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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観オランダ統治の実態レオ・ヤンセンの日記とレムレフ報告書

3オランダ統治の実態レオ・ヤンセンの日記とレムレフ報告書

無人地帯の預言者32p

 オランダ領東インドの日本軍占領時に関する二冊の本が19988年末にファン・ウェイネンという出版社から刊行された。ヤン・バウェルの「踏みにじられた国」と、レオ・ヤンセンの「この半刑務所の中で――バタヴィア/ジャカルタ日記、1942-1945」である。両書は、日本軍占領時関係の、これまでに出版された文献の粋と言うべき貴重なものである。――

 まったく異色なのはレオ・ヤンセンの経歴である。ヤンセンが、オランダ領東インド政府に仕えた最も優秀な官吏の一人であったことは疑う余地の無いところだ。――戦争勃発直前に、36歳の若さで東インド評議会の書記官代理に任命される。政府高官の職についてから日本語の勉強をはじめ、日本語ができることが幸いして、オランダ領東インドが崩壊後、日本軍のラジオ放送聴取部の仕事に就くことになる。したがってヤンセンは戦時の大半において、(相対的に)自由のきく状況下にいれた。1944年3月、インドネシア人と秘密連絡を取ったとの容疑で逮捕されて、憲兵隊の過酷な拷問を受け、それが原因で(そして医師の落ち度もあったらしい)、日本軍降伏の数日後に死去した。――

 ――オランダ植民地支配帝国の悲劇的な末期に対するL・F・ヤンセンの独自の見方を、日記から引用しながら紹介してみたい(ごく一部にすぎないが)――崩壊を嘆く諸氏には、ぜひとも一読を薦めたい本である。――

 「1942年12月8日。それにしても、日本人とインドネシア人とのあいだには、心の分かち合いがある・・・それはわれわれとインドネシア人とのあいだには存在しなかったし、これからも存在することのないものである」

 「1943年5月12日。スカルノとハッタの今日の人気は、二人をインドネシア人殉教者にしたオランダの政策のなすところだ。いわば、みずから蒔いた種。それゆえに、インドネシア人の前で、何かにつけスカルノをけなすのは、大変な間違いである。それはスカルノの地位を強化することになる」

 「1943年3月29日。ジャヤディニングラットは、オランダ人がこれほど保守的でなかったら、ことは全面的に違う展開を見せていただろうと言う」

 「1944年8月3日。『オランダの政策がインドネシア人にもう少し好感のもてるものだったら、われわれは、オランダ人といえども忠誠を尽くし、オランダ側について戦いもしただろう』とサイドは私に言っていたが、これは多くを語っている言葉と言える(中略)インドネシア人がわれわれに背いたのは不可避のことではあるが、オランダの保守的な統治政策にも多分に責任があった。ちなみに、アメリカ人のフィリピン統治政策はずっとよい成果を得ている

 「1943年5月27日。インドネシア人が“日本軍側に転じた”のは、われわれの、倫理にかなった“手ぬるい”政策のせいだとするオランダ人がいまだにいるのには驚く。日本人は鞭で追い立てたから、インドネシア人は日本側についたと言うのだが、しかしそれは誤りと言うもの、事実はまさしくその反対である。もっときびしい統治をしていたならば、われわれオランダ人に対する憎しみは、現在以上にずっと広く大衆に浸透していたにちがいない。インドネシア人をがむしゃらに投獄するようなことをしなかったら、現在のように、インドネシア人元被抑留者がこのように多くの憎しみを露にすることはなかったはずである」

 「1944年1月6日。ボルス会社の元従業員ディアスには(中略)東洋人のコンプレックスがある。西洋人の優越感誇示に深い恨みを抱き、西洋人をやっつけた日本人の威力に喜びを見出している。ディアスがオランダと日本のどちらにつくかは知らないが、(中略)彼ら東洋人にとっては選択するまでもないことと思える。オランダ人を支持することは絶対にあり得ない。(中略)東洋人がそのように考えるのは、彼らが信用できず恩知らずだからだ、とせずに、つりあいの取れた相互関係を築く指導力に欠けたわれわれの不手際な統治政策に責任があった、としなければなるまい。(中略)クライツとその取り巻き諸氏は、オランダ政権の復活後、コーニングスプレイン(国王広場)に絞首台をいっぱい並べると意気込んでいるが、それでは無罪の者を処刑することになろう。

