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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観5日本と孫文と汪兆銘1933~

 「アメリカの鏡・日本」著者ヘレン・ミアーズは、連盟脱退後の日本(1935)年に滞在し当時の模様を記している。「国際連盟を脱退した日本は、これから欧米列強との間でさまざまな困難に直面することになるであろう。天皇はそういって国民に覚悟を促した(天皇の詔勅)。

 ・・・日本は非友好諸国に『包囲されて』いる。欧米列強の狙いは、わが神聖な島々を封鎖あるいは爆撃し、アジアの同胞と「有色植民地住民」を、欧米の搾取から解放しようとする日本の努力を妨害することである。

 ・・・
日本の指導部は国際連盟についてこう言うのだった。国際連盟は白人が力で奪い取った世界を支配し、アジア太平洋の島々を搾取し続けるための、クラブである。ムッソリーニの軍隊がエチオピアを爆撃しても、連盟はなにもしなかったではないか。にもかかわらず、満州の秩序と平和を維持するために、合法的に最善を尽くしているわが国には干渉し、我々を非難している・・・」と。

 当に当時の日本を記して余りある。NHK巧凶放送や日教組や大学は64年間も、国際連盟や42カ国が正義で、脱退した1カ国が極悪と放送し、いたいけな子供や学生に教えている。チョット調べれば分かることもしなかった。検証回路全く皆無、税金泥棒の輩である。

1933年 アメリカは、昭和8(1933)年8月に米国農務省が8千万ドルの小麦と綿花借款を南京の国民政府に与え、さらに昭和9(1934)年2月に中国広東軍司令部と米航空公司との間で米軍の援助による空軍3年計画契約交渉を行い、米軍用機購入と米海軍予備将校の指導をもとに、福州およびアモイに米国は飛行場を建設している。

 かくして実力を蓄えた蒋介石は、第4次共産軍討伐に乗り出し、中国中南部の共産軍に攻撃を加え、昭和8(1933)年には第5次討伐を敢行し、江西省端金に対する経済封鎖によって共産勢力を駆逐し、昭和9(1934)年12月に、ようやく共産党政府及び共産軍主力を端金より追放したのである。この討伐戦によって、共産軍は華北の延安まで撤退を余儀なくされた。

1933(昭和8)年31日 タンクー(塘沽)停戦協定(日本軍と蒋介石軍との停戦協定)1933年2月から日本軍は内蒙古熱河省の張学良掃討、さらに万里の長城以内に進出した。対共産党討伐に重点を置く蒋介石は対日和平策をとり、停戦協定を結んだ。この結果中国は、満州と熱河の放棄を事実上承認し、万里の長城以南に非武装地帯を設けた。治安維持は中国警察が担当。以後蒋介石中国は、満州国を事実上黙認し、満州事変終結。

 掃討作戦の常道で、止むを得ず長城を越えたが、天皇の命令一下(本庄繁・侍従武官長の日記「至秘鈔」)、4月19日、直ちに帰還した。しかし、挑発は止まず、天皇と軍から再掃討の許可を得、追撃、5月25日停戦提議を引き出し、31日、塘沽停戦協定。これが全貌。

193410 中華ソブィエト共和国臨時政府(瑞金)は、蒋介石第5次掃討戦に破れ、長征開始(中国共産党軍30万人が華南華中から撤退移動。移動中毛沢東の指導権が確立した)。

1935年1月22日 広田弘毅外相が議会での姿勢演説で、日中双方の「不脅威・不侵略」を強調し、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担する、と主張した。

 この誠意に満ちた演説は、中国側に好感をもって迎えられ、一週間後、蒋介石は内外記者団に次のような主旨の日華親善方針を声明した。「広田外相の議会演説に吾人(われら)は誠意を認める。中国の過去における反日感情と日本の対支優越態度を、共にこれを是正すれば、隣邦親睦の途を進むことができよう。わが同胞も正々堂々の態度を以て理知と道義に従い、一時の衝動と反日行動を押さえ、信義を示したならば、日本もまたかならずや信義をもって相応じてくることと信ずる」

