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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観脱亜論全文現代語訳国難に団結の日本と国難に我欲で砂中朝韓罪日看破

1「脱亜論(現代語全訳)」国難に団結の日本と国難に我欲で砂中朝韓罪日看破

 戦後67年の捏造教育(一つまみのただの記憶装置HDDを信用した)で、日本人の根幹は破壊された。「なぜ?どうして?」と、立派な先人から授かった子孫自身の頭脳で、新に思索すれば、日本人の根幹はただちに回復する。現在横たわる全ての問題は、「職責者の捏造による日本人の根幹破壊」、職責不履行原因である。

 福沢諭吉(1834~1901)は3回の欧米渡航で後進性を痛感、亜細亜(唯物我欲中国朝鮮)からの脱却「脱亜論」を説き、個人の「独立・自由・平等」は天賦のものであるとして、儒学(空論)に代わる実学を主張した。

 「尚商富国」は「富国強兵」に連なるものであったとか、「日清戦争」には熱烈な指示を与えたとか批判されているが、「先見の明があった思索家公人福沢諭吉」が、実像。

 共に亜細亜を興(おこ)す」と「脱亜論」にある。「脱亜論」掲載1885年から9年後の1894年に日清戦争、19年後の1904年に日露戦争、25年後の1910年から朝鮮統治なので、大アジア主義(大東亜共栄圏)は付け焼刃では無く、白人列強に対して、開国当初からの護国思想であったことが、明々白々である。 

 福沢諭吉「脱亜論」は、迫る白人列強戦国時代に、先憂後楽一丸で国難に対処(究極の共産助け合いの唯心人間)の日本人精神と、国難に、目先の我欲のみに固執する砂の人心、中朝韓罪日の「(未熟)人間精神(戦国時代の大局は見ずに、目先のパンのみに執着する我欲の固まり、唯物ヒトモドキ)」を、見事に看破している。

 先人福沢諭吉127年前の「脱亜論(支那とその属国朝鮮対処論)を、戦後の日本の職責者(安岡正篤等々)は、無視した。結果、中朝韓罪日は本性ヒトモドキをあらわにし、あらん限りの狼藉で犯日の限りを尽くし、戦争を挑発している。先人遺訓の無視はこうなると、現在の日本を予言したこの「脱(亜)論」を、子孫は、あらためてかみしめなければならない! 

 「脱亜論」は、名も無き社説を、後世の他人が福沢諭吉「脱亜論」と命名したものだが、この命名は、「亜=全アジア諸国」と誤認されやすく、筆者の本意に著しく反している。事実、スパイは、「亜=中朝韓罪日」を、「亜=全アジア諸国」と捏造し宣伝工作している。内容は「脱=脱(未熟人間で、「脱=全アジア諸国」ではない。表記は、「脱論=(未熟人間)論」がふさわしい。

「脱亜論真実史観意訳『時事新報』1885年(明治18)年3月16日付社説が、福沢諭吉「脱亜論」と呼ばれている。

 世界の交通が便利になって、西洋文明の風、東に徐々に進み、到る所、草も木もみななびいている。

 西洋の人物は昔も今も同じだが、行動のみが、昔は遅かったのに今は早い。その理由は、交通の利器を利用しているからである。

 現在の東アジアの国々の西洋文明に対する最善の方法を考えるに、この西洋文明は、覚悟があれば拒否可能だが、世界情勢を視察しても、文明に無頓着な者は、この西洋文明に従う他に道は無い。

 文明は、まるで麻疹(はしか)の流行のようだ。ただ今の東京の麻疹は、西国長崎の地方より東漸「とうぜん(東に徐々に進む)」して、春暖と共に次第に蔓延(まんえん)しており、そっくりだ。この流行の時期に直面し、この西洋文明の害を憎みこの蔓延を防ごうとしているが、私は、断じてその手段が無い事を証明する。

 有害のみの流行病麻疹(はしか)においても、なおかつその勢いに取り乱してはいけない。ましてや、利害はあるが、利益多大な文明においては、当然である。ただ単に文明拒否ではなく、文明蔓延を手助けし、国民に、すみやかにその文明を浸透させることは、智者「ちしゃ(賢い人)」の仕事である。

