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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観冤罪日本反論者亡きジャン・ラフ・オハーン証言は示談金目的の痴漢証言

冤罪日本反論者亡きジャン・ラフ・オハーン証言は示談金目的の痴漢証言

神の手にゆだねて122p

 さらに心配事が降りかかりました。妊娠したらしいのです。わたしはぞっとして、きっとあの最初の夜の結果だと思いました。こんなことはごめんだ。こんなことまでは!どうやって出産を待ち望めばいいのでしょう。あのような恐怖の中で宿った子供をどのように愛せるというのでしょう。わたしの心はとうていその状況を理解しかねました。いつものとおり、わたしは自分の生を神の手にゆだねました。自分のみに起きることは何であれ、神の構想で、自分の人生の中でひとりでに解けるということがわかっていたのです。神がわたしを見捨てるはずがありません。

 その朝、朝食のあとで仲間たちに打ち明けました。――彼女たちはわたしに、例のひどく恐れられている女看守に話すよう勧めました。妊娠したとなれば、収容所に返してもらうチャンスになるかもしれません。

 わたしはその女が事務室にいるところに近づきました。――わたしは入出するとき丁寧にお辞儀をしたのですが、頭をもっと下げてやり直させられました。事態を説明するのはたいして難しくありませんでした。その問題の答えとして、女は錠剤の入った瓶を取り出し、わたしにひと握りくれて、飲ませようとしました。それがどういった錠剤かわかりませんが、明らかに流産を引き起こすためのものです。。わたしは首を振って、飲むことを拒否しました。たとえこの場合でも、胎児を殺すことはできません。そんなことをしたら、滞在になります。拒否し続けたのですが、結局、むりやり錠剤を喉に押し込まれ、そのあとまもなくわたしは流産しました。

※反論者は亡くなり皆無。信用度は半分であろう。ちなみに当時のカトリックは、堕胎禁止である 

ベランダのスケッチ125p

 ――ある朝、わたしたちの話しているのを聞いて、珍しくどりーとイヴォンヌが加わってきました。

 「忠告してあげていい?」とドリーが言います。「あんたたちも自分のチンタ(愛人)を作らないとね。知ってる男で、あんまりつらい思いをさせないのを二、三人選ぶんだね。そいつらに調子を合わせて、おだてあげるのよ。そうすれば、夜になるともどってくれるわ。毎晩、同じ男をとるほうが、ちがう男をあいてにするよりましよ。ほんとよ、これでずっと楽にやってけんだから」

 ――たとえこの忠告が目先のきいたものだったとしても、わたしには絶対に従えないことはわかっていました。

 どれほどのあいだ、わたしたちはスマランの娼館にいたのでしょう?正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヶ月はいました。昼間、館を訪れる軍人はますます増え、昼の貴重な時間さえ、もはや自分のものではなくなりました。この先どのくらいやっていけうのか、と自問しました。組織的な強姦は、わたしたちに影響をおよぼしていきました。

 リースとわたしは「ロザリオの祈り」を、もっともっと唱えました。ヘルグは神経過敏になって、これまで以上に泣いています。ミープは夢遊病者のように館の中を歩きまわっています。ベッティは神経をなだめる為、鈎針で小さな敷物をさいげんなく編み続けています。いっぽうエルスとアンニーは、大好きな食べ物と料理を気晴らしの種にして、数かぎりない献立を教え合っていました。

 わたしたちのもとに位の高い軍人が大勢やってきて、事務室では、怒号の飛びかういい争いが続きました。突然、わたしたちは荷物をまとめて退去するよう命じられました。理由は何ひとつ知らされません。どこへ行くのか教えてもらえないので、恐ろしく思いました。

 ――別の娼館に行くのか?スマラン市には、ほかにもいくつかオランダ娘のいる娼館があることを、わたしたちも知っていました。

※日本軍が、一部軍人の犯罪に気付き即刻閉鎖したのだか、その事実を書けば逆に、日本軍完全不関与の決定的な証拠となるので、慰安婦日数真実は二ヶ月未満(スマラン事件)なのに、「正確にはおぼえていませんが、少なくとも三ヶ月はいました」と、既決断罪済みのスマラン事件とは異なるかのように装い、捏造、「日本軍が慰安所を閉鎖」したことを故意に隠蔽している。真の当事者ならこのことは、知らないと言い逃れできない、明白な事実である。真のカトリック信徒はこんなことはしない。

