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2対馬藩国書偽造と朝賀とご機嫌伺いと文化朴李の朝鮮通信使

 

2対馬藩国書偽造と朝賀とご機嫌伺いと文化朴李の朝鮮通信使

韓国呼称「第1~2次対馬征伐」は日本に記録無し

1389年1対馬征伐(韓国呼称)」 慶尚道元帥朴葳に率いられた高麗軍が、激化していた倭寇討伐のために対馬を襲撃した。朴は、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出した(高麗史)。

 この件での日本側の記録は存在せず、「高麗史」を参考に記述した「宗氏家譜」(1719年)218日に、高麗軍を追い返したとある(康応の外寇)。

 倭寇の活動は高麗王朝滅亡の一因ともいわれており、李氏朝鮮王朝の祖である李成桂も倭寇討伐で功名をなした。

主君高麗倒し李氏朝鮮建国

1392年帝国と密接な関係持っていた高麗王朝を、部下李成桂反乱で倒し、李氏朝鮮王朝を建国。新に中国を支配した明と国交を結んだ。高麗時代の仏教を廃し、儒教を国教とした。

1396年12月2次対馬征伐(韓国呼称)」 李成桂が壱岐・対馬討伐を命じた。門下右政丞金士衡を五道兵馬都統処置使に任じ、南在、辛克恭、李茂を配下につけ、出立に当たっては成桂が南大門まで見送った。

 1397年1月に慶尚道蔚州浦で降伏した倭寇首領の羅可温(ナガオン)、子の都時老(ドシロ)、配下の昆時羅(コンシラ)が役人を人質にして逃亡するという事件があったが、210日には朝鮮の官職を与えて帰順させた。また、翌13982月、倭寇首領の羅可温、望沙門(マンサムン)等に官職を与えるとともに、それぞれ藤六、林温、池門と改名させた。

 士衡は翌年130日に帰還して出迎えを受け、28日に宴席を設けられた。朝鮮王朝(李朝)実録

 一倭寇の帰順針小話を、「第2次対馬征伐」などど棒大に、韓国が拡大した。

 この時期に朝鮮軍の侵攻があったという記録は、日本には無い

 

1419年応永の外寇(応永26年)6月 対馬では倭寇の禁止や日朝貿易の進展に積極的であった宗貞茂が死去すると、倭寇の活動が活発化し、朝鮮王朝第3代の太宗は、1419年(応永26年)6月、倭寇討伐を大義名分とした掃討戦を決意した。

 朝鮮軍は、兵船227隻・軍兵17,285で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、つづいて小船越を襲撃し、さらには仁位浦に進んで如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの伏兵などによる反撃などにより損害が大きく、戦況が膠着状態となり暴風雨も近づいたため、対馬側の和平提案を受け入れて、73日に巨済島へ全面撤退した。これが応永の外寇であり、朝鮮では乙亥東征と呼んでいる。

 

室町期朝鮮通信使履歴

1428年1回足利義教

 1428年(正長元年)派遣の使節に同行した書記官の申叔舟が著した『海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて、倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など国力状況の観察、日本での仏教の展開状況をはじめ15項目の調査内容があったという。須田牧子「日朝国家間外交における大内氏の地位」『中世日朝関係と大内氏』(東京大学出版会、2011年)

1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。

 日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。

 水車は、その百年以上も昔の、「徒然草」(第五十一段)にも記されており、当時から農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があった。下條正男『日韓・歴史克服への道』展転社(1999)

1439年2回足利義教

1443年3回足利義教

 

日本統治以前はハングル皆無漢字全盛文盲時代!

1446年「訓民正音」ハングル文字製作。第4代王世宗が「訓民正音」の名で公布したハングルは、1504年、10代王・燕山君が禁止し、1506年後継王・中宗が、正音庁(諺文庁・ハングル研究機関)も閉鎖し、日本統治までの406年間、公用禁止文字であった(朝鮮王朝実録)。

「朝鮮事情」ダレ著金容権訳平凡社抜粋

 ダレ著となっているが、フランスの第五代朝鮮教区ダブリュイ主教(1866年ソウルで李朝に処刑された)が、1845年から21年間命懸けで収集したものを編集したもので、ダレは編纂者。

 1910年から日本統治なので、統治直前の「朝鮮事情」である

 「第七章朝鮮語・・・試験(科挙)は、すべて漢字で行われ、中国の文字と書籍きのみをその対照としていた。政府の八つの主な学校では、中国の文学と科学だけを研究し、国語である朝鮮語は除けものにされ蔑視されている。・・・国王や王国の年代記、布告、守令の命令、法廷の判決、科学書、碑文、通信、商人の会計帳簿、商店の看板等、あらゆるものが漢字で書かれる」

日本統治文盲解消に尽力!

