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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観3頭山満と孫文の大アジア主義から大東亜共栄圏へ1919.7~

1919 1次カラハン宣言ソ連狂惨党が撒き餌をばら撒いた。大正8(1919)年にソ連政府は中国政府に対し、それまで中国と結んだ一切の協約を廃棄し、東支鉄道及び、満州の鉱山、森林、金鉱など一切を中国へ返還(当時はソ連の支配下ではない)する協議にはいるという第1次カラハン宣言を発し、1920年には、領土ほか一切を中国に還付し、中国における治外法権を撤廃し、東支鉄道の運行に関する新条約を締結することを提示した第2次カラハン宣言を発した。これによって中国国民の間には親ソ意識が生まれ、大正10(1921)年には中国共産党が結成されたのである。

19191010 中国国民党結成し孫文総理となる(中華革命党を改組)

192010日 国際連盟発足 (日本、理事国として加盟/提唱国アメリカ不参加)

1920大正9 第2次カラハン宣言。レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべき(ロシア領となった外満州や賠償金返還)」との宣言を行い、中国側に領土返還の一縷の希望、撒き餌をまいた。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたが、ソ連代表の帰国により締結には至らず。後のヨシフ・スターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否。孫文、汪兆銘、蒋介石はこの撒き餌に踊らされた。正に凶産党は捏造が国是だ。

1920年南洋諸島が日本の委任統治領となる。植民地ではなく、極東共栄圏政策で対処し、富国に励んだ。

1921 中国共産党結成 ソ連狂惨党が撒き餌をばら撒いた成果。1921(大正10)年、中国共産党が結成された。この時、レーニ ンの秘書マーリンが、上海での共産党代表大会に参加し、孫文 とも会って、新経済政策を吹き込んだ。また中国共産党員がコミンテルンの指示で、次々と国民党に入党し、主導権をとろう としていた。 孫文の遺書にある「革命未だ成功せず」とは、まさしくこの ような内憂外患の状況であった。  

1921年11月~22年2月 ワシントン会議。アメリカ大統領ハーデングの招請で開かれた。日米英仏伊の五大国と、中国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの計9ヶ国が参加。海軍軍縮、太平洋・中国問題に関する国際会議。九ヶ国条約、四ヶ国(日英米仏)条約が締結され、日英同盟が廃棄された。大東亜戦争(有色対白色)が萌芽した。

1922月 青島返還。山東懸案解決に関する日中条約によって6ヶ月以内の還付が決定。

1922 宮崎滔天病死 滔天が死んだ二日後、孫文から次のような電報が届いた。「トウテンメイケイ(盟兄)ノシヲカナシム ソンイツセン」。

1922 ウクライナ・白ロシア・ザカフカス・ロシアの4ヶ国狂惨化

1922日 孫文、北伐失敗

192326日孫文・ヨッフェ共同宣言 (上海)国共合作準備

 22年8月、孫文は広東軍閥陳炯明の反乱に遭い、広東を脱出して上海に着いた。彼はここで共産党員の李大釗、陳独秀らと接触し、彼らの協力を得て国民党の改革を本格的に進めはじめた。そして二三年一月、ソビエト政府代表ヨッフェとともに、「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する」という共同宣言を発表して、「連ソ容共」への転換を鮮明に示した。このあと孫文は三たび広東におもむいて、ここに大元帥府を設けて国民革命を推進するための拠点を据えた。ソビエトは政治顧問ボロディン、軍事顧問ガレンらを送ってこれを援助した。小島晋治・丸山松幸「中国近現代史」  

1923 孫文の指示により、蒋介石ソ連の軍制を視察しての報告。ソ連はまるで誠意を持っていない。・・・ソ連共産党の中国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とすること・・・彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世界革命とかも、その実はウィルヘルムⅡ世の帝国主義となんら変わることなく、ただ名前を変えて世間を惑わそうとするものだ。

