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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観当事者物故の45年後悪魔の証明となってから犯日のオランダと証言者

9当事者物故の45年後悪魔の証明となってから犯日のオランダと証言者

 1946年8月14日、わたしたちは結婚(ジャン23し、「ゾンネフーク」と名づけた家で暮らしました。オランダ語で「陽だまり」という意味です。

 わたしはすぐに子供を作りたかったのですが、体に損傷を受けていたため、妊娠を持続させられませんでした。現実には、3回流産したあと、大手術を受け、最終的にふたりの娘のアイリーンとキャロルをさずかりました。

※「体に損傷・3回流産・大手術」も証拠皆無なので、被害者強調し同情を扇動目的の捏造。「2ヶ月未満」でそうなったのなら、他の9人もそんな体になったのであろうか?当時の職業婦人は皆、生存不可であったろう!

 イギリスには14年間暮らしました。しあわせですばらしい年月でした。1960年、一家でオーストラリアに移住しましたが、それを悔やんだことは一度もありません。オーストラリアはわたしに親切にしてくれて、わたしは自分の新しい国が大好きです。わたしたち一家は、この国でしあわせに暮らしています。

※オランダ語と英語、上手く話せたのか?

 

2009/02/23ピーター·トンプソンとの対話より

 私はトムと、14年間イギリスに住んでいました(37歳まで)。 ――私たちはバーミンガムの郊外に住み、とても幸せでした。 

 その後、私たちは新聞のこれらの広告を見ました。 それで、私たちは、現在、10ポンドのPOM(ヨーロッパからの白人移民)と言うことになりました。これは1960年37だった、私たちはオーストラリアに来て後悔したことがありません。

 1975年)に、私たちの人生は、ちょうど逆さまになってしまったトムは交通信号で道を渡っていて、はねられました。私が病院に着いたとき、彼昏睡状態で、そこに横たわっていました。至る所に行っているチューブは、彼が高度の脳障害であると私に語った。――

※オーストラリア移民15年で、夫は高度の脳障害となり、子供は女二人の女三人で、寝たきりの病人をかかえての身寄り無き移民の地での生活は、悲惨を極めたであろう事は、常識として推察出来る。

 トムは、彼が事故にあってから20年後の、1995年(ジャン歳の時)に死亡しました。

 私が1992年に意見を述べるまで、トムは私の秘密を知っていたただ一人の人でした。

 

50年の沈黙を破って

 長年のうちには、娘たちに真実を話しそうになったときがいくらでもあります。1980年代の初め、キャロルといっしょにテレビでアンザック・デー(第一次世界大戦に参戦したオーストラリア・ニュージーランド連合軍団、略称アンザックが、1915年4月25日、トルコのガリポリに上陸した記念日)の行進を見ていたときのことです。その行進にフェミニストのグループが合流して、いつもの男支配のやりくちを「粉砕」したのです。

※「娘たちに真実を話しそうになったときがいくらでもあります」とあるが、こんなことを娘に話しても、「マイナス要素のみ」であろうと、誰もが思うであろう。余りにも非常識である。

 

 この女性達は怒っていました。戦争で強姦の犠牲となってきた女たちのために、正当な扱いと認知を求めていました。彼女たちが行進から強制排除されたとき、わたしは心のなかで大声をあげていました。

 「あの人たちは正しい!それは本当よ。人々がわかってくれさえしたら」

 わたしは娘たちに話すのにふさわしい時を待ち受けて、一生を過ごしてきたような気がしました。でも、自分の秘密をうまく隠してきたので、話す糸口がありません。

 誕生日や特別な機会に、わたしがいつも「何をしてくれるにしても、花を買うのだけはやめてちょうだい」という理由を、娘達はどうやって知ることができたでしょう。

 どうやって娘たちは知ればいいのでしょう。花はわたしの心のなかで永久に、娼館のあの恐るべき最初の夜を連想させるということを。「七番館」の掲示板に張ってあった自分の花の名前を連想させるということを。――

ショーコー(将校)クラブという「慰安所 comfort station」から来た娘133P」と書いておきながら、ここではまた「七番館」にもどっている。「七番館」では意味が通じないので、「133P」では真実を書かなければならなかった。意図的は明白である。

 

