QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 101234567891011121314151617181920212223242526272829302017 12

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観ジャン・ラフ・オハーン2007年米国下院121号決議前の公聴会証言

14ジャン・ラフ・オハーン2007年米国下院121号決議前の公聴会証言

今も襲ってくる恐怖の思い出

 開館の夜が来ました。恐くて、私たちは食堂にかたまってうずくまっていました。みんな処女で、セックスについては何も知りませんでした。これからどうなるのか、何がいったい起こるのか、お互いに推測しあうしかありませんでした。

 そこで待っている間、私たちは恐怖で全身をこわばらせていました。今でもあの恐怖感を忘れることは出来ません。ある意味で生涯ずっと私につきまとってきました。その時、私たちを救ってくれるのは祈りしかないと思いました。私は祈祷書を出し、少女たちを祈りに導きました。

 祈っている間にも、軍人がぞろぞろ家に到着してくる音が聞こえました。粗野な笑い声と床を歩く長靴の音が聞こえてきました。私たちは、それぞれの部屋に帰るよう言われましたが、みなが拒否しました。ぴったり寄り添い、身を守るためお互いにしがみ付きました。全身が恐怖で焼け焦げそうでした。それは描写できない感覚です。決して忘れない、決して消えることのない感覚です。ほぼ50年たった今も、圧倒的な恐怖が、頭から四肢を通り抜けて行き、身を焦がされるような感覚に襲われます。それはとても奇妙な瞬間にやってきます。悪夢の中それで目を覚まし、その後もまだ消えずにベッドで悶々と時間を過ごします。何よりもひどいのは、夫に求められる度にこの感覚がよみがえってくることです。日本人がやったことのために、私は今まで一度もセックスを楽しいと思ったことがありません。

 家は、やがて日本人でいっぱいになりました。私たちは恐怖の中でしっかり抱き合い、時が来るまで、最悪の事態が訪れるまで、座りつづけていました。泣いて、叫んで、抵抗する中、一人ひとり順に部屋にひきずられて行きました。少女たちは懇願し、叫び、足をばたつかせ、力の限り抵抗しました。すべての少女がこうして無理やり連れてゆかれました。

 しばらくして、私は食堂のテーブルに隠れました。部屋から泣き叫ぶ声が聞こえてきます。心臓がドキドキ波打っているのが聞こえてきました。腰のベルトに差していた木の十字架をしっかり握り締めました。私は、ずっとこうして十字架を身につけてきました。それをつけていれば何かの働きかけがあり、私を強くしてくれると信じていました。

 でも私はついに見つかり、テーブルの下から引きずり出されました。大きな日本人将校が私の前に立ちはだかり、ニヤニヤしながら見下ろしていました。彼のむこうずねを蹴りました。それでも笑って立ったままです。抵抗しても、蹴っても、叫んでも、びくともしません。「やめて、やめて」そう叫びました。「ジャンガン、ジャンガン」とインドネシア語ででも叫びました。男は私を引っ張り上げ、抵抗するのも構わず部屋に引きずっていきました。部屋に入るなりドアが閉められ、私は部屋の隅に逃げました。私は英語とインドネシア語で懇願し、意思に反してここに連れてこられた、あなたにはこんなことをする権利ははないといい続けました。

 私は逃げ場を失った獲物のように部屋の隅にうずくまりました。「神様、助けてください」「神様、ここから私を救いだしてください」と祈りました。

 男が完全に優勢でした。開館の夜に大金を払った彼は、明らかにいらいらし、ものすごく起こっていました。鞘から取り出した刀を私に向けて脅しました。私は殺されてもよい。死ぬのは恐くない。どんなことがあっても体は許さない、そう言いました。「止めて、止めて」「ジャンガン、ジャンガン」何度も繰り返しました。でも男は刀をしまおうとはせず、刃を私の体に当て、殺すぞと脅し続けました。殺す前に祈りをあげさせてくれと頼みました。しかし男は、祈ってる間に服を脱ぎ始めたのです。殺す気なんかなかったのです。私が死んだら男にとって何の役にも立ちません。我慢しきれなくなった男は、私をベッドにほうり投げました。そして服を破って脱がせ、上に乗ってきました。重い体で私は身動きできません。払いのけようとし、蹴ったり引っ掻いたりしましたが、相手は余りにも手強すぎました。強姦される私の頬に涙が流れました。それは際限なく続くように思えました。