 ファン・デル・プラスは“インドネシア人のクイズリング(売国奴)云々”とオーストラリアから叫びたてているが、身のほどを知らぬ言動と言うほかはない。ファン・デル・プラスは、オランダ政権に忠誠を尽くすという、現在社会には通用しない虚構にいまだにかじりついている。われわれ東インドのオランダ人は、インドネシア人に対してはいつまでも外国人のままでいたし、オランダ本国へも外国人として帰って行く

 「1944年4月7日。日本人のしくじりを、しめたとばかりにノートする。この行為は、やりそこなったのは日本人のせいであるから、自分たちオランダ人には責任なし、という責任逃れ以外の何ものでもない」

――1989年・記

 

沈思一千年の美49p

 日本軍がスマトラで着手した最大の計画は、いうまでもなくムアラ-パカンバル間の鉄道敷設である。中部スマトラの山岳、原生林、沼沢地帯を横断する全長220キロにわたるこの鉄道路線敷設工事は、連合軍捕虜700人とインドネシア人強制労働労務者一万人の生命、言い換えれば、敷設路線一キロあたり50人の生命を奪った。ところが、この悲惨な出来事を主題にしたH・ホーフィンハの「原生林を貫く死の鉄道路線」を読んだ者は理解しているところであるが、終戦の数日前に完成したこの鉄道路線上を、日本軍の降伏後、汽車が走ることはなかったのである。ホーフィンハから引用しよう。

 「鉄道路線などどこにも見あたらない。ということは、あのように甚大な犠牲をいたずらに払ったことになる。鉄橋は洪水で流され、何キロものレールがぬすみとられ、くず鉄として売られてしまい、その他の鉄片はスマトラ島の昼なお暗き原生林の、不気味に静まり返ったどす黒い沼地でゆっくりと腐食していく」

 ホーフィンハはまた、私が民間人抑留所の跡を訪ねた時に戸惑いとともに経験したのと同じで性格の、次の事象にふれている――土地の者たちは、鉄道敷設のエピソードなど誰一人覚えていないのだ。ホーフィンハはこうも言っている。

 「パカンバルに着いて早々、『日本軍占領時代に、戦争捕虜やインドネシア人労務者を動員して敷設した鉄道路線の話を聞いたことがありますか』と質問してみると、鉄道路線だって?そんなこと聞いたことも無い・・・とみな一様に肩をすくめる」

 そんなことがあるものだろうか。この場合はなお一掃当惑させられる――この鉄道路線敷設では大勢の犠牲者が出て、その大方はインドネシア人だったのだから。ある事実を受け継ぎ伝えていく伝承の機能は、インドネシア人にあってはどうなっているのか。また、伝承される事項の選択はどのようになされるのか。考えれば考えるほど、私にはわからなくなってくる。この劇的な出来事を体験した者の何人かはいまだ健在だと言うが、その人たちはこの話をすることもないのだろうか。――

 この種の物言わぬ証人には、スマトラ島岸では出会うことがなかった。――

――1980年・記

 

決まり文句と暗示67p

 (世の中には完全無欠の者はいない)ビンネルツの日記にも決まり文句の例が見られる。たとえば日本に関する次の一節だ。

 「1943年6月11日。日本人はおよそ背が低く不潔で黄色くて、曲がり脚の猿のごとき存在である。強烈に鼻をつく体臭がして、アルチス動物園の小猛獣の檻にたちこめる臭いを思い出させる。国人もこの種のジャングルまがいの臭いを発散させるが、こちらのほうがまだましだし、それほど強烈ではない」

 これは、世間一般の日本人感であって、屈辱感や怒りの表現としてはわからないこともないが、実際の観察にもとづいたものではない。というのは、日本人は黄色くないし、鼻をつく体臭もしない。多くのオランダ人とちがって(遺憾ながら、あえて言うならば、オランダ人は当時の東インド・植民地帝国でも体臭がしたし、いまもする)日本人は鼻をつく体臭は現在もしないし、当時の東インドでもしなかった――

