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歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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黄河決壊事件は敵を明確化!蒋介石敗北を決定した蛮行!

黄河決壊事件は敵を明確化!蒋介石敗北を決定した蛮行

1938

黄河決壊事件(中国呼称は花園口決堤事件)は、日本反共戦争初期の193869日、日本軍の進撃を止める目的で、支那国民党軍が黄河を爆破氾濫させ、自国民を巻き添えにした、蒋介石自滅作戦。

 193866日、日本軍は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。国民党軍の劉峠第一戦区副司令官の、「黄河の堤防を爆破し氾濫させ日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に提示された。日本軍の追撃を断ち日本軍を水攻め、同時に国民をも巻き添えにする愚策、黄河大洪水作戦を、蒋介石は承認した。

 蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

 67日に中牟付近を爆破したが、この作業は失敗し、場所を花園口に変更。69日午前9時に堤防は爆破され、黄河は決壊した。

 さらに611日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点でも、黄河の堤防3箇所を破壊した。

 この結果、その後9年間、黄河の流れは南側へ変わり、黄海に注ぐようになった。

 氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及び、水没は11都市と40003省の農地が農作物ごと破壊された。諸説はあるが、被害は、水死者100万人、被害者600万人と言われている。

 612日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

 923日更に支那軍は、武穴鎮の下流で、揚子江を決壊させた。

626日同盟ニュース

『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』

 「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている」

 

 この、愚策大洪水は、以後、水没地域に干ばつ、飢餓、伝染病などをもたらした。

 

支那人を救助する日本軍に攻撃した支那軍

 日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

 日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も、麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が、麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に、激しい射撃を加えたこともあった。

救助資料

1938(昭和13)年623日同盟ニュース

 泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。

1938711日毎日新聞(支那事変画報 第33)

 わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ

國史図書刊行会編『支那事変』

 「写真」濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯

自作自演し責任を敵になすり付ける作戦は支那中国の伝統手口

 611日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という情報を発信した。

 最初支那側は、黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を、日本軍が砲撃及び爆撃したとの説明がなされ、後に、日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めで、かつ、後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略で、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に、支那民衆を威嚇する日本軍作戦の一部、とされた。

 さらに報告では、日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は、洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していると、説明された。支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃までをも、日本軍の仕業だと発信し、613日にも、支那全土の各メディアに、「日本軍の暴挙」と喧伝させた。

 蒋介石の副官何応鈞の『八年抗戦之経過(1938年)』では、「日本軍が飛行機で爆撃した」、『中華年鏡(1948年)』にも、「日本軍の砲撃で破壊された」と、真逆に捏造した。

真逆捏造の証拠

 黄河の堤防破壊は自軍前進の妨げとなる。前進を妨害する洪水を引き起こすいわれは無い。堤防の大きさを考慮すれば、爆撃と砲撃のみで堤防を破壊することは不可能と、主張した。

 16日付東京朝日新聞夕刊【上海特電十五日発】上海軍当局談

 「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」

『抗日戦回想録』郭沫若(毛沢東凶産党兵士)自伝

 敵(日本軍)の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの(日本軍の)戦略は611日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。

 あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。

 わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。

 しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。

 私たち(毛沢東凶産党)が活躍すべき機会到来であった。――

 自作自演で事を起こし、宣伝戦で敵になすり付ける手法は、支那人の伝統的手口。現代も同様!

黄河大洪水愚策被害

621(大阪朝日)

 黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、日本軍占領下開封の治安維持会と商務会が発表。罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロ。

終戦後の194512月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」

 1944年末の段階で、洪水による死者32万人、離郷者数約63万人。河南省だけで約32万人とされた死者数は、その後の『中国革命史辞典』では、死者89万人。 

洪水後遺症による被害

『大東亜戦争は、アメリカが悪い』鈴木敏明著碧天舎、2004

 「堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる」

 

「河南省における食糧欠乏と日本の穀物徴発活動」『中国の地域政権と日本の統治』 オドリック・ウー著、吉田豊子訳(慶應義塾大学出版会、2006年) 