 そのハングルと漢字の混合文を世界で最初に発案した福沢諭吉は、活字を私費で築地活版所に作らせ、弟子の井上角五朗が「脱亜論(1885年3月)」の翌年1886年1月、朝鮮史上初の漢字ハングル混合文を用いた「漢城周報」を発行(朝鮮族は完全隠蔽教育)等々尽力し、文盲解消に努力(「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店2002年4月)。

 

「三浦の乱」宗氏大敗

1510年(永正7年)、李氏朝鮮の貿易抑制政策や、恒居倭(朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかねた、居留日本人恒居倭と宗氏は、居留地三ヶ所の浦(釜山浦、乃而浦、賽浦)において、対馬島主の子息宗盛弘を大将とする4,000名から5,000名にのぼる軍勢で、蜂起したが、数に勝る朝鮮の官憲に大敗し、盛弘は熊川で戦死した(三浦の乱)。以後居留地は、釜山浦一ヶ所にかぎられた。これ以後、中国人を主体とする後期倭寇が東シナ海や黄海の広い海域で活動し日朝貿易は衰えた。また宗氏は、戦国時代に壱岐に進出した松浦氏との対立もはじまった。

 

明侵攻の仲間となるよう秀吉が朝鮮説得

1587年秀吉は大陸経路を計画し、まず朝鮮と国交を結び、朝鮮を先導として明に攻め入ろうと計り、朝鮮に伝え、日本に来た朝鮮使節にも伝えた。しかし、朝鮮からは回答もなく、年月のみが経過した。(228p)

 

豊臣秀吉に派遣された通信使2の1

1590年天正18年)に豊臣秀吉に派遣された通信使の名目は、秀吉の日本統一祝賀であったが、朝鮮侵攻の真偽を確かめるために派遣された、通信使であった。

 

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、氏が出兵に先立つ

1591年(天正19年)、厳原には古代の金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれて、中継基地となった。対馬からは宗義智5,000人を動員した。義智率いる対馬勢は、一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊の、小西行長の一番隊に配属された。

1592年(文禄元年)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し、朝鮮軍や明軍と戦い、釜山、漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略した。

 義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交を担当する役割も担っており、行長とともに常に講和を画策していた。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士が鶏・犬・猫などを住民から奪う禁令が出されたという。なお、対馬には小西行長着用の兜が伝えられている。

 義智は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西(豊臣)軍に加わって、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣した。西軍敗北後は徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担なった。

 

秀吉朝鮮に侵攻

1592年秀吉は大軍を送って朝鮮に侵攻した。党争のため結束がなかった朝鮮は瞬く間に全土を侵略された。援軍要請を受けた明軍も京城北部の碧蹄館の戦闘で日本軍に敗れた。海戦や各地義軍の反撃もあり、講和も進行したが決裂。

 

豊臣秀吉に派遣された通信使2の2

1596年(慶長元年)の通信使は、日本と明の休戦交渉の締めくくりとして行われた使(冊封使)の日本への派遣に同行したもので、正使・黄慎と副使・朴弘長は秀吉より接見を許されなかった。明使の交渉も失敗し慶長の役の再出兵が行われた。

 

1596年再び日本軍の侵攻が開始された。

1598年秀吉のによって日本軍は撤退(明と停戦合意)し、ついで明軍も撤退し、前後7年の朝鮮侵攻は終わった。

 

停戦無視逆臣「李舜臣」捏造と捏造

2014.7.3 msn産経

韓国「反日英雄像」が手にしているのは「日本刀」と判明、「撤去せよ」と大騒ぎ…「これは降伏のポーズ」の指摘も、笑えぬ韓国「時代考証」の杜撰さ

 韓国で「抗日」の象徴として英雄視される李氏朝鮮の将軍、李舜臣(イ・スンシン)(1545~98年)の銅像が日本刀を持っている-と韓国内でクレームがつき、撤去や改修の声が上がる騒ぎとなっている。 李舜臣は豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(1592~98年)で朝鮮水軍を率いて戦ったことで知られ、ソウルの目抜き通りや国会議事堂をはじめ、各地に銅像が立つ。そのいずれもが日本刀ばかりか、中国の甲冑を身につけているとして問題視されているのだ。「反日」が吹き荒れる韓国で民族の英雄が日本製の武器を身につけていては確かに格好がつかないだろうが、騒動の根底にあるのは韓国の時代考証やもの作りのいい加減さともいえそうだ。(岡田敏彦)

