QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 11

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観「脱悪(亜)論」までの経緯を「大東亜戦争肯定論」を資料に辿る

2「脱悪(亜)論」までの経緯を「大東亜戦争肯定論」を資料に辿る 

国難に際し「思索する日本人

1854年(安政元年)吉田松陰の「幽囚録

 長州藩士吉田松陰がアメリカに密航しようとして捕らえられたのは、安政元年、ペルリ二度目の来航のときであった。松蔭は長州萩の藩獄に幽閉されたが、獄中で「幽囚録」を書き、師にして同士である佐久間象山に送った。これは当時として知り得るかぎりの世界大勢論であり、日本が西よりポルトガル、イスパニア、イギリス、フランス、東よりアメリカ、北より露西亜に狙われていること、支那大陸とアフリカ大陸がすでに英夷の侵寇をうけていることを述べて、武備の増強を強調し、次のように主張している。

 「艦ほぼ具わり、砲ほぼ足らば、即ち蝦夷を開墾し、諸侯を封権し、――間に乗じてカムサツカ、オーツカを奪い、琉球を諭し、――朝鮮を攻め、質(しち)を納れ(いれ)貢(こう)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾呂栄諸島を収め、漸く(ようやく。しだいに)進取の勢いを示すべし。然る後、民を愛し士を養い、慎く(かたく。固く)辺囲を守らば、即ち善く国を保つというべし 」

 同じく獄中から、門下生久坂玄瑞の攘夷即時断行論をいましめた手紙がある。大意をとって訳せば、

 「足軽は軽鋭で、深く考えることをしない。今日、蒙古来襲時における時宗の行き方を学ぼうとしても、それは無理だ。神功皇后や豊臣秀吉の生きかた(侵略して征服)も昔だからできたので、今はできない。できないことをやろうとして、大志を捨て雄略を忘れてはいけない。およそ英雄豪傑の事を天下に立つるや、謀を万世に胎(のこ)し、必ず先ずその志を大にし、その略を雄にし、時勢を察し、事の原因をつまびらかにし、先後緩急、先ずこれを内に定め、操縮張弛、おもむろにこれを外に及ぼす。幕府はすでに外夷と和親条約を結んでいる。これを日本人が破ったら、信義にそむくことになる。だから、現在の策としては、条約を立派に守って、その限度で外夷をくい止めておき、その間に乗じて蝦夷をひらき、琉球を収め、朝鮮を取り、満州を拉(ろう)し、支那を圧(おさ)え、印度に臨(のぞ)み、以って進取の勢いを張り、以って退守の基を固めたら、神功皇后や豊臣秀吉が果たせなかったことを果たすことができる。そうなれば、外夷はこっちの思うままに駆使することができるのだから、前日の無礼の罪を責むるもよし、ゆるすもよし。何ぞ必ずしも時宗が蒙古の使者を斬って快としたような子供っぽい真似をする必要があろうか」

 ――吉田松陰一人だけではなく、佐藤信綱「宇内混合秘策」、橋本左内「日露同盟論」等々、「西力東漸」に対する思想的反撃は幕臣たると陪臣たるを問わず、すべての「考える日本人」の胸中に生れていた。

終戦までは、職責者自らが知行合一の手本となったが!戦後の職責者は、空理空論丸暗記オウムスパイ
 1854(嘉永7)年日米和親条約締結に、ペリーが再航した。吉田松陰は、足軽の金子重之輔と二人で、旗艦ポーハタン号に漁民の小舟を漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否され、吉田松陰は幕府に自首した。
 この密航事件に連座して佐久間象山も投獄され、象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の阿部正弘の反対で助命され、長州へ檻送、野山獄(藩獄)に幽閉された。1855(安政2)年出獄を許されたが、杉家(実家)に幽閉の処分となる。
1857(安政4)叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開いた。この松下村塾で久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義等々の塾生に教えた。松陰の松下村塾は、文字(丸暗記)だけでなく、登山や水泳(実技)なども行なうという、生きた学問、言行一致の「実学」だった。
1858(安政5)年幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒、討幕を表明し老中首座である間部詮勝の暗殺を計画したが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)らが反対して計画は頓挫した。さらに松陰は、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に再び幽閉された。
1859(安政6)年10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。
 25日「留魂録」を書き始め、26日書き終える。
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
 享年30(行年29歳没)の生涯で、教えた時間もわずかではあったが、後の日本への多大な影響は、測り知れない。吉田松陰生い立ち詳細は⇒吉田松陰について

