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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2頭山満と孫文の大アジア主義から大東亜共栄圏へ1899~

1899~1900 義和団事件(白蓮教系の宗教団体)。「扶清滅洋」を旗印に、北京の11カ国公使館員4000人を包囲。日(1万人)英豪米仏露伊独(1万人)が、これを解放。西大后光緒帝は西安に逃亡。1901年辛丑和約(北京議定書)に調印。列強の華北駐兵権、賠償金4億5千万両(テール)の支払いなどを承認した。清国半植民地化。

 義和団事変(北清事変)の際、清とロシアは満州を巡って衝突。6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクを占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、居住していた清国民少なくとも3000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。この動乱で壊滅状態となった清政府に、ロシアが事件波及防止の口実で付け入り、満州を占領し、独占支配と朝鮮日本進出の具体化に着手。ロシア不凍港を占領、日本侵略の手はずも整った。

 孫文の革命への志に深く共鳴した一人に山田良政がいた。日本によって上海に建てられた東亜同文書院の教授をしていた山田は、1900年(明治33年)、孫文とともに広東省恵州で兵を挙げるが、捕らえられ、殺害される。中国革命のために一命を捧げた最初の日本人となった。 孫文は山田の死を悲しみ、郷里弘前市に建てられた碑に、次のような文を寄せた。

  山田良政先生は弘前の人なり。康子閏八月、革命軍恵州に起つ。君身を挺して義に赴き、遂に戦死す。鳴呼(ああ)其人道之犠牲、亜州(アジア)の先覚たり。身は湮滅(いんめつ)すと雖(いえど)も、而も其(その)志は朽ちず。

 1927年(昭和2年)11月4日、中国国民党は山田良政の建碑を議決し、孫文の眠る南京、中山陵に建立した。台湾の忠烈祠には、後の中華民国のために命を捧げた33万人の将兵が祀られている。日本軍との戦闘での死者も多い。その中で山田良政はただ一人の日本人として、今もここに祀られている。

1900年ハワイに属領制が布かれた結果、ハワイから米本土西海岸への、転航者が急増した。以後排日運動が激増した。

190230 日英同盟。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、日本と同盟を結んだ。

1902年 蒋介石、毛福梅(当時19歳)と結婚。

1904 汪兆銘清の国費留学生として法政大学に留学する。

1904(明治37)年3月に発行された内債第1回1億円は申し込み数134万、応募額4億5千万と、募集額の4倍以上に達した。第二回1億円は同年6月に、第3回8千万円は11月に募集されたが、いずれも応募額は募集額の3倍以上に達した。国民がいかに戦争目的を理解し、協力したかが分かろう。これらの公債に応募したのは富豪階級ばかりでなく、中産階級以下の者も、その日の生活を節して応募する風であった。また金の不足を補うというので、婦人たちは競うて指輪かんざし等の装身具を提供し、応分の奉公に努めたのである。渡辺幾次朗「日清・日露戦争史話」

 外債は、米銀行家ユダヤ人ジエイコブ・シッフが外債500万ポンドを引き受けてくれた。

露西亜蔵相ウヰッテの回想録

 「この危険な仕事(朝鮮支配のこと)は無論日本人に知れ渡り、日本人は露西亜は表面では朝鮮から手を引いたと見せ、裏では朝鮮占領の野心あるのだと解釈した。日本人が極度に我々に反抗するようになったのは極めて自然の成り行きと言わねばならぬ。遼東半島占領と、次いで義和団鎮圧の口実で満州に軍隊を送り、その後になって撤兵しないという二つの事実によってシナは全然露西亜を信用しなくなった。日本も同じであった。もし我々が日本との協約を正直に尊守して朝鮮で陰謀などやらなかったら、にほんはもっと安心したに違いなく、我々に対して断然たる決心も取らなかっただろう。だが我々は、一方では遼東半島から日本を退去させながら自らこれを選挙し、他方ではその代償として日本と(朝鮮に関する)協約を結びながら陰険な手段でこれを破るようなことをしたのだ。日本が露西亜を信用しなくなったのも、また当然すぎるほど当然と言わねばならない」