1923年 「しかし、われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それはなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟するよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかることがわれわれの希望である」1923年に孫文がある日本人に語った言葉である。「アジア独立への道」田中正明著展転社・「なぜ中国は日本にケンカを売るのか」孔健著講談社

1923 日英同盟失効

192420日 大正13(1924)年に中国国民党は、ソ連共産党の組織を模倣した国民党の新組織を形成し、第1次全国代表大会を広東で開催した。

 この大会において、孫文は「民主主義を共産主義は包含している」と演説し、イデオロギーの上でも共産主義を受容した発言をしている。

 孫文ソ連容共を唱えて国共合作(中国国民党と中国共産党との協力体制)(第一次国共合作)を進めた。この頃から日本軍国主義批判、社会主義思想への共鳴を示し、国民党大会で容共、農工支援、ソ連承認を行った。反共戦争日中戦争はここから始まった。ソ連日本と国民党軍と交戦させ衰えさせる、漁夫の利作戦を開始した。以後日本と国民党軍の交戦はすべて狂惨軍のスパイの仕業と考えて間違いはない。

唯心日本とは異なる唯心唯物混合体が国民党の実態で孫文の苦悩であった

 私は孫中山(孫文)に、共産党員が国民党に入党することがなぜ必要なのかとたずねました。中山は答えました。「国民党は堕落して死につつあります。それゆえに、生き返らせるためには、新鮮な血液が必要なのです」と。「堕落(degeneration)」という言葉で彼は何を言おうとしたのでしょう?彼は、国民党員が革命精神、士気と勇気に欠け、国民党が革命の目的をかかげて創建されたことを忘れていたことを言いたかったのです。――個人的な利害が党員の行動を支配しはじめた、悲しむべき結果でしょう。

 一度ならず、中山は自分の身近で見たことに嫌悪や失望を覚えて、私に意見を述べました。「国民党は、中国のもっとも優秀な人びとと、もっとも卑劣な人たちからなっています。優秀な人たちは国民党の理想や目標にひきつけられ、一方、卑劣な人たちは、出世のステップになると考えるから入党します。もし、私たちがこれらの寄生虫どもを追い出すことができなければ、国民党にはどんな意味があるでしょうか」宋慶齢 (孫文未亡人)

1924 ソ連大正13(1924)年にはモンゴルを侵略し征服赤化。「蒙古人民共和国」と凶産化。南下征服残る唯一の植民地候補中国満州日本を、ソ連の独裁者スターリンは虎視眈々と狙っていた。

1924 ソ連ウズベク・トルクメンの2ヶ国を侵略し凶産化。

192431日 中ソ国交回復

192416日 孫文、広州に黄埔軍官学校開校 (校長:蒋介石)

192418日 孫文、北伐宣言

192418日第二次奉直戦争(~11月3日)。1920年成立の奉直連合政権の対立戦争。奉天派軍閥張作霖と直隷派軍閥呉佩孚との戦争。第一次(1922)は英米支援下の呉が勝利。第二次は日本の支援下に再起した張が、呉側の馮玉祥の内乱もあり勝利。結果呉が下野し、張が北京に進出した。 

1924年12月28日 馮玉祥は北京を占領すると、孫文 を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本に立ち寄り頭山と対談し、神戸高等女学校で講演をした。

「大アジア主義」神戸高等女学校において神戸商業会議所外5団体におこなった病死(肝臓癌)3ヶ月前の講演(孫文選集」1966)孫文の大アジア主義
 「本日は皆様よりアジア主義と言うことについて、私に講演しろと言うお話でありました。わがアジアはとりもなおさず最も古い文化の発祥地であります・・・

 ・・・日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべきである。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがるならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張するということは、正義公理によって西欧人を感化することである。・・・

 ・・・我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復しようとするには、唯だ仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。

 さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。

 我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」となるか、或は東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」。

 

