QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 101234567891011121314151617181920212223242526272829302017 12

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観6日中戦争は反共自衛戦争中ソ凶産合体侵略の現実が証拠1937.8~

救援隊支那駐屯歩兵第二連隊小隊長桜井文雄証言

 「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており。一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこここの埃箱の中や壕の中などから次々這い出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では、7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒を差し込んである者、口中に土砂を詰めてあるもの、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家六名数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」

 在留邦人380名中惨殺された者260名。

 これはコミンテルンが発した「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令がまさに現実化していったことにほかならない。

 仕掛けたのは国民党軍に潜入していた中国共産党だ。支那人が避けて通る恥部-通州事件 こわごわ通州へ(通州虐殺事件) 最初から謀られて通州の悲劇 支那人が絡んだ日本人虐殺事件
 

1937日大山事件 1937年8月9日には前哨戦たる国民党軍に潜入していた中国スパイによる日本将兵の虐殺事件が発生した。モスクワの意向を受けていた「狂惨スパイ」が引き起こしたことは、中共側資料に明記されている。中国兵死体を現場に置き、偽装工作。

193713日 上海事変②上海では事を起こさないと言う蒋介石の方針に反し、国民党に寄生したコミンテルンは非武装地帯に陣地を構築し、日本の陸戦隊を挑発し8月13日先制攻撃を開始した。第二次上海事変の勃発である。中国狂惨党は、これらの事件を拡大させ、局地解決を妨げ、国民党に寄生し協力しつつ、党勢を拡大するという秘密指令を実行していった。中国空軍のマルチン爆撃機は共同租界フランス租界などところかまわず爆撃し、千二百数十名が犠牲になった。14日応戦し、各地飛行場、翌15日には、南京・上海方面に対し、渡洋爆撃し、敵空軍基地に打撃を与えた。

1937 蒋介石総統は、自著「中国のなかのソ連」(訳者・毎日新聞外信部 毎日新聞社)のなかで、次のように記している。「一九三七年秋、朱徳が第八路軍をひきいて陝西省北部から戦線に出動したとき、毛沢東は部隊に対し次のように演説した。

(一)中日戦争は中共発展の絶好のチャンスである。我々の基本政策は全力の七分を中共の発展に二分を国民政府との対抗に、残りの一分を抗日に使用する。

(二)この政策は次の三段階に分けて実施する。第一段階では国民党と妥協して中共の生存と発展を図る。第二段階では国民党と勢力の均衡を保ち、彼らと対抗する。第三段階では華中各地区に進出して根拠地を築き国民党に反攻する」

1937 国共合作②盧溝橋事件を契機に、凶産党抗日(赤化戦争)を推し進める。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。(中国国民党と中国共産党との協力体制)国共合作②成立。米英ソ連(宗主国)の援助を受けながら戦った(蒋介石が狂惨党と宗主国の甘言に乗ったのだ)。対狂惨党との戦争となったので戦争回避不可となる。日本反共戦争(日中戦争)開始。

1937年10月14日ローマ法王のピオ11世は反共戦争(支那事変、日華事変、日中戦争)(1937年7月7日)が始まった年の10月14日に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。凶産党と戦っている。凶産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」と。(朝日新聞昭和12年1937年10月16日~17日)

193711日 トラウトマン工作開始(石原莞爾不拡大派はドイツの仲介で和平交渉開始したが、近衛声明を発表して38年1月16日打切り)

193711 日独伊防共協定。対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした反ソ反共協定、1936年11月25日の日独防共協定(正式には共産インターナショナルに対する日独協定)が前身で、1940年9月日独伊三国同盟へ発展。

19371120日 中国国民政府、重慶遷都宣言。

19371213日 日本南京占領。読者の皆さんここまで読んでもまだ、南京大虐殺は戦後の捏造ではなく、事実だと思っていますか。反共戦争赤化戦争を仕掛けたのは日本だと思いますか。