つづく抵抗と強制

 この最も非人間的で残酷な強姦は言葉では表現できません。私にとってそれは死より残酷でした。やっと男が部屋を出て行っても、全身が震えで止まりませんでした。破れた服を体に巻き、風呂場に駆け込みました。汚れと恥辱と傷をすべて洗い落としたかったのです。

 お風呂には既に何人かの少女がいました。みんなショックで、お互いに慰めあおうとしましたが、どうしてよいか分からず、泣くばかりで、今起きたことをすべて洗い落とそうと、体をごしごし洗いました。私は食堂には戻らず、どこかに隠れようと決めました。裏庭にある部屋に隠れました。体が恐怖で震えていました。「二度といや、こんなこと二度と出来ない」、そう思いました。

 しかし、しばらくしたら怒鳴り声と足音が近づいてきて、私は又引きずり出されました。夜はまだ終わっていなかったのです、まだたくさん日本人が待っていました。恐怖がまた繰り返されました。これほどの苦痛を味わったことはありませんでした。そしてこれはまだ始まったばかりでした。

 その最初の恐ろしい夜が終わる頃、ちょうど明け方前でした、怯えて疲れきった7人の少女達が体を寄せあい、失った純潔に泣き、お互いを慰め励ましあいました。その夜みな何度強姦されたことか?これからどうすればよいのか?

 昼間は一応安全なはずでしたが、日本人の出入りは絶えず、歓談したり、私たちを上から下までじろじろ見ました。そのため昼間でも強姦されることがよくありました。日が暮れると同時に、家は「開店」になり、恐怖で私の体は焼けるようでした。毎晩違う場所に隠れましたが、その度に見つかり、何度か殴られた後、部屋に引きずり込まれました。

 ある朝、出来るだけ醜く見えるように髪を全部切ることにしました。丸坊主に近くなるまで切りました。「これなら誰も私を求めないわ」、そう思いました。でも当然ながら、それは何の役にも立ちませんでした。髪を全部切った娘がいるという噂が広まり、私に好奇の目が集まっただけでした。

 数ヶ月が過ぎて、私たちはみな痩せました。食べ物にはほとんど手が伸びませんでした。恐れと苦痛と屈辱が続き、消耗しきった神経が限界にまで達しました。売春宿に高い位の軍人が来るたびに、私たちは抗議をしましたが、彼らは聞く耳をもっていませんでした。

 日本人に強姦される度に、私は必ず抵抗しました激しくもみ合うことなく、私を強姦できた日本人は誰一人としていませんでした。しょっちゅう殺すぞと脅され、何度もひどく殴られました。

 抵抗しながら私は思いっきり一撃を加え、蹴ったり引っ掻いたりしましたので、かなりの日本人を怪我させました。そのため、いつまでもおとなしくしないなら、下町にある下級兵士用の売春宿に移すぞと言われました。そこは地元の女性達がいて、もっとひどい所でした。この脅しは実行されませんでした。

私を支えてくれた信仰

 ある日、日本人の軍医が家にやって来ました。彼なら助けてくれるだろうと咄嗟に思いました。医者だから間違いなく私たちに同情してくれると思い面会を求めました。しかし彼はまったく無関心で、同情や謝罪の色も見せませんでした。それどころか、初めてきたその日に、私を強姦して帰って行きました。