 自分の身に起きたことを秘密にして生きていくのは大変な重荷です。自分の内に恐ろしいものがあって、それをぜひ人に話して聞かせたいのに、自分ではそれを恐るべき恥辱に思っているため話すことができない――それがどういうことか、誰にも想像がつかないでしょう。

 誰にも知られてはならず、一生のあいだ重荷をにない、いつの日か、どうかして秘密が知れるのでは、という心配にいつもつきまとわれているのです。

 50年のあいだ、わたしは、絶対にしてはならないという明白な理由さえなければ、そのことを絶叫して言いたいと思っていました。私はそのことについて絶対に、自分の家族とさえ話せないのです。ほかの女たちも話せないでいました。

 50年にわたる悪夢と眠れない夜。50年にわたって消えることの無い苦しみと、心にくいこんだ恐ろしい記憶。そういうものがいつまでもそこにあり、きっかけをまっていました。

※オランダは犯日で賠償目的。ジャン自身は困窮生活からの脱出金目的。真相を隠し、「証言者」となった理由作りに懸命である。当然この捏造犯日物語りは、目的は金で同じ、オランダ政府との合作である。

 

名乗りを上げた韓国の「慰安婦」

 1992年の初めごろ、テレビで韓国の「慰安婦comfort women」の窮状を見るたびに、わたしは心を動かされ、涙をさそわれました。彼女たちが正義を求めて泣く姿を、わたしは心を痛めて見ていました。ただただ彼女たちに腕を回して抱きしめたいと思いました。自分は彼女たちに味方すべきだ。そう思いました。

 それが本当の始りでした。この強烈な感情が自分の内にありました。自分はこれらの女たちに味方せねば、彼女たちを支援せねばならない。すると突然、今なら語れるような気がした。この長い年月、心のなかにかかえていた話を。この韓国女性たちの勇気がわたしに勇気を与えてくれました。とうとう、その話を語ることができるのです。

 それにしても、よくもまあ日本人は、これらの哀れな陵辱された女性たちのことを「慰安婦」などと呼べるものだ。彼女たちの姿をテレビで見ながら、わたしは思いました。「慰安婦」という婉曲的な言い回しは侮辱です。マスコミまでがこの言葉を使い続けていることをわたしは残念に思いました。私たちは決して「慰安婦」ではありませんでした。慰安という言葉は、温かくてやわらかい、安全で楽しいものを意味します。それはやさしいということです。わたしたちは大日本帝国軍によって奴隷にされ、徴用された戦争陵辱の犠牲者だったのです。

 最初に声を上げた韓国のいわゆる「慰安婦」金学順さんでした。彼女は家族がみな亡くなり、もはや恥じることがなくなって、日本政府に補償を要求する決心をしたのです。この勇気ある実例のおかげで、ほかの「慰安婦」も名乗りをあげ、日本に対する訴訟の仲間入りをしました。

 

8月15日『ハンギョレ新聞』の報道により、金学順(キム=ハクスン)が「親に売り飛ばされた」と証言していた事が発覚する。「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌にあるキーセンの検番売られていった。3年間の検番生活を終えた金学順さんが最初の就職だと思って、検番の養父に連れられて行った所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」(ハンギョレ新聞91年8月15日)。

 8月16日「1940年春、中日戦争が最も激しかった中国中部地方の鉄壁陣という所にわけも分からなくて売られて行きました。中国人が戦争のために捨てて行った民家を慰安所として整備していたのです」。金氏が到着した場所ではミヤコ、サダコと呼ばれる17~21才の韓国女性3人が、日本軍を相手にすでに売春行為をしていた」(朝鮮日報91年8月16日)。

 

 そのときまでの日本政府は「慰安婦」に謝罪すらしていませんでした。その問題にまったくそ知らぬ顔をして、日本が何千人という女性に、日本軍のための売春宿で、むりやり売春させた事実すら否定してきたのです。アジアの「慰安婦」はヨーロッパ女性の支援を必要としていることが見てとれました。これはオランダ人の娘たちにも起きたことです。戦時下の強姦は戦争犯罪だということが認められねばなりません。ヨーロッパ女性が名乗り出たら、きっと日本は目を向けるでしょう。

