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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観オランダアムステルダム市長サン・ティンの真実史観


4オランダアムステルダム市長サン・ティンの真実史観

 レムレフ報告書(全部で82件を網羅している)の前半の部分だけでも、このような引用が盛られている。さらに、ここでは引用しなかったが、縛り付ける、食べ物もあたえずに監禁する、水も与えずに炎天下に立たす、20回から50回の籐鞭打ち、ジラタンまたはケマドゥの葉(イラクサの葉のたぐいと考えてよいが、イラクサよりずっと質が悪い)を擦りつけてから水をかけるといった、”ごくあたりまえ”の虐待例が多数加わる。拳骨および平手打ちを浴びせるなどの“些細なこと”は、大方の場合、とくにとりあげて記述されてはいない・・・レムレフ報告書の全貌をここに描きだすことはしょせんできることではない。

 そしてまた、調査は、農園企業主側の手段を選ばない妨害で困難をきわめ、調査が進むにつれて証人がつぎつぎに消え、虐待の痕跡は消し去られていた。農園企業は、クーリーたちに証言しないように圧力を加える手段に事欠かなかった。それゆえに証言の多くは、獄中のクーリーが、経営者の手が伸びてこないという安心感からしたものであったり、つぎの例に見るように病棟での証言である。

 「ジャワ人の契約下女二人(両人とも全裸で)、ゴムボンというジャワ人男(陰部を布切れで覆っただけで、ほかには何も身につけていない)は、見せしめのため、クーリー小屋沿いに引きずりまわされた。この証言は、ルブックパカンの民間病舎に入っていた患者のサルミナ(ジャワ人女)がこの10月23日に私の審問に答えて話したものである。サルミナはさらにつぎのようにつけ加えた――ジャワ人女の一人は恥辱から首吊り自殺をし、もう一人は、見せしめの引きずりまわしがあった日の午後に現地人現場監督のヌル・カサンに殴り殺され、この農園支配人邸前のコーヒーの木に首吊りされた」

 農園企業の従業員間の恨みと嫉妬が原因で、醜聞が外部に漏れることもあった。レムレフ報告書から引用しよう。

 「タンジョン・カッソウ農園企業で、ファン・ベネーデンのもとで農園従業員をしている者(オランダ人)が、自身もその場に立ち会ったこの農園企業におけるクーリー虐待を、私に報告した。その虐待というのはつぎのようなものだった。その晩、オランダ人農園従業員ステイン・パルフエのところで一夜を過ごしたジャワ人(女)のプラウィロは、翌朝仕事に遅刻した。その罰として、パルフェの上司のファン・ベネーデンは、プラウィロに溝のなかで、それも一日じゅう腹部まで水につかったままで仕事をさせた。病気にかかるように仕向けたことは明らかだ。(中略)逃亡のかどで民事裁判所の判決を受け、その刑期満了後、この農園企業に送還されたジャワ人(女)は、農園に着いてすぐファン・ベネーデンの事務所に連れていかれ、大小便を漏らしてしまうほどの強い電流をかけられた・・・病身であるというのに」――

 レムレフ報告書はまた、農園企業内の性的慣習と、虐待をうけたクーリーにそれを訴え出るのを思いとどまらせる動機といったものを明らかにしている。報告書から引用しよう。

 「クーリーたちは、十分根拠のある訴えの理由があったとしても、自分の雇主を非難する行動にはなかなか出ようとしない。農園企業側の抑圧がよほどひどくない限り、苦情は出てこないということを今回の調査が教えてくれた」

 農園企業内の性的慣習について――

 「・・・その際、アサハン地方(スマトラ島東岸ノアサハン川流域)の地方長官は私につぎのように報告した。シ・サイドという名のアウツ・タナ・ラジャ農園企業の現地人契約クーリーが牢獄に送られたが、その際、『この農園企業のオランダ人従業員の一人と汝の妻が不純の交友関係にあったことが関連している』と投獄理由を聞かされた」

 この“牢獄送りの刑”については、ファン・デン・ブランツも『デリの無言の群衆』のなかですこし言及しているが、実際にはどういうものだったかというと、農園経営者は、自分が牢獄に送りたいクーリーを、みずからが認(したた)めた罪状と、大方の場合量刑をもあらかじめつけ加えた(ということは、何らの法的裁きもなく判決を受けたことになる)書簡をつけて、それぞれの地方の牢獄に送る、というものである。しかし、これは頻繁には適用されなかった。その理由は、農園企業の経営という点からすれば、クーリーを働かせておいたほうが有利として、経営者が自身で刑罰を加えるという手段を選んだことと、クーリーが牢獄で“よすぎる待遇”をうけているというのが農園企業側が等しく抱いていた見解であったからである。クーリーたちも牢獄生活の方がずっとよいとして、入れておいてくれと懇願することもあった。ブレーマンによれば、囚人一人あたりの食費だけみても、クーリーとして農園企業でもらっている給料の二倍以上の額が支払われたという。――