 第二次世界大戦が勃発した時私は12歳だったが、いまだにはっきり覚えているのは、オランダ領東インドでは日本軍が東インドに足を踏み入れるずっと前から、曲がり脚の黄色い猿”という言い方が日本人を指す標準的な表現だったことだ。

――1988年・記

 

デリの大地(スマトラ東岸のメダンを中心とする広大な地方をデリと呼んでいる)99p

 私が男子抑留所に来てまだまもないころ、「あの背の低いずんぐりした男はX農園企業のPでね、何か自分の気に入らないことがあると、草取り女たちの後ろに束ねた髪をつかんで地面を引きずりまわしたり、時には彼女達自身の小便を飲ませたりする性癖がある男なんだ・・・それから、あそこにいる男はY農園企業のQでね、あの男はハーレまがいに女たちを抱えていて、大休日(各月の一日と十五日)には乱痴気騒ぎをするんだ、女たちといっても・・・いちばん年長が十六歳なんだよ」と言った話を教えられた。――

 この種の話を耳にしたのは、これがはじめてではなかった。私がヨーロッパ人子弟のための寄宿学校にいたときも、農園企業内でおこなわれているという虐待や性的遊興の話に尾ひれがついて囁かれていたし、自分の父親が現地人を鞭で打つのを見たと話す級友もいた。そのときは、そんな話を信じてよいものかわかりかねたが、男子抑留所ではじめて、この種の噂話は事実にもとづいたものであることがわかった。誰もが知っていて、かなりおおっぴらに口にしていたのだ。そして現地人を虐待するときのオランダ人の心理もわかってきた。それは一言で言えば「犠牲を出さずには何もできないさ」というものだった。これくらいのこと、何てことないさ、材木を割れば必ず木屑は出るものだ、卵を割らずにオムレツは焼けないからな、なまぬるいことでは何もできないさ、現地人にはそれしか効めがないのだ、等々である。また、こういった話はけっして部外者には漏らさないようになっていた。部外者は農園企業内の主従関係を知っているわけではないから、“間違った判断を下す”ということらしい。

 そういった話がされるたびに取り沙汰されたのは、“以前”はもっとずっと手荒いことをしたものだよ、という話だった。そのことに関して、人々が「デリの無言の群集」という本のことを口にするのを聞いたことがあった。これはJ・ファン・デン・プランツという人物が書いたもので、彼の名はスマトラ東岸ではいまだに人々の口の端にのぼる。――

 ――次に引用する断篇から、この本の内容の見当がつくだろう。

「地方行政監察官はある日突然、くだんの農園企業の、鉄格子のはまった小窓と、外側から頑丈な南京錠がかけられた戸のついた掘っ立て小屋の前に立った。自分の来訪を前もって告げないという、用心しての抜き打ち監査である。

 この小屋はこの農園企業の病棟だった。

 鉄格子窓から鼻をつく悪習が外に漂い、内部の数平方メートルの空間にジャワ人の男二人、女八人が臥しており、それから・・・死体がある。あとで判明したことだが、この死体は死後二十四時間ぐらいたったものだった。体を洗う場所もなければ飲み水もない、用を足す便所もない――病人は地面に用を足すと、手で少しばかりの土を掻き寄せて自分の排泄物にかけて、板壁の下の隙間から外に押し出している。喉が乾いてどうしょうもなくなると、自分でなんとか工面しなければならない――一日に一回支給される割当量の飯と干し魚の一部を、病棟を通りかかるクーリーに飲み水と交換してもらう。病人は十四日に一度キニーネの投薬を受ける。この病棟のこういった“医学的治療”の実態を、蛆のわくような不潔さのために死んでいく哀れな病人たちから、監査官は鉄格子窓越しに聞き出したのだった」

 更に調査を進めると、この農園企業のクーリーたちはひどい栄養失調をきたしていること、少なくとも十四日に一度は病棟回診の義務のある医師は、そんなことには無頓着だったことも判明した。「デリの無言の群集」からさらに引用しよう。