1924年 汪兆銘は中国国民党中央委員・宣伝部長に選出。

1925江戸末3千万の日本人口、6千万に倍増。

192524 孫文の病状が絶望的になった時、後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。そして3月11日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇 りとした。その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「革命尚未成功 同志仍須努力」(中国革命未だ成らず、同志なおすべからく努力すべし)という有名な一句を含んでいる。

 

孫文死の前日の2通の書簡

政治的遺嘱

 「四〇年間、私は国民革命の大目的のために貢献してきた。その目的は中国を独立と平等の地位にまで引き上げることであった。これら四〇年間の経験が、この目標に達するためには人民が目覚めて立ち上がらなければならないこと、われわれは、対等にわれわれを遇する世界の人民と共通の戦いの中で力を合わせねばならないことを、私に確信させた。

 革命はいまだなお成功していない。同志諸君には、私の著作――『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および『第一次全国代表大会宣言』にもとづき、継続して努力し、その貫徹を期せられたい。とくに国民会議開催および不平等条約の撤廃は、短期間においてその実現を促進されたい。3月11日

 

ソ連政府の中央執行委員会宛の書簡

「親愛なる同志諸君へ

 私は不治の病気で、病床にあります。私の思いは、貴国に向かい、またわが党や国の将来に向かっています。

 貴国(ソ連)は自由な共和国の大連合の頂点にあります。この連合は、不朽のレーニンが被圧迫民族に遺した真の遺産であります。この遺産を通して、帝国主義の犠牲者たちは、古来の奴隷制度や戦争や不義に根ざす国際的な体系から、必ずや解放され、救出されるはずであります。

 私は、国民党を遺していきます。帝国主義支配から中国や他の搾取されている国々を解放する歴史的な事業において、この党が貴国と力を合わせることを願っています。

運命によって、私はこの未完の任務を、国民党の主義と教訓に忠実で、私の真の後継者にふさわしい人びとに託さなければなりません。

 それゆえに、私は中国が、帝国主義が強いた半植民地的地位から解放されることを目指して国民革命運動の活動を続けるように、国民党に命じました。この最後の日、この目的達成のため、私は国民党に、貴国と絶えず連絡をとるように命じました。また、私は、貴国政府がいままでにわが国に差しのべた支持を継続すると確信しています。

 親愛なる同志諸君、あなた方との告別にあたり、私は熱い希望を表明いたします。すなわち、久しからずして夜が明け、ソ連邦が強盛かつ独立の中国を友人として、同盟者として迎え、この両同盟国が、世界の抑圧された人民の解放のための偉大な闘いの中で勝利を得るために、ともに手をたずさえて前進することを願います」3月11日

 

・・・公的な問題に関する彼の最後の発言は、「平和・・・闘争・・・中国を救え」であったといわれる。イスラエル・エプシュタイン「宋慶齢(上)」  P.191

 

孫文語録

「フランスとアメリカは、両方とも旧式の共和国である。現在では、ソビエト・ロシアが唯一の新式の共和国である。われわれは最新式の共和国を建設する努力をすべきである」

 

 「ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題代弁者だった。他のアジア諸国は、日本をアジアの『先頭馬』として認め、その提案に耳を傾けた。白人人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが知能に違いはない。

 アジアには強い日本があるから、白人人種はアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけではなく、アジア全民族の地位を高めた。」『三民主義』

 

(注・救国愛民の志士孫文も各国の凶産化が侵略ではなく解放に、凶産が共産に、凶輪国が共和国に、見えたのだ。人民の植民地化に気付かなかったのだ。捏造主義に世界中が欺かれたように、孫文も欺かれたのだ。病がそうさせたのだろう。もう少し長生きすれば凶産に気付いたはずだ。実現不可のおいしい空論に気付いたはずだ。現に孫文側近の汪兆銘、字は精衛も、蒋介石も、気付いた。孫文がもう少し長生きすれば歴史はかくじつに変わっていた)

