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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観「売春婦」を貫いたオランダ人女性こそが「思いやり基金」真の受領者

10「売春婦」を貫いたオランダ人女性こそが「思いやり基金」真の受領者

 キャロル(末娘)とヘラルドを両横にして席につくと、わたしは証言しました。陳述の一部として、日本人がわたしにしたしうちは許すけれども、決して忘れることはできない、という意見を述べました。

※「許す」としているの言葉のみで、行動は「捏造難癖金盗り」で、明白な言行不一致。

 その日、あとで日本人の人権問題弁護士のひとりが近づいてきて言いました。

 「わたしにはわかりませんね。なぜ、あなたは許したいのですか?

 この人は、それではわたしたちの申し立てが先に進まないと思っていました。

※日本人の人権問題弁護士が「許すな!と、けしかけた」とジャンは書いている。

 

 ネッドは聴衆席に出て、ジャーナリストにまじって、わたしの証言をビデオにおさめていました。

 ――韓国女性の一人が一瞬その場にとどまって、苦しげに叫びました。

 「どういうわけで朝鮮の女たちはあんな恐ろしい目にあわされたのか?なぜ、わたしたちの青春は花の盛りで引きむしられたのか?・・・人をないがしろにして!」

 聴衆席には同じオーストラリアから来た人がいました。オーストラリア・ブロードキャスティングコーポレーションの〈7・30リポート〉の若い記者で、このところ「慰安婦」問題についてリポートをまとめていました。公聴会の直後、わたしはこの人のインタビューを受けました。いつ放映されるのかと聞きますと、「明日です」という返事。

 となると、わたしがアデレードで飛行機を降りるときには、地元の教区の人たち、わたしの友人全員がこの話を知っているのです。どんな反応を見せるでしょう。

 その夜キャロルとわたしはホテルの着物を着て、ベッドに体を横たえ、公聴会の前に収録されたテレビ番組を見ました。そこではジャワ時代のわたしの家族の写真が映し出されました。母も父も、バンドゥガンにあった祖父の美しい家も。

 これらのいとしい人たちと大切な過去を、東京最大の報道時事番組で見るのはとても奇妙な気分でした。個人のものだったこれらの時は、今では歴史の一部になっていました。わたしは泣きました。

 その夜は眠れませんでした。わたしの顔は、わたしの心は、際限のない苦悩でいっぱいでした。

 よく10日、戦争と人権に関するシンポジュウムが催されました。シンポジュウムのさなか、ヘルドからファックスを手渡されました。当日のオランダの新聞の切り抜きです。それは一面記事でした。

 スマラン市でわたしと高校がいっしょだった、そしてやはり日本軍によって娼館に入れられたエレン・ファン・デル・プルーフが、報道機関の求めに応じて名乗り上げていて、その記事がわたしのとならんでいるのです。わたしはとてもうれしくて、シンポジュウムの出席者にそのいい知らせを教えてあげました。

 「いいこと、どうなるかわかる?みんなが名乗りを上げると思うのよ。そうなったら、わたしたち、強いわよ!」

ジャンと新たな証言者(エレン・ファン・デル・プルーフ)は、高校はいっしょだったが抑留所は、ジャンがアンバラワ(スマランの南40キロ)の第六収容所で、プローグはスマランのハルマヘラ抑留所、その後クラマット収容所で異なり、『七海館(ショーコー(将校)クラブ=将校倶楽部)』では一緒ではなかった。

 「従軍慰安婦 吉見義明 岩波書店 1995」の(P184)に、オフェルネ(ジャン・ラフ・オハーン)プローグ゙(エレン・ファン・デル・プルーフ)の証言は、事件後、ほぼ50年たってからのものである。この証言内容は、いくつかのくいちがいをのぞけば、敗戦直後になされた裁判での証言おどろくほど共通している」とあるが、なんと「3ヵ月後(実際は2ヵ月未満)に解放される」と証言まで捏造で、同じなのだ?