 「この殺人病棟から生きて出られるとは思いもしなかった病人たちは、ルプックパカン(スマトラ島東岸の、メダンの近くにある町)にある民間病舎に移され、その直後、病人の一人(ジャワ人女)がここで息を引きとったが、彼女は臨終の床で、真実を話すことを誓い、地方監査官の尋問に答えた。こうして、監査官がすでに現場で聞きだしていた、くだんの農園企業の“病棟”(本人の話では、ここに四十日間以上もいたという)における“治療”の全貌が再確認されることになった。その際、彼女は、『農園の大ボスが毎日鉄格子窓のところに来て、おまえらは死んだか、と興味津々に病人に呼びかけ、そうでないとわかると、あからさまに失望の意を表した』とも監査官に告げている」

 これらの記述をはじめて目にしたとき、私は暗澹たる思いがした。マデロン・ツェケイ・ルロフスの「ゴム」や「クーリー」のような作品中の描写や、私が抑留所で聞いた現地人虐待の話でさえ、「デリの無言の群衆」の前では色褪せて、実態のすべてではないという感じを抱かせる。かといって、この本に毅然と直面することは私にはどうしてもできなかった。そこで私は、この本を見てみないふりをすることにした。具体的にはどうしたかといえば、私も他の多くの人々が用いた言葉でこれを処理しようとしたのだ――“誇張しすぎだ”“例外中の例外”“偶発的な逸脱行為”、そして“ずっと昔にあったことだし”と。

 だが、ほんとうに昔のことだったかというと、そうではない。この本はアチェ戦争(1873~1904年。アチェは北スマトラの州で、1300年から1800年まではイスラム教君主国家だった。1904年オランダが征服した)のあったころのオランダ領東インドの事情を記述したものである。――つまり第二次世界大戦勃発時に生きていた者には、大戦の四十年ぐらい前(真実史観注・朝鮮日本統治開始の時代)という、比較的近い過去のことになる。――1942年の時点でもこの戦争は人びとの記憶にまだ生々しかった。

 したがって私の年齢では、そんなオランダ事情は知らなかったという言い逃れはできないにもかかわらず、「デリの無言の群衆」を引用する姿勢はとれなかった。――上部(秘密)組織を代表する面々(彼等はもちろん、この辺の真相には私などよりずっとよく精通していた)との紙上論争のなかでさえ、この本からの引用ははばかられた。上部組織の面々は口を割らなかったし、私もしなかった。よく考えてみれば、マデロン・ツェケイ・ルロフスをはじめとする他の者たち――ドゥ・ペロンでさえ――がとった姿勢というのもこの“言わざる”というものだったといえる。

 ――“誇張だ”“クーリーの作り話に根ざすもの”“例外中の例外”“個人的な逸脱行為”“外国人がしたこと”など――これらの言い訳は、たとえ偽りであろうともありがたく受け入れられ、うむを言わせず使われ、補足されていく。その人間が狡猾だから、あるいは共犯者だったから、そんな言い訳をしたのでは必ずしもなくて、ただたんに悪夢から解放されたいがためにしたのである。

 ファン・デン・プランツの著作などの出版により、スマトラ東岸における現地人虐待の件は、すでに二十世紀初頭に国会第二院でとりあげられたが、「質疑に立った議員が残虐行為について言及すると、担当大臣はそんな馬鹿なこと、と一笑に付した」(F・チヘルマンの『SDAP(社会民主主義労働党)とインドネシアに関する歴史的考察』)。しかし、その担当大臣が、“残虐行為”があったことを、それも、ファン・デン・プランツの記述を大幅に上まわる、もっとずっと戦慄すべき残虐行為があったことを百も承知していたことは、昨今ふたたび明るみに出された報告書によっていまや議論の余地のないところとなった。

 事の経緯を簡単に説明すれば、オランダ領東インド政府の指令により調査・作成されてあとになってもみ消された、スマトラ島東岸の事態に関する公式報告書が、ヤン・ブレーマン(エラスムス大学および社会学研究所教授)の尽力が功を奏して、つい最近ふたたび日の目を見ることとなり、ブレーマンの執筆による『二十世紀初頭におけるスマトラ東岸の大農園企業の労働管理について』と題する論文がつい先ごろ発表された。