1904日 日露戦争(朝鮮半島や満州は、日本の生命線である。その朝鮮半島と満州の制覇を争った、ロシアとの戦争)。清国は中立国と称し他国のように傍観していた。国家の歳入ロシア約20億円、日本約2億5千万円。常備兵力ロシア約300万人、日本約20万人。軍艦の総排水量約ロシア51万トン、日本約26万トン。世界各国がロシア勝利を信じていた。1905年日本勝利

 日本の朝鮮における権益確認韓国を保護国化、関東州の租借権および長春・旅順間の鉄道を清国の同意を得て、ロシア、日本へ譲渡、南満州を勢力範囲とした。遼東半島を租借地とし、樺太南半の割譲。

 万里の長城は、中国と満州の国境である。古来より、中国人は万里の長城から北「化外の地」すなわち、漢文化の及ばぬ未開の地と考えていた。万里の長城は、北方の異民族の侵入を防ぐ城壁だった。かつて、北方の満州族が「明」を滅ぼして、中国大陸を征服し、「清」を建国したのだが、その満州人の故郷が満州である。1930年頃、満州には、満州人だけではなく、日本人・日本国民だった朝鮮人・万里の長城を越えてきた中国人・ロシア人・モンゴル人とさまざまな民族が住む、異民族雑居の地だった。日露戦争に勝利した日本は、、ポーツマス条約で、鉄道経営権をロシアから譲り受け、中国政府とも合意の上、合法的に満州の鉄道利権を取得した。(満鉄)の権利は我が国の正当な権利であり、その権利のもとに、鉄道沿線に進出して開拓したのである。鉄道は国の重要基幹産業であり、朝鮮人(日本国民)をはじめ、多くの日本人たちの生命・財産を守るため日本軍が駐屯して警備にあたっていた。

 満州は複合民族社会であり、当時の満州には「馬賊」「匪賊」と呼ばれる盗賊集団が暗躍していた。そのような満州に日本人移民は23万人も居り、その日本人の安全を守るために日本軍(関東軍)が駐留した。

 日露戦争における日本の勝利は、アジアの人民に独立への大きな希望を与えた。清国からも、2万人とも3万人とも言われる留学生が日本にやってきた。孫文は滔天らの支援を受け、「中国革命同盟会」を結成し、約3千の会員を集めた。中国同盟会総理となり「三民主義」を発表した。同会機関誌「民報」の発行名義所は、宮崎滔天の自宅になっている。

汪兆銘1905年7月に中国同盟会結成に関与、22歳で書記長に抜擢される。同盟会の機関紙『民報』紙の編集長を務め、健筆をふるった。24歳の時に発表した「革命之決心」には次の一節がある。 革命の決心は、だれもが持っている惻陰「そくいん(あわれみ)」の情、言うならば困っている人を見捨てておけない心情から始まるものだ。たとえば子供が井戸に落ちていると聞けば、だれもが思わずその子を救いたくなるだろう。

日露戦争に対する世界の見解(戦国時代、虐げられた人々の証言)

 それまで、欧米列強に蚕蝕されていたアジア・アフリカ諸国は、「自分達がどう転んだ所で、欧米列強には適わない」と諦(あきら)めていました。そこへ、極東の新興国(ニューパワー)・日本が、欧米列強の一大国・ロシアに勝利したと言うビッグ・ニュースが飛び込んだのです。このニュースによって、日本はアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強には敵わないと諦めていたアジア・アフリカ諸国に「独立」と言う希望を抱かせたのです。又、日露戦争での「日本の勝利」-そのリーダーである「明治天皇」は、第三世界に強烈なインパクトを残し(東郷元帥もフィンランドの「トーゴー・ビール」の名に使われている)、第三世界に次々と新たなリーダーを輩出させたのである。

アジア・アフリカ諸国

 『日本の日露戦争での勝利は、アジアは泰西文明(欧米文明)に達する資格なし」とする欧米諸国の偏見を無効にした点で、同じアジアの一員たる自分達を勇気づけた。・・・日本先帝陛下(明治天皇)は露国(ロシア)を撃破したる後、アジア全般に立憲思想を普及せられたるが、日本の立憲政体に倣(なら)いたる最初の帝国は波斯(ペルシア)にして、土耳其(オスマン-トルコ)、之に次ぎ、清国は最後に日本の顰(ひそみ)に倣いたり。抑(そもそ)も波斯、土耳其、及び清国の三帝国は終始露国の圧迫威嚇の下にあり・・・』