「日本を撃破!」は…停戦を無視し、返り討ち

 李舜臣は文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率い、日本相手に「23戦23勝」の“戦果”をあげた英雄とされ、豊臣軍の海上補給路を断って苦しめた功績が伝えられている。

 ただ、これらの戦果は誇張されたもので、残された資料によると、李舜臣はゲリラ的に奇襲して日本の輸送船をいくつか沈めたものの、日本側が立て直した後は撤退続き。最後は、明軍と停戦合意して引き揚げる豊臣軍に対し、停戦を無視して攻撃をしかけたあげく返り討ちに遭って死亡したとされる。

 しかし、明治維新後に朝鮮が日本の統治下に置かれる過程で研究者により再評価され、日本を撃退した英雄として、その後、韓国内で多くの銅像が立てられた。ところが、そのデザインが最近、問題視されているのだ。

 銅像はいずれも立てた刀を持ち、膝まで届く長い鎧(よろい)を着て立っている。この刀が、朝鮮伝統のものより長く、「日本刀じゃないのか」との批判が噴出。さらに鎧も中国の装身具のようで、「刀は日本刀、鎧は中国風」といわれるようになった。―

 

朝鮮人はこれまでの、度々の対馬侵攻元寇はそ知らぬ顔で棚に上げ、「秀吉侵攻」のみを声高に叫ぶが、「秀吉朝鮮侵攻」は、元寇等々、これまでの復讐戦といえる!

 

捏造の上塗り歴史捏造自慰映画「鳴梁(李舜臣将軍の業績)」で洗脳!「真実」を企む韓国!

201516 中央日報

「韓国を訪れる観光客ならば誰でも帰国の途に李舜臣将軍の銅像や亀甲船の模型を買っていくようになるだろうか」。

 

江戸時代朝鮮通信使再開のいきさつ(三者の利害一致で再開)

 対馬は山が多く耕作に不向き、貿易なくしては、経済が成り立たない。国境の対馬藩は、前掲のごとく度重なる戦乱で、貿易も無く荒れ放題、疲弊の極みであった。徳川家康から許され臣属はしたが、西(豊臣)軍に加わった負い目がある。一発逆転唯一の策が、朝鮮と国交回復しての貿易。困窮の対馬藩は、国書偽造してまでも、朝鮮との貿易を望んだ。

 江戸幕府は、地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。また、「朝貢使」として、元西軍民衆に見物させ、「朝鮮と戦った秀吉」より格上を宣伝、幕府の権威固めに利用したかった。

 朝鮮は、後ろ盾の明が朝鮮半島から撤退し、単独となり、満州の女真族(後金)は勢力を拡大していた。日本が再び敵となれば、一たまりも無い。再度の朝鮮出兵を恐れた朝鮮は、日本との関係修復を望んでいた。

 こうして三者の利害が一致し、対馬藩が朝鮮側に通信使の派遣を打診し、江戸幕府と李氏朝鮮の仲介をした。

 朝鮮出兵の際に連れさられた捕虜の送還をかわぎりに、日朝交渉が開始された。

 朝鮮出兵時の、王陵荒らしの戦犯要求に、対馬藩は、朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を、水銀で潰して唖者にし、「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した

 1605年、日本から先に国書を送るように李氏朝鮮が要求してきたが、徳川政権当然無視は明白なので、対馬藩は国書を偽造して朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたが、朝鮮は、「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。

 こうした対馬藩の努力によって、1607年(慶長12年)、江戸時代になってはじめての通信使が幕府に派遣され、629日(56日)、江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路駿府で、家康に謁見した。

 このときから1624年の3回目までの名称は回答兼刷還使(通信使は4~12)とされ、日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜を、朝鮮へ連れ帰るのを目的とし、日本側からの国書による回答(謝罪)を要求した。この求めに対し、帰国希望の捕虜は帰したが、徳川幕府が、「謝罪」の国書を送った形跡はない。

 対馬藩は回答使の返書も改竄し、1609年に、対馬藩念願の貿易協定、己酉約条を締結させた。

 朝鮮人捕虜の儒家は、ほとんどが帰国したが、陶工の多くが日本に留まった。日本は当時も、技術を持った職人を高く評価していたが、朝鮮陶工は、李氏朝鮮儒教思想による差別で、最下層の賤民であったことが原因。

 対馬藩は1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、両国の辻褄を合わせた。

 一連の、なりふり構わぬ工作は、国境の島、戦乱坩堝対馬藩の、窮状を語って余りある。

 

下克上(柳川一件・対馬藩主と家老柳川調興との国書偽造で対立した事件)