 レムレフ報告書が明るみに出した事情は、オランダにとって今世紀最大のきびしい試練といっても過言ではないと思われる。それは言葉では表現しがたい、ひじょうに大きな受難の歴史であるばかりでなく、オランダ領東インド統治政策の、広範な官僚制度にかかわる共謀の数々でもあるからだ。この報告書を解析したブレーマンによる冷静で簡潔な結論は、どうもがこうが責任逃れはできない、われわれにとってきびしいものである。

 この「デリのオランダ人史」を“例外的なこと”とか“一時的な逸脱行為”だったとする試みがまたなされようが、そうではなかったことが歴然としている。バタヴィアの法廷、オランダ領東インド政府(オランダ領東インド政府は1936年に国際連盟から、刑罰制を“徐々に”廃止することを真剣に検討するよう勧告を受けた)、オランダ本国の植民地担当大臣、農園企業界、そして多くの個々のオランダ人、これらがすべて共謀者であったことは疑う余地のないところであるからだ。

 レムレフ報告書自体は、ある変化の到来を告げており、ある程度は一時代の終焉を成しているのは確かだ。“ある程度は”と断るのは、報告書をひじょうに巧妙なやり方で隠し通してきた事実があるからだ。報告書をこのように長いあいだ隠し通すことができたのはなぜか、徹底的に調べあげることが必要とされよう。

 また、東インド総督は何ゆえにレムレフに調査を要請したのか、誰かがこの辺の背後にある事情を掘り下げてくれることを希望する――レムレフはその名前が示すように(レムレフ=Rhemrevはフェルメール=Vermehrを逆さ読みしたもので、異種族間の結婚でできた子孫には、父方の苗字の逆さ読みがよく使われた)、インド・ヨーロッパの混血である。この種の調査指令をインド・ヨーロッパ混血の人間に出すとは、勇気と啓蒙化の表れだったのか、それともその反対に、調査をできるだけ難航させようとして意図的にやったことなのか。

 反インド・ヨーロッパ混血を題材とする、J・クレイアンの「デリの農園企業主」読むとわかることだが、「若々しい喜びを発散させ、公平さを重んじ、公明正大な処置を所信とする、限りなく寛大な眼差しのスマトラ東岸の男衆」は大いなる反インド・ヨーロッパ混血人種を抱いていた。この点からすると、私にはレムレフは故意に狼の群れに投げ出されたという気がしてならない。

 ブレーマンが指摘しているように、このような戦慄すべき事態はデリの農園企業だけで起こったのではない。サワルント(西スマトラの山岳地帯の町)のオムビリン炭鉱、レジャン・スリッツ(スマトラ西岸の町)炭鉱などの国営炭鉱における状況も、点にも届く悲惨さであった。1902年の初頭に、フーチンクは東インド東部の炭鉱を何か所か視察して、報告書を提出している。フーチンクから引用しよう。

 「この炭鉱(中略)における死亡率は37%にも達している。大量に死人が出たときには、死体は、クーリーの表現を借りれば、“犬畜生のように”穴に放り込まれるか、ぽいと川に投げ捨てられたというが、ほんとうに身の毛のよだつ話である。スマラン炭鉱会社は851人の契約クーリーを雇用していたが、1年半後にはその半数にも満たない人数に減る――会社側が出した数字では、169人(全体の20%)が死亡し、18人が逃亡、132人は送還したということになっている」

 契約クーリーの日当は(約3円60銭)で、フーチンクでさえ、これはあまりにひどい低さだとして、低賃金に耐えるクーリーたちを讃えている。

 「1か月の労働日数が12日以下のクーリーは、給料日に給料のかわりに柱に縛り付けられての鞭打ちをうける(病気にかかる率はひじょうに高かったから、この処罰かかなり頻繁に適用された)。契約期間が満了近くになると、会社側は圧力をかけてクーリーたちに契約を更新させる――同意しないクーリーは殴られ、同意するまで食事はおあずけだった」