 ここでいう公式報告書とは、レムレフ報告書として知られているもので、バタヴィア(現ジャカルタ)のオランダ領東インド評議会の検察官J・T・L・レムレフの名前からとったものだ。1903年五月二十四日、レムレフはオランダ領東インド総督W・ローゼボームから、「J・ファン・デン・プランツが『デリの無言の群集』と題する小冊子で指摘している、スマトラ東岸の大農園企業で働くクーリー等の虐待と不法投獄の件、および裁判所の裁判権行使における恣意的なることの件」に関して行政調査をせよという指令をうける。その際、罰すべき事実は刑事裁判にかけよという補充指令を検察長官からうける。その一ヵ月後にレムレフはメダン入りして調査を開始、1904年のはじめに調査報告書は総督に渡され、総督はほぼ即時にこれをオランダ本国に送った。

 J・ブレーマンの著書から引用しよう。

 「1904年秋のオランダ本国国会におけるオランダ領東インドの予算審議の際、植民地相は、レムレフ報告書は何が何でも公にはしない意向であることを明らかにした。国会議員がうちうちにさえこれに目を通すことを拒否した植民地相の表向きの論拠は、『犯罪およびとがめられるべき行為の罪を問われた者たちは、それに対して自己弁護する機会が与えられなかった。また、報告書を公表しても、実際には何ら益するところがない。すでに起きてしまったことをどうのこうのと論じるよりも、新に打ち出した改善策に全関心を向けるべきだと判断する』というものだった」

 この植民地相というのは反革命党のA・W・F・イデンブルフで、自身1909年から1916年までオランダ領東インド総督の地位に就くことになる。野党から執拗に回答を迫られたイデンブルフは、国会でレムレフ報告書からいくばくかの結論を引用した。J・ブレーマンから引用しよう。

 「――『――立証されたデリにおけるクーリー虐待の実態に終止符を打つべく対策を講じるとする植民地相の公約を賛意と共に認知する』という動議に同意し折り合うことになった」

 ――この公約はほとんど果されなかったことは言うまでもない。――1929年以後になってはじめて、“徐々に”廃止の方向に向かった――それもオランダ領東インド政府の指令によってではなく、デリのタバコ葉生産が事実上の奴隷制度によってなされているかぎり、デリのタバコ葉の輸入を禁止する、とアメリカから脅しがかかったからだ。――

 レムレフ報告書は耐えがたい文献である。――

 当時にかぎらず現在もなお、クーリー虐待問題が討論されるたびに偽善者が活躍することになるのだが、この道で大きな業績を残したもの(つまり大いなる偽善者)として、私が何度か議論したことのあるウィレム・ブランツがあげられよう。戦前に長いこと「デリ新聞」の編集長をしていたという事実だけをとっても、ブランツは、オランダ統治時代のデリでなされた残虐行為の数々を誰よりもよく承知していたにちがいないと私は確信する(この「デリ新聞」というのは、1926年に「すべてのインドネシア民族主義者は、裁判にかけるまでもなく銃殺に処するべきだ」と論じた新聞である。これに抗議したのがチャーリツ・サリムで、そのために彼はボーフェン・ディグル抑留所で15年間の流刑に処されることになる。この事情に言及したサリムの著作ボーフェン・ディグルの15年間を、私は何度かとりあげている)。そのうえウィレム・ブランツは私と同じ男子抑留所にいたのだから、私がそこで聞いた話は彼の耳にも入っていただろうことは容易に想像できる――

 さらに、ブランツの手になる「デリの大地」と題するスマトラ東岸史がある。この本の執筆に際して、彼はいくつかの文献に目を通したと思うが、そうした過程で、クーリー虐待問題を扱ったファン・デン・プランツ、チェゥドノブスキー(フランス人マラヤ群島における医療事情に関する寄稿文。パリ1899の著者)らの著作に出会わなかったということはあり得ないはずだ――

 にもかかわらず、「デリの大地」のなかでクーリー虐待の件には一言もふれていないという意気地のなさだ。そして作品全体が“威勢よい喉声”調(作家ドゥ・ペロンが用いた表現)で書かれており、“働き者たち”(ドゥ・ペロンが用いた表現で、楽な生活をしているオランダ人たちを皮肉っている)への頌歌(しょうか)となっている。――

