詮、理解できないだろう。今でも撒き散らしている。製造業で嘘を撒き散らし造れば、雪印・不二家のように、瞬時に存亡の危機にさらされる。嘘を撒き散らし続ける報道業も同様に、制裁を受けるべきだ。母の遺言 宮城 晴美 

 

 下記は、現行の高校生用歴史教科書(東京書籍・日本史B)の記述である。同様の記述は、(日本書籍新社の中学社会)・(実教出版の高校世界史B)・(三省堂の高校日本史A)・(高校日本史B=桐原書店)・(高校日本史B=東京書籍)にもある。いずれも、検定をパスしている。

 「戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり・・・」

 

 教科書から至急削除し、教師は事実を教えよう。 

 

 護国に殉じた同胞の遺族を配慮こそすれ、とがめる者など皆無。戦後、国も元兵士も皆呼応し配慮した。配慮を悪用し、「国が認めたということは集団自決は国(軍)の命令」と捏造、「軍命で集団自決」と大宣伝し大騒ぎした。軍、民が団結し赤心の真情あふるる先人を、戦陣訓を捏造し「極悪加害者軍人」対「か弱い被害者国民」にしたのが、大江や朝日などの米軍負い目払拭用洗脳宣伝迎合者だ。対比がきわだつ。侵略者米国に追い詰められこの悲劇となったのだ、悲劇の起因は侵略者米国、護国の軍人ではない。

 

 沖縄根拠地隊司令官大田実少将も、沖縄県民斯ク戦ヘリと軍民一丸の戦いを証言し、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲと沖縄県民遺族への配慮を願い打電後、自決している。軍命令とせずとも援護法適用は妥当である。にもかかわらず軍命令としたのは、そのほうが即決できたからだろう。かくして女子供までが虜囚の辱=降伏禁止の訓えに従い、軍命令で自決したという物語が戦後善意で創作された。悪意に捏造したのがマスコミである

 

マスコミの捏造が暴かれ現われた真実

慶良間で何が起きたのか③ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔
 2012年4月八重山日報(段落加筆)

―神もおののく集団自殺

 僕は一九八五年、タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2情報部のG2サマリーを中心にした「沖縄戦日誌」を連載し、その中でニューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷住民の〝集団自殺〟を発表した。その要旨に次のようなものだった。

 

 神もおののく集団自殺―三月二十九日発。

 昨夜我々第77師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。手榴弾が七、八発爆発した。偵察に出ようとすると闇の中から狙い撃ちにされ、仲間の兵士が一人射殺され、一人は傷を負った。我々は朝まで待つことにした。その間、人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。

 ようやく朝方になり、小川に近い狭い谷間に入った。

 何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけだった。

 そこには二百人ほどの人がいた。(注:第77師団G2リポートは二百五十人と記録している。)そのうちおよそ百五十人が死亡、死亡者の中に六人の日本兵(※)がいた。死体は三つの小山の上に束になって転がっていた。およそ四十人は手榴弾で死んだと思われる。周囲には不発弾が散乱していた。木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる三十五歳ほどの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、前かがみになって死んでいた。自分で自分の首を絞め殺すことは全く信じられない。小さな少年が後頭部をV字型にざっくりと割れたまま歩いていた。

 軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを注射し、痛みを和らげてやった。全部で七十人の生存者がいたが、みんな負傷していた。生き残った人々はアメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると、驚きの目で感謝を示し、何度も頭を下げた。

 「鬼畜米英の手にかかかるよりも自らの死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今、気づいたのだろう。自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。

 数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵が保護してやった。なんとも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から、泣き崩れた。――

 以上が一九四五年四月二日のニューヨーク・タイムズが報じた渡嘉敷住民の集団自殺の要旨だ。だが、僕はこの記事を公表した時点で気付かなかったが、※印を附した日本兵とは実は防衛隊員であったことを知ったのは一九九五年春と夏に渡嘉敷島に渡って現場調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。

 その前年の一九九四年、僕は戦後五十周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるため「おきなわプラス50市民の会」を組織し、その活動の中でデイブ・ダーベンポートさんから渡嘉敷の「集団自殺」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それは衝撃的なものだった。一九九六年六月、僕はそれを「沖縄戦ショウダウン」と題して琉球新報紙上で発表した。その一部を次に紹介しよう。

 

 ――1945年4月27日夜明け、僕たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で三人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。

 その途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ十メートル、深さ三メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。

 年配の男たちが小っちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々、爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。医療班がかけつけ、全力を尽くして生き残った者を手当したが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。――

 この阿波連のウフガー上流の集団自殺については、いかなる沖縄戦の本にもなく、タイムスも新報も全く触れていない。だが、第三戦隊陣中日誌は記す。「三月二十九日―悪夢のごとき様相が白日眼前に晒された。昨夜より自決したる者約二百名(阿波連においても百数十名自決、後判明)」。グレン・シアレスさんの手記を見事に裏付けている。

3につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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