 西洋最新の文明が、わが日本に入ったのは嘉永の開国であった。国民は西洋最新の文明の必要性を知り、文明開化運動は徐々に活発になった。がしかし、進歩の道の障害物に、古風老大の政府(徳川幕府)があって、これを、どうすることも出来ない。

 徳川幕府を残し最新の文明を拒否すれば、その文明に征服されるが、徳川幕府を倒し最新の文明を学び対等になれば、征服される事も無く、独立は維持できる。

 このような選択を迫られた我が日本のサムライは、大義独立国を選択、皇室の神聖尊厳を柱として政府徳川幕府を倒し、新政府を立て、全国が一切万事、西洋最新の文明をとりいれ、ただ単に日本の武家社会から脱したのみならず、次々と植民地化の亜細亜全洲の中で、唯一新しい一機軸独立独歩を打ち出し、亜細亜植民地化からの脱出、脱亜を主義とした。

 我が日本の国土は亜細亜の東の端であるが、その国民の精神はすでに亜細亜の古いしきたりを脱して、西洋の文明に移った。それなのに、ここに不幸なことに近隣の国がある、一を支那と言い、一を朝鮮と言う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に育ったこと、我が日本国民と違わないのだけれども、その人種の由来が特殊なのか?あるいは、日本と同様の政教風俗中に居ながらも、遺伝や教育の中心に、同じでないものがあるのか?異なる。

 日支韓三国対等で、支と韓と相似ているのは、支那と韓は日本よりも近く、そしてこの二国の者達は、我欲であり、改革して進むことを知らない。交通至便の世の中に、文明の事物を見聞しないということはないのだが、聞いたり見たりするだけで考えないため、心を動かして改革するまでに至らない。その古風旧慣にしがみつくさまは、百千年の古代と同じ。

 この文明日々新たに活動中の時代において、教育を論ずれば、儒教主義と言い、学校の教えの中心は、仁義礼智と称し、一より十に至るまで中身より外見の虚飾のみを大事にするばかりである。現実の有様は、真理原則の知識が無いのみならず道徳すらも皆無で、残酷恥知らずを極め、さらにおごりたかぶって、自ら反省する考えなどは、まったく無い者のようだ。

 私からこの二国を見ると、今の文明東漸「とうぜん(東に徐々に進む)」の風潮に際し、とてもその独立を維持する道は無い。

 運良くその国中に志士が出現して、まず国事開進の手始めとして、おおいにその政府を改革する状態が、我が日本の維新のような大挙をくわだて、先ず政治を改めて共に人心を一新する日本維新のような活動ならば、話は異なるが、もしもそうでない時は、今より数年を経ることも無く亡国となり、その国土は世界文明諸国に分割されること、一点の疑いもない。

 日本維新のように出来ないとなれば、麻疹(はしかは一度の罹患で免疫を得、再び感染しない)と同じ文明開化の流行に遭(あ)いながら、支那と韓両国は、その伝染の自然のままにそむき、無理にこれを避けようとして一室内に閉じこもり、空気の流通を断っての窒息死となるだろう。

 輔車唇歯「ほしゃしんし(密接な助け合い)」とは、隣国相(あい)助けるのたとえだけれども、今の支那朝鮮は、我が日本国のためにほんの少しの援助にもならないのみか、西洋文明人の眼で見れば、三国の地利相接(あいせっ)しているために、なにかのはずみに三国を同一視し、支那と韓の評価で同様に我が日本に命ずる、危うさがないわけではない。

 たとえば、支那朝鮮の政府が古風の専制「せんせい(独断決定)」にして、法律という柱にするものなければ、西洋の人は、日本もまた無法の国かと疑い、支那、朝鮮の士人「しじん(識者)」が惑溺「わくでき(迷って本心を失うこと)」深くして科学の何ものたるかを知らなければ、西洋の学者は、日本もまた陰陽五行(迷信)の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らなけば、日本人の義侠「ぎきょう(強気をくじき弱きを助ける男気)」も、このために隠され、朝鮮国に人を刑する残酷な刑あれば、日本人もまた、共に無情なるかと推測されるように、これらの事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。