 軍医が来る前に、裏庭の部屋に、産婦人科にあるような機械が備え付けtられました。その日から、私たちは病気にかかっていないか検査を受けなくてはなりませんでした。軍医は来る度に、昼間から私を強姦するようになりました。軍医の診察室はいつも開けっ放しで、さらに屈辱的なことには、診察中日本人は誰でも覗くことが出来ました。私たちが診察を受けている間、日本人は部屋に入ってきたり、ドアの所に立って見物しました。

 この耐え難い日々の中で自分が妊娠したと分かった時、激しい不安に襲われました。ぞっとしました。こんな恐怖の中で身ごもった赤ん坊を愛することができるのでしょうか。少女たちは私を強く支えてくれ、日本人女性の看守に妊娠を告げたほうがよいと言いました。彼女に話したところ、その返答として錠剤が入った瓶を渡されました。たとえこんな子でも殺すことはできません。そんなことをしたら殺人罪になります。飲まないと拒み続けました。しかしついに無理矢理喉に押し込まれてしまい、その後すぐ流産しました。

 セマランの慰安所にどれくらい入れられていたのか正確には思い出せませんが、少なくとも3ヶ月はいたと思います。それがもう限界でした。その間、私は日本人に虐待され、辱めを受け続けました。彼らは私の青春をめちゃめちゃにしました。私から何もかも奪い去りました。自尊心、人間としての尊厳、自由、財産、家族を。しかし彼らが絶対私から奪い取るこちができないものが、一つありました。私の信仰、神への愛です。これは私だけのものであり、一番大切なものです。誰も、それを私から奪うことはできませんでした。

 残酷で野蛮な日本人から受けた苦難をすべて乗り切れたのは、私に深い神への信仰があったからです。日本人がやったことを今は許していますが、それを忘れることは決してありません。

 これが私の話です。ほぼ50年間の沈黙を破ってあげる叫びです。また、第二次世界大戦中、日本軍にジャワのあちこちの収容所で捕らえられ、の勇気あるオランダの少女たちの話でもあります。

 私にこのような機会を下さり、私の話を皆様にする機会を

与えて下さったことを感謝します。私がこのようにして、日本の戦争の犠牲になったこと、私の今日の証言をもって、二度とこのような恐ろしいことは繰り返さないようにと願います。ありがとうございました。

※スマラン事件被害者は25人以下なので、「私と同じ苦難をくぐり抜けてきた200人」は捏造。日本軍を徹底的に貶めて、同情を勝ち得なければ身の破滅なので、限りなく罵倒である。戦後47年なので反論者はすでに物故、捏造し放題である。丸鵜呑みはできない。予備知識終了

日本軍公娼
(BC級や1994年裁判)告訴人では無い自称日本軍公娼慰安婦騙り屋ジャン・ラフ・オハーン!私娼か?

2007年2月15日「米国下院121号決議」の前に米国下院公聴会での証言

ジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff O'Herne)証言原文は英文(※唯一のオランダ人証言者
「慰安婦」人権の保護についてのヒアリング2007年2月15日木曜日

挨拶部分略

 ――戦争での女としての私の経験は、全く劣化のひとつ、屈辱と、第二次世界大戦中の、耐えられない苦しみです。

 私はいわゆる、日本軍用性奴隷の婉曲表現、「従軍慰安婦」を強制されました。

忘れられたもの

※「忘れられたもの」ではなく前述のように「断罪済みのもの」が真実。新事実であるかのように洗脳している。巧妙である。

  私はオランダ植民地時代の第四世代の家族として、1923年に、旧オランダ領東インド(現インドネシアとして知られている)の、ジャワで生まれました。私は砂糖プランテーションで育ち、最も素晴らしい幼年期でした。私はカトリック系の学校で教育を受け、ジャワのフランシスコ会修道士教師の大学を卒業しました。

