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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々犯日隠蔽の歴史


犯日団が隠蔽する歴史頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏大アジア主義に殉じた人々

年表・開国~開戦(戦国時代と凶産が敵)

日清日露大東亜戦争は、唯物(凶産・食民治主義)対唯心の戦いで、WW1WW2は唯物対唯物の戦いである。日中戦争では無い凶産党と戦った反凶戦争だ

米軍と凶産と朝鮮と罪日に捏造された大東亜戦争

 孫文主義は、日本や華僑に支持された。王貞治の父は華僑、母は日本人。王の父が蒋介石の台湾国籍とし、王も台湾国籍とする理由はここにあった。しかし、孫文後継は汪兆銘で、孫文が忌み嫌った西洋覇道の鷹犬は、蒋介石や毛沢東と明解に紐解かれた今、拘泥の理由は消えた。華僑も凶産プロパガンダやWGIPの犠牲者である。

頭山満(1855年~1944年行年89歳)

 言論家、国家主義運動家、篤志家、実業家。

 中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボースら、日本に亡命した革命運動家に援助を行ない、アジア各国に多くの人脈を築き上げた。

 西郷隆盛を尊敬し、西郷の言葉「敬天愛人」が座右の銘。

 1881年自由民権運動を目的とした結社、玄洋社を結成した。福岡市博多区千代の玄洋社墓地にある先亡霊塔には「殺身成仁(身を殺して仁をなす)」と、頭山の文字が刻まれている。

語録

 「ひとりでいても淋(さび)しくない人間になれ」。「有名な者は他の人が助ける。無名だからこそ自分が助ける」。

 

宮崎滔天(とうてん)(1870~1922行年52歳)

 熊本県玉名郡荒尾村(現・荒尾市)の素封家・宮崎家の政賢の8人の子供の4男として生まれる。本名は宮崎虎蔵。肥後荒尾は民権家を輩出した地であり、その影響を受けた。

 滔天は15歳で、自由民権思想の影響を受け徳富蘇峰主宰の大江義塾に入る。後、同人社、東京専門学校(現早稲田大学)、熊本英学校、長崎のミッション=スクール「カブリ校」などで学び多彩な遍歴をもつ。

 そんな滔天に援助の手を差し伸べたのが、後に首相になった犬養毅であった。1897年滔天27歳の時、犬養の斡旋により立憲改進党の外務大臣であった大隈重信に面会し、中国事情視察のため外務省機密費の支給を得て中国に渡航する。滔天は、香港、マカオなどをまわり、中国の革命派の人々を訪問するうちに孫文の存在と彼が東京に居住していることを知る。1896(明治29)年、兄・彌蔵が横浜で没した後、彌蔵の同志であった陳少白を通じて寅蔵は中国の革命家、孫文と初対面を果たすことになる。

 1897(明治30)年、横浜で孫文と知り合い、その革命運動を応援するようになる。滔天が孫文と初めて出会った時の情景が次のように伝えられている。概要「革命家と言うからにはさぞや大陸風の豪傑らしい男が出てくるものと思っていたところ、洋風の紳士然とした華奢(きゃしゃ)な小男が出て来たので拍子抜けしてしまった。が、ひとたびその話を聞いてみると、孫文の革命にかけた情熱、気迫に圧倒され、スケールの大きさにさしもの滔天も驚いてしまった」。

 滔天は、孫文の「中国の革命は、欧米列強の植民地になっているアジアの解放につながる」、「四億の民を救い、アジア人の屈辱をそそぎ、世界の人道を回復するには、まずわが国の革命を成就させなければならない」との、思想に傾倒し、熱烈な支援者になっていった。この初対面以降、日本人同志として孫文に革命の夢をたくし、生涯を革命にかけることになる。

 この頃、頭山満(とうやまみつる)も孫文と初めて会っている。会談の場所なども伝わっていないが、頭山は後にこう語っている。「救国愛民の革命の志は熱烈なものであった。かれは天下の財を集めて、これを天下に散ずるすぐれた能力のある人物であった。自分は四百余州(中国の意味)を統治しうる英雄と信じた」(葦津珍彦著「大アジア主義と頭山満)

 頭山の「大アジア主義」が滔天の「革命的アジア主義」と結びつき、頭山、滔天、孫文、による「大アジア主義」が完成したようだ。そして孫文の(「大アジア主義」1924年12月28日の講演となった。 

 1922(大正11).12.6日、東京で病没(享年52歳)。滔天が死んだ二日後、孫文から次のような電報が届いた。「トウテンメイケイ(盟兄)ノシヲカナシム ソンイツセン」。

 

松井石根(いわね)(1878.~1948行年70歳)

