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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観ジャン・ラフ・オハーンは日本軍公娼(BC級や1994年裁判)の告訴人では無い

ジャン・ラフ・オハーンは日本軍公娼(BC級や1994年裁判)の告訴人では無い

1994年

ジャン・ラフ・オハーン(以後ジャンと略記)50Years of Silence(50年の沈黙)検証

 倉沢愛子解説は、とても丁寧な解説なので、読者にとって、これほどありがたいことはない!

50Years of Silence」は、1994年オーストラリアで出版。「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語邦訳は5年後の1999年3月20日」訳者(渡部洋美)あとがき「ラフ・オハーンさん自身、これをマイストーリー(私の物語)と呼んでいる」

 著者ジャン・ラフ・オハーン(1923年生まれヤン・ルフ・オヘルネとも呼称、Jan Ruff O'Herne)は、白馬(しろうま)事件(スマラン事件)当事者なのだが隠蔽、オランダ人強制慰安婦犠牲者と自称し、証言を開始している。現在はオーストラリア国籍。

50Years of Silence(50年の沈黙)検証

 前掲のごとく証言者は自らを完全な被害者として正当化し証言する。そうしないと身内からも非難され、孤立する。このことを念頭に置き読むのが、常識人である。

巻頭

娘たち、アイリーンとキャロルに

感謝の言葉

 この物語を書くよう励まし、惜しみなく支援してくれたアイリーンとギャリー、キャロルとネッド、フィーンとセレスト。理解を示してくれた夫のトム。かぎりない思いやりを見せてくれたオハーン家の人たちとルーケとフレーケ。援助と激励をいただいた〈オランダ対日補償請求財団〉、とくにシュールド・ラブレー。編集担当のエリザベス・ピューテルと発行人のトム・トンプソン。

 最初に勇気をもって名乗りを上げ、この物語を公表する勇気をわたしに与えてくれた韓国の元「慰安婦」の人たち。

 以上の方々に感謝をささげます。

 ジャン・ラフ=オハーン   

ある時は「物語」、ある時は「真実」と「泣き売」。ある時は「許す(リンチ裁判だが、死刑一人自殺一人服役10人で断罪済みなので当然のこと)」、ある時は「ホロコースト」と「捏造非難」の二枚舌!この騙りは、本当にカトリックなのか疑問である。したたかこの上ない騙り女である。「援助激励をいただいた〈オランダ対日補償請求財団〉」とある。援助は金以外あるだろうか?

ジャン年表と検証資料は「邦訳1999年木犀社・オランダ人『慰安婦』ジャンの物語)」と2009/02/23ピーター·トンプソンとの対話。

1602年(1603年に徳川幕府開始)オランダ東インド会社(アジアにおける国防や条約締結権や商業活動等が国王から与えられた)が、西ジャワのバンテンに商館建設。1799年放漫財政でこの会社は倒産したが、植民地支配がオランダ国家に移り、ジャワ島以外のスマトラ、ボルネオ、セレベス等を武力で征服、「オランダ領東インド」とした。

1870年スエズ運河が開通し航海日数が短縮されると、オランダ人女性も、来るようになったが、それ以前は混血(中国人やインドネシア人とオランダ人男性)の、オランダ人女性がほとんどであった。

1883年ジャン父方祖父アンリは、1865年フランスで生まれ、18歳のとき、両親とジャワ移住。祖母は、オランダとインドネシアの混血。

1923年ジャンは、父(オランダ帰化のフランス人が父、オランダ人とインドネシア人の混血が母)と、オランダ人の母(オランダで技師勉強中の父と、母は出会い、結婚)の3番目の子(兄エドワール略してワルドは、後にオランダ陸軍の将官。姉アリーヌ)として、当時の゙オランダ領東インド゙(現インドネシア、ジャワ島)に生まれた。8年後に妹のジョゼフィーヌ、最後に末子の妹セレストが生まれた。