 われわれは泰緬およびパカンバル鉄道施設工事における犠牲者慰霊祭を執り行なっている。それはもっともなことだ。しかし、両鉄道施設公示から30年足らず前(真実史観注・オランダ統治時代)の、中部スマトラ街道工事について聞いたことのある者はいるだろうか。先に紹介したブライニンク・ダルラングの著書のなかに、この街道工事に関する、1914年に明るみに出された事情が、ある訴訟記録から引用されている。いくつか引用してみよう。

 「地方行政の官吏がみずからの職務、責任を果し、強制労働労務者の健康管理と労働および生活環境の定期的検査を遂行していたら、他の悪弊にもおのずから気がついたはずである。たとえば、現場監督が籐の鞭や雄牛の(乾燥させた)陰茎で労務者を打つ。また、焼けつくような太陽を避けるものが何もないところに、手脚を柱に縛り付けて、食べ物や水をあたえずに四昼夜の間おく。あるいは、逃亡に失敗して送還されてきた者を、手足足首に鉄鎖をかけて仕事に追いやるといった、現場監督がみずから考案した方法で、強制労働労務者を罰する件だ」

 「(カイベルという名の現場監督が)平手や籐の鞭や牛の陰茎で殴りつけたり、蹴る、踏みつけるという暴力を振るったのは、自分の思いどおりに仕事をしない労務者に対してだけではない。病気届けを出しに北労務者にも同じことをした。そのうえ、その病人に向かって『ここでは誰も病気ではない。病気などになる時間がほしいのなら、お前らの神アラーに無心するがよい。私はそんなよけいな時間は与えん』と言って、病気の労務者は、立つこともできないほどの半死半生の状態になってはじめて、病人用大部屋に収容された。当時の死亡率の高さを見ればうなずけることである」

 「キーフイッツ医師は、(中略)熱がかなり高く、赤痢にかかっているのに、仕事に引き出されている強制労働労務者を診断したと証言」

 『地方行政監察官は、(中略)病気の強制労働労務者の移送状況はきわめて悪かったと証言――移送中に死亡する者もあり、重病人でさえ、かなりの距離を歩かなければならなかった」

 我々オランダ人は、過去40年間もの長きにわたって日本人に対する不満を延々と述べつづけてきているが、こういった自分たちの悪弊が日本人の振る舞いとはちがっているとでも思っているのだろうか。泰面およびパカンバル鉄道施設工事の犠牲者数はどうのこうのとか、虐待は云々とか、隅から隅まで調べ上げて、犠牲者名簿や追悼の書を出版したが、自分たちが手を下して殺害したり、虐待して死に追いやったりしたインドネシア人には心を砕くこともなく、彼らの名前は、永遠に誰の知るところでもない。

 私がひじょうに怒りを覚えるのは、ウィレム・ブランツのように、自分たちの暗黒の過去を知りすぎるほどよく知っていながら、日本軍抑留所(ブランツも私も入っていた抑留所では、オランダ人のしたような戦慄すべき行為はおよそ見られなかった)でひどいあつかいをうけたと激しく怒りたっては、あっぱれな嘘を長年にわたって言いつづけてきた者がいるということである。

 そうだ――これは好い考えだ!――これからは、8月15日の記念式典(オランダでは日本降伏記念式典と称している)では、われわれ自身のことはすこし差し控えて、われわれに酷使されて死んだり、餓死させられたり、蹴り殺されたりした、数かぎりない名もなき哀れな者たちのことに思いを馳せようではないか。

――1986年・記

 

ボーフェン―ディグル(ニューギニア島にある地名で、高地ディグルの意)の15年間147p

 ほとんど人の注意を引くこともなく、チャーリツ・サリムが先週(1985年3月10日)ハーグ市で死去した。行年82歳だった。――

 サエイムは1902年11月24日にリアウ群島の島に生まれた。父親はその地のインドネシア検察官。小学校はウェルテフレーデン区(バタヴィア市の一地域)(一家は父親の検察庁退職後この地に移転し、父親はここで民事裁判所判事をつとめた)のヨーロッパ人指定学校に通った。中高等教育はウェルテフレーデンとパダン市(スマトラ島西岸)でうけた。民族運動をしたかどで24歳のときメダン(スマトラ島東岸)で逮捕され、それからの15年間(25歳から45歳まで)をニューギニアにあったオランダ領東インド政府のボーフェン―ディグル抑留所で送ることになった。

