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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観戦場に架ける橋帰省者や病死を虐待犠牲者17万と捏造軍罵倒売国奴永瀬隆通訳


1戦場に架ける橋帰省者や病死を虐待犠牲者17万と捏造軍罵倒売国奴永瀬隆通訳

他虐偽善者の典型永瀬隆

 泰緬(たいめん)鉄道 タイ西部を走る、ビルマとタイをつなぐ鉄道。太平洋戦争中、旧日本陸軍がビルマにいる友軍への物資補給路として建設した鉄道で、総延長は415キロ。線路区間は東京大垣間に相当。地理的には断崖、大密林が続く難ルート。工期は通常5年はかかるというところ、関係者の必死の努力で1942年7月5日から1943年10月25日までの1年4ヶ月で開通した。がしかし5万人~20万人が死んだ

 この矛盾報道が検証した起因だ。こんなに死ねば遅れるのが当たり前、それが短縮とは?5万人~20万人の犠牲者を出し、工期短縮など現実論の製造業史観では絶無。

鶴田 勝 元陸軍少尉

 木橋架橋。橋は鉄ではなく木でつくられた。「鉄道橋は六百以上架けられました。これらは急ぐので木橋でした。鉄橋を作る時間はありませんでした。戦場に架ける橋は木製でよかったのです。「簡単な構造で手近な材料で、早く修理出来る木橋こそ、戦場に架ける橋に適している」第九鉄道隊資料から体験を語る 鶴田 勝 元陸軍少尉。

 建設に当たったのはタイの鉄道九連隊、ビルマの鉄道五連隊から成り、泰緬鉄道に従事した。鉄道連隊とは戦地における鉄道の建設・修理・運転や敵の鉄道の破壊を任務とするする連隊。最盛期1万5千人からなる鉄道隊が担当した。帝国大学を卒業した土木技師が参加して設計を行い、捕虜は工事の単純労働に従事。捕虜が橋梁を設計することなど不可能。捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が管理しており、鉄道隊が労働者として借用した。捕虜の作業は運搬や掘削など簡単な仕事だった。それを全区間同時に着工したので多数の現場があった。

 「捕虜使役の注意」「俘虜の宿営、給養、衛生、日常管理ではすべて捕虜収容所が管理し、鉄道隊は作業においてのみ俘虜を使役できる。俘虜の取り扱いについては、赤十字条約(ジュネーブ条約)によって定められているが、日本はこの条約を批准していない。しかし人道上の立場からこの条約の趣旨は尊重しなければならない」更に、俘虜の就役は大本営命令であること。俘虜将校は原則として就役せしめないこと。俘虜には休日を与え、就役時間を守ること。俘虜には規定により給料が支払われること。俘虜には私的制裁を加えないこと。

 又実務的には、各隊に労務係をおき、労務係は毎朝定刻に収容所に行き、俘虜を受領し、作業終了とともに、定刻には収容所に俘虜を返納すること。人員の掌握は、特に正確を期すること。俘虜とのトラブルは避け、万一トラブルが生じた時は、上官に報告すること。俘虜は、戦力の一部と心得えて温存し、無役な損傷を避けること……等、の諸事項が下達された。

 「建設工法」 打杭は椚橋を使用し、モンキーと称する錘の落下を利用して抗を打つ方式である。油屋隊は石油エンジンを使用して打杭作業をした。私の隊は、俘虜の人力でモンキーを使用することになった。椚橋と云うのは、だるま舟のような大きな舟二隻を横に並べる。但し中央で杭を打てるように、適宜の間隙をとり、機材で画定し、その上に櫓を組んで、杭を打つ装置を取りつけ、舟の上で作業ができるので河中に入る必要はない。

 

 「虚偽の虐待情報」 最近ある図書で、クワイ河水橋架橋では、俘虜は終日水につかって打杭作業をした。と云う記事を見たことがあるが、これは全く嘘で、恐らく著者は椚橋を知らず、勝手な(悪意の)想像で書いたものだろう。泰緬鉄道建設体験記
 