※14歳の時、母親に強制連行され、平壌にあるキーセンの検番に人身売買され、検番の養父に更に3年後に強制連行され、中国中部地方の鉄壁陣の慰安所に人身売買された。強制連行し人身売買したのは母と養父で、日本や日本軍ではない。謝罪義務など皆無。事実を隠蔽した、オランダとジャンの捏造である。

 

 ボスニアの戦争が、世界の変わっていないことを示していました。まるでそれが戦争の自然ななりゆきであるかのように、女たちはまたしても強姦されていました。まるで戦争が強姦を正当化できるみたいです。そのことはいつでも軽く扱われました。

 これが50年前だけに起きたのではないことがわかりました。わたしは自分の話を語らねばならない。それがこういう残虐行為が続くのを止めるのに役立つかもしれない。そう思いました。

※証言は、キリスト教の犠牲的精神であるかのように装い、真の目的「ゆすり、たかり、金盗り」を隠蔽した。こんな輩がキリスト教信者を名のるのでは、キリストが嘆く。

 

 こういう思いが自分の内で積み重なっていったおかげです。アデレードの戦争記念碑に、ジャワが日本軍に降伏して50年を記念する花輪を捧げようと思ったのは。それは1992年3月8日、日曜日のことでした。

 地元の「メッセンジャー・プレス」とアデレードの「アドヴァタイザー」を通じて、わたしは人々に仲間入りするよう呼びかけていました。特に第二次大戦中、ジャワの日本軍収容所にいた人たちに。さらに日本人にも、平和と和解のしるしに、わたしの隣に立ってくれるよう呼びかけていました。その日、わたしは日本人に対して怒りも恨みも憎しみも感じませんでした。許しのなかにのみ回復の道が見つかるのです。

 その朝、花輪を捧げたとき、収容所でいっしょだった女性と子供の顔が、あざやかに心によみがえってきました。これらの女たちはすさまじい境遇の中で、さまざまな恐怖、屈辱、残虐行為、陵辱、飢えに耐えたのです。今、わたしたちは彼女たちの勇気、彼女たちの苦しみ、彼女たちの忍耐に敬意を表し、日本軍の収容所で死んだ何千人もの女性と子供の誉れを後世につたえたいのです。これら幾多の勇気ある女たちのおもかげがほうふつとしました。彼女たちの話は世に知られないでいます。彼女たちは戦争から、英雄のように勲章をつけてもどったわけではありません。傷痕をつけてもどったのです。

※「日本軍の収容所で死んだ何千人もの女性と子供の誉れを後世につたえたい」と、「勝者善敗者悪」の勝者気取りで書いているが、何千人もの」は誇大捏造。当時は戦争、「恐怖、屈辱、残虐行為、陵辱、飢え」はお互い様である。日本はABCD封鎖で、アウシュビッツのガス死以上の餓死(日本殲滅)、ホロコースを迫られたのだ。求道者モドキである。

 

 戦争記念碑の段上に置かれた花輪をわたしは見つめました。それが、どうもわたしをしきりにうながしているのです。もうひとつの話をするように、まだ語られていないたったひとつの話をするように、と。第二次世界大戦に発する、最悪の基本的人権侵害の一例であるあの恥ずべき話を。50年後の今、自分がそれを語りたいのはわかっても、いつ、どのように、ということまではわかりませんでした。

 あの日曜日、わたしが花輪を置いたとき、それは知られざる勇敢な女たちへの賞賛のしるしだったのです。残忍な日本軍によって、わたしと同じく苦しんだ女たちへの。

※証言の真の目的、「ゆすり、たかり、金盗り」を隠蔽し、「基本的人権侵害」すり替えに必死である。

 

秘密を明かすノート165p

 その年(1992年)も終わりに近づいた10月のことです。オランダのドオ・ハイスマンから公式の手紙が届きました。 「ジャンニーさん、〈オランダ対日道義補償請求財団〉にかわってお手紙をさしあげます。あなたが証人になられることに同意していただけないかと・・・」

 ドオは東京で開かれる〈日本の戦後補償に関する国際公聴会〉で発言する人を探していました。母の友人だった彼女は、わたしの戦争中の体験を知っており、前もって手紙や電話で打診してきていました。そこでわたしは、これぞ声を上げる好機だと知ったのです。