 「死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があった。

 飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた」

 

『温故一九四二』劉震雲著、劉燕子訳 中国書店、2006

 「1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、及び湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。

 1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った。

 河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった。

 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は、河南省の主席とともに、農民の生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは、農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると、兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と、軍隊の武装を解除させるまでに発展した。

 推定では、河南の戦闘において、数週間の内に約5万人の中国兵士が、自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において、武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。日本軍は3週間以内ですべての目標を占領し、南方への鉄道も、日本軍の手に落ちた。この結果、30万の中国軍は全滅した」

 

『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

 「一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ

 穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を、飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。

 日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。

 「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである」

 

 上記の事柄は、後の汪兆銘南京政府の地盤となったとみても、間違いは無いだろう。

 支那軍は、自分たちのみが安全に逃げたい一心の我欲、ただそれだけのために、夥しい数の同胞支那人民の生命と財産を犠牲にした!毛沢東も、蒋介石追放後正体を露にし、同胞大虐殺を繰り返したのは、記憶に新しい!

 国難に、士農工商皆、我欲を捨て、一丸となり、大義に殉じ、明治維新を成した日本とは、真逆である!選択肢皆無の宣戦布告ハルノートに、我欲を捨て、一丸となり、護国を全うした日本とは、あまりにも真逆である!

 

同胞大虐殺(黄河大洪水)作戦は蒋介石が先だった!

 以後、人民の信を得た毛沢東凶産は一気に隆盛し、信を失った蒋介石国民党は、瞬時に転落した!同胞大虐殺は、毛沢東も蒋介石も同類なのだが、蒋介石の方が先だったので、一気に人民の信頼を失った。 汪兆銘は、蒋介石の同胞大虐殺(黄河大洪水)作戦に、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」を見た。そして、それを救助する日本軍に、東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」を見た。師孫文とは真逆な、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」と化した蒋介石と袂を分かち、日本と行動を共にしたのは当然であろう。19381220日、汪兆銘夫妻は、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちと共に、重慶からハノイへ脱出した。


193810月 1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533~4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号

 鄧小平の日本認識証言 鄧小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万「1936年10月、長征で30万人から2万5千人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会

1938(昭和13)年「大亜細亜主義」11月号大亜細亜協会評議員高木睦朗中日実業副総裁「孫文と大亜細亜主義」

 「常に日支提携によって亜細亜民族を圧迫の桎梏から救ひ出そうと念じてゐたことである。・・・孫文には寸毫も排日意識はなかった。抗日思想など薬にしたくもなかった。彼の三民主義を今日の如くに曲解したのは蒋介石である。否、蒋介石を取り囲む一団の卑怯者の群れである。孫文には唯、烈々たる愛国思想と、其の思想を育む亜細亜民族的熱血が、脈々として波打つてゐただけである」


孫文の大アジア主義
1924年12月28日 馮玉祥は北京を占領すると、孫文を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本に立ち寄り頭山と対談し、神戸高等女学校で講演をした。


「大アジア主義」神戸高等女学校において神戸商業会議所外5団体におこなった病死(肝臓癌)3ヶ月前の講演(孫文選集」1966)孫文の大アジア主義

 「本日は皆様よりアジア主義と言うことについて、私に講演しろと言うお話でありました。わがアジアはとりもなおさず最も古い文化の発祥地であります・・・

 ・・・日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべきである。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがるならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張するということは、正義公理によって西欧人を感化することである。・・・

 ・・・我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復しようとするには、唯だ仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。

 さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。

 我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」となるか、或は東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」
1924年 汪兆銘は中国国民党中央委員・宣伝部長に選出。
192524 孫文の病状が絶望的になった時、後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。そして3月11日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇りとした。その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「革命尚未成功 同志仍須努力」(革命未だ成らず、同志なおすべからく努力すべし)という有名な一句を含んでいる。
詳細は⇒
真実史観1頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史

蒋介石・毛沢東・習近平等は、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」
「革命尚未成功 同志仍須努力」!
中国国民よ!孫文・汪兆銘に帰れ


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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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