 ――レムレフ報告書は、残念ながらこれとはまったくべつのデリのオランダ人像を映しだしている。レムレフ報告書から引用しよう。

 「私が現地人ボーヒンの妻である契約下女アチナを審問したのは、七月二十九日のことだったが、その約二ヶ月前に、農園企業従業員のムーンス(オランダ人)は、集めた蚕の数が少なすぎるという理由でアチナの背中を籐の鞭で数回打ってから、土足で腰を蹴りつけた(そのときアチナは八ヶ月の身重だった)」

 蹴られたアチナは腰と腹部に強烈な痛みを覚え、気分が悪くなり身動きもできなくなった。これを見たアチナの夫が、すぐさま抱き上げて、布に抱きかかえてこの農園企業内のジャワ人用仮棟に運んでいった。家に着いたとき、お腹の赤子は激しく動いた・・・それから四日後にもう一度動いたが、それ以来、アチナは自分の体内に命の気配を感じることがなくなった。そして、虐待を受けた日から十五日目に、事切れた赤子を出産する。赤子の頭部左側は凹んでいて、左の目は見あたらなかった――

 こんな話もある。デリ総合商社のマリエンダル農園のチツロパウィロという名のクーリーが、前夜死んだ自分の子供を埋葬したいと願い出たところ、農園企業支配人インゲルマンは彼に平手打ちや拳骨を見舞って仕事に行けと言いわたした。仕事を終えて家に帰ってきたチツロパウィロは(レムレフから引用)、「彼の正妻ケメンから、インゲルマン旦那の庭師が、旦那の命令にしたがって何らの儀式もなく子供を葬ったと聞かされる」。インゲルマン支配人はこの処置について、次のように説明をしている――子供が死亡したことは、「チツロパウィロが仕事を休む理由にならない、と」。考えても見たまえ、そんなことを許していたら、かぎりがないことになろう。レムレフ報告書のここかしこに、農園支配人は正式な手続きを踏まないでしたい埋葬をさせているという記述が見られる。ファン・デン・ブランツがすでに指摘しているように、クーリーたちがごくあたりまえに殴り殺されていたという事実を知っていれば、このような死体埋葬のやり方が暗示するところは明白である。――

 ――報告書から引用しよう。

 「(それと)時を同じくして、J・F・ペーテルセンという名の農園企業管理人は、材木運搬をする中国人クーリーのホ・ア・チッツ、チン・クアン・コン、フォン・ア・シーの三人が、川越の際に水が飲みたいと願い出たところ、『それぞれの弁髪で結びつけて、三人ひとからげにして水中に浸すよう』自分の現場監督に命じ、現場監督はその命令にしたがって中国人の頭を水中に押さえつけた・・・そして彼らが浮かび上がってきて飲み込んだ水を吐き出すと、またその頭を水中に押さえつけるということをくりかえした」

 オランダ人農園従業員D・ヨンゲンスは、「ジャワ人(女)のチェムプとサニを(中略)裸にしてから地面に腹ばいにさせ、その剥きだしの尻を革のベルトで何回か激しく打ちつけたので、そこが蚯蚓腫れで覆われた。それから自分の家政婦に命じて、二人の顔、乳房、陰部に細かく細かく磨り潰した唐辛子を擦りつけさせてから、自分の高床式住まいの下杭に二人を縛りつけた・・・それも、体が二本の柱のあいだで大の字になるように、右足と右腕を一本の柱に、左足と左腕をもう一本の柱に縛りつけたのだった」

 「かれこれ六ヶ月も前のことになるが、ある朝、ジャワ人クーリーのカミソは、セイント・シルから農園企業本館へ行く途中にある、建築中の物置小屋近くに連れて行かれた。そこで、この農園企業のオランダ人従業員は、自分の馬の手綱にカミソの両手をくくりつけてから馬にまたがり、速歩で行く馬のかたわらを、徒歩で約一時間はかかるジャワ人用仮棟まで縛られたままのカミソを引きずっていった」 3につづく⇒
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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
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