 サリムはこの抑留所生活を「ボーフェン―ディグルの15年間」と題する本にまとめ上げた。1973年に出版されたが、この抑留所の歴史をくわしく記しているオランダで唯一の本であると私は理解している。そしてこの貴重な一冊も、ある偶然が幸いしなければ存在することはなかっただろう。日本軍の侵攻を前にオーストラリアに移されたこの抑留所が結局のところ閉鎖されたとき、国水熱(マラリア患者に起こる急性の赤血球崩壊症)と慢性マラリアで衰弱しきっていたサリムは、インドネシアに帰国しないでヨーロッパに住むように、との診断を受ける。こうしてサリムはオランダに居を構え、長いことインドネシア大使館に勤務することとなった。もしサリムの健康状態がインドネシア帰国を許すものだったら、この本が書かれることはなかっただろうと思われる。

 私は「ボーフェン―ディグルの15年間」を何回も読んでいる。大作ではないが、読むたびに新たな感動を受ける。というのは、この本に書かれているあれもこれもが私に日本軍抑留所を彷彿させるからである。被抑留者にあたえた食べ物および医療は、日本軍よりオランダの方がよかったのは本当だが、その他のもろもろの点では、両者は驚くほど似通っている。そして、オランダ領東インド政府抑留所のインドネシア人被抑留者、とくにオランダの教育を受けたものが「オランダ人があのようなひどい行為に出るとはとても信じがたい」と言ったことサリムが何回か記述していることに、私はやり場のない戸惑いを感じる。

 それはわれわれオランダ人にも信じがたことなのである。「そんなこと、ほんとうのはずがない。われわれがそんなことするはずがない」とオランダ人が言うのを、サリムは再三聞いたと述べていることから、それはわかるだろう。

 だが悲しいかな、われわれオランダ人はそのような愚かしい行為をしたのだった。――被抑留者を、鞭で打つ。水もあたえず熱帯の炎天下に放っておく。檻に閉じ込める。機雷や敵の潜水艦だらけの水域を、船底に押し込めて移送する。“逃亡しようとした”とかこつけて射殺する等々。そのうえ、これは日本軍はしなかったことだが、被抑留者の移送の際に、何人かを一組にして鎖でつないだ。女子被抑留者のスカーシは、つぎのように記している。

 「1928年4月(逮捕されてはや一年半になる)。プリオク港(ジャカルタの港)でオランダ領東インド政府の蒸気船るムフィウス号に乗せられる。800人の流刑者が乗船、私以外はみな男子だ。私たちは5人一組に鎖でがっちりつながれて、食べるときだけ片手を自由にしてもらえる。横になることは、夜の9時にならないとできない」

 サリムは逮捕されて入れられた刑務所で、すでに鎖につながれた。――

 「――みんなが大声で私に声をかけてよこしたので、私も親しく『やあ』と挨拶を返さないわけには行かなかった。ところが、これが重大な規律違反と見なされて、行水は取りやめとなり、すぐさま自分の牢にもどらなければならなかった。――刑務所執行部は私の“規律違反”を重く罰する意向で、『8日間おかずなしのご飯を供す』との刑罰を言いわたした。そのうえ、牢内で“鎖をかける”という。これは、左手首に手枷、右足首に足枷がはめられ、この二つが鉄鎖でつながれることを意味する。一人が大小便を足すときは、他の四人もこの生理的要求の場に必ず立ち会わなければならないし、これに兵士が付き添ってわがグループを監視する。私の左手首には、この遺憾に堪えないオランダの慣習の思い出として、金属製の手枷で負った傷の跡がいまだに残っている」――

 病死した者の数はどのぐらいだったのだろうか。奇妙なことに、ボーフェン―ディグル抑留所設立当初の死亡者数の正確な資料は、どの出版物を調べてみても見つからない。こういった資料は極秘だとでも言うのだろうか。王立熱帯博物館の図書館にもなかった。一般的印象から推し量るに、ここの死亡者数は、日本軍の民間抑留所のそれよりも少なかったとは言えないだろうと思われる。

――1985年・記

 

神々の黄昏――オランダ領東インドの没落153p

 ――東インド関係の抑留所および戦争体験記の中で、――残念ながらほんとうのことを書いてはいない。そこでは、日本人はいつもきまってバッタ、蟻、鼠、その他の害虫にたとえられ、また必ず引き合いに出されるのは、”細い目(直訳は割れ目の目)”云々と“黄色い”云々と言う表現であった。これらの戦争体験記を書いたオランダ領東インドからの引揚者諸氏はアジア人を一度も見たことがないとの印象を強くする。

――1979年記

 

