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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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3朝鮮幽囚記と対日依存文化の李朝と庶民や大名の見世物朝鮮通信使

3朝鮮幽囚記と対日依存文化の李朝と庶民や大名の見世物朝鮮通信使

「朝鮮幽囚記」オランダ人ヘンドリック・ハメル著 生田滋訳平凡社

1653年8月16日オランダ船難破。この国は私たちによってコレー、彼らによって朝鮮国と呼ばれ(P35~36)

 ――対馬、すなわち彼等によってテイマツテと呼ばれる島があります。彼等のいうところによりますと、この島は最初はコレー人に属していたのですが、〔相当以前の〕戦争の時に条約によって日本人のものとなり、コレー人はその代わりに済州島を再び手に入れたのだということです。

(注・149 p98)対馬と済州島 対馬が朝鮮の支配下にあったことも、済州島が日本の支配下にあったこともない。しかし、「新増東国與地勝覧」巻23、東萊県山川の条対馬島の項に「即ち日本国対馬州也。もと我が鶏林に隷す。何れの時なるを知らず、倭人の拠る所と為る」とあり、このような伝承が行われていたものと思われる。同様な記述はジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」にも見える(上201-2、263ページ)。

前掲のように、対馬が「最初はコレー人に属していた」ことなど、有史以来一度も無い!捏造の歴史がここまで遡れるということは、捏造は朝鮮族の代名詞といえる。
 ただし、1145年成立の『三国史記』脱解王が起源なら、新羅統治倭人の、倭地表現なので、当然である。朝鮮人支配の対馬ではない!
鶏林は新羅の異称
 《新羅(しらぎ)の脱解王が、城の西方の始林に白鶏の鳴くのを聞き、始林を鶏林と改めたという「三国史記」の故事に基づく》。デジタル大辞泉
脱解王
 脱解尼師今(だっかい にしきん)は、新羅の第4代の王(在位:57年~ 80年)であり、姓は昔(ソク)、名は脱解(タレ)。
 「脱解尼師今が即位した〈吐解ともいう〉。王はこの時(57年)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思燁訳)」朝鮮最古の史書『三国史記』(1145年成立)の新羅本紀

 663年の白村江の戦い以降、有史以来支配した韓半島南部から撤退した日本は、対馬に防人を置き、日本防衛最前線の要とした。

この国民の誠実、不誠実および勇気について(p52)

 彼等は盗みをしたり、をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。

 

当地で行われている外国との貿易および国内での商業について(p53)

 当地には対馬島の日本人以外には貿易に来ません。彼等は(国の)東南部の釜山市に商館を持っています。それは同島の領主に所属しているもので、当地に胡椒、蘇木、明礬、牛角、鹿皮、鮫川およびその他多くの品物を持ってきます

 それらは、我々オランダ人および中国人によって日本にもたらされたものです。――当国民は北京およびシナの北部でも若干の貿易を行いますが、陸路を馬で行かねばなりませんので、大変な費用がかかります。――都から北京まで旅行して帰ってくるまでには、どんなに早くても三ヶ月はかかります。――彼等はわが国を南蛮国と呼びます。それは日本人がポルトガル人を呼ぶ名称ですが、彼等は我々オランダ人のことやオランダのことを何も知らず、日本人から南蛮国という名称を教わったのです。この名称は煙草を通じて彼等の大部分に知られています。しかし五、六十年前までは彼等はそれを知りませんでした。彼等は喫煙の習慣と煙草の栽培の方法を日本人から学んだのです。

 ――蚕も非常に多いのですが、彼等はよい絹布を作るための絹糸をとる方法をよく知りません

 

外国への窓の主体が、日本の対馬経由と書かれている。したがって、韓国主張の朝鮮使節は、真逆捏造で、後述のような、「従臣ないし臣下であることを認めた拝謁使節」が、実態。

 

国家および商人の使用する度量衡について(55p)

 それらは全国を通じて同一です。だが一般の人々や小売商人の間ではひどいごまかしが行われます。――総督たちがいかに厳重に監視しても、それをやめさせることは出来ません。というのは各人はおのおのの物差しと秤とを使用するからです。

 当地に居る鳥獣には次のようなものがいます。馬、雌牛、雄牛。雄牛は当地ではほとんど去勢されません。――農民は土地を耕すのに雌牛・雄牛を用います。旅人や商人は彼等の荷物を運ぶために馬を使います。虎が非常に多く、その皮は中国および日本に輸出されます。