 

 そのときです。オランダにもどって、あのときの娘たちと再会したいと思ったのは。

 ――〈被爆者の会〉の女性の一団が――ヒロシマの生存者ですが――会議の合い間にわたしのところへやってきました。

 「今では、苦しんだのはわたしたちだけではないことがわかります」

 そう言って、わたしを抱きしめたのです。――

 翌11日、わたしたちの一団は国会に迎えられました。

許しの花輪

 ――わたしは憎しみをかかえて日本に来たわけではありません。心に許しを抱いていることを日本の人たちに示したいと思っていました。キャロルに手伝ってもらって、オーストラリアの野の花で、「許しの花輪」をこしらえ、はるばるオーストラリアから持ってきていたのです。それを千鳥ヶ淵戦没者墓苑の記念碑にささげることに決めました。――

 公聴会の場で、わたしはこの献呈式に参加するよう呼びかけていたので、さまざまな人が記念碑のところに集まっていました。そのなかには東京駐在のオランダ大使や、さまざまに人権、平和、環境団体の人たちがいました。そのうえに、第二次世界大戦で戦った旧日本軍兵士も、バスを仕立ててやってきていました。〈不戦兵士の会〉という、世界平和のために活動している団体です。――

 「この人たちは元兵士で、二度と戦わないと心に決めているのです」と、通訳のケイコが言いました。

※WGIPを戦後学習し丸鵜呑みした哀れな団体。自立自存飢餓脱出の戦いを「不戦」とは、この輩に「兵士の会」などと「兵士」を語る資格など無い!

 この人たちは、花束や本や贈り物で、わたしを歓迎してくれました。そのひとりひとりと握手しながら、わたしは感動に圧倒されていました。それはある意味で、東京滞在の6日間でもっとも対立する瞬間でした。現実には、わたしはこうして、大日本帝国の軍人だった男たちと握手しているのです。

 花輪をささげる前、こういう人たち全員に、わたしがここにいる理由を説明しました。

 「今日わたしは、ここにいらっしゃる日本のかたがたとともに、東京のあなたがたの記念碑に花輪をささげます。この花輪は平和と許しのしるしです。世界の未来、子供達の未来のための希望のしるしです。

※「この花輪は平和と許しのしるし」なら、この後の証言三昧やこの本の日本叩きは何なのだ!言行不一致もはなはだしい限りである!

 50年たってわたしたちは教訓を学び、あの戦争を忘れて、平和の世界をめざしてともに働くことができれば、と願っています。憎しみや恐れのない、戦争や暴力のない世界を、さらには平和と強調、友情と愛と自由の世界をめざして」

 ――わたしは花輪の献呈式のしめくくりに、アッシジの聖フランチェスコの和解の祈りをささげました。父親が大日本帝国の将校だったケイコは深く感動して、わたしの言葉を通訳しながら泣きだし、ふたりで手をつないでいっしょにスピーチを終えました。わたしは、この簡素な式に居合わせているこれらの日本人たちと強烈な一体感をおぼえました。わたしにとって、日本でのその一週間は、たえず回復していく過程だったのです。

※信仰(アッシジの聖フランチェスコの和解の祈り)を掲げ、同情を得たと、自画自賛。

安らぎのもとへ179p

 クリスマスの一週間前、わたしたちは東京を飛び立ちました。シドニーのキャロルとネッドの下でしばらく過ごしてから、わたしはひとりアデレードへと旅を続けました。帰宅して最初の月曜日は、わたしの70歳の誕生日でした。キャロルが、わたしの祖父のアンリと祖母のジャンヌを描いた美しい絵を送ってくれていました。午前8時のミサに出かけようとしているところに、ドアをノックする音がしました。それは教区に親しい友人でした。

 ――教会までは、うちから歩いてほんの二、三分です。戸口に着いてわたしは、「老信者たち」がいつもどおり、ささやかな口論でもしているものと思っていました。

 教会は満員でした。友だちがみな集まっています。まわり一面で声がします。

 「お誕生日おめでとう!」「おめでとう!」「お帰りなさいジャン」

 わたしのいつもの席には花が置いてありました

 子供がひとりこちらに笑顔を向けました。

 「ラフさん、テレビで見ました!」

 教区の人たちが心から喜んで、わたしの帰宅を歓迎してくれているのです。クロー人神父がわたしのためにミサをささげてくれているのです。わたしは喜びと、こういう温かい人たちへの愛とに圧倒されていました。

 長いあいだ、わたしは沈黙を破ることの結果を恐れていました。ドオから手紙をもらって以来、すべてがやつぎばやに起こり、こうして今、わたしはわが家にもどっていました。安らぎのもとへ、愛のもとへ、しかも受け入れられて。完

※オランダとジャン家族の、「ゆすり、たかり、金盗り」作戦初戦終了。

 

訳者(渡部洋美)あとがき

 (ジャンの)姉のアリーヌと兄のワルドは、1990年代初めに相次いでオランダで亡くなり、夫のトム・ラフは95年に亡くなったそうだ。

※兄姉はすでに亡く、夫は高度の脳障害で病床、証言は1992年12月9日、娘と家族を説得すれば、「金盗り」の障害はなかった

 