 父は製糖農園(チュピーリン製糖プランテーション)の従業員、母は製糖農園社交場の図書室や売店の管理人。家族のほかに5人のインドネシア人の同居人(召使)、料理人(イマ)、メイド(スミは寡婦)、ハウスボーイ(イマの息子のチャ)、シボレーの運転手(アーマド)、庭師(サルディ)。ジャンらは製糖農園に住んで、そこからスクールバスで一時間、大都市スマランの、カトリック修道院フランシスコ会経営の学校に通った。

1930年世界恐慌始まる。

1935年製糖農園数が六分の一に減少し、ジャンの父の給料が半分になる。修道女から学費を免除され、ジャンは学業を続けた。

1938年ジャン15歳頃、兄弟三人は、アンプル・ガディンの日本人夫婦の高原農場を度々訪問し、歓迎されている。がしかし、あの日本人も、愛想のいい日本人の写真屋も、スパイだったとと証拠も開示せず一方的に非難している。36p

 1993年なって、私は昔の小学校をようやく再訪しました(40p)。

※それまでは出来なかった。1992年の証言利得で、金回りがよくなった

 

1940年5月10日ジャン教員養成学校在学中ドイツ軍オランダ本土侵入、4日後の5月14日、オランダ降伏

1940年9月アメリカの対日輸出制限措置(援蒋ルート遮断目的の日本の南進政策に報復)のため、輸入できなくなった資源を、オランダ領東インドから輸入しようと貿易交渉(日蘭会商)を開始したが、オランダ本土が降伏しているのにもかかわらず固く拒み、9ヶ月交渉したが、1941年6月決裂した。背後にアメリカ有りは明白で、さらにABCD包囲網で、資源無き小国日本を資源封鎖(兵糧攻め)で追い討ち(宣戦布告)。大東亜戦争は真珠湾ではなく既に1940年に始まっていた。

1941年7月オランダ領東インドが、この地の日本人の資産凍結

1941年9月約7.000名近くいたこの地の日本人に引き上げ勧告し、開始。

1941年12月8日真珠湾爆撃で開戦(日本は英米蘭に宣戦布告)。引き上げ未完了の2.039人の日本人は逮捕され、オーストラリアの収容所送りとなった。後の捕虜交換で釈放になった一部の者以外は、終戦まで拘留された。

※ジャンは被害者視点で一方的に日本非難だが、「収容所送り」はお互い様なのである。これではキリストが嘆く。

 

 ジャンの父47歳もとっくに召集されていて、母一人の肩にかかっていた。

1942年2月15日シンガポール降伏。ジャンは19歳で教員養成学校在学中。一家は海岸から離れ、ウンガラン山山腹バンドゥンガンのアンリお祖父さんのもとに疎開。3月1日日本軍ジャワ島に上陸開始し、8日でオランダ軍降伏。この時まで、まさか負けるとは思っていなかったので、24万人(19万人がジャワ島在住)のオランダ人が一挙に捕虜となった。

 4月1日外国人は全て(主に華僑とオランダ人)、登録書に国籍、出生地、年齢、性別、職業を明記し提出を義務づけた。

 9月民間人婦女子収容命令。ジャン一家は、この年のクリスマス前にアンバラワ(スマランの南40キロ)の第六収容所(終戦時には2.200名の抑留で、日本人と朝鮮人軍属各一名と、インドネシア人兵補50名が警備していた)に抑留された。アンリお祖父さんはフランス人(この時フランスはドイツの支配下が理由)なので、抑留されずに残った。ジャンの姉アリーナは、スマランの町で鉄道局に勤務し、看護婦の助手もしていた、

 捕虜交換で戻った日本人は元の仕事には着かず、軍政下の下で大部分が通訳として働いた。「戦前いた日本人は皆スパイ」だったという誤解の始まりである(今なおオランダ人のあいだには、この誤解はある)。オランダ語は使用禁止で、マレー語(現代のインドネシア語)が公用語となった。目的は「大東亜共栄圏」構築であったが、当初は、資源獲得が最優先されたことはいうまでも無かろう。