橋本佐内「日露同盟論」の大意

 「日本は東海の一小国、現在のままでは四辺に迫る外来の圧力に抗して独立を維持することはむずかしい。すみやかに海外に押し出し、朝鮮、山丹、満州はもちろん、遠く南洋、印度、更にアメリカ大陸まで属領を持って、はじめて独立国としての実力をそなえることができる。そのためには露西亜と同盟を結んで、イギリスを抑えるのが最善の道である――これと同盟して英国と戦えば、たとえ敗れても滅亡だけはまぬがれる。しかも、対英のこの一戦たるや、かならず我が国を覚醒せしめ、我が弱を強に転じ、これより日本も真の強国になるであろう。

 正面の敵は英国であるが、もちろん、今すぐに戦えというのではない。日本の現状では、それは不可能だ。英国と一戦を交える前に、国内の大改革を行い、露国と米国から人を雇い、産業をおこし、海軍と陸軍の大拡張を行わねばならない」

 ――松陰(長州藩士1830~1859)も左内(福井藩医1834~1859)も、――どちらも30そこそこで刑死したが、彼らの残したものは多かった。

※露西亜は欧米列強以上の侵略国家なのを不勉強であった橋本佐内ではあるが、とにもかくにも皆、「考える日本人」であった。

苦悩する藩主

1851~1858年(安政5年)

 「苦悩」は学者と志士だけのものではなく藩主たちも「国内改革案」と「東亜経略論」を持っていた。水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬。斉昭には藤田東湖、慶永には橋本左内がいた。島津斉彬の場合は、藩主自身の思想と実行が、西郷隆盛大久保利通等の藩士を導き、啓蒙し、訓練した。

 斉彬は嘉永4年2月に封をつぎ、藩主としての在位わずかに7年、安政5年7月に50歳で急逝した。この間にペルリ来航、ハリス(米)、エルジン(英)、プチャーチン(露)が江戸に乗りこんでいる。

 賢候中の賢候は、「西力東漸」に対して常人以上に対策に苦心していた。琉球は弘化以来、英仏艦隊の再三の訪問をうけて、開港を強要されたので、幕命で弘化2年藩地にもどり、対処した。

 それよりも、斉彬にとって重大な事件は、斉彬の壮年時代の印度の崩壊と、支那におけるアヘン戦争と、襲封直前に勃発の内乱、太平天国の乱であった。この内乱の中に清帝国の解体を予感し、やがて日本の運命になりかねないことを、憂慮した(蘭学者高野長英庇護は、世界情勢を聞くことが目的の一つであったと伝えられている)。

 斉彬が越前藩主松平慶永に与え、また西郷隆盛に教えたという意見書の写しが残っている。・・・斉彬もまた雄大な「大陸出撃策」を秘めていた。斉彬の秘策によれば、まず日本の諸侯を三手にわけて、

 「近畿と中国の大名は支那本土に向かい、九州の諸藩は安南、カルパ、ジャワ、印度に進出、東北奥羽の諸藩は裏手よりまわって山丹、満州を攻略する。わが薩摩藩は台湾島とその対岸広東福建を占領し、南シナ海を閉鎖して英仏の東漸をくいとめる

 大陸出撃の目的は清国の内政改革だと斉彬は言っている。

 「出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むのではない。一日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えしめ、日本と連合するときは、英仏といえども恐るるにたりない。然るに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を視ること属国の如く、日本より連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。故に、我より出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐを以って上策となす」