 また、20日には汪精衡が南京で、中国と密接な関係を持つ日本との友誼増進の必要を説き、1924年、神戸での孫文の日華提携演説(「大アジア主義」演説)こそ日華外交の根本であり、広田演説は中国年来の主張と一致する、と述べた。当時、凶産軍掃討のため漢口にあった蒋介石は、汪兆銘の演説を知って、賛同と協力を約す電報を打った。

 中国側は対日親善の声明に留まらず、進んで排日取締りを具体化した。国民政府は全国の新聞通信社に排日言論の掲載禁止を命令し、(2月20日)、中央政治会議は蒋介石・汪兆銘の提議で排日・排日貨停止案を可決した(2月27日)。翌28日には、中央党部宣伝部長として排日世論を指導してきた邵元沖が罷免された。また国民政府教育部は各市教育長に、政府の検定無き教科書の使用を禁ずる命令を発した(3月15日)。

1935年5月 広田外相は閣議の諒承を得て、在華公使館を大使館に昇格決定し、伝えた。この通知を受けた汪精衡は、「これで両国は東亜の大道を手をとって歩けるのです」と言い、直ちに中国も昇格の措置を取ることを約した。

 関係列国にも昇格を勧めたところ英国が賛同、5月17日日華英三国は、大使館昇格を同時に発表した。

1935年 昭和10(1935)年、ソ連・コミンテルンはモスクワでコミンテルン第7回大会を開催し反日団体の結集をはかる「抗日民族統一戦線」の形成を決議した。これは直ちに中国共産党によって、政党政派をのりこえて抗日連合軍を組織するよう求める宣言「8・1宣言」となって現れた。

 従来より中国国民党は、親日派と親米派の派閥対立があったが、この時期を境に、親日派であった行政院長の汪兆銘が狙撃される事件や、同じく親日派の唐有壬(とうゆうじん)交通部次長が暗殺される事件が起こり、国民党内の親日派は衰退し、国民党の主導権は親米派に握られることとなったのである。

1935(昭和10年)中国共産党日本に宣戦布告 1935年のソ連コミンテルン第七回大会で、反ファシスト人民統一戦線方式が打ち出された。その結果「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」が発せられた。内容は中共がその革命戦術の中に対日戦争を採りいれて、「内戦停止・一致抗日」を訴え、所謂「救国」運動に変換し革命戦術を拡大させたのである。そしてそれは国民党軍に潜入していたコミンテルンの指令を受けた中国共産党工作員による、1937年7月7日の「盧溝橋事件」へと展開してゆく。

 八・一宣言(抗日救国のため全同胞に告ぐるの書。中国共産党が抗日民族統一戦線の結成を提唱)中国共産党軍の兵力は30万人から3万人に激減したため矛先を日本に替え宣言した。赤化戦争を抗日救国戦争にすり替えた。日本と蒋介石国民党軍と交戦させ衰えさせる、漁夫の利作戦を本格的に開始したのだ。以後日本との交戦はすべて中国凶産軍の仕業と考えて間違いはない。

 なんと中国共産党は、シナ事変に先んじる2年前、昭和10(1935)年8月1日、日本に宣戦布告しているのだ。日中戦争ではなく、日本対中国共産党、反共戦争なのだ。

193510日国民党政府が共産党討伐に全力を尽くしていた時は、排日事件も余り起こらなかったのであるが、共産党が延安に拠点を移して華北一帯に共産遊撃区の構築に乗り出し昭和10(1935)年8月1日、日本に宣戦布告した時期から、赤化戦争(排日事件)が再び頻発するようになったため、日本政府は、昭和10(1935)年10月に広田3原則を発して、支那における赤化戦争(排日状況)の解決をはかった。

 その概要は、

(1)中国側で排日言動を取り締まるとともに、日華両国は相互独立の尊重と和親協力関係の増進に努める。

(2)中国側で満州国を承認し、日満華の新関係の樹立をめざし経済的文化的提携を結ぶ。

(3)北支一帯における共産主義の脅威を排除するという見地にたって国民党政府と日本との合作を行う。

というものであり、共産主義の脅威を除去して、中国と友好関係を結ぶことを目的としたものであった。それは共産党討伐を推進していた蒋介石とも利害の一致するところと考えたからである。これにより、日本は、排日テロ事件防止のために国民党との合意のもとに、「冀察(きさつ)(河北省とチャハル省)政務委員会」を成立させることになった。この時期には、対共産主義政策において、日本政府と国民党政府の間にはそのような関係が成立していた。