1937年 今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか。汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。時に1937 (昭和12)年。汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる孫文の誤謬「容共」を訂正し、遺志の実現「反共親日」を目指した。結果、妻は獄死、子どもたちは海外にちりぢりとなった。汪兆銘本人は「漢奸」(中国の売国奴)と今でも非難されている。そしてなによりも、彼が幸せを願った中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政権のもとでの圧制という過酷な運命が待っていた。 

193816日 近衛声明① (国民政府を相手にせずと、和平交渉打切り)

黄河決壊事件は敵を明確化!蒋介石敗北を決定した蛮行

1938

黄河決壊事件(中国呼称は花園口決堤事件)は、日本反共戦争初期の193869日、日本軍の進撃を止める目的で、支那国民党軍が黄河を爆破氾濫させ、自国民を巻き添えにした、蒋介石自滅作戦。

 193866日、日本軍は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。国民党軍の劉峠第一戦区副司令官の、「黄河の堤防を爆破し氾濫させ日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に提示された。日本軍の追撃を断ち日本軍を水攻め、同時に国民をも巻き添えにする愚策、黄河大洪水作戦を、蒋介石は承認した。

 蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

 67日に中牟付近を爆破したが、この作業は失敗し、場所を花園口に変更。69日午前9時に堤防は爆破され、黄河は決壊した。

 さらに611日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点でも、黄河の堤防3箇所を破壊した。

 この結果、その後9年間、黄河の流れは南側へ変わり、黄海に注ぐようになった。

 氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及び、水没は11都市と40003省の農地が農作物ごと破壊された。諸説はあるが、被害は、水死者100万人、被害者600万人と言われている。

 612日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

 923日更に支那軍は、武穴鎮の下流で、揚子江を決壊させた。

626日同盟ニュース

『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』

 「悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている」

 

 この、愚策大洪水は、以後、水没地域に干ばつ、飢餓、伝染病などをもたらした。

 

支那人を救助する日本軍に攻撃した支那軍

 日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

 日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も、麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が、麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に、激しい射撃を加えたこともあった。

救助資料

1938(昭和13)年623日同盟ニュース

 泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。

1938711日毎日新聞(支那事変画報 第33)

 わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ

國史図書刊行会編『支那事変』

 「写真」濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯

自作自演し責任を敵になすり付ける作戦は支那中国の伝統手口

 611日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という情報を発信した。

 最初支那側は、黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を、日本軍が砲撃及び爆撃したとの説明がなされ、後に、日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めで、かつ、後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略で、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に、支那民衆を威嚇する日本軍作戦の一部、とされた。

 さらに報告では、日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は、洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していると、説明された。支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃までをも、日本軍の仕業だと発信し、613日にも、支那全土の各メディアに、「日本軍の暴挙」と喧伝させた。

 蒋介石の副官何応鈞の『八年抗戦之経過(1938年)』では、「日本軍が飛行機で爆撃した」、『中華年鏡(1948年)』にも、「日本軍の砲撃で破壊された」と、真逆に捏造した。

真逆捏造の証拠

 黄河の堤防破壊は自軍前進の妨げとなる。前進を妨害する洪水を引き起こすいわれは無い。堤防の大きさを考慮すれば、爆撃と砲撃のみで堤防を破壊することは不可能と、主張した。

 16日付東京朝日新聞夕刊【上海特電十五日発】上海軍当局談

 「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」

『抗日戦回想録』郭沫若(毛沢東凶産党兵士)自伝

 敵(日本軍)の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの(日本軍の)戦略は611日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。

 あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。

 わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。

 しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産想像もつかぬ犠牲をこうむった。敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。

 私たち(毛沢東凶産党)が活躍すべき機会到来であった。――

 自作自演で事を起こし、宣伝戦で敵になすり付ける手法は、支那人の伝統的手口。現代も同様!