 対馬藩の家老であった柳川調興は、主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た

 柳川は、家康の覚えも良く、幕閣有力者からの支持もあり、「幕府も日朝貿易の実権を直接握りたいであろう」との推測から、勝算があると考えていた。一方、仙台藩主伊達政宗など、宗義成を支持する大名もおり、彼らは、下剋上が横行する戦国時代完全に終ったことを印象付けるために、この事件を利用する方向で動いた。

徳川家光の裁定

 1635年(寛永12年)311日、三代将軍家光の目の前で、宗義成、柳川調興の直接の口頭弁論が行われた。江戸にいる大名が総登城し、江戸城大広間で対決の様子が公開された。結果、幕府としては従前同様に日朝貿易は対馬藩に委ねたほうが得策と判断し、宗義成は無罪、柳川調興は津軽に流罪となった。また、以酊庵の庵主であった規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に流された。

 宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識に精通し、かつ朝鮮との人脈があった柳川調興や規伯玄方を失った事で、対朝鮮外交は停滞してしまった。

 義成は幕府に援助を求めた。幕府は京都五山のの中から漢文に通じた優秀者(五山碩学)を、朝鮮修文職に任じた。対馬の以酊庵には、外交文書作成や使節の応接、貿易の監視任務の者を、輪番制によって派遣した。

 その結果、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれた。幕府は国書に記す将軍の外交称号を「日本国王」から「日本国大君」に改めることとなる。

国書偽造(鈴木輝一郎著 新潮文庫 1996年)

 

江戸期履歴

回答兼刷還使12の3

1607年(慶長12年)第1回 徳川秀忠 日朝国交回復、捕虜返還

1617年(元和3年)第2回 徳川秀忠 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還

1624年(寛永元年)第3回 徳川家光 家光襲封祝賀、捕虜返還

 

朝鮮通信使12の9

1636年(寛永13年)第4回 徳川家光

1643年(寛永20年)第5回 徳川家光 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀

1655年(明暦元年)第6回 家綱襲封祝賀

1682年(天和2年)第7回 綱吉襲封祝賀

1711年(正徳元年)第8回 家宣襲封祝賀

1719年(享保4年)第9回 吉宗襲封祝賀

1748年(寛延元年)第10回 家重襲封祝賀

1764年(宝暦14年)第11回 家治襲封祝賀

1811年(文化8年)第12回  家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

 

1607年こうして朝鮮の使節はじめて日本を訪れた。

 江戸時代を通じて宗氏が対馬府中藩(通称対馬藩)の藩主を務め、城下町は対馬府中(厳原)につくられた。

 

慶長条約

1609年(慶長14年)には己酉約条(慶長条約)が締結され、講和が成立した。釜山には倭館が再建された。倭館は、長崎出島の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。

 2代藩主宗義成の代には、1615年(元和元年)に大坂の役に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩家老柳川調興とのあいだに前掲の下克上(柳川一件)が起きている。1637年(寛永14年)から翌年にかけては、島原の乱に幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。

 対馬藩は、参勤交代制度に基づき、3年に1度、江戸の征夷大将軍に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて往来した。外交面では鎖国体制のなか、朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において、出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。

 柳川下克上以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵(いていあん)に京都五山の禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど、幕府の統制も強化された。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、現在「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されている。

 

1616年明も荒廃し満州族の統一が進み、ヌルハチが後金国建国

1619年明も李氏朝鮮も後金国を攻めたが、サルホの戦いに敗れ、後金国(後の清国)が明を圧した

1636年正式の通信使がはじめて日本に派遣された。対馬の宗氏は外交を担当し、対朝鮮との貿易を認められた。(226p)

 宗氏の朝鮮貿易は朝鮮側の対手が徳川(公)か、宗氏(私)かによって区別された。公貿易の場合の日本の輸出品は銅が主で、蘇木、水牛角、胡椒等々。輸入品は木綿が多かった。宗氏私貿易の場合は、銅、鑞、胡椒、明礬などを輸出し、米、大豆、木綿、生糸、人参等を輸入した。(227p)

 朝鮮の採掘精錬は18世紀後半からなので、銅はあっても、精錬法を知らなかった朝鮮は、ほとんどを日本から輸入した。(198p)

 

丙子・丁丑の乱

1637年前年に国号を清と改めた(後金国)満州軍が侵攻し、李朝は降伏、明との断交、王子、大臣の人質、清に対する臣礼、清の対明攻撃への援兵派遣などがきめられた(丙子・丁丑の乱)。以後は完全に清国の属国となった。日本が日清戦争(1894~95年)で解放するまで、属国は続いた。⇒3につづく



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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
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