ペルシア(現在のイラン)・『ハブラル-マタン』紙 1912(大正1)年8月15日付

日露戦争日本勝利の世界への影響

ケマル・アタテュルク Mustafa Kemal Ataturk(1881~1938)

 近代トルコの父にして、トルコ共和国初代大統領(在職1923~1938)。日露戦争での「日本の勝利」に感化され、トルコを前近代的なスルタン-カリフ制(帝制)から共和制へと移行、トルコの近代化を推進し、「アタテュルク」(父なるトルコ人=国父)の称号を贈られた。

 トルコは親日国で、明治天皇と東郷平八郎元帥は、トルコ国内でもヒーローとして有名。2004年現在、2.000万TL、1.000万TL、500万TL、100万TL、50万TL、25万TLの紙幣と2.5万TL、10万TL、5万TLの硬貨が発行されている。紙幣の肖像、および硬貨の刻印はすべてトルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像となっており、それぞれの紙幣は色違いで視覚的に区別できるようになっている。

ナーセル Jamal‘Abd al-Nasir(1918~1970)

 エジプトの軍人・大統領(在職 1956~1970)。中学生時代、反英デモ(1934~1936)に参加し、民族主義に共鳴。1952年、軍事クーデターで腐敗したファルーク王制を打倒(7月革命)し、ナギーブ初代大統領失脚後、大統領となる。この間、スエズ運河を封鎖し、旧宗主国であるイギリス勢力をエジプトから一掃し、エジプトをアラブ世界の盟主へと押し上げた。彼も「日露戦争における(日本の)勝利は自分の人格形成に大きな影響を与えた」と語っている。

中国の孫文

 どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。

インド・初代首相ジャワハルラル・ネルー

 日本の戦捷(せんしょう)は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(中略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中で対馬沖で日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった。

フィンランド大統領パーシキピ

 私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛ぴ込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した。

ポーランド

 大戦後、私(加瀬俊一氏)がヨーロッパの大使をしていた時に、東ヨーロッパの状態を見たいと思い、ポーランドを自動車で視察したことがあります。

 ・・・それで、道を尋ねるためにある教会に立ち寄ったんです。年輩の上品な神父が出て来てね、日本人だと言うと、「ああ、いらっしゃい。日本の車があちこち走っているって聞いてました」、そういって喜んでお茶を出してくれたんです。そうしたら傍らに、小さい男の子が来てね。それで私は、「君の名前はなんていうの」って聞くと、「ノギ」って言うの。「えっ。ノギ?」。すると神父さんが言うんです。「ノギ」というのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ。」「トーゴー」はもちろん東郷平八郎に因んでのことです。

 ポーランドはロシアの悪政に反抗して、独立闘争に多くの血を流した歴史をもっているんです。そのロシアを打ち倒した英雄に因んで名前をつけるわけです。なるほどと思いました。

ドイツ皇帝 ウィルヘルム二世

 「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種 日本人との間で戦われ 白色人種は、不幸にして破れ日本人は、白人を憎んでいる白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」

イタリア ムッソリーニ

 「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」 

アメリカの黒人

 日露戦争当時、黒人新聞各紙は、西洋帝国主義の重圧に苦しむ日本人を「アジアの黒人」と呼び、白人に挑む東郷艦隊を声援したり、一部の黒人社会では驚くことに、日本ブームが起きて、日本の茶器や着物も流行。さらには、黒人野球チームの中から、「ジャップ」(当時、この言葉は日系人に対する侮蔑語ではなかった)を自称するチームも出ていたという。

 日露戦争は非白人が本格的な近代戦で白人をうち負かし、世界中の抑圧されていた人々の希望に火を灯した。20世紀は、世界の諸民族が自由と独立を勝ち取った世紀として、世界史に記述される。

