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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観特攻隊員と上野歌子先生とフッペルのピアノと鳥栖


1特攻隊員と上野歌子先生とフッペルのピアノと鳥栖

 1930年(昭和5年)鳥栖(とす)町(現在の佐賀県鳥栖市)の婦人会が、「こどもたちにいい音楽を、本物のいい音を聴かせよう」と、寄付金4500円(1億円相当)を集め、ドイツから、最高級のグランドピアノを取り寄せ、鳥栖国民学校(現鳥栖小学校)に寄付した。鳥栖小学校の音楽主任教師の陶山聡先生が選定したピアノは、当時日本に2台しかないドイツ・フッペル社のグランドピアノ、鍵盤は象牙製であった。街じゅうで歓迎した。

 

 1945年5月(終戦8月15日)二人の特攻隊員が10キロを歩き、佐賀県鳥栖国民学校(現鳥栖小学校)を訪れた。応対したのは19歳、音楽教師の上野歌子先生、ドイツの名器・フッペルのピアノ。このピアノの係上野先生は、空襲警報が鳴るたび、深夜でも学校に駆けつけ、近くの川からバケツで水を汲み上げ、貴重なピアノを、これまで火から守ってきた。

 

 自分たちは、上野音楽学校(現・芸術大)ピアノ科出身の学徒出陣兵です。明日、特攻出撃することになりましたが、学校を出て今日まで、演奏会でピアノを弾く機会がありませんでした、今日思いきりピアノを弾いて、明日死にたい、二人だけの演奏会を開きたいのです。
 居合わせた生徒と先生を前にして、初めてで最後の演奏会が開かれた。

 

 二人はベートーベンのピアノソナタ第14番「月光」、「海ゆかば」などを、心ゆくまで弾いた。帰り際二人の少尉は、「この戦争はいつかは終わります。しかし、今自分達が死ななければ、この国を君たちに残すことはできません」といって、子供たちの頭をなで、満足の微笑みをたたえながら去って行った。

 

 子供たちや先生は皆泣き、「海ゆかば」を共に歌い、敬礼して見送った。翌日、二機の戦闘機が小学校の上空を旋回し、翼を振り、沖縄戦へ飛び立った。

 

 俺は生きたい、そう願った兵が死に。死を願った兵はエンジン不調で生き残った。

 

 1989年(平成1年)時は流れた。終戦44年後、フッペルがいつしかほこりにまみれ、体育館の隅の古びたピアノに変り、廃棄処分となるとき、上野先生は、「廃棄されるくらいなら、私の手元に置きたい」と願い出て、ピアノと二人の特攻隊員の思い出を、鳥栖小学校の全校朝会で語った。戦後の洗脳教育極悪日本で、44年間も封印されていた話を、堰を切ったように上野先生は一気に語ったのだ。古びたピアノフッペルが、今わの際に、上野先生をうながしたのだろう。

 

 1990年(平成2年)5月27日深夜、九州朝日放送ラジオスペシャル『ピアノは知っている―あの遠い夏の日―』がオンエアされるや否や、この番組は、各地に大きな反響を巻き起こした。この番組を聴いていた福岡や佐賀のタクシー運転手たちは、涙で前方が霞み、車を止めて、「よかラジオがありよるばい!」と無線で報せあい、じっと聴いていました。おかげでその1時間は、タクシーがなかなかつかまらなかったと言う逸話が残っている。

 

 1990年(平成2年)フッペルのピアノは国民の皆さんの応援で、調律・修理され「平和の願いの証し」として蘇える。

 

 1990年(平成2年)45年後、鳥栖小の体育館で生残りの特攻兵と上野先生との再会。・・・・「私は生き残ってしまいました」・・・・「よう生きとってくださいました」。迎える蘇ったフッペルのピアノ。そして、45年を経てかなでられしベートーベンのピアノソナタ第14番「月光」。♪♪~・・・・・

 

 1992年(平成4年)上野歌子先生、ピアノの思い出講演の旅先、宮崎で逝去。行年66歳。

 

 1993年(平成5年)フッペルのピアノは、知覧(鹿児島県)特攻平和記念会館のロビーに置かれる。

 

 1995年(平成7年)よりフッペルのピアノは鳥栖駅の東、鳥栖スタジアムのすぐ隣にある「サンメッセ」(多目的施設)の一階(ふれあい広場)に、置かれている。

 1995年(平成7年)9月2日「第1回鳥栖こどもピアノコンクール」開催!