 もちろん、斉彬はこの策を嘉永安政のころに直ちに実行できると思うほど空想化でも「過激派」でもなかった。

 「もしも余が現在公然とかかる説を唱えたら、世人は斉彬が発狂したと思うだろう。まさにそのとおりだ。今、海外出撃の大号令が下ったとしても、命令一下、南シナ海の激浪を乗り切る軍船を結集し得る藩は一つもない。我が薩摩藩にしてすでに然り、他藩については申すまでもない。ただし、余に15年の歳月を借せ。薩摩を日本一の富強の国にし、日本統一の基地にしてみせる。日本を西洋諸国並みの富強の国にするためには、50年かかるかもしれぬが、薩摩を日本一の強国にするのは15年あれば十分だ。まず、そこから始める」と西郷隆盛に教えたと伝えられている。

 松平慶永は斉彬の年少の同士であり、その心酔者でもあった。上山春平氏が引用している慶永の意見書(老中堀田正睦宛て)が斉彬の意見に甚だ似ているのは偶然ではない。

 開国派もまた攘夷派であったのだ。「つまり、開国は、攘夷のための実力をたくわえる手段に他ならなかった」という上山氏の意見に、私は同意する。

 最初は「異船出没」による「斥候戦」であったが、英艦サラマン号の沿海測量、再再度に及ぶ英仏艦隊の琉球入港と上陸、海軍代将ビットルのひきいる米艦二隻の浦賀入港は、明らかな「威力偵察」と見なければならぬ。それより約5年後のアメリカ提督ペルリと露西亜提督プチャーチンの「来航」は、ともに完全武装の軍艦4隻(ペルリの最初の予定では12隻)をひきい、幕府を強要して和親通商条約を結ばせたのであるから、これを「発砲なき戦争」と解釈することは必ずしもこじつけではなかろう。

 「国を強くするためには、まず民を富ませねばならぬ」と斉彬は側近に語った。「武士も百姓も芋ばかり食っていて、忠義だ攘夷だとさえずっていても、何の役にも立たぬ。農業工業教育の三つがそろわねば国の本は立たない。蔵方にいくら金銀を積んでも、士民の生計が豊かにならねば、富国も強兵もない」

 吉田松陰の弟子達が、米国船ペンブローク号を下関で、仏国船キャンチャン号を豊浦沖で、オランダ船メジュサ号を馬関海峡で砲撃した。これにこたえて、米国軍艦ワイオミング号が長州軍艦二隻を撃沈し、仏国艦隊は下関を攻撃し、砲台と町を焼いた。「局地戦争」は瀬戸内海でも始まっていた。

 

ついに露西亜が日本占領

1861年2月3日~7月25日まで6ヶ月間日本の対馬を占領した露西亜艦隊。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、露西亜軍を対馬から排除。

 

勝海舟の興亜論

1863(文久3年)勝海舟の対韓政策「勝海舟秘録」

 「文久の初、攘夷の論、甚(はなはだ)だ盛んにして、摂海(大阪湾)守備の説、また囂々『ごうごう(やかましい)』たり、予(海舟)建議して曰く、よろしくその規模を大にし、海軍を皇張し、営所を兵庫、対馬に設け、その一を朝鮮におき、ついに支那に及ぼし、三国合縦連衡して、西洋諸国に抗すべし」

「海舟日記』4月27日

 「今朝、桂小五郎、大島友之充(対馬藩主)同道にて来る。朝鮮の議を論ず。わが策は、当今アジア州中、ヨーロッパ人に抵抗する者なし。これみな規模狭小、彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今わが邦(くに)より戦艦を出し、ひろくアジア各国の主に説き、縦横連衡、共に海軍を盛大にし、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙をのがるべからず。まず最初朝鮮国よりこれを説き、後支那に及ばんとす」

 勝の諸説は島津斉彬の東亜経略論によく似ている。「まず朝鮮を説き、次に支那を説き、三国同盟して欧米の力に対抗せよ」。

 

列強との戦争

1863(文久3)年

薩英戦争

 「生麦事件」以来すでに一年、犯人の処刑と償金の支払いを延ばし、薩摩は全く謝罪の意志がないように見えた。文久3年6月22日イギリス東洋艦隊7隻は横浜を出港した。この戦争における死傷者はイギリス側は戦死13、負傷50または65、薩摩側は戦死5、負傷者14と記録されている。犯人の処刑も償金の取立てもできず、わずかに鹿児島市街の一部を焼いただけで、陸戦隊を上陸させることもできず、イギリス艦隊は予想もしなかった大損害をうけて、横浜に逃げて帰った。