193511日 汪兆銘と蒋介石の指導のもと、日中和平路線が着々と進められたが、これを喜ばない勢力があった。国民党六中全国大会で、汪兆銘はカメラマンに扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめたが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。

1935年12月9日「12-9運動」北京の学生が日本の「華北侵略」に反対し、国民党凶産党の内戦停止、一致抗日を求めて起こした運動。胡適は学生の説得にあたり、罷課に強く反対した。「華北侵略」とは下記の事。

 「1935年後半までに、日本は軍事力よりむしろ外交的、経済的手段で中国での目的をかなりのところまで達成していた。日本は華北を蒋介石政権の「悪政」からほとんど「解放」していた。日本は華北三省を統治する将軍たち(軍閥)の協力でこれを達成したのだ。将軍たちはいずれも華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を支持すると宣言していた」戦後3年の著作ヘレンミアーズ「アメリカ人の鑑・日本」第九章の3

1935年 胡適「日本切腹、中国介錯」論。汪兆銘は「胡適のいうことはわかるが、その3、4年の間に中国は共産化してしまう」と言って、後に蒋介石と袂を分かった。加藤陽子東大教授の1935年説は、?。理由は、この時期は、親日反共の真っ最中で、193610に、毛沢東は「最後の5分間」追いつめられている。西安事件以後なら抗日なので、転向の言い訳論として整合する。加藤陽子の陰謀ではないか。

1936年 昭和11(1936)年、国民党幹部として共産党討伐に携(たずさ)わっていた張学良は、延安で周恩来と会談するにいたり、共産党幹部の葉剣英とも接触して、共産軍に食料や防寒衣や巨額の私財を送るようになり、共産党との関係を深めていった。

 周恩来との会談について張学良は「(周恩来は)抗日の綱領のもとで共産党は国民党と昔日の関係を回復し、あらためて蒋公人の指導を受けると力説した」(「西安事変反省録」)と述べているが、これによって、共産党がいかに国民党の反共政策の転換を望んでいたかを知ることができる。

 共産党にとっては反共産主義で一致している日本政府と国民党政府を分裂させ、国民党政府を味方につけて反日(赤化)戦線を形成することはまさに死活問題であったのである。

1936年 日中和平を喜ばない勢力の一つに、中国共産党があった。蒋介石は、1930(昭和5)年からの数次にわたる共産軍掃討作戦を進め、1936年頃には共産軍は30万人から3万人に激減、蒋介石の表現によれば、掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。

1936月 松井岩根、南京にて蒋介石と会談

    三、交渉要綱

 一、排日侮日政策をやめ、孫先生の大アジア主義に基く両国の根本的政策に寄与する。

 二、満州国の既成事実、持種事実を承認する。

 三、赤化防止は両国共同して具体的方策を協定する。

 四、財政経済問題は両国間で相互援助法を定め、敢て欧米を排斥せず、強調的態度を持す。

 五、両国は国民相互の交流と思想の善導を期す。

 この松井試案に対して張群は若干の修正と補足意見を述べた。しかし蒋介石は「外交問題は一切張群にまかせてあるから」と言って、例のごとく愛想よく松井閣下を迎え「好(ハオ)!好(ハオ)!」を連発して、特別に意見の開陳はなかった。

 松井大将が西南軍閥に対しても、蒋介石に対しても、主張した言葉は、孫文先生は《日本無くして中国なし、中国なくして日本なし、中日の関係は唇歯補佐(唇と歯の関係)切っても切れない関係だ》と言われた。この孫文先生の思想に帰ろう、という主張であった。

 さらにその後、呉震修(ごしんしゅう)が閣下を招待し、2度目の歓迎会が開かれた。呉は松井大将に対して、国民党の一部に親露思想のあること、蒋・張群に対する批判など、党の内情を赤裸々に打ち明けた。(興亜観音を守る会会長 田中正明)