 泰緬鉄道建設に従事した日本軍1万人(最盛期1万5千人)。連合軍捕虜は3万人、5万人、5.5万人、6万1800人、6..8万人、7万3502人。アジア人労務者7万人、10万人、10.5万人、30万人(泰緬鉄道に30万人のロウムシャ。日本軍憲兵隊通訳 永瀬隆さんのお話2005.112.10)。とまちまちである。南方各国労務者は、クワイ川たもとの説明文によると、インド人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人、中国人、タイ人などである。

 

 この大建設作業の途中で不幸にも例年よりも早い雨季が到来した。そのため山奥の多数の現場が孤立し、食料、医薬品の供給が途絶した。そこを風土病のコレラ、悪性マラリヤが襲い、日本人、欧米人、現地労務者がバタバタ倒れた。カンチャナブリーの2ヶ所の連合軍墓地記載の死亡年月日は、1943年6月から10月の雨季がほとんどだ。工期は1942年7月5日から1943年10月25日までの1年4ヶ月。完成目前に疫病大発生しての不可抗力の病死。これが真相だ。

 

 「食料も医薬品も満足に与えないで鉄道建設に酷使した捕虜は次々に倒れたのである」と沢山の死者が出たので捕虜虐待と宣伝する人がいますが、虐待すれば作業は進まないのでありえない。肉を食べたいという捕虜のために生きた牛を調達して提供したこともあったと言う。ただ日本軍人でさえ食料不足で苦しんでいたので、捕虜も苦しんだことは間違いない。

 泰緬鉄道建設に従事した日本軍死者1千人。連合軍捕虜死者は1万人、1.2万人、遺骨収集され共同墓地に埋葬された連合軍捕虜だけで1万2487人。1万3千人、1万5千人(戦争博物館)、1万6千人、1万672人、2万4490人。現地人労務者死者3万人(戦争博物館)、3万1千人、3万9千328人、10万人(泰緬鉄道に10万人のロウムシャの病死。日本軍憲兵隊通訳 永瀬隆さんのお話2005.12.10)

 

 バターン死の行進と同じなのだ、参加労務者数と者の数がまちまちなのだ。日本軍はインドネシアなどから労務者を募り賃金を払って現場作業に使った。これは捕虜ではないから自由であった。途中で帰った労務者もいた。ドイツ軍やソ連軍のような労働者狩りのようなことはあり得なかった。

 カンチャナブリの郊外には、1977年に設立された戦争博物館は 「JEATH War Museum」と名付けられている。そこには次のような説明文が書かれている。「この建設にあたって連合軍の捕虜、タイ人、マレーシア、ビルマ人などたくさんの労働者が狩り出され酷使されたため栄養失調、伝染病(コレラ、マラリア)等多くの犠牲者をだした。その数は連合軍捕虜15000人、現地労働者30000人にも及んだ」

 日本(JAPAN)、英国(ENGLAND)、米国(AMERICAN)、オーストラリア (AUSTRALIA)、オランダ(HOLLAND)、タイ(THAILAND)のそれぞれの頭文字をとったもので、DEATH(死)という言葉があまりにも残酷な印象を与えるためにおきかえられた言葉だといわれている。

 日本軍死者1割(1千人/1万人)、連合軍捕虜(風土病に対して抵抗力弱い)死者2割弱(1万3千人/7万人)(プロパガンダは15000人)

 現地人労務者は、風土病に対して強い耐性があるので今がある。欧米人や、日本人のように弱くは無い。現地人労務者の病死者は日本人より強いので少ないと考えるのが妥当だ。そして現地人労務者は最盛期10万人(工事開始時が最大人数で、鉄道隊と捕虜で間に合う時点では、給料と食費がかかるので皆帰省させた)で、風土病蔓延期(連合軍墓地記載の死亡年月日は、1943年6月から10月の雨季)は仕上げの微調整段階なので、少なかったはずだ。日本軍死者1千人、捕虜死者1万3千人にもかかわらず工期遅れの記録も無い、工事人員は十分に足りていたと、想像出来る。結果この時期の現地人労務者は皆無