※娘の不幸を、他人に吹聴する親などいるだろうか?ジャンの捏造である。

 1990年(条約締結34年後オランダは、韓国金盗り話に便乗し、ゆすり、たかり、金盗り目的」の対日道義的債務基金(JES)を結成し、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて、一人当たり約2万ドルの補償を求める運動が始まった。被害者がいなければ「金盗り難癖」は当然始まらない。同時に、「被害者(証言者)探し」を開始したのは言うまでも無い。

 移民15年で夫は高度の脳障害で寝たきりの病人、それから15(1990)年移民の地で困窮の極みの女子供二人の母親ジャンは、「金儲け話」物色中であったことは想像に難くない。

 二人の母親ジャンが、待ってましたとばかりに飛びついたであろうことは、想像に難くない。女は弱し、されど母は強し(したたか)である!

 

 公聴会は12月9日と10日日本弁護士連合会と、東京に本部のある人権擁護市民団体の支援を受けて、東京でおこなわれることになっていました。

 わたしは証人になりたかったのですが、それは娘や孫、親族、友人、同じ教区の人たちに、50年近く胸中に秘めていた話を語るということです。やはり、なかなか決心のつかないことでした。

 どのようにして母が娘に、祖母が孫に語ればいいのでしょう。第二次大戦中の3ヶ月日本軍によって毎日、組織的に強姦され、なぐられたという話を。

※実際は25人(リンチ裁判なので真実はもっと少ない)2ヶ月未満なのに「3ヶ月日本軍によって毎日、組織的に強姦され、なぐられた」は、「暗に収容所の捕虜」を意図した、誇張捏造である。

 

 ノートに話を書き記して、わたしの恐ろしい秘密をふたりの娘に話すことにしました。――

 9月のある朝、――下の娘キャロルと空港で落ち合う会うことになっていたのです。彼女は中部オーストラリアで、次の個展に向けて絵を描くため、アリス・スオウプリングズへ行く途上にありました。空港で、今では5歳になる孫娘のルビーを受け取って、キャロルの留守中、わたしが預かることになっていました。

 それは、わたしの人生でいちばん重大といっていい瞬間でした。そのノートを渡せば、たちまち、わたしの何よりも暗い最奥の秘密が明るみに出るのです。キャロルに搭乗するよう呼び出しがかかったとき、わたしは彼女の手荷物のなかにノートをすべりこませました。

 「ほら、これ読んで」。あっさり言ってのけました。

 キャロルは、何かしら、というようにこちらを見ました。――推さない孫の手を引いて帰宅しながら、わたしは泣いていました。

 機内でわたしの話を読んだキャロルは完全に打ちのめされました。泣く崩れ、涙が止まりません。近くに座っている乗客は、彼女の悲嘆ぶりがわかっても、どうしていいやらわかりません。エア・ホステスはティシューの箱をつぎつぎくれました。だれもが、この人はきっと肉親を亡くしたのだろうと思いました。

※娘の大事(5歳になるを娘母親に預けてまでの)な仕事次の個展に向けて絵を描くため、アリス・スオウプリングズへ行く)の直前に、しかも、みんなが居る飛行機の中で読むように手渡すとは、常人のなすことではない!「同情を誘うための」作り話は見え見えである!下記が、常人の親子。

 

 上の娘のアイリーンには次の日、家で静に読めるよう、ノートのコピーを渡しました。読み終えるとアイリーンはうちにやってきて、何も言えないまま、わたしを抱きしめました。娘たちは、母親がそんな恐ろしい目にあったということに打ちのめされ、その事実を受け入れるには長い時間がかかるだろうと思いながら、何週間も泣き暮らしたのです。

※これが、実際の母と娘のすることで、前記は、「同情を誘うための」作り話なのは、見え見えである!娘にすぐバレル捏造話をここで書いているということは、娘も共謀か?なら、母親はニセの証言者?と疑うのが、常人の心情である。

 