 2002年(平成14年)特攻兵逝去。

 

 当時居合わせたこどもたちや先生、歌子先生、二人の特攻兵を偲び、多くの人が訪れて、フッペルのピアノを奏でている。

 魂を込めて奏でれば、いつしか皆が、彷彿としてよみがえるという、ふるきピアノ、フッペル。♪♪~・・・・・

 

 月光を 弾きて往きたる特攻の 思い 語るか 古き ピアノよ (上野歌子 詠)

 


参考資料
「フッペルのピアノ」の歴史 「月光の夏」毛利恒之著・汐文社

 

2映画『月光の夏』はWGIPNHK史観の虚構物語新映像化がベスト

『月光の夏』映画と小説の顛末と真実

DVD検索「月光の夏」を探す(楽天)より転載

映画のあらすじ※受け狙いの脚色

 終戦から45年ほど経過したある日、佐賀県の鳥栖小学校を退任していた吉岡公子先生は、体育館の片隅で埃を被っていた古いグランドピアノが廃棄処分されると聞き、思い出深いピアノを引き取らせて欲しいと頼む。

 終戦間際の昭和20年6月、吉岡先生は当時高価だったピアノの担当をしていたが、最期の名残にピアノを弾かせて欲しいと二人の特攻隊員が訪れ、このピアノを弾いたというのだ。一人は上野の音楽学校のピアノ科専攻で、ベートーベンの「月光」を弾き、もう一人は熊本師範で音楽教師を目指している青年だった。 5km離れた目達原基地から線路を走ってやってきた特攻隊員の最期の演奏を聴いた吉岡先生は、生けてあった花を二人に手向ける。その後、特攻隊員が再び訪れることはなかったが、この話しを聞いた校長先生は全校生徒に講演することを勧める。

 この逸話は瞬く間に広がり、テレビ等でのドキュメンタリー番組として取り上げられるが、放送を見た人々から様々な反響がある。廃棄処分されることとなっていたピアノは修理して保存しようという運動となり、二人の特攻隊員の消息の情報も入り始める。自らも特攻隊員だったという老人結城は、特繰1期の隊員ではないかと推理し、隊員名簿から音楽専攻の出身者を捜したところ、熊本県に生存している風間森介さんではないかと情報提供する。すぐさま九州日報の記者が電話連絡を入れるも、本人は全く覚えていないと答える。このことが記事となり、実は吉岡先生の体験談は嘘ではないかとの憶測すら出始める。

 不信感を抱いた地元ラジオ局の記者石田りえは、ドキュメンタリー作家の三池安文の協力を得て取材を進めるが、風間は堅く口を閉ざしたままだった。三池は吉岡先生を連れて知覧特攻会館を訪れ、そこでピアノを弾いた隊員が海野光彦少尉であることを確認する。また、特攻から引き返してきた隊員が福岡の第6航空群司令部にある「振武寮」に集められていたことを突き止める。大牟田に在住の石倉氏から振武寮について話しを聞き出したところ、外部との接触も一切認められず、臆病者として4,50人が厳しい監視下に置かれていたことが判明する。三池の従兄弟もまた特攻帰りとして不遇の戦後を送っており、三池自身他人事ではなかったのだ。

 ついに風間が口を開く。風間少尉は知覧に転身した後、久本啓之中尉(22)を隊長に、海野少尉(22)、木場周一伍長(17)、新藤武志伍長(18)、中島秋男伍長(17)の6機で特攻に出撃するも、エンジントラブルで単機引き返した。再出撃もなく福岡の司令部に出頭を命じられるが、そこで待っていたのは矢ケ島作戦参謀少佐の痛烈な皮肉と侮辱だった。臆病者として振武寮で精神の涵養を命じられ、外部との接触を一切禁じられた。振武寮には、再起をかけ同様に引き返してきた隊員がおり、中には侮辱した作戦参謀の部屋に特攻をかけようというものまでいたというのだ。

 風間は妻を連れて吉岡先生の待つ小学校へ赴く。風間の妻は海野少尉の妹だった。吉岡先生とピアノに再会した風間は、ベートーベンの月光を弾くのだった。

 