1864年

馬関戦争

 イギリス主導の英(軍艦9隻)仏(3隻)蘭(4隻)米(1隻)、兵員5014名の4カ国連合艦隊が、長州を攻撃した。禁門戦争(蛤御門の戦)に破れ兵力の大半を失っていた長州が、一撃粉砕されるのは常識であろう。たしかに長州が破れたが、ただの惨敗では片付けられぬ諸点が発見される。

通訳官シーボルト(アーネスト)・サトーの回想録

 イギリス公使オールコックは元治元年正月、ロンドンから横浜に帰任して、ニール大佐に代わって、列国外交団の主導的地位についたが、「帰任するに際し、実に大きな権限をあたえていた。彼は長州藩の敵対的態度に対し、膺懲(ようちょう・征伐して懲らすこと)を加えようと決心していた」

 日本における英仏の利害鋭く対立していた。フランスは幕府援助を決意して、幕府との単独条約締結にほとんど成功していた。しかしオールコックは強引に連合艦隊を出動させた。

 「日本人が頑強に戦ったことは認めてやらねばならない」とサトーは書いている。彼の計算によれば2日間の作戦でイギリス側の死者8名、負傷者30名である。これに仏蘭の死傷者を加えれば、その数は長州側の死傷者より多い。

 「オールコック公使たちの間で、――下関附近の充分な土地を占領し、――つづけるという計画があった。オールコックは萩を攻撃する必要をキューパー提督に説いた。――しかし提督は自分の権限内の手段では長州のいかなる土地をも永久に占領することは不可能であると考えていた。――馬関戦争戦争直前に『日本内地においては断じて軍事行動を取ることを許さず』と急信されたが間に合わなかった。オールコックは罷免された」

 幕末におけるABDFラインが日本に加えた圧力はたしかに強力なものであった。が、日本は「敗北」したが「屈服」しなかった。不平等条約は押し付けられたが、いかなる土地の占領もゆるさなかった。東漸する「西力」はその意思に反して極東のはてに日本という「非占領地帯」をのこさざるを得なかった。

※上陸占領すれば、ばらばらであった諸藩が一気に団結、大戦となり、食民治連合も乱れ、巻き込まれる。大戦を望まぬ食民治連合が日本人の団結を感じ取り、中国のような蚕食を避けた

イギリス人トインビー教授「文明の実検」(人類の自滅原爆戦争回避のための警告の書)

 「東方をのぞめば、瓦解した諸帝国が、トルコから中国にいたるまでアジアの全大陸にその残骸をならべていて、・・・いたるところの原住民らは、羊のごとく従順にその毛を刈りとらせ、ただ黙々たるのみ。あえて彼らの毛を刈りとる者に立ち向かって反攻しようとはしなかったのである。 日本人だったら、全く違った反応を示したであろう。しかし、日本はきわめて珍しい除外例であり、かえって、原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ」。

 力点(赤字)は私(林房雄)がつけた。『文明の実検』は日本の歴史を扱ったものではない。人類の原爆戦争という集団自殺の愚挙を回避するためには、

 「ただちに世界政府を結成せよ。これに失敗するか、あるいはその実現が遅れるならば、人類は自滅するであろう」と言う警告の書である。

 

 この「きわめて珍しい除外例」は何によって生じたのか?

東洋学者現アメリカ大使ライシャワー「中央公論昭和38年3月号日本と中国の近代化」

 「私はその一つの理由として、徳川時代のように安定した封建的社会(幕藩体制)の習慣法が、中国のように全国を完全統一した中央集権的な君主国よりも、もっと経済成長を促進する役割を果たしたこともあげられると思う」といっている。「日本の近代化は19世紀半ばに(封建制度の下で)すでに始まっていたと言えるので、同世紀後半に入ってからさらに速度を加えたのは驚くにあたらない」

※日本は最極東なので、学習時間が有り、学習し備えた、結果唯一の例外となったのだ。もちろん、天災列島なので、天災人災(侵略)に対する団結力絆は、他国よりも抜きん出ていた事が最大の理由だ。

