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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1ミャンマー(ビルマ)ウ・オッタマとアウン・サンと日本軍南機関


ミャンマー(ビルマ)オッタマとアウン・サンと日本軍南機関

 ビルマは19世紀に三度にわたってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年にイギリスの植民地とされ、そのとき既に
イギリス領であったインドの一州に組み込まれた。ビルマ最後の王様であったティボーは王妃と共にインドのヤダナルギリ(Yadanargiri)に移送され、そこで1916年に58歳で生涯を閉じる。王子らは処刑、王女らはイギリス軍の兵卒の娼婦にされた。現在、インド最下層のカーストの家系に、バマー王朝の末裔が何人か見られるとのことである。彼女らは、当然ミャンマー語をしゃべることはできない。(注・王女に関しては諸説あり)

オッタマ僧正(ビルマ 
独立の父) オッタマ僧正は若いころイギリスに留学して、帰国後、抗英独立運動を唱えて投獄された。 出所後日本が日露戦争に勝ったことに感動し、1907年(明治40)、来日して全国を巡行した。

 まず京都・浄土真宗本願寺の探検家でもあった大谷光瑞を訪ね、そこから東京まで各界の人たちに接しようと、東京まで歩く予定でいました。
たまたま名古屋で大きな葬式に出くわしました。オッタマにとって日本の葬式は珍しい。門の前でじっと様子を眺めていると、家人がカーキ色の法衣をまとった旅僧のオッタマを見つけ、ありがたそうに、お経のひとつでも上げてもらえれば、功徳になると、丁重に家に招きいれました。

 この家の当主は、オッタマに魅せられ、家に引きとめ、オッタマは何日も滞在しました。この当主こそ、
松坂屋伊藤次郎左衛門でした。伊藤次郎左衛門は名古屋の豪商。オッタマを3年間、面倒を見て、妹まで日本に呼びました。伊藤次郎左衛門はオッタマを精神的にも、経済的にも支援したのでした。オッタマはその間、日本を学び、東大で仏教哲学も教えた。当時のビルマはイギリスの植民地。オッタマはその独立のために日本で学びました。

 第2次世界大戦後、独立を果たしたビルマはその後、
ミャンマー
となったが、鎖国のような状態でも、伊藤家への恩義を忘れず、関係者は入国するのも容易な手続きですむようです。ビルマのオッタマ僧を支援

 そしてその得た結論を1914年『日本国伝記』という著書に集約した。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏(しっこく)からのがれるには、日本にたよる以外に道はない」と主張した。

 この著書が、独立を志向するビルマ青年のバイブルとなり、1930年に「タキン党」(われらビルマ人党)が、結成された。「タキン党」で学生運動のリーダーとして活躍したのがアウン・サンやウ・ヌーらである。後年、タキン党の青年志士30人が、密出国して海南島や台湾で日本式軍事訓練を受け、大東亜戦争を日本軍と共に戦い、遂に独立を果たすのです。その主導者がアウン・サンです。スーチー女史は、このアウン・サンの娘なのだ。

 オッタマは何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。僧正の死後ラングーンに開設された「オッタマ日本語学校」は、ビルマにおける日本語普及の魁となった。

バー・モウ
 バー・モウは1893年に生まれた。「日本、
ロシアに勝利す」のニュースは、他のアジアの独立指導者と同様、幼い彼を興奮させた。イギリスのケンブリッジ、フランスのボルドー両大学に留学し、弁護士資格とビルマ人としては最初の哲学博士号を得て帰国した。

 独立の夢を胸にしたバー・モウは、弁護士を経て政界入りし、自治政府の初代首相となったが、タキン党の運動を抑えきれず、バー・モウ政権は成立後程なくして瓦解した。タキン党は下野したバー・モウと共に団結した。

 1940年に入ると、
イギリスはタキン党に対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、アウン・サンは同志フラ・ミヤインとともに、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国し、アモイへと向かった。

 1940年3月大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート(
蒋介石米英軍支援ルート)遮断の方策について研究するよう内示を与えた。同年6月、鈴木大佐は日緬協会書記兼読売新聞特派員「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木大佐はアウン・サンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。11月、アウン・サンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され、日本に到着した。鈴木大佐は郷里の浜松にかくまった。

 日本と、
アメリカイギリスが戦争に突入間近になると、鈴木大佐は開戦時にビルマが即刻独立できるように工作機関を設立するように軍の首脳に提言し、南機関という特務機関を設立。1941年2月1日、鈴木大佐を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が正式に発足した。

