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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観バターン死の行進棄軍マッカーサーと救民本間雅晴と夫人本間富士子


バターン死の行進棄軍マッカーサーと救民本間雅晴と夫人本間富士子

バターン半島死の行進
 
本間雅晴中将率いる日本軍が、南北よりマニラ進撃すると、
アメリカフィリピン軍司令官ダグラス・マッカーサー大将はマニラの非武装都市宣言し、バターン半島とコレヒドール要塞に立て篭った。1月から4月9日まで3ヶ月半、3万人の日本軍がまずバターン半島を包囲し戦った。食料、医薬品等の補給がすでに途絶えており、降伏したときには多くの人が負傷したり、飢えとマラリア、赤痢等の悪病のために、痩せ衰えていた。アメリカフィリピン軍捕虜八万、ほかに避難民が約二万六千人、計十万六千人を速やかに後方へ輸送する必要が生じたのだ。(注・捕虜と避難民の人数は原書房「日本の戦争 図解とデータ」による)

 しかし、コレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態で、移動手段は徒歩しかなかった。しかも、まだ戦闘は終わっていない、コレヒドール島にはまだ敵がおり戦闘中なのだ。捕虜のほとんどは栄養失調か、あるいはマラリア、赤痢の病人たちだ。食料や医薬品は前線では限界があり、長びけば共倒れとなる。至急の移送が要求された。留まれば確実に死、移動も死であった。

 確実に死ではなく、徒歩移動を決断した。捕虜は第一線から徒歩で途中汽車に乗り、サンフェルナンド収容所へ送られた。1日10kmから15km。88kmを7日から11日かけて歩いた。日本の兵隊が一人で二百人も三百人もの米兵を護送する。中には一人で五百人も米兵を引率してゆく。圧倒的多数の捕虜に襲われたら一溜まりも無い、日本兵の恐怖も、計り知れないものがあっただろう。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に対し、背嚢を背負い銃をかついで歩いた。病の重い捕虜は、道中で倒れた。マラリア患者が大部分だった。日本兵も倒れた。

 
弱り果て倒れた捕虜の数は、2300人。輸送中の捕虜7000人が死んだ。
フィリピン人約10000人、アメリカ人約1200人が路上で死亡。アメリカ兵1200人、フィリピン兵16000人の死亡。アメリカ兵1500人、フィリピン兵29000人の死亡。バターンの捕虜移動後製作された、米反日プロパガンダポスターの記述、米捕虜5200人フィリピンで日軍による肉体的な苦痛によって殺害、残酷な「死の行進」。死亡者の数が定まらない。避難民や逃亡兵を死亡者として計算したからだろう。避難民約二万六千人は捕虜では無いので、収容所には行かない。プロパガンダでさえ5200人なのだ、2300人が正解ではないか。

 4月12日、コレヒドール島で戦況を見守っていた
マッカーサー司令官は、ルーズベルト大統領の命を受けて妻子と魚雷艇でコレヒドール島を脱出した。ミンダナオ島からは爆撃機でオーストラリアに向かった。ダーウィンに到着後の記者会見で、「I shall return(わたしはまた帰る)」と述べた。

 5月6日コレヒドール島も陥落して、ここに
フィリピン攻略作戦は完了した。
 本間雅晴中将が捕虜虐待戦犯として、銃殺される事になった顛末の真相である。戦時下なので捕虜にせず、包囲したままで、餓死させればよかったのか。他にどんな手段があったというのだ。民間人を巻き込み籠城し、病気にかからせ、瀕死にして、妻子と共に逃亡した
マッカーサー司令官に罪は無いのか。

 「バターン死の行進は 
実に極悪な残虐である」日本人の子孫と称する愚かな輩の、先人を罵倒する意見がある。戦闘中の捕虜移送なのだ、本間雅晴中将はその限られた選択肢の中から最良の選択をし、決断しただけにすぎない。日本軍3万人に対して、コレヒドール島で元気な兵は戦闘中、病人の10万6千人だけが降伏したことが悲劇の原因だ。本間雅晴中将は最善を尽くした。子孫と称する愚かな輩より、敵国米国の弁護人の方が、是々非々で正論だ。

 マニラ軍事裁判の日本の弁護人、
アメリカフランク・リール弁護人は次のように述べている。「祖国を愛するいかなるアメリカ
人も消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさ無しには、この裁判記録を読むことはできない・・・。われわは不正であり、偽善的であり、復讐的であった」

マニラに向かう前の夫人の会見を伝えた新聞記事
 「主人の命乞いに行くのだというような気持ちは、毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、真実の本問を全世界の人々に一人でも多く知っていただきたいのです…裁判の結果などはいまから念頭にありません」

  
「私の責任の重大さは十分認識しています。衆人環視の法廷に立って少しでも気怯れがして言うべきことも言えなかったりしてはなりません。日本の家庭婦人としての面目を少しでも傷つけるようなことがあったら日本の皆様に本当に中し訳ないことだと思います。日本の女として初めて世界の視線に立つだけの覚悟は十分致して参るつもりでおります」(昭和二十一年一月十二日付朝日新聞)

 昭和二十一年(一九四六)二月七日、元
フィリピン派遣軍総司令官・本間雅晴中将を戦犯として裁く、マニラ軍事法廷で、弁護人側証人出廷最終日であった。被告の妻・本間富士子(当時四十二歳)は証言の終わりに、

「私は東京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘がひとりおります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり合い、結婚することを心から願っております。本間雅晴はそのような人でございます」

この言葉が伝えられると、法廷のあちこちからすすり泣きの声があがり、米軍検察官の中にも感動のあまり涙を拭う者がいた。そして本間雅晴自身も、妻の自分に対する絶対的な尊敬と愛の言葉に接し、ハンカチを顔にあて嗚咽した。

 終戦直後のマニラは、日本人とみれば罵声が浴びせられ、石が飛んでくるほど、反日感情が充満していた。しかし、夫人の証言を聞いた
フィリピン人たちまでもが、証言を終えた彼女に争って握手を求めた。翌日のマニラ・タイムスをはじめとする地元紙も、彼女に対する好意に満ちた記事をこぞって掲載した。

 
マッカーサーと面会した後日、富士子夫人はこの日マッカーサーと会ったことについて、「本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」
(『いっさい夢にござ候』角田房子著 中央公論社)

 本間雅晴中将、山下泰文
大将
、共に処刑された。

甦れ美しい日本・. 塚本三郎「国歌を歌ってお別れを…」


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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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