 アンバラワ第六収容所所長の白猫をジャンが捕まえて食ったりと、収容所の衛生状態、食糧事情

などがいかに劣悪であったか強調されている。ジャワは人口密度が高く、耕地の一部が製糖農園用として使用されていたため、自給が何とかできていた程度のところに、日本軍が進駐し、そして24万の抑留者なので、インドネシア人たちも同様に皆、劣悪であった。

 食料のみではなく、輸入に頼っていた衣料品、薬品、生理用品等も極端な品不足は、輸入が途絶えたので当然なのである。

 アンバラワ第六収容所には修道女の一団もおり、バラックの一つに小さな「修道院」も有り、彼女達は修道服も着続けていた。そして修道女達だけは、日本人から敬意を払われていた。

 「1944年2月のことです。アンバラワの日本収容所に抑留されてもうかれこれ二年になる(79p)」とあるが、前述のように民間人婦女子収容命令は1942年9月なので、山地疎開のジャンは遅れて、実際の収容は12月頃ではないか?収容期間強調目的で、約1年ほどサバよんでいる。正味は1年3ヶ月程度。これでもカトリック教徒なのか!慰安所は3月1日に開設されているので、2月末のことであろう。

 17歳以上の独身の娘は、ただちに中庭に整列せよとの命令に、キャンプ・リーダーイルデラ夫人や母親たちが抗議したが、受け入れられず後述のジャンの証言のようになった。収容所の通訳は日本人実業家と婚約中の金髪のきれいなオランダ女性であった。

 「イルデラ夫人は、シスター・レティシア率いる修道女の一団と一緒に娘たちを連れて行かないよう日本人に嘆願しました。すべて無駄でした。――わたしたちのみじめな一団に別の6人が加わりました合計16人の娘が、意に反してアンバウラの収容所から無理やり連れ出されたのです」87p

 「スマラン市の山の手チャンディ地区のオランダ・コロニアル様式の屋敷道で、リース、ヘルグ、ミープ、エルス、アンニー、ベッティ、それにジャンが降ろされた。まだ名前を知られたくない人もいるのでここでは仮名を使っている」

 「この館を日本人は『七海館The House of the Seven Seas』と名づけていました90p」とあるが、210p倉沢愛子解説「スマラン市内にあった日本軍の幹部候補生隊が、スマランとアンバラワの四つの収容所から計35人のオランダ人女性を連行して、3月1日からスマラン市内に四つの慰安所を開設した。その四つとは『将校倶楽部』『スマラン倶楽部』『日の丸倶楽部』『双葉荘』で、このうち『将校倶楽部』だけが軍将校専用、あとは民間人にも解放されていた」という。

 ジャンは、連れて行かれたのは『七海館』という場所だったと記しているが、このような場所は記録には残っていない。しかし証言が真実なら、前後の関係からみて、彼女はこの時連れ出された35名の一人であることは間違いなく、彼女が住まわされたのも上記の四ヵ所のうちの一つであると思われる。

 ジャンが真の被害者(偽証でないなら)なら、以下のジャン記載の相手はすべて軍人なので、『七海館』=将校倶楽部』以外はない!なぜ偽ったか!『将校倶楽部』は「スマラン事件」として前述のように裁かれ、断罪済みだからである。カトリック信徒を自称し、学歴や証言でたえず信仰を語り、信仰を証言の強力な道具にしているジャンの、死体(極刑断罪済み)を掘り起こしての再度の断罪は、キリストの根本教義に著しく反するからである!

 三日目に年上のオランダ女性既婚者、ドリーとイヴォンヌが志願してこの館に来て9人となった。

 四日目日本軍将校により、「強制売春の奴隷」にされたことを知らされた。責任者の将校が書類を取り出し、署名させようとしたが、私達は拒否し署名しませんでした。96p

 それからまもなく、――写真を撮ってもらうよう命じられました。――娘達のそれぞれに日本名がつけられ、その名前が掲示板の写真の下に出してありました。わたしは自分の名前を覚えていません。知りたくなかったのです。わかっているのは、それが花の名前だったということだけです。――日本人の女性が現われました。いかつい顔をして、がにまたで、眼鏡をかけています。――この館で女の人に会えて、私達はみなうれしく思いました。「女の人なら――このひどい有様を聞いてくれるわ」ところが、この女性は違いました。――もうぜんとわたしにくってかかりました。97p