 1942年、私が19歳の時、日本軍はジャワを侵略しました。

 何千もの女性や子供たちと一緒に、私は3年半日本の捕虜収容所に抑留されました。

 日本の捕虜収容所のオランダ人女性の多くの話は、恐怖、残虐、飢餓、苦しみについて話されています。

 しかし、一つの、最も恥ずべき逃れられない最悪の人権侵害の話は、しませんでした。第二次世界大戦中の日本人「慰安婦」、jugun ianfu、どのようにしてこれらの女性は、日本軍への性的サービスを提供するために、その意思に反して強制的に捕まえられたかの話です。

※人権を冠して仕立て直し、新たな難癖材料にした。

1944年に高官の、日本の役員がキャンプに到着したとき、私は2年間キャンプにいました。

※3年半-2年間=1年半と聴衆は錯覚する。真実は「2ヶ月未満」(書籍や他所では3ヶ月と証言)。以下の証言は証拠提示無きただの証言。しかも証言者はこの女性のみの一人。関係者者既に死亡の現在、「死人に口無し」の一方的な証言(死体叩き)は、相当割り引く必要がある。

命令されました:

 17歳以上のすべての独身の女の子は、収容所で一列に並ばなければなりませんでした。

 役員は我々の方へ歩き、そして、選択プロセスが始まりました。

 彼らは列を行ったり来たりし、私たちのあちこち見ました。

 私たちのあごを持ち上げて、私たちの足や、我々の体つきを見ました。

 彼らは、10人のかわいい女の子を選びました。私は、10のうちの1つでした。

 連れ去られることになった私たちは前に出て、小さなバッグに荷造りするように言われました。

 キャンプの全員が抗議し、私たちの母は引きもどそうとしました。再び会えるかどうかもわからない母親を、私は抱きしめました。

 私たちは、軍のトラックに投げ込まれました。我々はおびえて、バッグに、そして、お互いにしがみついていました。

 

 トラックは、スマランのオランダ植民地時代の大規模な家の前で止まり、私たちは降りるように言われました。私たちは家に入るとすぐに、どのような家なのか気づきました。日本人の性的快楽のために、私たちはここにいるのだと、日本軍は言いました。家は売春宿でした。

 私たちは大声で抗議しました。

 私たちは、私たちの意志に反して、ここに来ることを余儀なくされたと述べ、彼らには、私たちをこのようにするは権利はない、それはジュネーブ条約( the Geneva Conventionに反していると。

  しかしそのとき、彼らは私達を見て笑い、そして彼らは、彼らが好きなように、行うことができると言いました。

 我々は、日本人の名前を与えられ、これらは私たちの寝室のドアにかけらました。

ジュネーブ条約1864年締結。戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約。ジュネーブ協定1954年に締結。第一次インドシナ戦争を終結させるための終戦協定)

 

 私たちは非常に無邪気な世代でした。私は、セックスについて何も知りませんでした。

 売春宿の「オープニングナイト」の恐ろしい思い出は、すべての私の人生の私の心を、拷問しています。 私たちは、ダイニングルームに行くように言われました。

 そして私たちは、軍でいっぱいの家のように見え、恐怖で一緒に身を寄せ合ったのです。

 私はこれが私たちを助けるだろうということを望み、祈りの本で祈り、少女達を導きました。

 その後彼らは、一人ずつ私たちを引き離し、無理やり引きずり始めました。

 私に、寝室からの叫びが聞こえてきました。私はテーブルの下に隠れましたが、すぐに発見されました。
 私は彼と戦った。私はすべての力で彼を蹴った。私は彼に自分自身を与えることはなかったので、日本の将校は非常に怒った。彼は、その鞘から刀を取り出し、私にそれを示し、私を彼に与えない場合、彼は私を殺すと、それで私を脅かし。私は狩りの動物のようにすみっこにうずくまり、逃げることができませんでした。

