QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 06123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 08

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

1朝鮮捏造史高麗・元寇・李朝・通信使・対馬・秀吉・徳川・李承晩

1朝鮮捏造高麗・元寇・李朝・通信使・対馬・秀吉・徳川・李承晩

火事場泥棒で竹島を占領し!捏造して宣言(対馬は我が国に朝貢を捧げてきた属地)
作り話を歴史にする韓国初代李承晩(イ・スンマン)大統領

2015年1月7日 ソース:チェジュニュース(韓国語)
 [
今日の歴史]'対馬は私たちの土地'宣言-17日 
 194917、李承晩(イ・スンマン)大統領が内外信記者と持った会見で‘対馬は私たちの土地’と電撃宣言した。第二次大戦敗戦で旧ソ連に北方四島を奪われ意気消沈していた日本人たちには青天の霹靂のようなニュースだった。李大統領は「賠償要求はどの時期までに限定するのか」というある記者の質問に答える際に、このように爆弾宣言をした。
 李大統領は対馬はかなり以前から我が国に朝貢を捧げてきた属地同然だったが、350年前に壬辰倭乱(秀吉文禄の役)を起こした日本が対馬を武力で強制的占領した後、日本領土になり、この時、決死抗戦した義兵らの戦跡碑が随所にある」と背景を説明した。
 10日あまり後、31人の韓国議員が‘対馬返還要求決議案’を国会に提出し日本をより一層圧迫した。対馬要求は日本の独島(ドクト、日本名:竹島)領有権主張に対する正面対抗、長びく韓日会談で有利な交渉立場を得ようとする見えすいた脅し的な性格が強かったが、会見の報に接した日本の吉田総理はびっくり驚天し、マッカーサー司令官に走って行って訴えたという話が伝わっている。

対馬が大韓民国領土と表示された地図
1)朝鮮方域之図-朝鮮前期に製作された韓国全図.
1557
(明宗12)に製作したものと推定。満洲と対馬を韓国領土で表記。国宝第248号。国史編纂委員会所蔵。2)朝鮮八道地図-18世紀末に製作されたと推定される朝鮮地図。ソウル大奎章閣所蔵。
2)朝鮮八道地図-18世紀末に製作されたと推定される朝鮮地図。ソウル大奎章閣所蔵。
3)大東輿地全図-キム・ジョンホの大東輿地図を小縮尺に減らして作った約92万分の1の全図。
4)朝鮮国地理図中、八道総図-対馬を朝鮮領土で表示した1592年、日本の‘朝鮮国地理図’中‘八道総図’。現存する地図は1872年再模写したもの。
ホン・クンジン記者

韓国の歴史捏造教育
朝鮮通信使について
 壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は
経済的に困難に陥った。戦乱後成立した日本の徳川幕府は先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した
1609年光海君2年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
 また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を倭奴(日本)伝播する役割も果たした。
文禄慶長の役と捕虜について
 倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。(中略)そして東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化財を略奪し、多くの技術者と学者等を拉致していった。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本の文化発展大きな影響を及ぼした。
『世界の教科書シリーズ1 新版韓国の歴史-国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店

 対馬は、一度でも朝鮮領であったかどうか、また朝鮮半島には日本に教える文化が存在したかどうか、下記資料を縦糸に、辿って見よう!
「朝鮮幽囚記」オランダ人ヘンドリック・ハメル著 生田滋訳平凡社
 朝鮮半島の存在がはじめてヨーロッパに知られたのは、1542年、ポルトガル人が種子島に漂着し、ポルトガル人日本来航が始った以後の事なので、それまでのヨーロッパ資料は伝聞資料のみであった。 台湾から日本の出島に向かったオランダ船が、暴風雨で難破し済州島に漂着したのは1653年8月16日。生存者36名は李氏朝鮮に抑留され、13年後の1666年8月3日、生存者16名中8名が船を手に入れ朝鮮から脱出。日本の五島列島にたどり着き、脱出は成功、出島のオランダ商館に送り届けられた。1668年8月幕府の尽力で、残留者7名(1名が残留希望)も、同様に送り届けられた。
 ヘンドリック・ハメルは、長崎滞在中に報告書を作成した。 こうして報告書は、ヨーロッパ人が遭難し体験し見聞した、最古の資料、「朝鮮幽囚記」となった。