 これをたとえれば、比隣「ひりん(近隣)」軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にしてしかも残忍無情なるときは、まれにその町村内の一家人が、正当の人事(正しい人間関係)に注意する(気を配る)も、他の醜におおわれて埋没するものと同じである。その影響が現実に現われて、間接に我が外交上のさしさわりを成すことは、実に多い、我が日本国の一大不幸と言うべし。

 されば、今日のはかりごとをなすに、我が国は隣国の文明開化を待って、共に亜細亜を興(おこ)す(亜細亜共栄圏)の猶予(ゆうよ)はない。むしろ、その伍「ご(仲間)」を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にと言って特別の会釈「えしゃく(おもいやり)」をする必要は無い。まさに、西洋人がこれに接するの風に従って処分「しょぶん(きまりをつける)」すべきのみ。

 悪友と親しくする者は、共に悪名から逃れることは出来ない。我れは心において、亜細亜東方悪友支那と朝鮮)を謝絶するものなり。完

 露西亜南下、列強東進西進の戦国時代に対し、中朝韓罪日先人は呆れるほどの脳天気で、亡国など我関せずとばかりに、私利私欲我欲闘争をくり広げた。国難に団結の日本と、国難に我欲の砂中朝韓罪日は、全く真逆の異質である。福沢諭吉は、こうした本質を看破した結果、「共に亜細亜を興(おこ)す」から、「悪(亜)論」に転換したのだ。

 「支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にと言って特別の会釈をする必要は無い」という先人の遺訓を封殺し、ODA等の援助で、強大な犯日国に仕立て上げた「言葉と文字界」職責者の責任は、重い!

 人類は分業で隆盛している、分業職責者の職責不履行は、亡国(言葉と文字界以外の現実世界では処罰され、即刻存亡の危機)となる!

日本統治以前はハングル皆無漢字全盛文盲時代!
 1446年第4代王世宗が「訓民正音」の名で公布したハングルは、1504年、10代王・燕山君が禁止し、1506年後継王・中宗が、正音庁(諺文庁・ハングル研究機関)も閉鎖し、日本統治までの406年間、公用禁止文字であった(朝鮮王朝実録)。

「朝鮮事情」ダレ著金容権訳平凡社抜粋
 ダレ著となっているが、フランスの第五代朝鮮教区ダブリュイ主教(1866年ソウルで李朝に処刑された)が、1845年から21年間命懸けで収集したものを編集したもので、ダレは編纂者。1910年から日本統治なので、統治直前の「朝鮮事情」である
 「第七章朝鮮語・・・試験(科挙)は、すべて漢字で行われ、中国の文字と書籍きのみをその対照としていた。政府の八つの主な学校では、中国の文学と科学だけを研究し、国語である朝鮮語は除けものにされ蔑視されている。・・・国王や王国の年代記、布告、守令の命令、法廷の判決、科学書、碑文、通信、商人の会計帳簿、商店の看板等、あらゆるものが漢字で書かれる」

日本統治文盲解消に尽力!

 そのハングルと漢字混合文を世界で最初に発案した福沢諭吉は、活字を私費で築地活版所に作らせ、弟子の井上角五朗が「脱亜論(1885年3月)」の翌年1886年1月、朝鮮史上初の漢字ハングル混合文を用いた「漢城周報」を発行(朝鮮族は完全隠蔽教育)等々尽力し、文盲解消に努力(「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店2002年4月)。   ハングルと漢字の混合文発行前年の「脱亜論」は、諫言と見るべきであろう。
 言行一致尊しが日本で、言行真逆虚言尊しが支那族朝鮮族。虚言崇拝精神は128年後の2013年も健在で、益々盛ん!まさに水と油!似て卑成る者である。

「脱亜論(特異民族)」証明の書
「朝鮮事情」ダレ著金容権訳平凡社
1中朝韓は植民地独立付与宣言友好恩知らずの他力独立犬の躾外交が適切
『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著・田中秀雄・先田賢紀智共訳芙蓉書房。
中国の真実タウンゼントが暴く東大女凶授NHKスパイ等が隠蔽中朝韓