 松井石根は士族の六男で、12歳の時に名古屋から上京し、軍人養成のための全寮制学校、成城学校に入った。その後、陸軍士官学校は2番、陸軍大学は首席で卒業した。

 旧日本軍の軍人で、1937年(昭和12年)の日本軍の南京占領の現地最高責任者。東京裁判で、南京事件(南京大虐殺)の罪を問われ、1948年、死刑になった人物である。

 松井の志は、陸大時代から日支提携とアジア諸民族の復興・独立にあった。それは同郷の東亜問題の先覚者荒尾精(あらおせい)の思想を敬慕したゆえんである。陸軍中尉荒尾精はあえて軍籍を離脱して、支那の復興と日支の交易に役立つ青年志士ら十余名を漢口楽善堂に集め、支那大陸の実情調査にあたらせた。その集約として自ら『清国通商総覧』を刊行し、更に同志根津一(ねづはじめ)と共に「東亜同文書院」の前身である「日清貿易研究所」を設立して、東亜復興に役立つ青年の育成につとめた人物である。年端わずか38歳、台湾の旅舎で「ああ!東洋が、東洋が・・・・」と叫んで客死した。その荒尾先輩の東亜復興の精神こそ、わが生涯の志であると、松井岩根は心中深く誓っていた。

 座右の銘は「殺身為仁(身を殺して仁をなす)」

 

孫文(そん・ぶん。Sun Wen)(1866~1925行年59歳)

 中国革命の先導者。共和制を創始して国父と称された。孫中山・逸仙・中山と号した。中国革命の父といわれる孫文は、1866年、広東省香山県(中山県。現在の中山市)のの貧しい農家に生まれた。

 14歳のとき、母に連れられ、ハワイで成功をおさめていた長兄の招きで渡航し学校にはいるが、キリスト教徒となったために長兄の怒りを買い、郷里にもどって農業に従事する。

 しかし彼の才能を惜しむ郷里の人々の助力で、広東と香港の医学校に学ぶ。1892年孫文は香港の医学校を首席で卒業し、澳門・広州で医院を開き医師としての名声をえる。

 孫文は日清戦争勃発により清朝政権のもとでの改革に望みを断ち、兄のいるハワイにわたり1894年1月ハワイで革命結社・興中会を組織し、広東で挙兵した。しかし武装蜂起計画が事前にもれて失敗し、孫文の首に懸賞金がつけられ清朝から追いまわされる反逆者となった。孫文は1895年11月日本に密航して難をのがれた。日本の明治維新をモデルに漢民族による近代的独立国家を作ろうと、清朝打倒の革命運動を起す。孫文は革命家としての30年のうち、のべ約10年を日本で過ごした。

 

孫文の三民主義【さんみんしゅぎ】

民族主義(満州族の清王朝を打倒し漢民族の独立をめざす。後に反帝国主義に基づく民族の解放)

民権主義(人民が政治をする権限を持つ)

民生主義(重要産業の国有化。土地所有や私的独占資本を制限して均等化し農民への土地の再分配)

 

 孫文の死後、国民党と共産党が分裂し、国民党は三民主義に反共的な内容を加え変化させた。毛沢東は三民主義を無視し党独裁の狂惨主義に発展させた。何れも帝国主義化して独裁。孫文の三民主義後継者は汪兆銘。

 

汪兆銘(おうちょうめい) Wang Zhao ming (1833年~1944行年61歳)孫文と同じ広東省出身。

 字は桂辛、精衛と号する。精衛とは伝説の中の小鳥.の名である。広東省三水で生まれ、1901年科挙に合格。1904年に清の国費留学生として日本に留学し法政大学を卒業する。ペナン島の華僑の娘陳璧君と獄中恋愛のすえ、結婚する。孟晋、文悌の二男の他に、文美、文彬、文恂の三女計5人の子供に恵まれた。1905(明治38)年、孫文の二度目の来日を機に、中国同盟会が東京で設立され、汪兆銘はわずか22歳で書記長に抜擢された。そして機関誌「民報」で健筆をふるった。以後孫文と行動を共にする。孫文死後、凶産の実体に気付き、孫文の誤謬を訂正し、日本と共に反共戦争を戦った。中国凶産党からは「漢奸(中国の売国奴)」と今でも非難されているが、家族をも犠牲にし、「私」を捨て、孫文主義を実践しようと「公」に殉じた。汪兆銘こそ、真の愛国者である。孫文後継者の、筆頭であった。汪 精 衛 を 想 う汪兆銘の詳細

 

蒋介石(しょう・かいせき。)(1887年~1975年行年88歳)