 彼は、私が死ぬことを恐れなかったことを理解しました。私は、いくつかの祈りを言うことを彼に嘆願しました。私が祈っていた間に彼は服を脱ぎ、自分に開始しました。

 彼は私を殺すつもりはなかった。彼の死体と化した私は、全く不満足だったでしょう、

 彼はベッドの上に私を投げ、私のすべての服を剥ぎ取り、私の裸の体の全体を彼の剣が走った。彼は私の裸体の至る所で、彼の剣を実行しました。そして、猫がねずみにするごとく、私で遊んだのです。

 私はまだ彼と戦いを試みたましたが、彼は重い体で私をピン止めし、私の上に自分自身を押しつけました。

 最も残忍な方法での彼のレイプに、涙が私の顔を流れ落ちていました。

 私は、彼が決して止めないだろうと思いました。

 彼は最終的に部屋を出たとき、私の全身が震えていました。私は衣類の残されたものを拾い集め、バスルームに逃げ込んた私は、他の女の子の一部をそこに発見しました。私達は、皆泣いて、バスルームでショックが更に増しました。

 私はすべての汚れを洗い流すことを試み、私の体から恥を洗い流しました。

 しかし、夜はまだ終わっておらず 、そこには待っている多くの日本人がいました、そしてこれは、一晩中続きました。

 それは、毎週毎月の、始まりに過ぎなかったのです。

 家は完全に守られ、逃げる方法がありませんでした。 時々、私は隠れましたが、いつも見つかって、部屋に引きずり戻されました。

  私はすべてをためしました。私は私のすべての髪さえカットしたのです、それで、私は全くのはげになりました。私は、私が私自身を醜く見えさせれば、誰もが私を欲しがらないだろうと思いました。

 しかし、それは私を、好奇心の対象に変えました。彼ら全員は、彼女の髪をカットした女の子が欲しかったのです。それは、逆効果でした。

 決して、一人の日本人も、戦いなしで私を強姦しませんでした。私は、彼ら各々と戦いました。 したがって、私は、繰り返し叩かれました。

 いわゆる「公衆便所」で私は、組織的に叩かれて、日夜強姦されました。

 彼が我々に性病の病気がないか調べるために売春宿を訪問するたびに、日本の医者さえ私を強姦しました。

 そして、より私たちに恥をかかせるために、ドアとウインドウは開いているままにされたので、日本人は私たちが検査されているのを見ることができました。

 「公衆便所」の時間の間に、日本人は私を虐待して、私に恥をかかせました。私は、体のいたるところに断片的な引き裂かれた傷を残されました。 日本兵は、私の若い人生を台無しにしていました。

 彼らは、私からすべてを奪いました。

 彼らは、私の青春期、私の自尊心、私の尊厳、私の自由、私の財産と私の家族を奪い取りました。

 しかし、彼らは私から奪うことができなかった一つのことがありました。それは、私の宗教的な信頼と神に対する愛情でした。これは私のものでした、そして、誰もそれを私から取ることができませんでした。

 日本人が私にしたすべてのことに対し、生き残りの助けとなったのは、私の深い信仰(my deep Faith)でした。

※「私の深い信仰」と自画自賛であるが、「死体を掘り起こし鞭打つ所業(59年前に断罪済み)」は、「浅い信仰」以外の何ものでもない!

 

 私は、日本人の彼らが、私にしたことを許しました。

 しかし、私は決して忘れることができません。50年の間「従軍慰安婦」は、沈黙を維持しました。彼女らは汚されて、汚いと感じる恐ろしい恥に耐えました。

 これらの女性の破壊された生活が、人権問題になるのに、50年かかりました

※「許しました」は、言行不一致偽善発言!「沈黙を維持」は捏造、犯罪者は、59年前の全世界公開裁判で、断罪されている。日本は1956(昭和31)年5月24日法律第18号『売春防止法』で禁止。前述のような一般のの犯罪を、「人権」を冠し、「国家が関与した犯罪」であるかのようにすり替え、仕立て直している。