 南機関(みなみきかん) 南とは鈴木大佐(30歳)の偽名 
南益世より命名されたものである。第二次世界大戦の直前、1941年2月に日本陸軍と海軍が合同で設立した諜報組織、南方企業調査会、鈴木啓司鈴木敬司(ケイジ)陸軍大佐・ビルマ名ボーモージョー(雷将軍)を長としてビルマ方面の工作活動を担当。南機関の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言し。目的は蒋介石を支援するビルマルートの遮断であった。

 1941年(昭和16年)、アウン・サンは密かにラングーンに戻り、独立の意気に燃える青年29人を選び出しラングーンを出て
台湾から海南島に入り、川島大佐の元で猛烈な軍事特訓を受ける。ビルマは大戦中に独立するが、ビルマ完全独立後、これらの青年たちから首相・大統領・大臣・軍総司令官が出た。

 1941年4月初め海南島で軍事訓練が開始された。ビルマ青年たちのリーダーはアウン・サンが務めた。訓練用の武器には
中国戦線で捕獲した外国製の武器を準備するなどして、日本の関与が発覚しないよう細心の注意が払われた。グループに比較的遅れて加わった中にネ・ウィンがいた。ネ・ウィンは理解力に優れ、ひ弱そうに見える体格の内に凄まじい闘志を秘めていた。ネ・ウィンはたちまち頭角を現し、アウン・サンの右腕を担うことになる。

 10月、三亜訓練所は閉鎖され、ビルマ青年たちは台湾の玉里へ移動。12月8日、日本は
アメリカイギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開戦。南機関も第15軍指揮下に移り、全員がバンコクに集結、南方企業調査会の仮面を脱ぎ捨てタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。

 12月28日、今日のミャンマー軍事政権の源流とも言うべき「ビルマ独立義勇軍」(Burma 
Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。鈴木大佐がBIA司令官となり、ビルマ名「ボーモージョー(雷将軍)大将を名乗った。BIAには「30人の同志」たちのほか、将校、下士官、軍属など74名の日本人も加わり、日本軍での階級とは別にBIA独自の階級を与えられた。発足時のBIAの兵力は140名、幹部は次の通りであった。

 司令官 
ボーモージョー大将(鈴木大佐)・ 参謀長 村上少将(野田毅大尉・毎日新聞捏造百人斬りで、戦後刑死) ・高級参謀 面田少将(オンサン) ・参謀 糸田中佐(ラミヤン)・ 参謀 平田中佐(オンタン) ・ダヴォイ兵団長 川島中将(川島大尉) ・水上支隊長 平山大佐(平山中尉)

 1942年3月25日彼らは「ド・パーマ!(ビルマ独立万歳!)」を合い言葉に進撃した。日本軍とBIAの前進とともにビルマの独立運動はすさまじい勢いで進展し、青年たちはどしどしBIAへ身を投じた。1942年3月25日、BIAはラングーン駅前の競技場で観兵式典を行った。オンサンを先頭にした4,500名のBIAの行進に、ラングーン市民は熱狂した。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。

 バー・モウは英軍に政治犯として投獄され、日本軍が侵攻した時には、脱獄中の身の上だった。5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウが日本軍憲兵隊によって発見された。

 この戦勝を記念する「戦捷記念塔」がビルマ住民の熱心な協力によりエナンジョンの公園に建てられた。このとき第33師団の桜井省三中将は「英印軍無名戦士の墓」も建てている。終戦時に再び英軍がビルマに入ってきたが、マウントバッテン元帥はこれに痛く感動し、第28師団長となっていた桜井省三らの配下を厚遇した。

 鈴木敬司は大本営の了承を得ずに、アウンサンらに日本はビルマ独立のため武器を援助し、日本軍の進駐はテナセリム地区(南部半島地区、現タニンダーイ管区)にとどめ、全土の作戦と施政は南機関と独立義勇軍があたるとの約束をしていた。日本軍の目的は、解放、貿易の自由化なので、
東条英機
はビルマ侵攻の目的はビルマ独立にあると明言した。

 しかし、日本軍はヤンゴン攻略後、独立はビルマ制圧後と宣言した。(制圧半年後に独立許可)
 南方軍参謀石井秋穂大佐は次のように述べている。(注・こちらが正論である。南機関は暴走論だ)
・作戦途中に独立政権を作ると、独立政権は作戦の要求に圧せられて民心獲得に反するような政策を進めねばならなくなり、日本軍との対立が深まる。
・形勢混沌たる時機には、民衆の真の代表でない便乗主義者が政権を取る結果になることもありうる。
・独立政権の樹立には反対しないが、まずは単なる行政担当機関を作らせ、軍司令官の命令下に管理するのが順序である。『戦史叢書 
ビルマ攻略作戦』 