 その間に館全体が娼館の機能を果たすよう準備されていきました。――館開きの夜がやってきました。

 今では館は日本軍人でいっぱいでした。101p

 ジャンレイプ受難(後述の証言と同じ)の翌朝、朝食時に「志願者」のドリーとイヴォンヌに「志願の理由」を聞いた。彼女たちの収容所から若い娘達が連れ出されるとき、そのうちの二人はほんの16歳だったので、ドリーとイヴォンヌはかわいそうに思い、自分たちが代わりに行ってもいいと日本人に申し出たのです。「どのみち」とドリーは続けます。「飢え死にするつもりはないからね。生きてこの戦争を抜け出したいのよ」106p

 リースが私の部屋にやってきました。ロザリオを手に下げています。彼女は7人のうちで、私のほかただ一人のカトリック教徒です。ほかの5人はともにプロテスタント育ちでした。――その日からリースとわたしは毎朝、時によると2回以上、「ロザリオの祈り」を唱和しました。ともに「ロザリオの祈り」を上げることが癒す働きをしてくれるのは驚きでした。50年後(1994年?)にオランダで再開を果たしたとき、リースは開口一番こういいました。「覚えてる?二人でずいぶん『ロザリオの祈り』をとなえたわねえ」107p

 日中わたしたちは赦免されることになっていました。――プライバシーなどなく、その結果、よく昼間も強姦されました。

※「よく昼間も強姦されました」とある。昼間から遊んでいる兵隊がいたと語っている。ここは常識で考えてみよう。皇軍の兵である、あり得るだろうか?まさに死人に口無しの言いたい放題である!

 

 わたしは木製の十字架を相変わらずベルトに挟んで身につけており、日本人達から「十字架娘」と呼ばれていることを知りました。

 ある朝、裏のベランダにみなで集まっているとき、鉛筆を出してひとりひとりにハンカチに名前を書いてもらいました。それから中央に「26-2-’44」と書きこみました。わたしたちが強制的に収容所から移された日付です。110p

※収容所からの移送日1944年2月26日。

 

 いついかなるときでも、わたしは相手を撃退しようとしました――かなりひんぱんに日本人を痛い目にあわせてやりました。このように頑として抵抗をやめなかったため、わたしは事務室に呼ばれ、いいかげんにしないと繁華街の売春宿にやってしまうぞ、と言われました。それは兵卒用にインドネシア人の娘を置いた宿です。そこでは待遇はさらに悪くて、夜も昼も「働く」ことになるのだぞ、と。わたしは度を失って事務室を出ました。112

※従ったでは世間の同情は得られず、ただの売春婦に成り下がり非難の嵐となる!抵抗した女性の強調である。そうとうに割り引いて読むべきであろう。なにしろ、反論者は一人も居ないのだから。「兵卒用」とある。ジャンはここを明白に、「将校用」と認識していた。

 

 ミープの部屋を通りがかったとき、――ミープは自殺をくわだてて、両手首を切ったのです。わたしはちょうど間に合ったのです。――車で病院に運ばれました。二、三日たって帰ってきたとき、彼女は口数が少なく、わたし達もそのことにはふれませんでした。いっそうの愛と支えを向けてあげました。113p

※自殺者は繰り返す。「二、三日」で帰すはずなど無い。反論者は物故、「泣き売」強調の捏造である。

 

屈辱の性病検査114p

 「七番館」に軍医がやってくる朝になって、わたしはとっさに思いました。医者なら当然、同情してくれるだろう。わたしは話があるからと言って、事務所に医者を訪ねました。いつもの丁寧なお辞儀をして入ると、わたしはここのありさまを説明しようとしました。わたしたちは心ならずもここにいるのです。収容所から無理やり連れ出されたのです。このことはジュネーブ条約に違反しています。この恥ずべき犯罪を当局に報告してください。