予備知識
遺跡と資料からの韓半島
遺跡
朝鮮南は日本海洋文化圏の一部米の伝播が解明捏造の古代日本史古代の朝鮮半島南部は日本海洋文化圏で住人は日本人、後に北方民族と混血した現代の韓国人とは異種。三国史記があるが、成立が1145年なので古代は参考程度とし、同時代の史書優先、海洋民・黒曜石・稲・水田・墓制等の実証から考察の結果、下記のごとく、整合した。

 日本最古の黒曜石.3万5千年前頃の武蔵野台台地の旧石器時代遺跡から出土。和田峠、箱根が主体で、神津島産が少量混在している。神津島は下田から南南東60キロにある黒曜石産地の島、現在の水深200mで、当時以来、本土とは繋がってはいない。

 ちなみにヨーロッパでは、南ギリシャ、フランキティ洞窟、1万2千年前頃の中石器の層から発掘された黒曜石が、2千キロ離れたエーゲ海のミロス島産とされ、世界最古の「海上交通」の始まりとされていた。がしかし、それよりもさらに、2万3千年も遡った歴史を刻んでいたのが、日本の「海上交通(日本海洋文化圏)」である!「遥かなる海上の道」2002小田静夫著青春出版

 5千年前頃の縄文中期には、能登半島伊勢湾等2百キロ圏まで、分布を拡大した。北海道白滝産黒曜石は、アムール川下流マラヤガニ遺跡、サハリン州サバトナヤ遺跡、新潟県で出土。佐賀県腰岳産は5千年前頃の水佳里や東三洞貝塚で出土。

 古くから黒曜石日本を中心とした海洋文化圏として中国揚子江、朝鮮半島南(百済、新羅、任那)、耽羅(たんら、済州島)、南西諸島、五島列島、対馬、壱岐、九州(南方文化)、島根(出雲)、隠岐、能登、佐渡、新潟(越)、瀬戸内海が存在し、文化を共有する地中海文明と同様の海洋人がいた。朝鮮半島人は倭寇と呼び、異種扱いは海洋人に非ずの自白で、白村江以後は、中国文化陸伝播のみが証し。日本統治前と後の差(写真や朝鮮紀行)がその証拠で、陸伝播のため最僻地となった朝鮮、統治以前は、日本の奈良時代。海洋人でもない朝鮮半島人が伝播したは、当然捏造。いつの時代も朝鮮人は、海洋人文明の受け入れ人でしかなかった。

 黒曜石の伝播が、海洋文化圏の隆盛を促進し、あま(海)の道が、米の伝播を促進した。古代日本、あま(海)の民は日本海を制し自由に航海、大陸や半島沿岸に黒曜石文明を伝播、居住した。九州の黒曜石が沖縄本島(佐賀県の腰岳産)や、朝鮮半島南部の東三洞貝塚(佐賀県の腰岳産、大分県姫島産)で、隠岐と脇本(秋田県)産の黒曜石が、ロシアの沿海州で、確認されている。神話と神社の大和朝廷文明は、腰岳、姫島、隠岐の黒曜石産地が始まりで、三韓と銅矛圏と銅鐸圏を成した海洋民が、起源。韓半島南から東北までの、タイムラグ無き古墳群の推移が証し。黒曜石研究の動向