 アウン・サンらも日本の真の意図に疑念を抱くようになった。1942年6月には南機関は
解散させられ、鈴木敬司は日本に転出された。鈴木大佐はBIAの総指揮をアウン・サンへ委譲したのち、7月15日、ラングーン発内地へ向かった。ビルマ独立義勇軍は鈴木啓司大佐に別れを惜しみ、軍刀一ふりと感謝状を贈った。その感謝状の最後には次のように書かれています。 

 「ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人をわれわれは末永くなつかしむ。将軍のビルマへの貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡んでも、われわれの感謝の気持ちは亡びることはない。将軍が日本に帰られたら、ぜひとも日本の天皇陛下や東条首相、そして老弱男女に報告してほしい。われわれビルマ人の誠意、忠誠心、勇気、日本軍への協力、日本ビルマ間の友好への努力を・・・」(この時の感謝状の実物は、後に鈴木大佐未亡人がビルマ政府よりぜひにと懇願され現在はビルマにあり、現在はビルマ政府より贈られた複製品が、未亡人の手許にはあるという) 


 第15軍はバー・モウを首班とする行政府の設立準備を進めることとなった。1942年6月4日、飯田軍司令官はビルマ軍政施行に関する布告を発し、中央行政機関設立準備委員会を発足させた。
英国領時代からの指導者バー・モウを中央行政府長官(首相に相当)にした。日本軍政が開始されると、バー・モウは積極的にこれに協力した。 

 ビルマ制圧半年後の昭和18年1943年1月
東条英機はビルマに独立の許可を与えた。同年3月、バー・モウは日本を訪問し、天皇陛下に拝謁した。昭和18年(1943年)8月1日にバー・モウ(50歳)が国家主席となり、独立を宣言した。アウン・サン(28歳)は国防大臣、ネ・ウィンは国民軍の司令官になった。日本と日緬同盟条約を結んで英米に宣戦布告した。

 残念ながら、このビルマの人々の喜びは長くは続かなかった。日本軍のインパールの敗北が決定的になり、日本軍の敗色が濃厚となってきたからだ。

 (1944年)8月1日の独立一周年式典で、アウン・サンは「われわれの独立は紙の上の独立に過ぎない」と演説した。この頃アウン・サンらは多方面の勢力との接触を持ったらしい。8月から9月にかけて、抗日運動の秘密組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)が結成され、タキン党、共産党、ビルマ国民軍をはじめ、農民、労働者の諸団体、少数民族の政治結社も加わり、勢力を拡大していった。

 日本軍との共倒れを避け、反旗を翻すために行方をくらましたアウン・サンを追跡した高橋八郎大尉(ビルマ軍司令部軍事顧問)が、プルーム(ピィ)の南方シュエタダウンでようやくアウン・サンに追いつき、その時の問答。
 高橋「今後あなたはどうするつもりか」
 アウン・サン「これからも引き続き日本と行動を共にすることはビルマの滅亡を意味する。」  
 高橋「
英国とはどんな交渉をされているのか」
 アウン・サン「理想とするところはビルマの完全独立である。それが不可能ならば自治領だ。この線で交渉中である。またもし、以上の二つとも承認されないときは飽くまでも
英国と戦うつもりである。ビルマの独立を主張するには、少なくともここで反乱の姿勢を示し、英国に具体的な証を立てねばならぬ。だから、反乱を起こしたのである」(防衛庁防衛研究所戦史部「シッタン・明号作戦」浅雲新聞社)

 アウン・サンは元南機関員でただ1人BNAに残っていたこの高橋八郎中尉の身柄を保護し、中尉は戦後無事に日本へ帰国した。

 当時の多数のビルマ人の気持ちは、独立を勝ち取ることが最大の願いであった。従って、アウン・サンらが選択を間違ったという訳ではない。護国に殉じ
たまでのことである。日本軍とともに戦ってきた30人のビルマ独立の志士もビルマを生き残らせるために分裂することになる。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、バー・モウは日本に亡命し、ミン・オンは日本を裏切るのは忍びないと自決している。

 このアウンサンの寝返りについて、バー・モウは事前に相談を受けていた。 
彼らは、日本敗戦後のことを考え、日本と戦ったという既成事実を作っておこうと考えたのだ。 今もバー・モウ家にのこるバー・モウあてのアウンサンが書いたその時の手紙の全文が「ビルマの夜明け」に掲載されている。「・・・反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法。・・・日本軍のビルマ撤退が賢明な方法。・・・日本を責めない」。 
2につづく⇒

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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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