 「現地労働者の犠牲者は30000人にも及んだ」プロパガンダでさえこの人数である。暴動の記録が皆無なので、現地労働者の死者はほとんど無く、役目を終え、風土病蔓延期以前に帰省した。

 結果5年かかる仕事をわずか16ヶ月の短期間で開通した。現地労働者の協力以外工期短縮の術は無い。プロパガンダ5万人~20万人犠牲者では仕事にならない。わずか16ヶ月の短期間での開通は、主力の現地労働者の健康状態を証明している。主力の現地労働者が皆健康だったから、短期間で開通出来たのだ。

 食費のかかる労務者は役目を終えると給料を払いすみやかに皆帰省させた。残った日本鉄道隊1万人と、捕虜7万人だけが風土病蔓延期に遭遇し、鉄道隊1割一千人、捕虜2割弱1万3千人の病死者が出た。労務者は既に帰省し居なかったので病死者無し。これが戦後の労務者の犠牲者数、3万人~10万人の起因となった。つまり帰省したものを犠牲者と数えて捏造で犠牲者数を1/3にしたのだ。

 鉄道隊元大隊長菅野兼一資料にも「死者は日本軍人一千人(1万人の1割)、欧米人一万二千人(7万人の2割弱)、現地人多数となりました。(石田英熊証言1万人。軍事裁判検事でさえ3万3千人)」と、あるのみ。捕虜の死亡率が高い(日本軍1割、捕虜2割弱)のは虐待死ではなく、風土病に対してもっとも耐性が弱かったからだ。不可抗力の死であった。捕虜虐待死論などは論外、捕虜は大本営から鉄道隊が借りた、大事な戦力なのだ。

 泰緬鉄道建設後日本本土に輸送された一部の白人捕虜は途中で輸送船が米国の潜水艦に撃沈され二千名が死亡した。米国は「阿波丸事件」のように国際協定で緑十字の印をつけた船でも撃沈していた。

 クワイ川鉄橋から歩いて10分のところに、戦前日本軍によって建てられた慰霊碑がある。「泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各国労務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ恭シク其ノ霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鉄道隊」戦前日本軍は現地カンチャナブリとビルマ側のタンビュザヤに日本軍人除き、犠牲者全員の慰霊塔を建立した。日本軍人は靖国神社に祀られた。泰緬鉄道工事で命を落とされたすべての人々を祀る慰霊塔で日本語の他に、英語、マレー語、タルミ語、ベトナム語などが碑文に刻まれている。

 日本人も現地労務者も、犠牲者がでると、念仏を書いた丸木一本だけ立てられた土まんじゅうの墓に埋葬。

 日本軍は木の十字架をたて、捕虜の遺体はそれぞれ一斗缶と共に埋葬し、その中に当時の日本軍の隊長、捕虜係の名前とともに死因等を詳しく書いたメモが添えられた(日本軍は弔った。あろう事か、これが戦犯確定の証拠となった)。連合軍は捕虜の墓を探して遺骨を収集し、タイのカンチャナブリおよびビルマのタンビュザヤに大墓地を作った。メモを基にして、2ヶ所の連合軍墓地に埋葬されているひとつひとつの墓に氏名、所属部隊、死亡年月日、年齢が添えられた。

 連合軍は日本軍の各地の墓地を破壊した。ここが日本人と欧米人の慰霊感覚の違うところだ。ただ日本軍人の霊は靖国神社にお祀りされている。

 戦争が終わると、英軍が鉄道を接収し、建設した日本軍人を戦争犯罪人として逮捕した。泰緬鉄道全体で有罪の宣告を受けた人111人、死刑は32人にのぼった。そして捕虜収容所の関係者が多数虐待され処刑された。鉄道隊の人も処刑された。報復だった。

 ビルマ側は戦後の占領期に英軍が破壊した。ビルマ独立後も再建されていない。タイ側の鉄道は一部(130Km)が観光や生活に利用され、この大プロジェクトの資料館「泰緬鉄道センター」が作られて多くの観光客が訪れている。泰緬鉄道の史実
 