 現在の中華人民共和国の浙江省奉化県で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれる。

松井岩根は早くから支那語や書道・漢詩を勉強し、自ら進んで支那駐在を希望した。当時上海には孫文の中国革命を支援する滬軍(こぐん)都陳其美(ちんしび)が松井を歓迎した。彼が経営する保定の振武学校の卒業生に蒋介石がいた。松井は陳の紹介で蒋に会った。蒋は当時20歳。日本の士官学校への留学を希望していたので、松井は大いに励まし支援を約束した。明治40年4月蒋介石は陸軍士官学校に留学し、44年10月帰国、それまで蒋介石の滞在中、松井は親身になって蒋の相談相手となり、身の廻りの世話までした。孫文の死後後継者となった。

 

大アジア主義に殉じた人々の年表

世界の戦国時代(国盗り合戦、弱肉強食、最適者生存)迫る超大国の侵略者(食民治主義者凶産主義者)

 600万足らずの満州族が政府高官と軍を独占して、4億の漢民族を支配していたのが清国。一つまみの凶産党が政府高官と軍を独占して、12億の諸民族を支配しているのが中国。未だ凶産党に囚われの身の中国人、満州人、内モンゴル人、チベット人、新疆ウイグル人。まさしく孫文の「革命未だならず」。孫文の三民主義、中国、未だならず。

当時は、NHK日教組TBS朝日毎日TV朝日読売日経TV東京等の犯日が叫ぶ、平和な時代などではない、適者生存弱肉強食の戦国時代である。

1840年アヘン戦争英国のアヘン密貿易を阻止し、銀の流失を防ごうとした清国と、英国の侵略戦争。清国からの茶、絹、陶器などの輸入超過のため、通貨の銀が不足した英国は、食民治インドにアヘンを栽培させ、清国とアヘンの密貿易をし、不足の銀を回収した。以後中国にアヘンは蔓延し、紙幣の代替としても流通した。

1842年8月敗れた清国は英国と屈辱的な南京条約を締結。これが中国食民治化の始まりとなった。この事件に驚いた日本徳川幕府は、異国船打ち払令を、天保の薪水供与令に改めた。

1842年8月英国虎門寨(こもんさい)追加条約で治外法権を獲得

1844年フランスアメリカも条約を締結、治外法権を獲得食民治主義中国食民治化に拍車がかかった。

(注・このように当時は、弱肉強食適者生存のため、敵味方アヘン虐殺何でも有りの、世界の戦国時代なので、法治下の現代の尺度での善悪判断は、間違い。慰安婦問題も当時から売春婦という商売であった。NHK朝日毎日などの工作員は、アヘン、虐殺何でも有りの、世界の戦国時代を隠蔽し、日本軍だけの悪行のように報道、極悪日本軍と捏造

1851年1月 大平天国とその乱 土地私有を認めず、排満興漢平等世界建設を掲げた反清の乱。武装蜂起した宗教結社上帝会洪秀全は天王と称し、1853年南京占領、天京と改め首都とし、大平天国を国名とした。清軍と米人ウォード(1862年戦死)英人ゴードン(翌年から指揮)の常勝軍(外人部隊の義勇軍)の活躍で、1864年に天京陥落し滅亡。

1853年7 日本はペリー来航で、以後開国した。

1854年 日米和親条約。アメリカ船の下田函館寄港、薪水食料購入など。

1854年10 日英和親条約。

1855年2 日露和親条約。

1856年1 日蘭和親条約。

1858年5月 愛琿(あいぐん)条約 ロシアと清朝の条約。清がイギリス・フランスとの紛争や大平天国の乱に苦しんでいるのにつけこみ、ネルチンスク条約(1689年アルグン川・外興安嶺を両国国境とした)を無視、黒竜江左岸をロシア領、ウスリー川以東の沿海州を共同管理地とし、黒竜江、松花江、ウスリー江の航行権を認めさせ領土を拡張した。後に清国否認。ロシア征服南下。

1858年 日米修好通商条約。領事裁判権を与え、関税自主権がなく、居留地を設ける、最恵国条款を認めることなどを内容とした、不平等条約。同年英仏蘭露とも同様の条約を結ぶ。安政五カ国条約。

1860年 アロー戦争(第二次アヘン戦争) 英仏連合軍北京入城、北京条約締結。イギリスへの九竜割譲、天津開港等の条約。食民治主義の、中国食民治化加速

1860年 北京条約 アロー戦争の結果、英仏露との条約。ロシアは英仏仲介の代償として、ウスリー川以東の共同管理地沿海州を領土とした。王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約2つの不平等条約によって、満州地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域(現在のウラジオストクを含む)は、ロシアに征服されることとなった。ロシアはウラジオストク(ロシア語の意味“東方を征服せよ”)を建設、極東侵略の拠点とした。ロシア征服更に南下。