天道(唯心)皆無、我欲(唯物)のみが朝鮮塵。「他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません」が、証拠である。

 

 タルタル人の使節(清国使者)が来ると、国王は自ら大官達を従えて、首都の外まで歓迎に赴いて敬意を表し、彼等を宿舎に案内しなければなりません。彼らの到着と出発とに際しては、国王に対するよりも多くの尊敬が払われます。(58p)

清の属国の証明である。

 

1666年8月3日難破から13年後である。生存者16名中8名が船を手に入れ朝鮮から脱出。日本の五島列島にたどり着き、脱出は成功、出島のオランダ商館に送り届けられた。

1668年7月20日アムステルダム到着。「私たちは主なる神に対してその恩寵を感謝しました」

1668年8月幕府の尽力で、残留者7名(1名が残留希望)も同様に、送り届けられた。

 

長崎奉行の質問に対する答弁(78p)

 僧侶は非常に多勢います。彼等は食料を労働と物乞いとで手に入れなければなりません。彼等の衣服と剃髪とは日本人の僧侶のそれと同じです。

 雨の多い年には南部では米やその他の穀物が豊富に産します。というのは収穫はもっぱら雨にかかっているからです。雨の降らない年には大飢饉が起こります。そして1660、61、62年のように何千人もの人々が餓死します。同地ではまた多量の木綿を産します。しかし北部では大麦を食料にしなければなりません。というのは、同地では米は寒さのために育たないからです。

 この国の人々(日本人)以外は貿易には来ません。

 朝鮮人はシナの北部と北京とで取引を行っています。

 彼等は同地(シナの北部や北京)に人参根や銀やその他の器物を持っていって、生糸などの私たちが日本に持って来るのと同じような品物を入手します。

「都から北京まで旅行して帰ってくるまでには、どんなに早くても三ヶ月」、「北部では、米は寒さのために育たない」、「お天気まかせの米栽培(ため池や水車等の治水管理無し幼稚栽培)」は、陸路南下ではなく海路日本から、米は伝播したを、明白に指示している!

 

朝鮮人は古代より海洋民ではなかった!日本海洋民の海なので日本海!東海は地方呼称にすぎない!

「朝鮮国記」ニコラース・ウィットセン144p

 1653年コレアで捕らえられた人々の一人である総舵手マテウス・エイボッケンは私につぎのように語った。――

 「タルタリア(女真地方)がどれほど北方に延びているかは彼ら(朝鮮人)にはわからなかった。というのは、彼等は海上でも陸上でも遠くに旅行したことがなく、またそのようなことは原住民にも禁止されていたからである。また、日本人以外の外国船は一隻も東海岸にやってきたことはなく、日本人も彼らが住む事を許されている場所だけに来るのである。」

 「彼等の間では水を低い所から高い所に引き上げて、それを流し出す技術は知られていない。したがって彼等はほとんど鉱山を開発することができない」

 「大杯や小瓶のようなガラス製品は、日本から同地にもたらされているが、それらはオランダ人が日本にもたらしたもので、(コレアでも)たいへん珍重されている」

 「コレー人はタルタル人と日本人ひどく恐れている。というのは彼等はたいへん意気地がないからで、そのため戦争が行われようとする時には、その戦争の数日前に数百人の人々が恐怖心から縊死することが見られる」

 

「朝鮮国記」ニコラース・ウィットセン119p

 1686年9月1日に慣例として(コレア王から)下された命令に従って、コレアの使節が毎年の貢物を納め、皇帝の前に跪くために北京に現われた。使節の一行はオランダ人の使節の見ている所を謁見の機会を得ることなく、やせた馬に乗り、みすぼらしい服装をした二人の召使を従えるだけで、マンダリ人(中国の官吏)もタルタル(女真族)人も供をせず、一般の人々と同じようにして宿舎に向かって馬を進めて行った。こうした簡単な準備と、粗末な歓迎の様子から見て、彼等の主人がシナの皇帝と比較して、いかにも卑小であり、また、タルタル人が彼とその使節を見下していることが明らかである。

127p

 対馬すなわちスシマは日本とコレアの中間にある島である。それは隠岐諸島と同じく日本の皇帝に属している。対馬には一人の福王即ち日本人の司令官がいて、コレア人に対抗して兵力を準備している。コレア人は毎年日本の皇帝の代理者としての彼に対して貢物を納める。彼はそういうわけで兵士を対馬に備えておくのである。彼はまたコレアに一軒の建物を持っていて、そこの一人の日本人を置いて上記の貢物を取り立てさせている。そしてコレア人は日本人に対するのと同じようにタルタル人のシナの皇帝に対して貢物を送る義務がある。