あま(海)の民日本海洋民が支配していた海
三国史記巻第二新羅本紀第二
 12(西暦295)年春に、王が臣下に向かって「倭人が、しばしば我が領土を侵して来るので、・・・一時海を渡って行って、その国(倭国)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」
 これに対して、弘権が「我々は海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。――」
 王はこれを聞いて「それもそうだ」といいました。
 韓半島住人は、海洋民を倭寇と呼称し、自らは海洋民でないことを自白している。日本海呼称は、海洋文化圏を築いたあま(海)の民日本の、由緒ある名称である。由緒なき東海や朝鮮海などではない。
 三韓(馬韓弁韓辰韓)も三国(百済伽耶新羅)も、祖先は、海洋民の日本で、当時は日本海洋文化圏の一部であった。北方民族と混血した現代韓国人とは異なるのに、愚考を繰り返す韓国人(
2012/11/24古墳・寺院の随所に韓民族の息吹「日本の中の韓民族史探訪」)。(2012/12/15真逆に捏造する妄想韓国人)。
 古墳・寺院の随所の息吹は日本海洋文化圏日本民族の息吹で、北方民族と混血した現代韓民族の息吹では無い!

 文明は地中海文明や、大航海が示すように、海路がはるかに速い。北方民族が陸路最南端の地に辿り着き、文明を開いたので無いことは、南下途中の継続文明皆無や、同時期発祥の共通文明で証明済み。古代の朝鮮半島南部人は、中国と日本の海洋民族が祖先であることは明白である。
 完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同時に伝播し、後の百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島は火山島なので畑作中心だが、海洋人の寄港地として栄えた)国が生まれた。朝鮮北方には皆無の半島南に限定された日本と同様の文化は、日本と耽羅、百済、新羅、伽耶諸国が同一文化圏を物語り、日本の支配下にあったことを証明している。基礎民族水稲民耽羅人、百済人、新羅人、伽耶諸国人、は、現代の東北人、名古屋人、大阪人のような地域呼称で、朝鮮人ではなく皆日本人。したがって桓武天皇(737~806)の母(母は土師真妹)の父(百済系氏族の和之継)は、百済地方出身の日本人で、北方民族と日本人が混血した、現代の朝鮮人ではない。

資料
B.C.108年
楽浪郡 B.C.108年 中国漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし置いた4郡の一つ。韓半島中部の西で、東はわい貊(はく)、中心は現在の平壌界隈。北部朝鮮楽浪は、中国植民地として長く栄えた。
204年
帯方郡 204年頃遼東の公孫氏が南半に帯方郡新設、東で接する「わい貊(はく)」南の三韓に備えた。今の黄海南道からソウル界隈が南限。313年高句麗「わい貊(はく)」に滅ぼされ、後に百済領。
三世紀
三韓と倭 三世紀中国の文献に書かれた三韓
『三国志魏書』馬韓伝。中国の文献『三国志』魏志の東夷伝韓の条
 「は帯方郡の南に在り、東西は海尽きる南に倭接し、方(南北)は四千里(1里60km×四千里=240km)ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない」。

帯方郡のが韓。韓の東西は海で、韓のが海ではなくの、の地。韓と倭は地続きである。韓半島南部はと、明確に書かれている。

好太王(広開土王)碑文
414年 好太王碑が鴨緑江畔に建てられる。「倭が海を渡って百済と新羅を臣民にした。日本、百済・任那(加羅)・新羅に兵を派遣して臣属させる」
414年以前に、百済と新羅を臣民にした。

倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代
413年
 「」、東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』
438年
 「」、弟立つ。倭王讃没。自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、宋に朝献し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4
月、宋文帝、「珍」を、安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
443年~451年
 「」、宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』夷蛮伝)
 「」、安東将軍はもとのままで、宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国軍事」を加号される。(『宋書』倭国伝)
 451年7月、安東将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
462年
 「」、3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝
477年
 「」、兄「興」没し、立つ。「武」は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)
502年
4
月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王「武」を、征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)
414年以後、百済と新羅を臣民にしたことを、東晋・宋・梁国に報告した。「安東将軍・征東大将軍呼称は、宋・梁国の東を「安・征」する「軍・大将軍」の意で、宋・梁国が、「東は倭国の地」と、認めたということである。