 軍医は頭の後ろで両手を組んだまま、椅子にそっくり返って、わたしを上から下までじろじろ見ていました。こちらの話には何の関心も見せません。同情や弁明のそぶりもありません。わたしはがっかりしましたが、やってみるだけのことはしたのです。そのとき軍医はいきおいよく立ち上がって、こちらに向かってきました。つかみかかってこようとするところを、わたしはすばやくかわして、部屋を飛び出し、裏庭へ行って隠れようとしました。

 わたしは鳥小屋に向かいました。そこは狭く、天井が低めです。軍医は大柄で太っているので、ついてこれれないはずです。――二、三分後、息を弾ませた巨体の胴部が小屋の狭い入り口に押し入り、くぐり抜けようとしました。それと同時に、見物人からいまわしい笑い声があがりました。いつもどおり、結局わたしの負けでした。軍医は初めて館にやってきた日、獣のようにわたしを犯したのです。――

 性病検査の始まる朝がきました。わたしたちは支え合おうと、ひとりが検査をうけているあいだ、べつのひとりが付き添いました。わたしはこの日本人軍医にこんなやりかたで検査されることにぞっとして、完全な屈辱を感じました。軍医は定期的に館を訪れ、そのたびに、まるで処置の一部であるかのように、日中わたしを強姦しました。

※立会人憲兵の記載無し。通訳の記載無し。ジャンは日本語を話せたのか?軍医はオランダ語やインドネシア語を話せたのか?通訳等の第三者が居ない?下記とは真逆の証言である。捏造である。

 検査室にはドアがありません。そのうえもっとひどいことに、さらにわたしをはずかしめることに、いつでもほかの日本人が見物しているのです。図に乗って室内に入り込んだり、開いている戸口に立ったりして、わたしたちが検査を受けているのを眺めているのです。こういう検査は、強姦と同じだけ恐ろしいものとなりました。

※毎週一回軍医が憲兵の立会いで接客婦を検診し、不合格者は接客を禁じるほかの日本人が見物」は立会人憲兵である。

 この屈辱をわたしはどうにか耐えました。磔になる前、衣類をはぎとられたイエスがどんな苦しみをあじわったか、わたしは生まれて初めて完璧にわかりました。軍医の訪問あるたびに、あとでわたしは自室へ行って、「十字架の道行き」の第十番を祈りました。イエスが衣類をはぎとられる場面です。

※イエスと軍医を対比させ、同情を得ようと謀っている

つかの間の休息117p

 ジャンは内働きのハサンの助けを借り、手紙で姉のアリーヌ(蘭印鉄道に勤務中)と連絡を取り合った。姉は信頼できる日本人「ヨディ」に打ち明け、ジャンを助ける計画を練った。

 ふたりの計画はこうです。ヨディが娼館を訪れて、わたしを丸々ひと晩「買い上げ」、そのあいだ、わたしがほかの日本人に強姦されないですむようにするのです。――

 その夜、気さくな感じの華奢な日本人がわたしを求めてきました。わたしを助けてくれることになっているヨディだということがすぐにわかって、うれしさに心が躍りあがりました。――

 ヨディはよく承知しており、日本人のしうちをすっかり恥じていました。つつましいしぐさで謝りながら、何も恐れることはないと言って、丸々ひと晩分買った切符を見せてくれました。――

 一週間というもの、ヨディは毎晩、館にやってきて、わたしを守ってくれました――特にわたしに指一本触れなかったのですから。

 ヨディは、訪ねてきていた時期、よくアリーヌの手紙や、姉がほかの娘たちのために包んだものを渡してくれました。リースもまた短期間、助けてくれる人を見つけていました。この日本人男性はクリスチャンで、いっときアメリカに住んでいたことがあって、リースに同情し、何度か訪れて、強姦をまぬがれるようにしてあげたのです。

 二週間にわたって助けられたあと、コディの訪問が急に途絶えました。ふたたびハサンに姉を訪ねてもらいました。アリーヌの返事によれば、ヨディはほかの部隊とともにスマラン市を引き払うことになり、もう来ることはないそうです。8につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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