国難に我欲の砂、詳細は下記参照。
1閔妃成敗角田房子NHKTV朝日銭生かん国スパイの籠絡で土下座志士子孫
Ⅰ中国の真実タウンゼントが暴く東大女凶授NHKスパイ等が隠蔽中朝韓

福沢諭吉台湾論をつまみ食いして非難する犯日

 この論文には、先に殺さなければ殺された戦国時代が皆無で、完全隠蔽されている。平和時の事後法(侵略者悪、被侵略者善)で、遡及しての難癖(1960年まで植民地政策は合法)は禁止法。善悪物語仕立ての、プロパガンダ以外の何ものでもない!。

第3章福沢諭吉の台湾論
 福沢諭吉は欧米の文化に追いつくため若者たちに洋学を修めさせなければという信念のため、幕府の招きを断り、さらに新政府への出仕も断った。それから西洋事情、西洋旅案内、学問のススメ、文明論の概論などを次々に公刊し、明治維新後の日本が中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作り、啓蒙運動の先頭に立った。ところが晩年に入った福沢諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定し、人種差別主義者となり、後世の批判を受け続けている。要するに、日本の近代化を導いた思想的リーダーとして今も一万円札を飾る福沢諭吉は近代日本の先駆者とされながら毀誉褒貶半ばする思想家と思われる。――

 「アジア諸国を蔑視し」とあるが、支那朝鮮のあまりの我欲がトラウマとなり、敵国の台湾や他国もそうであろうと錯覚したのもあいまって、統治開始時に、注意喚起目的の親心で過激に扇動(1895年5月台湾の処分法等)したに過ぎない。「アジア諸国を蔑視し、侵略を肯定し、人種差別主義者」として扇動は、国を思うあまりの愛国心が発露であり、台湾統治安定後は、支那朝鮮のトラウマからは脱却し、温和になっている。

 「侵略を肯定し」とあるが、先に攻めなければ攻められ、先に殺さなければ殺されるのが戦国(国盗り合戦)時代、殺されるのを待つ馬鹿など皆無!「侵略を肯定し」の、後世の平和時道徳善悪論など論外。

 「人種差別主義者」とあるが、戦争を仕掛ける敵と味方を分別するのは、人種差別ではなく正当防衛である。現代の支那人や朝鮮人の限りの無い捏造難癖(教科書や靖国参拝への内政干渉、慰安婦、東海呼称、旭日旗、南京虐殺、犯日ドラマや犯日教育等々)や威嚇(ミサイル、領海侵犯、国連や米国等でのプロパガンダ等々)は、思想戦である。思想戦を仕掛ける敵と味方を分別するのも、人種差別ではなく正当防衛である。戦争を仕掛ける敵と味方を分別することを「人種差別主義者」と捏造難癖も、思想戦である。

 歴史学には善悪など皆無で、真実と捏造があるのみ!こんなものは歴史学ではなく、いいとこ盗り成り済まし偽善者の、善悪物語プロパガンダにすぎない。

 以下の先人の、戦国時代の苦悩(護国に腐心)を踏まえて初めて、当時を生きた当事者福沢諭吉を、理解(福沢諭吉論文は日本護国論)可能となる。時代背景を吟味し加味しない論評は、偏向論プロパガンダである(東大京大等の文系教授NHK朝日毎日中日TBSナベツネ等々)。過激な表現には、その原因(時代背景)が、必ず在る神は賽を振らない!