192512 孫文病死(北京にて肝臓癌)行年59歳。孫文の南京での国葬、犬養毅、頭山満、近衛文麿など参列。

192530日 五・三〇事件 中国共産党は大正14(1925)年には中華全国総工会(共産党中心の労働組合)を組織し、経済闘争を政治闘争に成長転化させる目標(1926年コミンテルン決議)をもってストライキを敢行した。上海で始まったストライキには15、6万人の労働者が加わり、全市にわたる示威運動を展開し、激昂(げっこう)した群衆が警官と衝突し多数の死傷者がでる暴動(5・30事件)となった。

 このストライキは漢口、南京、九江、重慶、北京、天津の全国各地に及んだが、この様子を日本外務省亜細亜局は「外国人経営ノ工場は全国ニ亘(ワタ)リテ殆ンド例外ナク罷業(ストライキ)ニ逢ヒ」と報告している。

 さらに5・30事件はソ連・コミンテルンの指導のもとに行われ、その闘争資金としてソ連領事館より43万ドルの出資があったことも同亜細亜局は報告している。

 (上海)外国の管轄下にある上海の「公共租界」の警察官が、イギリスの監督官の命令で、デモ行進中の学生たちに対して銃火を浴びせた。この学生たちは、日本人経営の綿紡績工場において、ストライキのリーダーが殺害されたことに抗議していた。12名のデモ参加者が殺害され、多数が傷つき、逮捕された。この事件を契機として、反帝国主義(とくに反日英)の運動が上海全市に湧きあがった。 

1925 広東国民政府が成立すると、汪兆銘は国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任した。

1925年 ソ連、全連邦共産党に改名

1926日 蒋介石、北伐開始。岳州、漢口、九江などの主要都市を次々に占領して北京に迫った。

 この過程で革命士官学校は共産化され共産主義者が多数輩出することとなった。

 また国民党中央執行委員として毛沢東ら共産党員13名が就任し国民党内部に影響力を拡大した。

 反共を標榜(ひょうぼう)していた蒋介石も、北伐軍総司令官に就任する時には「中国革命は正に彼の第三インターナショナル(コミンテルン)の指導を受くべし」と言っているほどである。

 また、大正13(1924)年から昭和2(1927)年までに、ソ連が広東政府に、小銃約23万丁、大砲100門及び飛行弾薬を送り、さらに毎年300ルーブル強の資金を提供した。

192612 「コミンテルン十二月決議」が作成。支那革命目的を、プロレタリア・農民による社会主義国家建設とし、農民らを武装し地主からの土地没収、内乱の助長などの暴力革命を謳い上げている。即ち、国共合作を利用して共産党の暴力的権力奪取の謀略である。

1927中国共産党との合作を進める汪兆銘は、浙江財閥の支援を受け反共政策を採る蒋介石と対立。1月、武漢国民政府(国共合作の臨時政府)と合作し、蒋と一時対峙するが、軍事的に劣勢で財政的裏づけにも乏しく、5ヶ月で共産党を排除。南京国民政府に参加した。

1927年 蒋介石宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と結婚。

1927 昭和2年、コミンテルンの指令により中国共産党は、昭和2(1927)年、武装暴動を決議し、最初のソヴィエト政府を広東省に樹立した。ソヴィエト政府が樹立された状況とは、独特の法律、軍隊及び政府の下に、内政局、教育局、郵便電信局、交通局などの政府組織を形成することである。

 ここでは住民は厳重に統制され、組織に抵抗すれば殺害されるため、住民はいやおうなく共産軍に従わねばならない状況であった(リットン調査団報告による)。

 それについては外務省東亜局も「政権成立後ハ農兵民衆ノ名ノ下ニ実際ニ於テハ共産党ノ独裁政治」が行われたと報告している。

 共産主義が最大勢力を誇った時には、9つのソヴィエト区と400のソヴィエト県、30万の共産軍(農兵を含むと60万から200万)の勢力であったと言われる。中国の中南部一帯はことごとく共産化されたのである。