 ――またもや、おびえる若い娘の一団はトラックで運ばれ、今回は列車で二日がかりの長旅をしました。

 スマラン駅を離れる時から、列車の窓という窓は板でふさいでありました。社内は胸が悪くなるような旅でした。列車は西部ジャワ州の、バタビア(ジャカルタ)から50キロ余り南のボゴールに着いて、最終的に、わたしたちはボゴールの収容所に来ていました。

 なぜ急にスマランの娼館を出ることになったのか、日本人からは何の説明もありませんでした。

※日本側軍政監部本部鈴木博史大尉証言「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本軍政監(第16軍参謀長の兼任)へ伝えると、山本は“まずい、すぐやめさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た――のちに、彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」とある。「慰安婦と戦場の性」221p

沈黙の始まり129p

 ボゴールの収容所に着くとすぐに日本人から、自分たちの身に起きたことは絶対に口外するなと言われました。もし話したら、家族ともども殺されるからな、と。ただちに沈黙が始まりました。わたしたちは沈黙を押し付けられたのです。

 ボゴールのその収容所は一時的な滞在場所にすぎませんでした。そこは、以前オランダ人の住んでいた家々を、周囲に塀をめぐらして収容所にしたものでした。ここでわたしたちは、ほかのオランダ女性といっしょにされました。全員、それぞれの収容所から強制的に連れ出され、日本人用の娼館で働かされていたのです。こうしてボゴールに来て初めて、人権に反するこの極悪非道な犯罪の大きさがわかりました。そこには百人以上のオランダ女性がいました。全員、日本軍による性暴力の被害者でした。

※「百人以上のオランダ女性」は捏造である。終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制(無理矢理のリンチ裁判なので、実数はもっと少ない)で10名が自発だったと認定され、罪名は、強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。

 「人権に反する」とか「性暴力の被害者」は、後の学習証言。

家族との再会130p

 いっぽう、わたしたちの母達、妹たち、弟たちも列車に乗せられて、ボゴールまで二日がかりの旅をしていました。そこでわたしたちは愛する家族と再会したのです。――

 フィーン(妹)はいつでも物事を見抜く子供で、もの珍しそうにわたしを見ていました。頭に巻いてあるスカーフに目をやっているので、わたしは何とか説明せねばと思いました。――

 つぎの日、母とふたりっきりになった時を見はからって、わたしは自分のみに起きたことをすべて話しました。わたしがその話をしたのは、このときかぎりです。母がもてあましているのがわかったので、二度とその話を持ち出しませんでした。そこで、またしても沈黙が始まるのです。

 ほかの娘たちの場合も同じでした。彼女たちも母親の打ちのめされようを見て、まともにその話をすることができなかったのです。わたしたちが娼館にいたときには、仲間同士で話すことができました。今では沈黙するのみです。

※「わたしは自分のみに起きたことをすべて話しました」とあるが、話すものだろうか?

 ――ボゴールに来てから、わたしは頭にスカーフをかぶっていました。たくさんの友だちが助けにきて、坊主頭を覆う布地をわけてくれました。

坊主頭は反論者亡き証言なので、信用度は半分。

慰安所から来た娘133p

 ――人数が数えられているとき、所長がわたしに目をつけました。この男は、ショーコー(将校)クラブという「慰安所 comfort station」から来た娘のことは話に聞いていたにちがいありません。――

※これまで「この館を日本人は『七海館The House of the Seven Seas』と名づけていました90p」と隠していたがここで、「ショーコー(将校)クラブという「慰安所 comfort station」から来た娘」と本音(真実)が出た。「将校倶楽部」 は、スマランの軍将校専用はここだけで、 スマラン事件に該当し、慰安所経営者葛木健次郎は、46年前に懲役7年で判決済である。

 

 所長は刀の鞘を払いました。続いて刀をさっと振ると、わたしの頭からスカーフを取りのけました。わたしは坊主頭をさらして立っていました。女、子供、日本人衛兵の前ではずかしめられ、あざけりの対象となって、残忍な陵辱をを受けたあかしとなって、妹ふたりは、いまだにあのときのことは絶対に忘れられないといいます。