日本の国際公聴会へ167p

 公聴会で証言しに東京へ行くことにしたといったとき、キャロルは感動するとともにショックを受けました。

 「ママ、ひとりじゃとても東京に行かれないわよ。わたしたちもついていくわ」

 わたしが出かけることは、教区の友だちのだれにも話していませんでした。それでも、一週間消えたっていいじゃない、だれも困りはしない、と単純に考えていました。

 12月6日、東京に到着しました。満員電車で東京へ向かう2時間は悪夢のようでした。――ホテルのレストランは閉店していたので、その古い地区の裏通りを歩くことになり、ようやく小さなレストランを見つけました。

 わたしたちの一行は、キャロル(末娘)夫のネッド(夫も共謀か?わたし、それにオランダの〈対日道義補償請求財団〉の代表二人でした。このふたりはアメリカ人弁護士のラッセル・ハントリーと、オランダ人弁護士で東京での公聴会のあいだじゅう、守護天使のように私のそばにいてくれることになりました。わたしはキャロルの隣にすわってメニューを見ていました。

 目を上げると、店主の、太っていかにも安っぽそうな男が、キッチンのドアの柱にもたれて、わたしを上から下までじろじろ見ていました。娼館でしっかり記憶に刻まれた例のあの目つきです。それがわたしをあの暗い過去に投げ込んだのです。恐怖が体をはい昇っていくような気がして、パニックになりかけました。背筋を震えが走りました。体がすくんでしまいました。

 キャロルもその男と、こちらを見ているさまに気づきました。

 「さ、ママ、こんなところは出ましょうよ」

 わたしの反応を察して、そう言いました。

 あれがもう一度、わたしの体に残る深い傷痕をまざまざと思い起こさせたのです。これほどの年月がたったあとでさえ、治癒を要することがまだたくさんありました。

※日本を徹底的に叩き貶め、完全な被害者とならなければ同情は得られず、金も得られず、ただの売春婦になり下がり、娘は非難の的となる。母親は、日本バッシングに必死である。

 

 国際公聴会の前夜、参加者全員のために歓迎会が開かれました。――

 わたしたちは話をかわすことはできませんでした。共通の言葉がなかったのです。でも、わたしはすぐにでも彼女たちを抱きしめたい気持ちでした。ひとりの女性が特に目にとまりました。中国人で、黒いズボンに黒い中国式上着という黒づくめの服装です。――

 わたしは部屋を突っ切って、この人に会いに行きました。ふたりで抱き合ったとき、まるでわたしの苦しみの一生が、突然、この小さな女性の抱擁のなかで溶け去るように思えました。わたしたちは長い貴重な抱擁をかわしたのです。

※母親は金と娘のために、求道者を演じ、被害者に成り切った。

 

 その夜、わたしはすばらしい日本人にたくさん会いました。贈り物や、共感と支援の表明が雨あられと降りそそがれます。これら若い世代の日本人は、父親たちのしたことの罪滅ぼしををしたがっているかのようでした。

※「父親たちのしたことの罪滅ぼし」と書き、被害者に被害者に成り切っている。

 

 翌日の12月9日、――わたしは、夜のテレビの時事番組で放映されるインタビューに応じました。

 自分の話を初めておおやけにしながら、わたしはインタビュアーの若い日本女性の目を見つめていました。彼女の頬に涙がつたい落ちるのを見たとき、日本の若い世代には、真相を知りたいと思っている人たちがいることを実感しました。

※被害者に成り切れたと喜びの心情吐露である。

 

証言する「慰安婦」たち171p

 12月9日の公聴会では、午後2時から8時まで、もとのいわゆる「慰安婦」の証人が証言しました。韓国、北朝鮮、台湾、フィリピン、中国の人たち、それにオランダ領東インド出身のわたしです。さらに強制労働の犠牲になった中国、韓国、サハリンの男性が、言語に絶する苦しみを語りました。――

 最初に三人の女性が、いいようのない屈辱、拷問、苦しみ、迫害の話を語り、わたしは胸をいっぱいにさせて夢中で聞き入りました。聴衆の多くが泣いています。三人目は中国の万愛花さんでした。日本軍によってなされた野蛮な犯罪行為を語るうちに、彼女は記憶に圧倒され、壇上で気を失って、うしろなりに倒れてしまいました。

 ――医師が姿を現しました。聴衆席はざわめいていました。つぎはわたしが発言する番でした。――中央の演壇に向かいました。わたしの脳裏を去らないあの秘密を公表するのです。10へつづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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