オランダ人もう一人の証言者プローグ(エレン・ファン・デル・プルーフ=エリー・プローグ)

「慰安婦と戦場の性217p」

 豪州テレビの番組(NHKが1996年8月16日放映)などから要約紹介。

エリー・プローグの証言

 1923年オランダに生まれ、父母とともに東部ジャワへ移住、母、姉弟とともにスマランのハルマヘラ抑留所へ入った。

 1944年2月、15~35歳の女性達が集められ、5~7人の日本軍人の前を歩かされ、3日目に私を含む15人が選び出された。バスで慰安所に着いて、はじめて「日本兵に喜びを与えるのだ」と知らされ、逃げると家族に危害が加わるとおどされた。

 2月26日クラブがオープンし、軍人達は写真で好きな女を決め、切符を買って私たちに性サービスをさせた。カネはもらっていない。3ヵ月後に解放される。戦後に結婚したが離婚。

 

 1994年1月にエリー・プローグが一般抑留者7名とともに東京地裁へ補償を求めて提訴

東京地裁判決1998(平成10)年11月30日

一 原告らの主張

(8)原告E(エレン・ファン・デル・プルーフ=エリー・プローグ)

ア 原告E(以下「原告E」という。)は、一九二三年一月一四日出生し、一九四二年三月当時、高校を卒業したばかりであった。そのころ収容が始まり、原告Eは、母親及び姉弟とともに車の展示場に閉じこめられた後、スマランにあるハルマヘイラ収容所、その後クラマット収容所にそれぞれ収容された。原告Eは、右のいずれの収容所においても、炎天下の中で点呼やお辞儀を数時間も強制され、軍靴で蹴られるなどの暴行を受けた。また、食料及び医療品は不足していた。

 原告Eは、マックジラブリィのたばこ会社で働くと聞かされていたにもかかわらず、スマランのクラブで慰安婦として強制売春をさせられた。そのため、原告Eは、性病に罹患してしまい、オランダ本国に帰国後、その治癒に一年間の期間を要した。

 原告Eは、一九四五年八月一五日、バタヴィアのクラマット収容所から解放された。しかし、原告Eの家族は、インドネシアでの家も店もその他あらゆる財産を失い、原告Eの父も殺されてしまっていた。

 原告Eが収容されたスラマン(ハルマヘイラ)抑留所は、モロタイ臨時軍法会議法廷において、戦争犯罪で断罪されており、原告Eが戦争犯罪行為の犠牲者であることは明らかである。

イ 原告Eに対する本件加害行為のうち、非人道的な取扱、強制労働に従事させたこと、虐待をしたこと、特にスマランにおいて慰安婦として使役したことは、ヘーグ陸戦規則四六条一項に違反する。

第一 請求

被告は、原告ら各自に対し、二万二〇〇〇米国ドル及びこれに対する平成六年四月八日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

平10・11・30民事第六部判決

主 文

一 原告らの請求をいずれも棄却する。

二 訴訟費用は原告らの負担とする。

 なお、現在、ヘーグ陸戦条約三条に基づく責任について、加害国の内国裁判所において被害者個人が加害国に対し直接金銭の支払を請求できるようにするための国際的な合意は存在しない。

4 以上認定説示してきたところを総合すれば、ヘーグ陸戦条約三条は、専らヘーグ陸戦規則に違反した加害国の被害国に対する国家の国際責任を明らかにした規定に過ぎず、我が国の裁判所において、ーグ陸戦条約三条を根拠として、国際人道法に違反する軍隊構成員の行為により損害を被った個人が、違反者の所属する国家に対して損害賠償を請求することはできないというべきである。

三 以上のとおり、原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 梶村太市 裁判官 増森珠美 裁判官 大寄久)

 

「慰安婦と戦場の性(216p)」

 1994年オランダ政府の報告書によると、15万人を越えるオランダ人が捕虜収容所および民間人抑留所に収容され、2万人が女性。

 占領の前半期(1943年中期頃)は女性達の多くは抑留所以外の居住を許されていたが、働き手を失った貧困な女性の中には、民間の売春宿や風俗産業で働く者も少なくなかった。白人女性が経営する売春宿もあり、マダム達の中には日本軍幹部や民間人の妾になる者もいた。と、1994年のオランダ政府報告書は述べている。

 戦局の悪化により、日本の陸軍省は、「軍抑留者取り扱い規定(1943年11月7日陸亜密第7391号)」を通達、オランダ人を含む敵国人全員を捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した。(蘭イ混血のユーラシアンは原則として対象外)