 (収容所での強姦未遂事件があり、犯人の日本人衛生兵を朝の点呼のとき、所長が呼び出し)厳しく叱責、しました。

 衛兵はおそれおののいて立っています。すると所長は拳銃を取り出して衛兵に渡しました。そこでこのあわれな男は口に拳銃を向けて自殺させられたのです。

 ――でも、日本人はなんて変な精神構造をしているのだろう、と思わずにはいられませんでした。ついこのあいだまでわたしたちは、天皇ヒロヒトとケンペイタイと軍の最高機関の承認のもとで、毎日、少なくとも10人の日本人に強姦されていました。それが今、全く同じことをしようとして、この男は自殺させられたのです。

※収容所での強姦未遂事件で自殺させられた?軍法会議にもかけず、勝手に自殺命令など下せない。日本軍貶め目的の捏造話である。

 ――この二、三ヶ月間で母に肉が少しついたと思う間もなく、またもやわたしたちは別の収容所に移されました。――わたしたちはバタビア(ジャカルタ)市のクラマット収容所という大規模な女子収容所に送られました。

収容所の中の収容所137p

 クラマットに着いてみると、収容所内のわたしたちの居住区域は、ほかの部分から完全に切り離されていることがわかりました。実はそこは、収容所の中の収容所だったのです。日本の将校たちは、噂が広がって、わたしたちになされたことの真相が露顕するのを恐れていました。わたしたちを隔離することで、恐るべき話が漏れるのを防ごうとしたのです。またしてもわたしたちは、あのことは絶対口外するな、人に話したら殺すからな、と言われました。

 ――クラマット収容所のほかの区域いる女たちは、わたしたちと接触するなと言われていました。ともかくも、わたしたちが隔離されている理由についてはなおも噂が広まり、残酷にも、こちらの収容所にはフーレン・カンプ(売田女収容所)という名前がつけられました。わたしたちは自由意志で日本軍の売春宿で働いていたとおもわれていました。

※オランダは「飾り窓」という伝統の、公娼の国である。35人(リンチ裁判なので実数はもっと少ない)程度の者が居たから、「フーレン・カンプ(売田女収容所)」と呼ばれたは、協調のための捏造であろう。35人が黙っていれば、バレル事は無い。以下の「売女、裏切り者、コナイネン(兎たち)」も捏造。

 ――そこの境遇は、十分ひどかったアンバラウ時代よりもさらにひどいものでしや。収容所のjほかの区域にいる女達が兵越しに、こちらに向かって大声で口汚くののしり、言たいことを書いた紙を石に結わえて塀の上から投げてよこしたものです。わたしたちは売女、裏切り者、コナイネン(兎たち)と呼ばれました。わたしたちの話を信じてくれたのはカトリックの修道女だけです。修道女たちとわたしたちはひそかに連絡を取り合っていました。

 わたしたちの収容所に居たある女性は、白い肌と金髪のために「ブロンディ」というあだ名がついていました。ブロンディは自由意志で娼館で働いていましたが、妊娠して収容所にもどされたのです。だれが父親なのかまったくわかりません。娼館にいた時代の成果ではあったのですが。

 ブロンディは感じのいい若い女性で、とてもうれしそうで、自分の妊娠を誇りにさえしていました。子供達も彼女が好きで、お腹がだんだん大きくなると、赤ちゃんの誕生を心待ちにしました。現実にはブロンディは7ヶ月で双子の赤ん坊を出産しました。日本人の顔をした、すばらしい双子です!子供たちには、単調な収容所生活の気晴らしをしてくれる楽しい出来事になりました。だれもがブロンディの双子の誕生を祝いました。子供たちは双子の赤ん坊のことでやきもきし、母親の支えとなって育児を手伝いました。

 ――クラマットに近隣の男子収容所からひとりの医師がやってきました。――先生は診療室を開設しました。母親たちはみな喜びました。娘達も喜んだなかで、わたしだけは違いました。わたしに関するかぎり、婦人科医がやってくるのは、屈辱がそっくりそのまま再開されるということでした。――母にしきりに説得されて、しぶしぶ承知したのです。――あの軍医は娼館を訪れるたびにわたしを犯したことを。こういう体験のおかげで、わたしは医者への恐怖心を植えつけられたのです。