663年 白村江の戦い。
 3月、上毛野稚子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。8月、やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結し、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国した。
 これより日本は半島の権利を放棄。以後天道を宗とする者(海洋民)と、そうでない者(半島人)とに分かれた。
 ルーツが同じ海洋民日本と南部朝鮮、隔たりの差は、海洋民から乖離し水稲民のみで属国化した朝鮮と、海洋民水稲民山の民共存継続し、八百万の神を崇め団結天道を死守した日本との差。白村江の戦い以後が、人間日本と、亜人間朝鮮との、乖離の始まり。

665年 8月、耽羅(済州島)の使、来朝する。
666年 1月、高句麗の使、来る。耽羅王子始如ら、来朝する。
667年 7月、耽羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。
668年 唐と連合して百済・高句麗を滅ぼした新羅が半島の単独政権となったのは668年、大同江以南の地は唐を宗主国とした属国新羅が支配し、唐から儒教仏教律令制などを取り入れ、独自に発展させた。後に唐の勢力は排除
 百済・高句麗の滅亡に伴ない、日本へ大勢の亡命者が押し寄せた。かくして朝鮮だけが海洋文化圏から撤退した。以後、1242年後の日本統治までは、陸路伝播の中国文化だけとなり、李朝時代には、両班思想がはびこり、文化は完全に停滞した。1910年統治直前の写真は、日本の奈良時代に、タイムスリップしたかのようである。
669年 3月、耽羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を授けた。
673年 6月、耽羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した。
676年10月、新羅に使を遣わす。11月、新羅の使、来朝する。
698年 高句麗遺民新羅北に震国建国。後の渤海。727~919年まで日本と通行した。
710年~784年 奈良時代
727年 渤海日本に使節派遣。
728年 日本、渤海使の送使派遣(遣渤海使)。以後計13回の使節のうち10回は送使。日本からの使節派遣途絶えた後も、貿易目的の使節を派遣し続け、毛皮人参蜂蜜等をもたらした、727~919年(契丹に927年滅ぼされた)まで日本と通行。
779年 以後新羅と日本の国交は途絶した。
894年に新羅の賊船大小100隻、約2,500人が対馬佐須浦に襲来したが撃退している。
918年 新羅末期の動乱に挙兵した王建、高麗を建国、開城に都。
935年 新羅56代(356~935)で高麗の王建に滅ぼされた。
936年 高麗の王建後百済を征服。
936年 朝鮮史上はじめての統一独立国家(334年間)高麗が誕生。仏教を保護し、管制を整え、基礎を築いた。朝鮮史上もっとも輝いた国家である。高麗で辞書を引くと高麗を冠した文字が続出する。朝鮮文化が花開いた時代である。英語のKoreaは高麗(コリョ)の転訛による名称である。この時代と次の朝鮮を比較すると、属国化がいかに民度を下げ、文化を破壊するか、一目瞭然だ。朝鮮末期の文化は、高麗、以前の文化のように思える。耽羅、済州と改称。

高麗~李氏朝鮮~オランダ船難破までのあらすじ
元寇~高麗滅亡
1019年刀伊の入寇 正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な対馬銀鉱も焼損。被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになった。女真族は、このとき対馬の判官代長嶺諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている。
1270年 高麗済州島(耽羅)中国元の属国となった。

蒙古襲来(元寇蒙古・漢兵・高麗
1274年文永の役(文永11年) 、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、105日佐須浦に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。
 「十月、金方慶、元の元帥の忽敦(クドゥン)・洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」。『高麗史』巻八十七
 『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。
1281年弘安の役(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。史上例をみない世界史上最大規模の艦隊を、日本へ派遣した。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。
75日元軍諸将撤退の様子
 「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」(「蒙古襲来絵詞」を読む海鳥社、2007145頁)
 弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、
 「其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり」
 と記されており、とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。
 元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する報復の意味があったといわれている。

1366年高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると、宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まる。⇒2にづづく


 
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/489-92f8f5a6

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。