 その結果、指定居住区域に住んでいたオランダ人女性は売春婦も含め軍抑留所へ入ることになるが、給養条件は悪く不満が高まっていた。

 こうした状況に目を付けたのが、軍の担当者と慰安所の業者で、好待遇を約束すれば相当数の慰安婦が集まるだろうと見当をつけたようだ。この種の勧誘や説得は早い段階から始まっていたが、強制性がどこまで働いたか微妙なところである。

日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告(1944年1月)「季刊戦争責任研究」4号(1944年)収録オランダ人女性が関わった強制売春の例

桜クラブ(バタビア)。 シデン(バタビア)抑留所から43年9月、11人の欧米女性が連行され慰安婦に(志願者もいた)。

フォート・デコック(スマトラ)。 パダン(スマトラ)抑留所から42~43年、11人の欧米女性が強制または志願で慰安婦に。

テレシア・クラブ(バタビア)。 チハピット(バンドン)抑留所から44年1月、11人の欧米女性が業者に説得され慰安婦に。

マゲラン(東部ジャワ)。 ムンチラン抑留所から44年1月、連行に際し暴動化し鎮圧、3日後に13人の欧米人女性が慰安婦として連行された。

スマラン。アンバラウなど4ヶ所の抑留所から42年2月に連行。

フローレス島。 44年4月、スマランで集めた17人(うち欧人7人)をフローレス島へ輸送し慰安婦に。

パダン(スマトラ)。 44年、インド人業者の下で欧米人女性約20人が売春を強制。

 抑留所を管理していた第16軍軍政監部(44年になると軍直轄)は、強制しないこと自由意志で応募したことを証する本人のサイン付き同意書を取るよう指示していたが、なかには違反する出先部隊もあった。

海軍管轄下のセレベス島カンピリで下士官の抑留所長(山地正)が、職を賭して慰安婦150人の徴集計画を阻止した佳話もある。菊池政男「白い肌と黄色い隊長」文芸春秋1960年・「新評」1972年8月号の山地正稿。

 バタビア軍事法廷における裁判記録はハーグの国立公文書館に保管され、一部は閲覧可能だが、全文は2025年まで非公開とされている。221p

オランダは「公娼」が伝統の国、統治下インドネシアにも当然いた全て自前の「私娼」におちぶれるのを拒否、当然の如く保障保護健康管理の「公娼」に殺到した。スマラン事件で唯一死刑になった岡田慶治少佐の前掲「青壮日記」には、「受難時女性の豹変迎合」振りが、詳細に語られている。善悪を超越し、素直に読むべきである。受難時女性豹変迎合は、種保存本能。この種保存の本能があったから現在がある。善悪での単純非難は、次元が異なる

 

「白い肌と黄色い隊長・菊地政男著・文藝春秋昭和34年10月号」ある抑留所の秘話

 ──この抑留所には1800人の婦女子が収容されていたが、総督令嬢や知事夫人、市長夫人など反抗的、ヒステリックな女性たちは扱いづらかった。そのなかで山地正二所長(27歳、海軍二等兵曹)はヨーストラ夫人というリーダー格の協力を得、抑留者の自治を認めて、安心して生活できる抑留所づくりに努力した。新しい宿舎のほかに診療所や老人ホーム、教会や学校が建てられた。200台のミシンが導入され、農園もつくられ、自給自足の体制ができあがる。

 衣服や靴、食器、鏡、石けんなども支給され、抑留所は「女の楽園」の異名をとる。明るく秩序のある模範的存在として知られ、陸軍から見学者も訪れるほどだったが、民生部長官の決裁で慰安婦の提供を求められたときにはさすがの山地も頭を抱え込んだ。

 悩んだ末に大河原長官に決死の直訴を試み、やがて慰安婦採用は不許可になる。

 終戦後、ヨーストラ夫人は「人間山地はわれわれか弱い婦女子をよく理解し、民族を超越した人間的なあたたかい愛情を注いでくれた」と感謝の言葉をささげ、2451名の抑留者は山地への感謝状に署名した。視察にやってきた連合国軍の調査団は「抑留所内に学校があるというのは連合国内のも見られない。感謝と敬意を表する」と山地に握手を求めた。

 のちに本国オランダに帰国したヨーストラ夫人は「オランダ金鵄勲章(きんしくんしょう)」を授与され、山地との交流も続いた。

 