※ジャンは家族で収容されている。これは泣き売のために取って付けた嘘。

戦争を生き抜く141p

1945年1月18日、この日はわたしの22歳の誕生日でした。わたしの髪の毛は人並みにもどっていました。

 ――1945年8月15日、日本の無条件降伏とともに戦争が終わりました。

※日本貶め目的の捏造。軍隊のみが無条件降伏で政府は有条件降伏。

 

 ――わたしたちはほかに行くあてがないのでさらに5ヶ月、クラマット収容所で過ごさねばなりませんでした。

 ――わが家は全員、戦争を生き抜いたのです。スマトラ島で日本軍に捕らえられていた父も、ヨーロッパでドイツ軍の捕虜となっていた兄のワルドも。祖父のアンリも姉のアリーヌも戦争に生き残っていました。

父の受難144p

「死の鉄道」「ロームシャ(労務者)」「順洋丸」等、後付の知識とともに、「日本人が救命ボートを占領し、溺れかけている人がしがみつこうものなら、その手を切り落としました」と見てきたように書き、日本を貶め、神を信じるジャン家はみな善人としている。

解放所の喜びと失望148p

 ――収容所を通っていくとき、ひとりの女に道をたずねました。すると彼女は無造作に顔をそむけ、ほかの女たちにささやいたのです。

 「ほら、売女収容所のやつが行くよ」

※被害者協調のための捏造。通りがかりの人間に、「売女収容所」かどうか解るはずなどない

 わたしは身の置き所のない思いがして、いっそうの屈辱感にさいなまされました。沈黙は続きました。

 ――妹たちまでが、わたしのみに起きたことで侮辱されました。けれども、いとしい修道女たちはわたしたちを心から迎え入れてくれました。この戦争の歳月、彼女たちが何とか尼僧服を着とおしたのは驚きでした。もっとも、もう真っ白というわけにはいきませんでしたが。――

 わたしは今やなんとしてでも司祭と話をする必要にかられていて、ミサが終わったあとで司祭に会うことにしました。――わたしはその司祭に、日本人から受けた試練の話を語りました。

 つらい困難なことでした。ときどき話しやめて涙を飲み込まねばなりませんでした。話のあいだ中、司祭はじっとすわっていました。最後にわたしは、それでも修道女になりたいので、導きと忠告をお願いします、と言いました。恐ろしい沈黙がありました。わたしは緊張して下唇を噛み、手を揉み合わせはじめました。ついに司祭の言葉が返ってくると、わたしの心はしぼんでしまいました。あのときの言葉は、まだ一言一句おぼえています。

 「わが子よ、こんな事情では、あなたの身に起きたことゆえにも、修道女にならないほうがいいと思います」

 ――わたしはその言葉に打ちのめされ、ひどく失望しました。深い劣等感を与えられました。自分は今では信仰生活に入るにはふさわしくないのか?自分は急に変わったというのか?自分は、けがれてきたないのか。

 ――わたしはいつも司祭の言葉を絶対視していたので、その意見に異論を唱えたりはしませんでした。

※キリスト教信者を強調することで、同情を得ることが目的。反論者亡き証言なので、信用度は半分。

インドネシアの独立戦争151p

 母が入院しているので、わたしは妹たちをしあわせにしてやる責任がありました。今では14歳と11歳の妹たちは、子供時代の貴重な3年半を収容所で無駄にしたのです。

 ――インドネシア人はオランダの支配にもどることを望まず、日本の反オランダ宣伝にあおられて、暴力をもってオランダ人に敵対したのです。

 ――アンバラウの収容所にいたときからの親友で、やはりスマラン市の娼館に押し込められた女性は、わたしの隣の床の上にうずくまっているところを刺し殺されました。――

 50年後、わたしは、収容所で無くなった女と子供の為の戦没者墓地を訪れて、あの勇敢だった女性の墓に小さな花束を手向けることができました。

 この5ヶ月間、収容所を離れるのはとても危険でした。――それでもわたしは母を見舞いに、歩いて片道20分かかる病院通いは続けることにしました。

 ――病院に着くと、そこにはいつでもオランダ人の死傷者が運び込まれていて、忘れようのない光景がありました。インドネシア人にナイフで刺され、切り裂かれ、銃で撃たれて血まみれになっているのです。