 

露西亜艦隊対馬占領は、日本九九年戦争の始まり。以後、1960年植民地独立付与宣言「互恵平等自由貿易」の新秩序確立まで、日本存亡を懸けた九九年間もの、艱難辛苦の長い戦いが続く。

1861年2月3日~7月25日まで6ヶ月間日本の対馬を占領したロシア艦隊。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、ロシア軍を対馬から排除。

1862年 倒幕の志士高杉晋作藩命で視察。上海の見聞記録「中国人はほとんどが外国人の召使のようだ。英仏の人が街を歩けば、中国人の人は傍によって道を譲る。上海は中国の領土だが、英仏の植民地とも言える」と記されている。唯物の欧米を診た唯心高杉晋作は以後尊王攘夷論の急先鋒となる。

1863年 幕末の薩英戦争(英対薩摩)

1864年 馬関戦争(英米仏蘭対長州藩)

1867年 大政奉還。明治維新。適者生存の時代対応のため、軍民一丸適者生存軍と化した。

1868年9月8日 明治時代

1871~1873年 岩倉使節団。岩倉具視を特命全権大使として、欧米に派遣された不平等条約改正交渉が主目的の使節団。伊藤博文、山口尚芳が副使で、中江兆民津田梅子等が随員留学生として参加した。彼らがワシントンに行った途端に、「列強の強盛と強猛」であり、不平等条約の改正などは武力無き日本には、夢のまた夢であることを思い知らされた。アメリカとの条約改正には失敗したが、欧米の先進文明摂取が、最大の収穫であった。以後の、改革の歴史に多大な影響を与えた。西郷隆盛も参加しておれば対処も大きく変化したはず、唯物の欧米を診た唯心と診ない唯心、帰国後の対立はここが起因。日清日露大東亜戦争は、唯物(凶産・食民治主義)対唯心の戦いで、WW1WW2は唯物対唯物の戦いである。

1873年 朝鮮閔妃大院君追放、閔妃(びんぴ、高宗の妃)を中心にした閔氏政権の成立。

1875年 江華島事件。日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件。

1876年 明治新政府と日朝修好条規を結ぶ。

1877年西南戦争 西郷隆盛(1827~1877)自刃。

1881年 後の東亜新秩序や大東亜共栄圏の原型大アジア主義(アジア主義とも言う。日本を中心にアジア諸民族が団結して、欧米列強の圧力に対抗すべきと説く思想)を、頭山満が唱えた

1882年 米朝修好通商条約。壬午軍乱(壬午事変)起こる。中朝商民水陸貿易章程を結ぶ。

1884年 甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは清軍軍事介入により失敗に終わり、事大派の勝利となる。朝鮮版明治維新は実現に至らなかった。朝鮮人自身の手で近代化をしようとした金玉均(キム・オクキュン)らがクーデターをおこした。金玉均は、失敗して上海に逃亡し暗殺された。

1884年 清国は日本を征伐しようとしていた。日清戦争前、清国はすでに日本を征伐するための軍略的偵察を行ない、清国駐日大使館随員姚文棟の兵略書『日本地理兵要』(1884年)を作成している。

1885年~87年 巨文島事件。英国はロシア艦隊の日本海回航を阻止するため、朝鮮南部のこの島を占領し、砲台を築いた。

1891年明治24年7月 「清国水師提督丁汝昌が北洋艦隊の精鋭、定遠、鎮遠等10数隻をひきい、堂々と舳艣相銜んで横浜に入港した。・・・その訪問の真意は、精鋭なる艦隊の威力を示して我が国を慴伏(しょうふく・恐れひれ伏す)させ、朝鮮に対して日本をして一指もつけさせまいとする傲慢極まれる用意に出たのは明らかである」(黒竜会編「東亜先覚志士記伝」)

1893年明治27年3月1日「明治天皇が東洋の大勢を御軫念(しんねん・天子が心を痛める)あらせられ、かしこくも軍艦製造費として、御内帑(ないど・皇室の金庫)より金30万円を下賜せられ、軍艦増製に関する詔勅を賜るに及び、議会においても始めて海軍充実案が通過するに至ったのである。この詔勅をかしこみて文武官はいずれも俸給の10分の1を製艦費として差し出すことにより、貴族富豪からも製艦費の献納を願出る者が続出し、財力において軍備においてはるかに優越した大国支那を敵として戦う準備はかくしてようやく整えられたのである」(前掲資料)