 1936年春桜美林創立者清水安三が、中国旅行で高まる抗日に不安を覚え、知人の蒋介石側近胡適と面会、戦争防止を訴えたが、「我々は日本と戦う。自分は以前、国民から嘲笑を浴びながらも、決して戦ってはならないと主張した。しかし今や、どうしても一度は日本とは戦わねばならない・・・と感じている」と答えたという。清水安三の妻もこの後、蒋介石妻宋美麗と面会、戦争防止を訴えたが、耳を貸さなかったという。桜美林HPより

193610 長征終わり(延安に到着し長征は終わった)中国共産党軍の兵力は30万人から2万5千人に激減していた。(以後共産党は抗日(赤化)と称して侵略を繰り返し挑発し、赤化戦争を仕掛けた。赤化戦争に火をつけたのはソ連と中国の共産党だ)

 汪兆銘の証言。中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたのです。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動していると私は読みとりました。謀略にひっかかってはなりません。

193611 フランクリン・D・ルーズベルト、大統領選に勝利、再選。

19361125 日独防共協定(正式には共産インターナショナルに対する日独協定)で、対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした反ソ反共協定。1937年11月日独伊防共協定、1940年9月日独伊三国同盟へ発展。

19361212 西安事件共産軍討伐のため西安に駐屯中の張学良の旧東北軍が、抗日救国(狂惨党のばらまく美味な撒き餌。実体は、赤化戦争を要求し、南京から督戦に来た蒋介石を監禁した事件。共産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、西安事件であった。

 
蒋介石が西安で共産軍掃討戦を 行っている張学良を督励するために訪れた時、突如逮捕監禁された。8年前、父親・張作霖を日本軍に爆殺されたとされ、満洲から追われた学良は、抗日意識の盛り上がりに乗じて、共産党と通じ たのである(父親・張作霖の爆殺は、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、真実はスターリンの命令にもとづいてトロッキー暗殺に関与した、ナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという)。

 共産党がモスクワの指示を仰いだところ、スターリンは蒋介石を釈放し、「連蒋抗日」を命じた。周恩来は蒋介石に息子「蒋経国を帰国させる」とスターリンの条件を伝え、国共合作して日本軍と戦おうと説得した。蒋介石を殺せば、国民党軍により中共軍が壊滅せられ、汪兆銘がトップとなることを恐れたものであろう。蒋介石を殺すべしと考えていた毛沢東は真っ赤になって怒ったと伝えられている。

 拉致された蒋介石は釈放の条件として、共産党討伐の停止、逮捕されていた抗日運動家の釈放、対日抗戦の早急な準備などの8項目を要求され、「抗日民族統一戦線」の形成に合意させられた。

 蒋介石釈放をめぐっての調停工作に当たっては、イギリス、アメリカ、ソ連、中共の間で同一歩調がとられ、利害が一致する中で抗日統一戦線が形成されていった。

 この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。蒋介石は国共合作・抗日へと方針を急転換し、「最後の5分間」の段階に来ていた反共掃討戦を、中止した。事件後、国民党の外交部長で親日家の張群が罷免されるとともに、国民党から共産党に毎月50万元が支給されるようになり、国民党は次第に反日色を強めていった。


 西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作を進めた。「人々は、簡単に抗日を国内統一の手段にしようなどというが、抗日戦争で負ければ我々は滅亡するのだ。いちかばちかの賭けに出て、滅亡した場合誰がどう責任をとるのか」反共戦争(日
中戦争)ふたたび準備

1937陸軍軍人林 銑十郎 首相退陣し 近衞 文麿首相

1937 盧溝橋事件(1937年7月7日)の数ヶ月前、米国ルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートを、中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして蒋介石が雇った。蒋介石抗日救国(狂惨党のばらまく美味な撒き餌)に傾いたのか、それとも宗主国の傀儡と化したのか。蒋介石孫文から離れ、宗主国を後ろ盾にし、狂惨同様に抗日を掲げ国内統一の手段にし、私利私欲独裁に動いたのは確かだ。日中戦争開始準備。