 

「使節を派遣し秀吉を毒殺」と、当時も捏造し、言いふらした128p

 「――しかしコレア(朝鮮)人はこのような戦争の猛威に疲れはててしまい、使節を日本に派遣した。彼は皇帝を奸計を用いて毒殺した。コレアにいた日本人はこのことを聞いて帰国した。人々はこの使節はまず毒を投じた飲み物を一口飲んで皇帝(秀吉)の疑いを除いたが、そのために彼も同時に死亡してしまったと考えている。彼は祖国を愛するために、これを行ったのである」

秀吉が朝鮮あるいは中国からの使者などに毒殺されたという伝説は、朝鮮側にはかなり広く行われていた。日本には毒見役があり、ましてや「戦争相手持参の飲み物」を一緒に飲むことなど有り得ない。こんな「子供だましの作り話」を流布させるのが朝鮮人。慰安婦偽証もまったく同じ。人間とは真逆で、まさに人モドキである。

128p

1689年 オランダ東インドの社員が1689年に日本の首都江戸の向かった時の旅行の日誌の中に、私は日本の宮廷が(オランダの)会社の人々に対してコレアや琉球諸島は日本の臣下であるので、そこから来る船を襲撃したり、損害を与えるようなことはしないように要求したということを発見した(注)。このことからコレアの人々はシナに対して貢物を納める義務があるのと同様に、日本王国に対してもそうすることを認めていることが明らかであろう。

 注・出島オランダ商館日誌1689年4月8日「(江戸城ないにおいて)――五、日本において貿易を行うシナのジャンクを海上で掠奪したり、損害を与えたりしないこと。これはコレアのジャンクおよび琉球についても同様であって、これはかれらが日本の臣下だからである」。

 二年前にオランダ人によって行われた日本の江戸市への参府旅行に関する報告の中に、私はコレアに関して次のような記事を発見したが、これによってもこの民族が、今日でも若干日本に対して服従していることがよくわかる。

 「――この一定の時期に使節が贈り物を携えて皇帝の許に派遣されるという国家的な慣例は、皇帝太閤の死後ずっと続けられている

 

以下には、現代朝鮮塵自国民洗脳教育と真逆な朝鮮使節(通信使)の実態が記されている。

131p

 「1637年――3月24日。われわれはコレアの使節(朝鮮通信使)が3月17日にイシオ島からコレアに向かって出発した(帰った)ということを知った。噂によれば、彼らは陛下(徳川将軍)に対してタルタル(清国)に対抗するための援助をしてほしいと要請したということである」

132p

 「1682年――このことからコレア(朝鮮)の人々は自分たちがこの(日本)王国の従臣ないし臣下であることを認めて、日本の皇帝がその代表を通じてコレアを属領として支配しており、また彼ら(コレー人)が(日本に対するのと)同様にタルタル(清)に対しても、毎年敬意を示さなければならないことが本当であるということが明らかになります。――」

133p

 コレアからは生糸が日本にもたらされる。コレー人はシナの皇帝と日本の皇帝の両方に貢物を納めている

 

現代朝鮮塵自国民洗脳教育や日本や海外への宣伝とは真逆な文化の流れ!朝鮮はシナへのただの流路なので定着せず

135p

オランダ領インディエ評議会員マテウス・ファン・デン・ブルック氏が、1670年に東インドから帰国した船隊の司令官として作成した下記の報告書――

 「――コレアの大半島における取引の可能性について調査――前記の(半)島には商人は全くおらず漁業と農業で生活を立てている貧しい人々がその一部に住んでいるだけであります。彼等はタルタリアの(支配下にある)シナ人と日本人の両方の臣下でございますが、この二大強国のいずれもわれわれが同地に行って、取引などを行うことを放任しないでありましょう。――なおその上に、すべての日本人がコレアの人々を含む隣人と取引を行うことは死刑を持って堅く禁止されており、対馬の領主だけは別で、彼だけは特別の恩顧として取引に従事することを認められています。そして胡椒、丁子、肉豆蔲、木香、乳香、蘇木、白檀および(オランダ東インド)会社によって日本にもたらされるその他の多くの商品が、同地に送られています。そしてこれらの品物は、さらに陸路をシナに送られて同地で消費されます。そしてこれらの商品およびそれらと同じようにして輸出されるものと思われる金銀と交換に、シナの生糸および絹織物類を入手します」。

 