映画「戦場に架ける橋」は仏人ピエール・プールの創作で史実ではない

 泰緬鉄道建設の話はクワイ(クウエイと発音が正しい。クワイという発音は意味が異なる)河マーチの音楽で有名な映画「戦場に架ける橋」でよく知られているが、実際はどうだったのだろうか。
 鉄道隊大隊長元陸軍少佐菅野廉一氏は「映画は仏人ピエール・プールの創作でまったくのフィクションにもかかわらず若い人たちの間で史実と思われていることはまことに残念です」と述べてる。

 なぜ欧米の捕虜がいたのか。欧米のアジアの植民地支配はどんなものだったのか。戦争の経緯が描かれていない。なぜ欧米軍がアジアにいたのか。なぜ日本軍が泰緬鉄道を作ろうとしたのか、時代背景が説明されていない。

 捕虜が橋を設計し、捕虜収容所が橋を建設したのではない。陸軍鉄道隊(一万五千人)が工事の設計、施工を行った。捕虜は大本営直轄の捕虜収容所が提供し単純労働に従事したに過ぎない。

 捕虜収容所の所長の経歴、大佐が若いころロンドンの学校で工芸の勉強をしたという。日本の職業軍人の経歴ではありえない話。所長が宿舎で和服を着用、ありえない。東洋人であることを強調するための創作。

 特殊部隊橋を爆破する。橋は空から見えるので爆撃すればすむ。特攻隊は不要。事実爆撃で破壊された。地上からの破壊工作はなかった。

 コレラが大流行した史実が欠けている。

 戦後連合国は降伏した日本軍人を捕らえると、殴るける、食事を与えないなどの虐待を行い、さらに報復処刑している。連合国も奇麗事ばかりしていたわけではない。互いに悲惨なのが戦争だ。映画「戦場に架ける橋」の虚実  

「僕の知らない戦争があった ―ナガセからの伝言―」 永瀬 隆2004年

酷使された捕虜と「労務者」と捏造する偽善者

 私も通訳でシンガポールの駅で捕虜を送るときに通訳したことがあります。捕虜に食べ物を日本軍以下のものを食べさせた。彼らはパン食でしょ、だから脚気になったり、腹を下したりして非常に体調をくずしていた。そのときに「タイ国の保養地に連れていってやる。志願したい者はおるか」というのですね。そうするとみんな保養地があるんならと、志願したんです。それで連れて行った数が68000人。

 どういう状況で連れていったかというと、私は目撃しているけど、有蓋貨車ね、貨車の屋根があるでしょ。あの中にワラが敷いてあるんです。そこへ1貨車に30人くらい入れる。どのくらいの混み方かといいますと、自分が用便をたしにいって帰ってくると自分の場所がなくなっている、というような状態です。そしてね,有蓋貨車で両側に鉄の扉が開いているでしょ。ところがあれは風が中に入らないんですよ。1週間かかってマレイ半島に送ったわけです。だからフラフラになってしまった。飯もまずい。

(注・皆嘘である。1942年7月5日から1943年10月25日が工事期間。1943年9月『開通1ヶ月前』に配属された人には不可能。着工『1942年7月5日』以前にすでに人員確保完了済み。路線各部分に分散し、同時進行で工事をしている。開通1ヶ月前ともなれば、完成した線路もあったはず、門外漢の労務者は不用なので、食料節約のためにも順次帰省させる段階だ。足りなければ線路を機関車移動し、応援に回ればよいだけだ。捕虜を追加したとの記録も無い。戦後の侮日プロパガンダを、さも臨場したかのように捏造し話しているに過ぎない。悪意を感じる)


 そして見せしめのために、日本軍は歩かせたんです、鉄道がひいてあったのに。タイ人にたいする見せしめもあって、白人は全部歩かせたんです。だから現場に行くまでにたくさん倒れてしまった。
(注・捕虜の労働目的は、泰緬鉄道の早期開通だ。早期開通目的を妨害するようなことをするはずが無い。この人は護国の日本軍を貶めている。己の名誉欲と、物欲を満たすために)