1937 盧溝橋事件(日本軍が北京郊外盧溝橋で夜間演習中、弾丸が飛んできたことを理由に翌朝交戦。盧溝橋事件は、排日事件を頻発させ、西安事件によって抗日戦線を形成してきた中国共産党が、日本との戦争を行うべく、戦略的な突出を行い、国共一体となって、抗日戦を切り開いて行く状況を作ろうとして起こした事件と見るべきである。蒋介石が再び親日反共掃討戦に戻らぬようクサビを打つため、「最後の5分間」の段階の凶産党が、抗日戦争を仕掛けたのだ。

 周恩来首相、中国凶産党が廬溝橋事件の犯人である事を暴露。

 中共政権が、支那本土を掌握した時(1949年10月1日、中華人民共和国宣言の際)周恩来首相は誇らしげに証言。

「あのとき(支那事変勃発時)我々の軍隊が、日本軍と中国国民党軍(蒋介石軍)の両方に(夜暗にまぎれて)鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽り、停戦協定を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光をもたらした起因である」動向5月号1539号「唐沢」を嗤って過ごせるか 参照

1937 「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコト避クベシ」7月8日付けの日本軍の不拡大方針を指示した電報の原文が靖国神社の遊就館に展示してある。

193711 盧溝橋事件そのものは国民党政府軍の宋哲元が、正式陳謝し、責任者を処罰し、部隊を撤収させることで解決(現地協定)をみていた。日本政府は不拡大方針を示し、11日現地で停戦協定が結ばれた。ところが事件を機に日中間の全面衝突赤化戦争に発展させようとするソ連・コミンテルンの策動が行われた。すなわちソ連・コミンテルンは次のような指令を発したのである。

 「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。下層民衆階級に工作し、・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。」(興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」)と。

 7月25日、北京から75キロ離れた郎坊(ろうぼう)にて、日本軍に対し、突如中国兵が小銃、機関銃を乱射してくる事件、次いで北京の広安門から北京城内に入城する日本軍に対して、中国側から突如襲撃が行われる広安門事件が起こり、日中間は戦争状態となったが、29日平津(北平・天津地方)掃討作戦終了。

 対応して、近衛文麿内閣は増兵した。この結果中国側の交戦機運を高め、反共戦争(赤化戦争、日中戦争)(日華事変、支那事変)に拡大した。(注・ソ連の恐怖は日中同盟だ。日本の元朝日新聞記者で近衞内閣の嘱託でスパイの尾崎秀実とゾルゲが、交戦するよう仕組んだ。仕掛けたのは中国共産党とソ連のスパイだ。それまでは戦争不拡大方針だったが、無知な近衞 文麿首相は尾崎秀実とゾルゲに操られ戦争を拡大していく)。

 日本は早期和平を望んだものの、食民治主義と凶産党が国民党・共産党を支援し、中国共産党の強引な反日攻勢によって戦線は拡大のやむなきに至った。

支那事変にいたるまでの反日事件一覧

1937
29 通州事件(中国人保安隊の日本人虐殺事件)通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があった。中国側の謝罪、慰藉金支払いで落着はしたが、この事件をきっかけに、日本国民と日本軍の間には激しい怒りが支那側に向けられることになり、日中間で対立が極度に激化したのである。

30日午後救援に当たった天津歩兵隊長萱島高証言

 「旭軒(飲食店)40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居利、その中4、5名は陰部を銃剣で突き刺されていた。商館や役所に残された日本人男子の屍体はほとんど全てが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」

通州救援の第二連帯歩兵隊長代理桂鎮雄証言

 「近水楼(旅館)入り口で女将らしき人の屍体を見た。足を入り口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場も無いほど散乱し、掠奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、あるいはうつ伏しあるいは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されていた。廊下座敷に女の屍体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。その裏の日本人の家では、親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されいた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

 近水楼を襲撃したのは黒服の学生団と保安隊であった。彼等は女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑した。当日近水楼宿泊した同盟通信特派員安藤利男は、処刑場から脱走し、手記「続対支回顧録」「通州の日本人大虐殺(文藝春秋昭和38年8月号)」を書いた。「文藝春秋に見る昭和史」第一巻(昭和63年1月)にも転載されたが、いかにも戦後の解釈あり。6につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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