 

 「従軍慰安婦」にとっては、戦争は、決して終わりませんでした。

 私達は、まだ悪夢を見ます。 戦争の後、私は、体を元に戻すために、大手術を必要としました。

 1992年に、韓国の「従軍慰安婦」は、彼女たちの沈黙を破りました。キム·ハクサンさんは、意見を述べる最初の人物でした。

 日本政府からの謝罪と補償のために、彼女たちが正義を嘆願したようすを、私はテレビで見ました。

 私は、彼女たちをバックアップすることに決めました。私は、1992年12月、東京での日本の戦争犯罪に関する国際公聴会で、私の沈黙を破りました。

 そして、第二次世界大戦の最悪の人権侵害の一つ、忘れられたホロコーストを明らかにしました。

※解決済み命令違反事件を大捏造。「レイプ事件」を「従軍慰安婦事件」とし、国家関与のナチス600万人?(120万人)大虐殺(ホロコースト)と同列にして証言、「日本国関与」と印象操作。プロパガンダの手口である。

 ホロコースト糾弾は戦後すぐ(1946年)になされ、続いているが、「白馬事件」は前掲のようにBC項目(リンチ)裁判で裁かれ、死刑で決着済みである。少なくとも1990年(平成2年『ハンギョレ新聞』に、韓国の梨花女子大学の尹貞玉教授が、挺身隊とイアンフを混同させた「“挺身隊”怨念の足跡取材記」を春から連載)までの45年間(当時の責任者存命中)は、どこの国も取り上げていない(日本軍関与の強制連行も性奴隷も無かった)のである。ホロコーストと同列は、捏造白状、そのものである。

 過去15年間私は、オーストラリアや海外での「従軍慰安婦」の窮状のために、戦争における女性の保護のために、精力的に取り組んできました。

 もうすぐ時間切れです。

 60年後に「従軍慰安婦」は、正義に値します。

 彼女たちは、日本政府安倍晋三首相自身からの、正式な謝罪に値します。

 日本政府は、彼らの戦争犯罪の、全責任をとらなければなりません

※民間業者の犯罪に対し、監督不行き届き、道義的な責任での謝罪(唯心)は、1998(平成10)橋本内閣総理大臣がオランダ国コック首相に送った手紙と2001(平成13)年元慰安婦の方々に対する小泉内閣総理大臣の手紙で済み。「アジア女性基金」設立のいきさつ(蘭は、二百から三百の売春婦の内で、被害者と認定した79人の、個人に対してのみ実施)を見れば、これは「従軍慰安婦(強制連行性奴隷)」国家関与の「償い」謝罪ではなく、監督不行き届き(民間業者の犯罪)の「思いやり」による、「償い」謝罪なのは明白である。監督不行き届きの「償い」で、国家関与の「償い」ではない。

 がしかし、二通の手紙共通項「私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与(軍政)の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」の、「当時の軍の関与(軍政)の下に」のみをつまみ盗り、そして拡大宣伝し、アジア女性基金」は、「従軍慰安婦の国家関与を認めた謝罪」と、唯物の輩は、かってに解釈し、「戦争犯罪の、全責任をとらなければなりません」などと、嵩にかかって「捏造」に励んでいる。

 唯心日本の安易な条約破り(アジア女性基金)が、輩を調子に乗せた。唯心日本の監督不行き届き(民間業者の犯罪)謝罪「思いやり」が逆に、仇となった。大義も無くいったん条約破りをするとこうなる、見本である。

 しかし、知恵(思索回路)があれば、「軍の一部・軍規違反・民間の監督不行き届き」等の単語を明確に、冠したはずだ(秘書が秘書がは得意の銭生だから)。思索回路無き丸暗記凶授五百旗頭真を、防衛大学校長にするような小泉純一郎等では、土台無理な話ではあるが。15につづく⇒

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/382-a515db10

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。