カンピリ敵性国婦女子収容所

 この風光明媚なマリノにも暗い影がある。昭和17年2月に日本軍がマカッサルを占領した後、停戦協定により敵国の婦女子をマリノに集結させたが、その後、昭和17年8月から昭和20年8月の終戦までの3年間、スングミナサに近いカンピリに敵性国婦女子収容所という施設を作り、オランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していた。  収容所長の山地二等兵曹の奮闘と、マカッサル専門学校の先生だったオランダ人のヨーストラ夫人を中心とする抑留者側の協力により、自治体制が確立され自活運営が行われた。この間の事情については菊池政男著「白い肌と黄色い隊長」(昭和35年 文芸春秋新社 発行)に詳しく書かれ、後日同じ題名で映画化された。

 「セレベスでは特警がうるさく、からかう以上のことをするとぶん殴られた。女性たちを野放しにすると、食べるために必ずパンパンに崩れるので、セレベスでは最終的には、敵性国人収容所をもうけ、オランダ国籍の者を全部収容し、街娼を防いだ。このために山地兵曹は、戦後オランダから感謝状をもらっている。セレベスの民政は安定していたようである。

 一方、南方全占領地の軍需物資供給地で、南方占領地で最も物資が豊富だったジャワでは、街娼がゴロゴロし、贅沢な暮らしをしていた者が急には生活を落とせず、下男下女を使いながら街娼になっている女性もいた。白人は希少価値があるので日本人より花代が高かった。戦後オランダ軍事法廷で問題になった「スマラン将校慰安所事件」では敵性国人収容所からオランダ女性を連れ出し慰安婦にしたという責任で、何人もが死刑や重刑に処されている。・・・・」(シュミーズ一枚の戦争 P124-125 原著不明 戦友会配布資料 粟竹章二氏所蔵)

 「白い肌と黄色い隊長.」 松竹 1960年、菊池政男原作、猪俣勝人脚本、堀内真直監督作品。

 

スマラン(白馬)事件の実際の被害者は?

 終戦3年後の1948年、バタビアBC級戦犯裁判で、一人が死刑10人が有罪とされ、既決した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定(「従軍慰安婦」吉見義明1995岩波新書)され、罪名は、強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。

 「売春婦」証言は、家族親族世間から差別されるが、「犠牲者」証言なら、世間から同情を得ることが出来る。強制だったとリンチ裁判認定の25名が、はたして全員被害者であったのであろうか?この裁判は戦勝国の一方的裁判(リンチ)なので、慰安婦にされた35人全員が強制だったと認定されてもおかしくないのである。25名中相当数の「ニセ犠牲者」が混在したであろうことは、子供でも推察できる。

 しかし10名は、あろうことか、「ニセ犠牲者」を拒否し、「売春婦」を貫いた。一方的裁判(リンチ)なので、「犠牲者」とだけ、ただひとこと言いさえすれば、世間のあらゆる非難を回避できたのにである・・・。なんと、朝鮮(韓国)のように全員ではないのだ。宗教国オランダと、やりたい放題無宗教国朝鮮(韓国)の、違いであろう。

 先人福沢諭吉127年前の、1885年(明治18)「脱亜論(支那とその属国朝鮮対処論)」は、まさに正論なのである!

 1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人のオランダ人女性のうち、少なくとも65人は絶対確実に、(most certainly)強制売春の犠牲者だったと判定(小林英夫季刊『戦争責任研究』4号1994年6月)。「犠牲者」が65人に増加しているが、「200~300人のオランダ人女性」は、「ニセ犠牲者」を拒否し、「売春婦」を貫いた。朝鮮(韓国)のように全員ではないのだ。

 「売春」は、「造物主」が女性に与えた最後の手段の「生命力」である。「200~300人のオランダ人女性」は、明日無き死活の中で、「最後の手段」を行使し、「造物主」に従った。彼女達は、「従い」を良しとし、「嘘」をとしたのだ!人間としてなんと輝いていることか!

 中朝韓罪日は、日本軍一部の断罪済事件を隠蔽し、新に「人権」を冠し日本軍全体の新事実と捏造しての事後(遡及)法で、難癖犯日中である。これに便乗した、1990年(終戦45年後で反論者物故)からのオランダ政府の犯日難癖は、いかにも醜い。

 モーパッサンの「脂肪の塊」を彷彿させる同胞先人、「ニセ犠牲者」証言を拒否し、「売春婦」を貫いた数多のオランダ人女性に、恥ずかしくないか!

 ジャンを遥かに超え、輝いている彼女達こそが、「思いやり基金」真の受領者である。11へつづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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