1894年明治28年 日清戦争(朝鮮半島や満州は、島国日本の生命線である。その朝鮮支配をめぐる、日清間の戦争)。1882年の福沢諭吉の『兵論』によれば、清国の兵力108万に対して、日本はたったの7万8千だった。日本軍艦52隻に対して清国軍艦107隻。世界各国が清国勝利を信じていた。1895年日本勝利。

 清国朝鮮独立を確認し、軍費2億テール賠償、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲、沙市、重慶、蘇州、杭州を交易市場とした。その後、独仏露の三国干渉のため遼東半島を、返還させられた。日本は幕末以来の不平等条約改正の端緒をつかんだ。

 孫文革命を企て失敗、日本に亡命した。19世紀末の清国は、600万人の満洲人が幹部を独占して、4億人の漢民族を支配する専制国家であり、200年の泰平に溺れて、政府は腐敗しきっていた。孫文は日本の明治維新をモデルに、漢民族による近代的独立国家を作ろうと、「滅満・興漢」を掲げて、1895年(明治28年)広東での最初の武力蜂起を行うが、失敗、海外に高飛びし、日本に亡命した。

 宮崎滔天は日中提携によるアジア独立を目指していた。滔天は、横浜に潜伏していた孫文を見つけ出し、語り合った。

 「支那四億万の蒼生「そうせい(人民)」を救ひ、東亜黄種(アジア黄色人種)の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内「うだい(天下)」の人道を恢復(回復)し擁護するの道、唯(ただ)我国の革命を成就するにあり」と述べる孫文の悲壮の語気に、滔天は、誠に是(これ)東亜の珍宝なり。余は実に此時をもって彼に(心を)許せり。と後に記している。

 孫文もまた初対面の滔天の印象を「他人の急を救わんとのこころざしやみがたき・・・現代の侠客」であると評した。

1895年明治28年5月、日清戦争の勝利により台湾が日本に割譲されると、日本軍は住民に2年間の国籍選択猶予期間を与え、清国を選ぶものは自由に大陸に引き揚げることを認めた。植民地ではなく、極東共栄圏政策で対処した。蔡さん(司馬遼太郎「台湾紀行」のガイド、蔡焜燦「さい・こんさん」氏「台湾人と日本精神」著者)の父親はこの時、16歳。一度は祖先の地・福県省に戻ったが、そこに住んでいた叔父は、中国社会の腐敗ぶりから、せっかく日本人になれる機会を掴んだ蔡さんの父親に「お前はこんなところにいるような人間ではない」と帰還をすすめた。蔡さんの父親はこうして「日本人」として生きていく道を選んだ。

1896年露清密約 対日戦争の場合には、露清共同して戦う。露国軍隊を極東へ輸送するためシベリア鉄道とウラジオストックを結ぶ満州横断鉄道の建設を定めた。

1897年 宮崎滔天の紹介によって孫文頭山は出会い、孫文の亡命中の費用は頭山が出した。住まいは犬養毅が斡旋し、早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷に住んだ。

 この頃から、孫文は「中山」と号するようになった。日比谷公園近くの中山忠能公爵(明治天皇のご生母・中山慶子の父)邸の前を通ったとき、その表札を見てつけたという。この号が、今や台湾の大通りの名になり、また生まれ故郷が中山市と改称されたいわれになっている。

1898 ロシア社会民主労働党結党

1898年 北京条約 旅順大連租借、東清鉄道建設に関する露と清の条約。不凍港旅順を租借した。

1898年 「紫禁城の黄昏」ジョンストン著(入江曜子・春名徹訳)岩波文庫が原文から削除した部分「1898年当時英国の商人たち・・・英国の宣教師の指導者も、・・・満州とは名前だけで、ことごとくロシアのものと思われる。・・・シナの人々は、満州の領土から、ロシア勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも、まったくとろうとしなかった。もし日本が・・・これを打ち破らなかったならば、・・・満州全土も、今日のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地の無い事実である。さらにジョンストンは、英独仏の中国侵略の事実も記している」捏造が党是の凶産とまったく同じ手口の岩波書店は、工作員出版社。工作員社長安江良介は「世界」1991年9月号「金日成会見記録・歴史の転換を求めて」で、次のように礼賛している「主席閣下は、第二次大戦後今日まで、一貫してトップリーダーとして、民族を導き、・・・世界に例を見ない政治家であります」

1899年 義和団。山東省で起こった反キリスト教(仇教)暴動がきっかけで、華北に広まった、武力排外運動。大平天国のような指導部は持たない集合体で、あった。教会を襲撃し、宣教師や外国人を迫害した。清朝西大后が支持したため、暴動は拡大。2につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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