振武寮の真実

 日本ネチズンは大多数が覚醒し、原作「月光の夏」 毛利恒之著・汐文社は、NHK(WGIP)捏造史観に気付いた。

あまりにも事実と異なる脚色に反論した労作HPで、正論である

振武寮の虚構 06.6.8/07.1.17より転載

振武寮の虚構 06.6.8/07.1.17

 先日、特攻を研究テーマとされている日本史専攻の大学院生加藤拓さんから、「振武寮」に関する研究ノートを送っていただきました。

 振武寮は、第6航空軍司令部が不時着生還した特攻隊員を収容するために、接収した女学校内に設置したとされる宿舎です。

 振武寮に関しては公的記録が皆無であるため、数少ない市販出版物に頼るほかありません。加藤さんのノートは、振武寮に触れているいくつかの出版物の記述を、客観的に比較検証したものです。

 私自身は、振武寮については今まで特段の関心はなく、ほとんど知識もありませんでしたが、この機会に手元の資料に改めて目を通し、頭に閃いたことを書き出してみたいと思います(但し、加藤さんのノートの内容に対する論評ではありません)。

1.生還は想定外だったか

 特攻の町・知覧―最前線基地を彩った日本人の生と死では、倉沢元参謀の言から

<当時の六航軍は特攻隊員が目的を果たさずに生きて帰ってくるなどとは考えていなかったため、次々と帰ってくる死んだはずの特攻隊員をいったいどのように処理したらいいのか分からなかったそうである>
と書いていますが、これは違います。

 ぶっつけ本番の特攻であった捷号作戦(比島)とは違い、天号作戦(沖縄)では周到な準備がなされていたと思います。また沖縄までは非常に遠いため、天候に大きく左右されることも必然であり、出撃後の帰還や途中不時着は想定されていました。
 隊員は不時着時用の食糧も携行し、教育の中でも無理をせず帰ってくるように指導されていたはずです。もしそうでなかったのなら、彼らの多くは自爆して帰らなかったに違いありません。

2.滞在期間

 これは核心に迫る極めて重要な点なのですが、振武寮について記述した出版物らは、何故か何故か滞在期間には触れていません。彼らが、あたかも長期に渡る監禁生活を強いられたように思わせたいのでしょうか。

 「振武隊編成表」によると、上記出版物に登場する22振武隊の大貫少尉、39振武隊の牧少尉らが重爆で喜界島から福岡に帰還したのが5月28日で、この直後に彼らは振武寮に入ったと考えられますが、付属文書である「振武隊異動通報第2號」を見ると、6月13付で、大貫少尉ら振武寮に宿泊していた在福岡人員45名(全員が喜界島からの帰還者)が明野教導飛行師団をはじめ、いくつかの戦隊等に転属しております。

 また、65振武隊片山少尉は5月14日に知覧から飛行機受領のため福岡に戻り、当初はしばらく旅館に宿泊していたが、その後振武寮に移ったということです。移ったのが何日のことなのか定かではありませんが、片山少尉は、異動通報第6號によれば、6月1日付で明野教導飛行師団に転属しています。
 更に6月13日~19日に福岡に着いた23名は、同22日~25日に上記同様転属となっています。つまり、帰還隊員たちが振武寮に滞在した期間は、そのほとんどが約1週間~2週間、最短は3日程度でしかないのです。

3.機密保持

 第6航空軍司令部は特攻隊員用の宿舎として、当初は借り上げた旅館を使っていたそうです。このようなことは珍しくはありませんが、帰還隊員の宿泊者が増えてくると町中の旅館では不都合が生じるのは当然です。

 今日ではピンと来ないかもしれませんが、最大の不都合は機密保持であったと思われます。また軍隊としては当然のことですが、旅館では軍紀の維持もままならなかったと考えられます。

 振武寮での滞在中、外出や外部との通信が制限されたことが、後記『特攻日誌』の「監禁」という誇張した表現になっているのですが、隊員たちは帰還したといっても、未だ作戦自体は進行中であり、機密保持が優先されるのは当然であります。もしも帰還隊員全てが家族等と連絡をとれば、そこから作戦の帰趨等の機密が漏れる可能性は十分に考えられます。

 『特攻の町知覧』では、にもかかわらず女学生の慰問が行われたのを「謎」と書いていますが、これはおそらく、隊員たちに息抜きをさせるために司令部が依頼したもので、何も不思議ではありません。

4.志願か命令か

 特攻が志願であったか命令による強制であったのかは、戦後ずっと議論がありますが、これはどちらも正しいと思います。軍という組織の中では、真の意味の任意はあり得ないからです。