朝鮮通信使を無駄」と切り捨てた新井白石1657年~1725年)

江戸時代の日本人も、朝鮮人の本質をよく分かっていたことを証明する文書。

 江戸時代中期の政治家・学者の新井白石。「朝鮮通信使を無駄」と切り捨て廃止を建白した時の建白書の中の一文。

【原文】夫朝鮮狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋濊貊之俗 天性固然(新井白石国書復号経事)

【現代語訳】朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。それが、濊や貊と呼ばれた野蛮人民族の天性である。大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。

【濊貊・穢貊】わいばく(かいはく)

古代,中国東北部から朝鮮北東部にかけて居住していた種族。ツングース系といわれ,狩猟・牧畜を主とし農耕も行なっていた。その中から夫余(ふよ)・高句麗などが出た。

 

朝鮮通信使「日本に文化を教えた」は真っ赤な捏造

 現代韓国が主張する「日本に文化を教えた」は真っ赤な捏造で、朝鮮通信使は、文禄の役や慶長の役のようなことが二度と起きないように、 徳川幕府のご機嫌伺い貢物届けと、且つ偵察が任務。

 

朝鮮通信使金仁謙(1763年から1764にかけて来日した第11次  朝鮮通信使が書いた日記)日東壮遊歌

1764年1月22日 大阪

 100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。  大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装だ。 この贅沢さは異常だ。 

 都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。

 支那の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。  世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。  ソウルの繁華街の1万倍の発展だ。

 北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。

穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。  そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。  嘆かわしく、恨めしい

 

1月28日 京都

  街の繁栄では大阪には及ばない。  しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。  山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。  この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。 悔しい。

 「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。  悔しい。  この犬のような倭人を全て掃討したい。  この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。 

 

2月3日 名古屋

  街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。  自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。  中原(中国の中心地)にも無い風景だ。  朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。 

  人々の美しさも最高だ。  特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?  「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。 

(帰路にて) 

 名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。  我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。 

 

2月16日 江戸 

 左側には家が連なり、右側には海が広がっている。  山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。  楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。  全てが大阪や京都より三倍は優っている。

   この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。  女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。

 

通信使一行の行列は見世物で見物は庶民の娯楽

文献史料

「見物する男女が垣根のように道端をいっぱいに埋めて(1624牛窓)」姜弘重『東槎録』

「左右にひしめく見物人の数の多さにも目を見張る(1764江戸)」金仁謙『日東壮遊歌』

絵画史料

『朝鮮通信使来朝図』神戸市立博物館蔵

『朝鮮通信使江戸市中行列図』福岡市立博物館蔵

『江戸図屏風』江戸東京博物館蔵

『馬上才図』高麗美術館蔵

 

儒教は上下のみで平等が無い!平等扱いした結果が通信使一行の人モドキ行状!輩の扱いは昔も今も飼い主の命令が正しい!

 通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる等々、文化の違いや日本人に対する差別で、通信使らしからぬ行状。

(以上洪禹載『東槎録(1682)』にみられる対馬側から要望された禁止事項の一部)

 

 供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる。

(「通信使のおとし子」2007.7.18 民団新聞)

 

 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉。

(山本博文『江戸時代を「探検」する』新潮社)

 

 警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり。

 1764年には大阪の客館で、朝鮮の下級役人が鏡を紛失したこと聞いた通信使一行の都訓導・崔天崇が、「日本人は盗みが上手い」と難癖をつけた。対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したため、杖で打ち据えられた。堪忍袋の緒が切れた鈴木伝蔵、夜中に槍を使って崔天崇を刺殺。

 江戸時代後期の儒学者菅茶山は、「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し」と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。

「説茶山翁筆のすさび 巻之三(朝鮮人の説)」

 

 「通信使が寺の中に魚や肉を持ち込んで食い散らかしている」と、仏教知らず朝鮮人の、肉食文化を表現。

『画図入(えずいり)朝鮮来聘記全』

 

「通信使一行が町人の飼っている鶏を盗んで逃げようとし、日本人と喧嘩」

淀藩の資料『朝鮮人来聘記』内の朝鮮聘礼使淀城着来図

 

朝鮮通信使は朝貢使節

『朝鮮人来聘記』・『朝鮮人来朝記』

 

奴婢『ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話』(林鍾国、平凡社1987

 奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。

 かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。

 それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。

 外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。

 局部に石や棒切れをさしこまれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。

 

シャルル・ダレ「朝鮮事情」(1845年~1866年)

 「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。

 世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得るなり」。⇒4につづく



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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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