トムの愛と理解に支えられて

 余りに危険な状況なので、イギリスのインド第23師団の軍隊がオランダ領東インドに派遣されてきました。――

 イギリス軍が到着したとき、大変な歓呼で迎えられました。そこにはイギリス軍人だけでなく、グルカ兵からなるインド師団もいました。――

 トム・ラフ(夫)と出会ったのは、イギリス軍の到着があってのことです。母の見舞いに行くため、表門を通り抜けているときでした。ハンサムな兵士がこちらに近づいて、護衛もなしに収容所を離れるのはとても危険だと言うのです。

 「どこへ行くのか言ってくれれば、ジープで送ってあげますよ」

 それ以来、母の見舞いに行きたいと思えば、必ずトムが病院まで無事送り届けてくれるようになりました。――これが戦時のロマンスの始まりで、トムとわたしは定期的に合うようになりました。――

 わたしはトムがとても好きになりました。――トムは親切で優しく、うるさいところがなく、ひとことで言えば「いい」人でした。ふたりが愛し合っているのがわかって、わたしは自分のことを話す決心をしました。

 ふたりっきりでジープにすわっていたときです。わたしは戦時中、野蛮な日本人から受けたしうちを打ち明けました。彼はさえぎることなくわたしに話をさせてくれて、そのあいだ涙を浮かべていました。わたしがそんな目にあったと知っても、トムは、あるいは彼のわたしへの愛は少しも変わりませんでした。わたしの立場を理不尽に裁断したあの司祭とちがって、トムは愛と理解で答えてくれました。そこでわたしは自尊心と自身を取り戻すようになったのです。

※「トムに野蛮な日本人から受けたしうちを打ち明けました」は捏造であろう。「打ち明け無い」が常識である。オーストラリア移民15年目の1975年ジャントムは高度の脳障害の寝たきり病人となり、この本出版の翌年1995年(ジャン歳の時)に死亡している。トムは脳障害の寝たきり病人、真実を知るものはジャンのみなので、捏造は自在であった。

 トムは、日本のこの戦争犯罪を報告することが肝心だと考え、わたしをイギリス軍警察本部にある軍当局の上層部へ連れて行きました。わたしは当局に自分の話を語りましたが、それっきり何も聞かれることはありませんでした。

※事実なら重要証人、終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議の証人となり記録に残っているはず。捏造である。

 産経新聞(2007.3.10)には「慰安婦問題に詳しい日米関係筋などによると、オハーンさんは戦後すぐにオランダ当局がインドネシアで開いた軍法会議で裁いた『スマラン慰安所事件』の有力証人で、その証言などにより、上層部の方針に違反してオランダ女性を連行して、慰安所に入れた日本軍の将校と軍属計11人が48年3月に有罪を宣告され、死刑や懲役20年という厳罰を受けた」とジャンが、軍事法廷で証言したことになっているが、これは誤報である

 

 トムとわたしは2ヶ月ほど交際しただけで婚約することに決めましたv。1945年のクリスマス・パーティーのことでした。インドネシアの楽団が「いつでも君を愛して」を演奏していました。トムは緑の翡翠の婚約指輪を取り出して、わたしの指にそっとはめてくくれました。

 それからまもなく、わたしたちは父と再会し、オランダ船に乗ってオランダへ向かいました。オランダに帰ってから結婚するまでの6ヶ月間、トムとわたしは毎日手紙をやりとりしました。

 手紙に書くほうが、相手を前にして言うより、ずっとたくさんのことが言えます。こういう手紙を通じてトムは、わたしが結婚生活の性的部分に直面するのはむずかしいこと、気長にわたしと接しなければならないだろうということをわかってくれたと思います。この親切でやさしい人のおかげで、ようやくわたしは戦時中の記憶を置き去りにして、自分の為にイギリスで新生活を始める準備ができたのです。――

※「わたしが結婚生活の性的部分に直面するのはむずかしい」と被害者を強調し同情を扇動9につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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