 そしてそれ以上に、この占領地のビルマは地続きですからね、ビルマから18万人、マラヤから8万5千人くらい、シンガポール含めて。そしてこのインドネシアから4万5千人。つまり30万人ぐらいの労務者を連れていったわけです。それに日本軍が1万2千人ですから、全部で約40万人の人間がこの悪疫猖獗の山系にいたわけです。ペストさえもありましたし、米食だから脚気になるんです。それからアメーバー赤痢、マラリア。私も罹ったことがあるんですけど、ひどい病気ですよ。そういう病気によってどんどん倒れていったんです。とくに労務者の人はあまり衛生思想がなかったからバタバタ倒れていった。

(注・開通1ヶ月前に配属された人には不可能。戦後の侮日プロパガンダをさも臨場したかのように捏造し話しているに過ぎない。膨大な人数『労務者30万人で死者15万人』はこの人だけが言っている『他は最高でも労務者10万5千人』。侮日プロパガンダ戦争博物館「JEATH War Museum」でさえ『労務者死者3万人』2001年8月15日のしんぶん赤旗の記事でも「ロームシャ約三十万人のうち、約半数(15万人)が犠牲になった」と、話している)

 30万のうち半数は(15万人)この泰緬鉄道に埋没されています。それはここにも書いてあるんですが、1人のインドネシア人が残ってたので、その人をインドネシアに連れていったときに、そこの村長が、うちの部落からは10人出て行ったが、帰ってきたのは5人だったと言っていた。だいたいそれが平均なんです。ビルマもみなそうです。でもビルマは地続きだから逃げちゃうんですね。仕事は苦しいし、敵の爆撃があったりするから。そこで脱走して逃げて帰ると、あくる日、その家に日本の兵隊と部落長さんが来て、「夕べよく眠ったか、ご苦労さんやった。また行ってくれ」いうて連れて帰るわけです。だから2度目に脱走するときは自分の家に帰れないんです。帰ったらまた行かなきゃならないから。だいたい労務者として連れていかれる人は1家の働き手でしょう。そういうふうにしてビルマの18万人の家族は全部破壊されてしまった。

(注・日本人も現地労務者も、犠牲者がでると、念仏を書いた丸木一本だけ立てられた土まんじゅうの墓に埋葬、日本軍人を除き、犠牲者全員の慰霊塔を建立し前述のように現在も在る。墓が無いので泰緬鉄道に埋没と捏造、なんと卑劣な男だ、子孫ではない)

・・・私がタイのバンコックへ行ったときは1943年でした。・・・

(注・語るに落ちている。青山学院大学英語科に在学中、旧日本陸軍に志願。昭和18(1943)年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。その時は泰緬鉄道が開通する1ヵ月前。開通1ヶ月前に配属された人には不可能。
 人を集めれば工期が短縮するものではない。開通1ヶ月前であれば開通した所も数多あり微調整の段階なので、鉄道隊の出番だ。門外漢の労務者は不用なので、食料消費削減のためにも、給料を払い順次帰省させるのが常識だ。終戦2年前労務者は工期を短縮し騒動も無く帰省している、給料不払いなど皆無だったのだ。
 日本軍人でさえ食料不足で苦しんでいた。捕虜5万7千人いるので、食費のかかる労務者は役目を終えると皆帰省させた。これが戦後の労務者の犠牲者数、3万人~15万人の起因となった。帰省したものを犠牲者と数えたのだ。
 侮日プロパガンダは想像で労務者の犠牲者数1/1(3万人)にし、永瀬隆は捏造で、労務者の犠牲者数1/2(15万人)にしたのだ。
 現地人労務者は、風土病に対して強い耐性があるので今がある。欧米人や、日本人のように弱くは無い。しかも前述のように風土病蔓延期以前に労務者は役目を終え皆帰省しているので永瀬隆は労務者を見ていない。永瀬隆は、戦後の侮日プロパガンダを、さも臨場したかのように捏造して話しているに過ぎない。膨大な人数はこの人だけが言っているのだ、己の名誉欲と、物欲を満たす手段として)2につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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