 薩英戦争も馬関戦争も占領をあきらめざるを得なかった。だが薩摩も長州もみずから敗北を認めて、償金を支払い、「和親通商条約」という不平等条約を受け入れ、「攘夷」を「開国」に切りかえた。他の諸国の「開国」は「降伏」であったが、日本はそうではなかった。「開国は実力を蓄え、攘夷を貫徹するための手段となった」。

※倒幕日清日露大東亜戦争はすべて、戦国の御世に「攘夷(日本民族の適者生存)を貫徹するための」戦争であった。

天道が宗の徳川慶喜

1867年仏公使ロッシュの援助を断り諭し「大政奉還江戸城明け渡し」した徳川慶喜

 軍艦武器資金はすべてフランスから供給するとロッシュは言ったが「我が邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令ことごとく行わる。たとい今日公家大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といわんには違反しがたき国風なり。されば、今兵を交えて此方勝利を得たりとも、万々一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名まぬかれがたし。さすれば昨日まで当家に志をつくしたる大名も、皆勅命に随わんは明らかなリ。よし従来の精義によりて当家に荷担する者ありとも、かくては国内各地に戦争起こりて、3百年前の如き兵乱の世となり、万民その害を受けん、これ最も余が忍びざるところなり」と答えた。

幕臣も、公家や薩長とは戦っても、日本を分裂させて清国の二の舞を演ずることはしなかった。幕臣である前に日本人であった。

 劇作家や作家が勝・西郷の会見を、英公使パークス(薩長を支持)と仏公使ロッシュ(幕府支持)の国際的圧力下を強調しているが、両者は天道が宗で攘夷は同じである、国際的圧力を利用したに過ぎない。

岩倉具視の「全国合同策」

 「君子小人、国内に扮争する時、多力の者は其党を樹て「たて(樹立)」、寡力の者は外権を仮るは、古今の通患なり。外権を仮るとは外夷の力を仮ることにして、恐るべく憂うべきなり」具視はここで、唐宋元明の歴史を引用し、支那の各王朝がトルコ、キタイの兵を借りたために亡国への道を開いた先例をあげ、「これ他方の談として看過すべからず。もし今日我が皇国にして之れに類することありとせんか、たとえば西国はアメリカを引き、中国四国はイギリスを引き引き、北国は露西亜を引き、東国はフランスを引き、遂にこれら諸夷の権力を仮り、相互に勢いを争いて征伐せば・・・金甌無欠(きんおうむけつ。外国の侵略を受けたことのない)宇内(うだい。天下)に冠絶(かんぜつ。とびぬけてすぐれている)する皇国は、犬羊に均しき外夷の管轄に属するに至らんこと明鏡の如し

幕府も薩長も土肥も、ひたすらに日本の分裂と植民地化を恐れ、苦労し、苦心し、精根尽くして外国の蚕食(清国の蚕食で学習していた)から日本を守った。かくして欧米露列強の日本蚕食作戦は清国同様とはならず失敗、大きく後退して変更を余儀なくされた。日本は大東亜戦争まで侵略を防ぎ、持ちこたえたともいえる

中岡慎太郎三篇の時勢論

1867(慶応3)年終り中岡慎太郎伝

 「薩長連合」と「大政奉還」の事実上の計画者中岡慎太郎は龍馬と共に暗殺される直前慶応3年終り、三篇の時勢論を書き残している。いずれも「ひそかに知己に示す論」である。「予は草莽無頼の者なり。言を王侯貴人に献ぜんと欲して、その道なし。故に虚心黙座、一点の私念を交えず、既往の過を悔い、将来の事業を企て、思うところをところとして、天下の同志に示す」

三書を総合しての大意要約(林房雄)

 「今より後、一年以上もうかうかとすごしたら、外夷の処置はついに出来なくなるだろうと実に心配でならぬ。

 自分はかねて西洋の兵制を学び、商業もまた西洋の会社組織に習えと主張しているから、ただ西洋好きの開国論者だと思う者もあるかも知れぬが、さにあらず、自分は攘夷の実行方法として開国論を唱えているのだ。