日露戦争での日本の勝利は、まさにその夜明けを告げる鶏鳴であったのである。

 

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog007.htm

 

 日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。

1906(明治39)年4月18日サンフランシスコ大地震。日本50万円(今日の10数億円)の見舞金(他の国々合計より上回った)を送る。

1906年 蒋介石保定陸軍速成学堂で軍事教育を受ける。

1907年(明治40)3月、孫文が離日。蒋介石渡日し陸軍士官学校へ留学する。

1907年(明治40)~1931年まで、在満兵力は満州師団1と独立守備大隊6の、約1万400人を上限にし、推移。「関東軍」中山隆志、講談社2000。

1909年 蒋介石大日本帝国陸軍高田連隊に入隊。(~1911年)

1910年 朝鮮併合、日本統治。日韓併合条約を結び、大韓帝国、大日本帝国併合。京城に朝鮮総督府が設置される。植民地ではなく、極東共栄圏政策で対処した。

ヘレン・ミアーズ 「アメリカの鏡・日本」より

 ・・・こうした公式記録を見る限り、なぜ、日本が韓国国民を「奴隷にした」として非難されるのか理解できない。もし、奴隷にしたのなら、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。日本の韓国での行動はすべて、イギリスの同盟国として「合法的」に行われたことだ。国際関係の原則にのっとり、当時の最善の行動基準に従って行われたことである。しかも、その原則は日本がつくったものではない。欧米列強、主にイギリスがつくった原則なのだ。・・・

 厚遇された李朝王族。「日韓併合後、そんな心配はいらなかった。大韓帝国の皇帝だった高宗は、徳寿宮李太王と称され、日本の皇族の待遇を受けた。さらに、多くの重臣や功労者たちは華族として叙爵された。また、国王と王室に150万円の歳費と皇室典範を与え、李完用総理をはじめ、侯爵六名、伯爵三名、男爵四五名など計七六名に貴族の爵位を与えた」

(黄文雄,韓国は日本人がつくった,徳間書店,2002)

戦国時代対処不能の朝鮮は、日本に事大し、弱肉強食の時代対処を選択。

191027日 蒋介石長男蒋経国誕生。(後年、毛福梅夫人は出家、離縁となる)。汪兆銘清朝摂政の暗殺計画をして失敗、死刑を宣告されるが、無期懲役に減刑。暗殺決行直前、盟友胡漢民への手紙「革命の勇気は仁心より生ずるものなり。仁心一日滅せざれば即ち勇気一日息(や)まず。故によく毅然として身を以って犠牲となして辞せざるなり」

19111010日 辛亥革命勃発 蒋介石辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角をあらわす。汪兆銘釈放される。この時袁世凱と孫文の提携を策している。 

 1911年(明治44年)武昌での革命軍蜂起が成功すると、これに呼応して、全18省のうち、15省で革命が成功した。辛亥革命である。武昌での蜂起に加わっていた日本人志士約20名のうち、数名が死傷した。日本人志士はさらに陸続と集まって、辛亥革命に参加した。北一 輝はこの時、参謀役として働いている。山田良政の弟純三郎と滔天は、香港にいた孫文を出迎えにいった。

1912年明治天皇大葬。大葬当日、自邸で乃木希典(63歳)夫妻、学習院長在職中の殉死。日露戦争、超大国相手の自衛戦争で、多くの部下が死に、非難もあった。妻静子とともに殉死は、「一将功成りて万骨枯る」を良しとせずの、国民への詫び状。軍民一丸蜂起日本を物語って、余りある。長女と三男は夭折し、残る二人は日露戦争で戦死。善悪史観半端者の司馬は、象と蟻の認識皆無で、愚将と評価。

1912日  滔天らに迎えられて、1912年(大正元年)1月1日、南京に入った孫文は、大総統として、この日を民国元年とし、列国に向かって、中華民国の成立を宣言した。犬養毅、頭山満の両巨頭を始め、滔天その他の多くの志士たちも総統就任式に参加し、感激を分かち合った。臨時政府成立(臨時大総統:孫文)頭山は犬養毅とともに出席。