「脱悪(亜)論」までの経緯を「大東亜戦争肯定論」を資料に辿る
予備知識・被征服者(有色人や弱小国)連合大アジア主義の原点
佐久間 象山(さくま しょうざん・松代ではぞうざんと呼称。1811~1864年)は松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家・象山神社(松代)の祭神。父(佐久間一学)は下級武士、母(まん)は農民出身。妻(正室)勝順子は、勝海舟の妹。

 1833年江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、1833年に江戸で私塾「象山書院」を開いた。洋学の認識は芽生えつつあったが、ここで象山が教えたのは儒学で、基本的にはまだ「伝統的な知識人」であった。

 1842年、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。

 江川英龍は「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法のため、洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは困難と知った象山は、同じ高島流の下曽根信敦から文書を借り学習し、西洋兵学の素養を短期間で身につけることに成功、藩主・幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を得た。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れて、大砲の鋳造にも成功した。1849年に日本初の指示電信機による電信や、ガラスの製造に成功した。1853年(嘉永6年)浦賀にペリーが来航した際も、象山は浦賀に出向き視察としている。

 1854年再び来航したペリーの艦隊に、門弟の吉田松陰が密航を企てて失敗、象山も事件に連座して入獄。その後1862年)まで、松代での蟄居となった。

 1864年象山は、一橋慶喜に招かれて上洛。慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都はまだ、尊皇攘夷派志士の潜伏拠点で、「西洋かぶれ」の代名詞のような象山には、危険な行動であった。7月11日三条木屋町で、前田伊右衛門、河上彦斎等に暗殺された。享年54。彼を暗殺した河上彦斎は後に、象山の履歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。

 「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法を破壊した象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことはすべて公開した。自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説き、断っている。

 学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からうかがい知れる。


 「宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、まさに以って我が聖学を資くる足る」

 象山は当時の日本において、洋学を学究し、思索し、指針を示した、紛れもない第一人者だった。しかし実事求是に徹した(真理至上主義)象山の態度は、当時の旧来常識から見れば邪道で、「象山は自信過剰で傲慢」と敵も多く、誤解を受ける大きな要因となり、数々の業績を残したにも関わらず、戦後のWGIP教育も影響し、評価が低い。がしかし、ただ今続々と国民が覚醒中なので、再評価は高くなるのみで下がることなどは、無い!
 「自信過剰で傲慢」は、見え過ぎた者の勲章で、敵は、時代の先駆者の、宿命である。

 勝海舟の妹順が1852年に象山に嫁ぎ、勝は義兄となったが、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて――(氷川清話)」とけなし、当時の勝は、傲慢な義弟象山をあまり高く評価していなかった。がしかし、12年後の1864年、象山暗殺の報を聞いた時点では、「蓋世の英雄」と評価は一変していた。「この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」とその死を悼み、西郷隆盛や山岡鉄舟は「殿」「氏」であったが、義弟象山には「先生」と、敬称をつけた。

 吉田松陰勝海舟坂本龍馬橋本左内、小林虎三郎、河井継之助、岡見清熙、加藤弘之など、後の日本を回天した人物が、象山の門弟である。「国家の財産」と自認象山、以って瞑すべしであろう。

1885年「脱悪(亜)論」までの経緯を名著「大東亜戦争肯定論」を資料に辿ってみよう
「大東亜戦争肯定論」について
 著者林房雄(1903~1975年)は東大法科中退。始めはプロレタリア作家で、「京大事件」で下獄。出獄し「青年」を発表。1933年小林秀雄らと「文学界」創刊。文学の政治への従属を否定し、プロレタリア作家の廃業を宣言し転向。戦後GHQから追放処分を受けたが、「息子の青春。1950年」などの中間小説で復活した。「大東亜戦争肯定論」は1963(昭和38)年中央公論に9月~40年6月連載(著者60歳)。39年(上巻)刊行し、「続(下巻)」は40年に刊行された。

国難はペリー来航以前に始まっていた
1844(弘化元)年から1853(嘉永6年6月)年ペリー来航まで
 「国史大年表(平凡社版)」によって、弘化元年(1844年)から嘉永6年(1853年6月ペルリ来航)に至る外国船と海防関係の記事をひろってみると、実に80件以上にのぼる。――事実上の戦争状態は、ペルリ来航のはるか以前に発生していた。その思想的背景として水戸斉昭・藤田東湖の「攘夷論」、平田篤胤とその門人たちの「日本新国論」が生れたと見ることができる。即ち「抗戦イデオロギー」の発生であり、「戦争教育」の開始であった。2につづく⇒


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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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