 特攻志願書の提出というのは、あくまでも儀礼的形式(命を捨てる覚悟の武人に死を命ずるのは礼に反する→自発的志願を促す)でしかないことは、軍人ならば皆承知していたはずです。人選に際して最も考慮されたのは技倆や経歴であって、「熱望」も「希望せず」も、現実にはほとんど無関係であっただろうと想像します。

 このことが問題になったのは、敗戦の結果、特攻隊員たちが無駄死ではなかったのか?という疑念と非人道的作戦遂行に対する責任問題が生じた故で、大東亜戦時の将兵たちの実感としては、形式的志願でも命令でも結果が変わるわけではなく、おそらくどちらでもよいことではなかったでしょうか。
 選に漏れたことに憤り、戦隊長に直談判した結果、念願叶って特攻隊員となった者もおりますし、特攻隊でないにも拘わらず、進んで体当りを敢行した勇士も存在するのです。

5.参謀の言動

 第6航空軍上層部の言動は、特攻隊員に限らず反感を買っていたようです。244戦隊の小林戦隊長も知覧における5月31日の日誌で菅原司令官らについて

(前略)○○司令官ノ名高何ゾ値ス。零点ナリ。(中略)必成必勝ノ成算果シテ彼等、縄吊リ将校ニアリヤ。不惜身命惜身命ノ大悟、果シテ彼等ニアリヤ。彼等ハ皇国ヲ毒スルモノナリ(後略)>
とまで批判しています。

 彼らは、帰還隊員たちに対しても非情あるいは侮辱的な言動をなしていたと証言されています。しかし出版物に登場する僅かな証言者は、皆将校なのです。帰還者の半数は下士官でしたが、彼らがどう感じていたのかは書かれていません。

 天皇から任命を受けた皇軍将校に類する存在が今日では見あたらないので理解し難いかもしれませんが、そのプライドは今では想像もつかないほどです。
 振武寮では、全員が写経や軍人勅諭を書かされたといわれています。これなども、その目的はともかく、将校のプライドからは受け入れ難いことなのだろうと推察されます。
 つまり、同じ言葉、同じ処遇でも、将校と下士官とでは受け止め方に大差があるはずで、証言者が参謀らの言動から受けた屈辱感が、特攻隊員として普遍のものなのか、あるいは将校という立場故なのか、数少ない証言だけでは明確でありません。

6.私なりの結論

『特攻日誌』のあとがきでは編者が

<彼らは福岡の軍司令部に申告に行き、代機を受領しようとした。菅原軍司令官は、「貴様達は何故死んでこなかったか、卑怯者!」と罵倒し、ご苦労であったとねぎらいの言葉もかけず、福岡女学院の寄宿舎だった振武寮に彼らを収容した。
 生き神さまと崇めた特攻隊員が帰還してはならなかったのである。それが世間に知れることを恐れて、全員を振武寮に監禁し、朝から軍人勅諭と戦陣訓を書かせて、精神改造を迫ったというのだ>

 と記していますが、帰還隊員の存在が「世間に知れることを恐れ」「振武寮に監禁」「精神改造」…何れも首を傾げざるを得ません。

 この記述の中に、「代機を受領」とありますが、既に沖縄作戦は終わりに近付いており、飛行機の準備も隊の再編成も訓練も間に合わず、もし隊員たちが望んだとしても、再出撃は当面あり得ない状況でした。だからこそ6航軍は多くの隊員を転属させ、指揮下から外しているのです(但し、6航軍指揮下のまま知覧等に戻された者もいたが、これはごく一部)。

 彼らが振武寮に滞在したのは前述のように極めて短期間です。また、その間に外出や通信が制限されることも、作戦中の軍隊ですから当然の処置と思われます。隊員たちは帰還したとはいっても、まだ任務を解かれたわけではないのですから、「監禁」「幽閉」などの表現は全く的はずれです。

 振武寮の話は、このあとがきのように、そこでの哀れな特攻隊員たちと「高圧的非情な参謀」との絵に描いたような対比の構図が、「皇軍の非人間性」を誇張し糾弾したい著者たちの思惑に合致した、魅力的なエピソードだったのだと思います。

 操縦は(勿論、軍人としても)経験が全てであり、実戦を経験し死線を越えた帰還隊員たちは、深刻なパイロット不足の中で、邪魔者どころかむしろ戦力として有用な存在でしょう。一日も早く心身を回復させ、彼らを再度空中勤務に復帰させるのが、第6航空軍の本旨であったはずなのです。2につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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