 その年の12月に桂太郎による第3次内閣が組閣された。滔天は政界の陰の実力者秋山定輔を通じて、桂首相に孫文との協力を説いた。12月孫文は国賓として来日し、桂首相と語り合う。その結果、新支那の建設は孫文にまかせる。日本は孫文の新政権を支援し、日支協力して、満洲を共同開発する。日支協力してダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立達成(解放)に助力するなどの密約を交わした。日本と中国が相協力して、アジア独立のために立ち上がるという孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な政策として採用された。日本と中国が相協力して、アジア独立のために立ち上がるという孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な 政策として採用されたかに見えた。しかし、桂太郎はまもなく急死し、孫文も袁世凱にその地位を奪われて、失脚した。こうして日支提携密約は実現しなかった。

191212日 宣統帝(溥儀)退位 (清朝滅亡)

1913(大正2) 宋教仁は孫文と共に国民党を組織し、選挙に臨んだ。結果は目論見通り、宋の擁した国民党が圧倒的第一党となり、実権を握る宋が最大実力者となった。

191320日 窮地に追い込まれた袁世凱らは上海停車場で宋を暗殺した。宋は滝の如く流れる血潮を押さえながら「南北統一は余の素志なり。小故を以って相争い国家を誤る勿れ」と遺言した。宋の死は革命党の脳髄が砕けたに等しかった。

1913 南京袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。

1913日 孫文、台湾へ亡命 (広東の独立失敗)

1914日 袁世凱と争って破れた孫文は、またもや日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養毅を通じて山本権兵衛総理に交渉し、亡命を認めさせた。孫文がかくまわれたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。孫文は東京で、犬養、頭山、宮崎らの助力を得て、中華革命党結成

191428日 オーストリア、セルビアに宣戦布告(第一次世界大戦勃発)

1914年 孫文、宋慶齢と結婚。挙式の場所は孫文が寄寓していた梅屋庄吉邸(新宿区百人町2-23)であった。その時期は1914年11月25日もしくは1915年10月とされて判然としない。

1916年 袁世凱失脚し病没した。その後、中国は軍閥が群雄割拠する状態となった。汪兆銘は「国民党史概論」において次のように論じている。「彼(袁世凱)の死するや、部下の将領は四分五裂して蜂起した。その混乱状態は、今日に至るまで全く収束されていない。・・・それ以来北方の反革命家は大軍閥となり、南方の変節せる革命党員は小軍閥となった・・・かくて14年、兵乱は絶えることなく、中華民国は太陽なき暗黒となった」

1917 ソビエト社会主義共和国連邦誕生

1917 広東政府。孫文らの中華革命党が孫文を大元帥として、広東に樹立した。大正13(1924)年から昭和2(1927)年までに、ソ連が広東政府に、小銃約23万丁、大砲100門及び飛行弾薬を送り、さらに毎年300ルーブル強の資金を提供した。

1918 ロシア共産党に改名

19181111日  第一次世界大戦(WW1)終結。日英同盟により参戦。ドイツ、中国の拠点青島、山東半島占領。赤道以北の南洋諸島制圧。

19191~5月 パリ講和会議。人種平等への旗手 全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを 見守っている。・・・1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。・・・しかし、日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソン(民主党)の「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。大東亜戦争は人種平等を勝ち取る戦いでもあった。

1919日五・四運動。戦いもせず、日本が戦って得た山東利権を承認した、民国政府の態度を不満として起こり、日貨排斥運動に拡大し、講和条約への署名を拒否を決定させた。戦わずの中国日貨排斥運動は、中華思想のごり押しである。

191928日 ベルサイユ講和会議。ドイツが中国から租借していた極東の拠点青島を攻撃占領した。このドイツ租借地を日本が継承することになったのであるが、この会議で自らも対独参戦した戦勝国であるとして、直接返還の主張を行ったのが中国全権団である。この中国の主張は、実際に戦っていないものには権利なしとする列強の意見で、青島に代表されるドイツの山東権益は日本が継承することとなり、中国側は講和条約への署名を拒否することで抗議の意志を示した。日本は日本人3万人が居住しかつ1億5千万の巨費を投資した青島を、3年後の日中条約で返還している。3につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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