 そもそも攘夷は日本だけの専売ではない。やむ得ない時には、世界の各国はみなこれを行う。アメリカはもとイギリスの属国であった。イギリス国王はこの属国をしぼりあげることに専心したので、アメリカ国民の生活は日々に困窮した。ここにおいてワシントンという人物が現れ、民の疾苦を訴え、13州の民をひきいて立ち、イギリス人を拒絶し、鎖国攘夷を行った。英米、戦うこと7年、イギリスは和を乞い、アメリカは独立して合衆国と号し、一大強国となった。今を去る80年のことである。ドイツ国もまたスペインの属国であったが、よく国論を統一し、拒絶攘夷を行い、戦うこと8年、戦うごとに破れれたが、最後に至って、一戦大いにスペイン軍を破り、ついに独立した。

 吉田松陰がアメリカに渡ろうとしたは、攘夷の志によって、彼の長をとり我が短をおぎなおうとしたのだ。其の門弟久坂玄瑞は曰く『すでに通商条約が定まった上は、ひろく有志の者を海外に派遣し、西洋の諸学諸芸及び工商の術を学ばしめ、大いに海陸の軍備を張るべし、それをやらなければ、国体を立つることはできない』また高杉晋作は曰く、『今日、西洋事情を説き、西洋を知っていると自認している連中は、わずかに西洋の一端だけを見て、其の歴史の盛衰を知らぬ。彼らが強盛になったのは、過去にその理由がある。今日、日本が彼の『強盛を学ぼうと欲するなら、英仏がまだ強盛にならないとき、国内改革の内戦が度々あったこと、また露西亜が百戦危難の中から国を興したことを手本として学ばなければならない。もし日本が現在内政改革をおこたり、現状のままで、西洋強盛の文明のすでに出来上がったものを、居ながらにして学ぼうとするのは大間違いである。よろしく奇変、英達、実効をもって、天下を一新すべし』と。

 自分の攘夷の策は、今日深く外夷と結ぶにあり。涙をのんで、外夷と手をにぎるのだ。ひろく海外諸国に留学生を送り、外国人を雇い、国産を開き、断然と大いに国を開くべし。かくして、すみやかに軍備を設け、兵を練り、名分条理をふみにじって攻めてくる強悪の外賊を討つべし。近い将来に必ずその時が来る。露西亜も恐るべきだが、アメリカもまた油断はならぬ。

 敗戦を恐れることはない。文久2年、薩州の壮士、英夷を生麦に斬る。その後、英軍鹿児島に入り、罪を問う。世論はいかに薩州が強大でも、英国の力で攻められては支えることはできまいと言った。然るに、この一戦によって志気は大いに振るい、俗論は閉塞し、因循とその日暮の旧弊は破れ、いわゆる攘夷家なる者も進んで航海練兵の実用を主張するに至り、薩州の国是は定まった。また、長州においては、しばしば夷船を暴撃し、京都では蛤御門の一戦に敗軍し、つづいて馬関戦争の大敗があり、また幕府追討軍によって四境を包囲された。世人はみな、長州の滅亡疑いなしと思ったが、あに計らんや、長州が国内の政治を改革し、兵制を一新し、士気大いに奮い立ったのは、この危機によってである。また、幕府が昨年、征長の役に破れた時、世人はみな、もう幕府は恐るるに足りぬと思った。何ぞ計らん、幕府の海陸制の奮い立ったのは、この敗戦の機によってであった

 わが神州、危急存亡、今日に至って極まれリ。いやしくもわが国民たる者、傍観することが出来ようか。まことに古人の言う如く、領地あるものは領地を投げ出し、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀をつくし、一技一芸ある者はその持芸をつくし、愚なる者はぐをつくし、光明正大、各々、一死以ってその誠を尽くし、然る後、政府立つべく、武備充実、国威張るべく、信義外夷に及ぶべきなり。かくの如くすれば、あに好皇運挽回の機なからんや。あにまた外夷を制するの術なからんや」

※角栄以後の日本を駄目にした政治家や戦後の職責者は、正座して熟読せよ!3につづく⇒

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/373-70ff1c9e

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。