日本茶に塩入れて162p

 ――日本人は、われわれオランダ人被抑留者に対して何らかの意責任を負っていることは承知していたようだ。「そんなことはわれわれの知ったことではない」と肩をすくめて、「野垂れ死にするがいい」ということだってできただろうが、そうはしなかった。それは、たとえばコレラ患者が出たという噂がたったとき、日本軍の医療班が何度かやって来て、われわれに予防接種をしたことからもわかる。これほどのことをしなくても、放っておくことだってできたはずだ。

 われわれオランダ人に薬を与えなかったことについて、日本軍には重大な責任がある。と私は書いたことがある。キニーネやダジェナン錠剤が軍需倉庫にたくさんあったということが戦後明るみに出たからだ。これらの薬をわれわれにまったくあたえなかったのは、打算からとか、われわれオランダ人を葬ろうとする極悪非道のたくらみから――この種の考えを抱いているオランダ人はいまだにあとを断たないが――ではないと私は思う。われわれに薬を与えようという考えが日本人の念頭に浮かばなかったのは、薬が軍需倉庫にあったからで、それに手をつけるということは、軍事的な考えからすれば、一種の妨害行為に相当するからだったのだろう。帝国軍需品に手を触れるのはご法度であり、誰一人としてこれを持ち出す資格はない、という思考で一貫していたものと思われる。

――「再び生国の土を踏んで」1995年刊より――抜粋完

 

海洋民国家オランダの真実史観

オランダ ヴァン・ティン・Eduard van Thijn(サン・ティン?)アムステルダム市長(1983-1994)・後(1994年)内務大臣1991年の挨拶。  

 「憲兵少尉のシベリア抑留経験者、溝口平二郎(平成9年3月14日逝去)が挨拶を聴き、後に財団法人日本国防協会の理事の浅井啓之が1994年3月24日に文章に起こした」

 サン・ティンの名前が実在しないので捏造論があるが、ヴァン・ティンの聞き違いだろう(サン・ティンと筆者は現地で聞いた)。発音してみれば分かるが、・ティンが強く発音されるため、聞き違えやすい(ヴァン・ティン発音は、現地発音ではない。オランダ語の発音はファンタイン。活字からではなく、確実に現場で耳から聞いた発音を、サン・ティンと文字にした。つまり、サン・ティン記述は現地で聞いた証し)。要は名前よりも、年代と、アムステルダム市長の後に国務大臣を勤めたという経歴が大事なのだ。捏造であれば、決してこんな初歩的なミスはしない。ましてや公開された挨拶文などはすぐばれるので、決して捏造などしない。常識で考えればすぐ分かることだ。

 1991年の訪蘭時」平成3年、日本傷病軍人会代表団が、大東亜戦争の敵国であったオランダを訪問した折、同国の傷病軍人代表と共に、首都アムステルダム市長主催の親善パーティに招待された。その時の市長の挨拶です。

 「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。戦前は『アジア』に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。あなた方の日本国は、『アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた』と、自らを蔑(さげす)み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。

 何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があります。本当は私共白色人種が悪いのです。100年も200年も前から競って、武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。

 植民地や属領にされて永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏と言う旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分を蔑(さげす)むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」。1994年3月24日浅井啓之氏記聞

 善悪論での日本賞賛であるが、当時は弱肉強食適者生存の時代、侵略は合法で、違法は1960年の植民地独立付与宣言以降からである。宗主国であると同時に、文明の伝導者でもあったことを、決して忘れてはならない。かつての植民地はこの清濁を併せ呑み、皆一様に踏まえている。当然かつ英断である。世界で唯一禍福をあざなえない輩が、民族浄化同族殺しの凶産中国、贋半島、罪日である。

 敵であった、オランダの、この見解はいさぎよく、見事だ。この見解があるから、両国の王室が親密なのだ。昭和天皇訪欧時は険悪だった。現に今、皇太子一家が招待されて滞在中だ。護国の英霊に、これ以上の頌詞(しょうし)はない。アメリカがこの見解に達した時が日本の真の終戦だ。2006.8.26.オランダ・アムステルダム市長のご挨拶

 真実(唯心)史観と捏造(唯物)史観のオランダ人が居る。中国にも居る。どこの国にも有り得る事だが、なんと朝鮮族に!真実(唯心)史観は皆無!
 太平洋戦争は凶産捏造が元凶!大東亜戦争は応戦自衛戦争!
 捏造史観(中朝韓)は戦争起因
 世界の、「国境無き真実史観」と連携しての捏造破壊が、天道に額ずき戦い破壊した、先人子孫の天命


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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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