 以上のようなソヴィエト政府樹立に当たって、共産軍の蛮行は残虐を極めた。

 国民党の何応欽(かおうきん)の報告によれば、江西省で虐殺されたものが18万6千人、放逐されたものが210万人、家屋の焼かれたものが10万戸以上に及んだ。

192724  南京事件(国共合作軍が、南京占領時日英米の公館を襲撃した事件)

「暗黒大陸 中国の真実」 ラルフ・タウンゼント著 芙蓉書房出版より

 1926年、宣教師たちはこの政府が最後の盟友と持ち上げた。ところがどうであろう。数ヶ月後、その第一軍が南京を制圧した時の模様をこう述べている。

 南京虐殺に関する声明文

 南京虐殺の真相を広くアメリカ人に知ってもらわんがため、外国人の生命財産に危害を加えられた3月24日に南京に在住していた我々アメリカ人は、署名のうえ、ここに声明文を記す。

 この残虐行為は、上官の承認の下、制服着用の兵士によって行われた。南京在住の我々アメリカ人全員がこの目で見たのであるから断言できる。彼らは、外国人の私邸、領事館、学校、病院、会社の事務所を略奪しただけではない。家にも学校にも火を放った。外国人と見ると老若男女構わず撃った。誤射ではない。殺意を持って撃った人殺しである。ある若いアメリカ人娘などは二発も銃弾を打ち込まれ重傷を負った。アメリカ女と見ると強姦する。その他、外国人女に、言葉にできないほどの侮辱行為を加えた。こうした事件の多くをこの目で目撃したのである。その他さまざまなことが、疑いの全くない事実である。北伐軍の兵士や中国人の友達の証言によれば、南京入城に際して命令ではないにしろ、「略奪、外国人殺害許可証」の類のものを持って南京に入城したようである。外国人の家に押し入る。金庫を開けさせる。着ているものまで剥ぎ取る。女は犯す。すべて計画通りだったことは部隊の行動からして明らかである。我々の中には、「隠れても見つけ出して殺してやる」と言われた者もいる。中国兵だけでなく、匿ってくれた中国人までもがそう言ったのである。ところが、この虐殺がピタリと止んだ。英米の軍艦の艦砲射撃が始まったからである。とたんにあちこちでラッパの合図があり、組織的破壊行動が止んだ。これで兵士の暴虐、破壊活動へ上が命令した組織的行動だったことが証明された。以上は嘘偽りのない事実なのである。

 この南京虐殺を画策したのは誰か。外国人と中国人双方の意見であるが、首謀者はロシア共産党指導者の指導を受けた国民党政府内に潜む共産主義活動家である。これらは外国人だけでなく、中国人にとっても敵である。根絶やしにしないと中国の統一どころではない。我々は中国の国家目標に心底共鳴してきたし、これまで危険に晒されてはきたが、今後とも気持ちは変わらない。故に、現在、国民党政府の政策に強い影響を与える陣営を抑えねば、中国のみならず世界の行く末は安心できないものがある。

署名者(17名)                      

法学博士 メソジスト派伝道師 南京大学長   A・J・ボウエン

名誉神学博士 南部長老会伝道師        P・F・プライス・・・

・・・ 名誉神学博士 アメリカン監督教会伝道師 L・B・リッジリー

アメリカン監督教会伝道師              W・P・ロバーツ

     同                        J・G・マギー

     同                        C・L・ピケンズ

     同                        N・D・ギフォード・ジュニア

192712日 蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。汪兆銘も偶然、ソ連から派遣された国民政府最高顧問ボロディンへのコミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の 真意を知った。そこには、汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、 クーデター後、コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、などの内容があった。中国共産党は、まさしくソ連共産党の手先であり、それと組んでいることは、中国の自主性を奪われる ことであると気づいた。こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、両者は協力して南京で国民政府を組織した。上海クーデターで南京事件の主犯として中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。4につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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