黄河大洪水愚策被害

621(大阪朝日)

 黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、日本軍占領下開封の治安維持会と商務会が発表。罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロ。

終戦後の194512月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」

 1944年末の段階で、洪水による死者32万人、離郷者数約63万人。河南省だけで約32万人とされた死者数は、その後の『中国革命史辞典』では、死者89万人。 

洪水後遺症による被害

『大東亜戦争は、アメリカが悪い』鈴木敏明著碧天舎、2004

 「堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる」

 

「河南省における食糧欠乏と日本の穀物徴発活動」『中国の地域政権と日本の統治』 オドリック・ウー著、吉田豊子訳(慶應義塾大学出版会、2006年) 

 「死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数え、河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があった。

 飢饉の数年間、日本側は各地の食糧倉庫から食糧を放出し、飢えた人々に食糧を調達していた」

 

『温故一九四二』劉震雲著、劉燕子訳 中国書店、2006

 「1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、及び湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。

 1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った。

 河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだった。

 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は、河南省の主席とともに、農民の生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは、農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると、兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と、軍隊の武装を解除させるまでに発展した。

 推定では、河南の戦闘において、数週間の内に約5万人の中国兵士が、自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において、武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。日本軍は3週間以内ですべての目標を占領し、南方への鉄道も、日本軍の手に落ちた。この結果、30万の中国軍は全滅した」

 

『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

 「一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ

 穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を、飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。

 日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。

 「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである」

 

 上記の事柄は、後の汪兆銘南京政府の地盤となったとみても、間違いは無いだろう。

 支那軍は、自分たちのみが安全に逃げたい一心の我欲、ただそれだけのために、夥しい数の同胞支那人民の生命と財産を犠牲にした!毛沢東も、蒋介石追放後正体を露にし、同胞大虐殺を繰り返したのは、記憶に新しい!

 国難に、士農工商皆、我欲を捨て、一丸となり、大義に殉じ、明治維新を成した日本とは、真逆である!選択肢皆無の宣戦布告ハルノートに、我欲を捨て、一丸となり、護国を全うした日本とは、あまりにも真逆である!

 

同胞大虐殺(黄河大洪水)作戦は蒋介石が先だった!

 以後、人民の信を得た毛沢東凶産は一気に隆盛し、信を失った蒋介石国民党は、瞬時に転落した!同胞大虐殺は、毛沢東も蒋介石も同類なのだが、蒋介石の方が先だったので、一気に人民の信頼を失った。 汪兆銘は、蒋介石の同胞大虐殺(黄河大洪水)作戦に、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」を見た。そして、それを救助する日本軍に、東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」を見た。師孫文とは真逆な、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」と化した蒋介石と袂を分かち、日本と行動を共にしたのは当然であろう。19381220日、汪兆銘夫妻は、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちと共に、重慶からハノイへ脱出した。


193810月 1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533~4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号

 鄧小平の日本認識証言 鄧小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万「1936年10月、長征で30万人から2万5千人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会

1938(昭和13)年「大亜細亜主義」11月号大亜細亜協会評議員高木睦朗中日実業副総裁「孫文と大亜細亜主義」

 「常に日支提携によって亜細亜民族を圧迫の桎梏から救ひ出そうと念じてゐたことである。・・・孫文には寸毫も排日意識はなかった。抗日思想など薬にしたくもなかった。彼の三民主義を今日の如くに曲解したのは蒋介石である。否、蒋介石を取り囲む一団の卑怯者の群れである。孫文には唯、烈々たる愛国思想と、其の思想を育む亜細亜民族的熱血が、脈々として波打つてゐただけである」

19381027 日本軍、武漢占領

193811日  近衛声明② (対日協力と和平を呼びかけた東亜新秩序声明)

1938年12月第三次近衛声明。近衛三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)

19381220日 汪兆銘、重慶を脱出しハノイへ。汪兆銘とその夫人や 汪兆銘、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちを、日本と交戦中である蒋介石の重慶から飛行機に乗せ、仏印のハノイへ脱出させた。(影佐禎昭大佐工作成功)汪兆銘政権樹立の立役者・影佐禎昭大佐(かげささだあき)。自民党谷垣禎一は孫。

 汪兆銘、字は精衛。1938年国民党副総裁。副総裁の座を捨て近衛三原則に呼応し、反共親日を唱え重慶を脱出しハノイ経由で南京入りした。法政大学卒で孫文の側近汪兆銘は、共産党ではなく実体は、孫文が忌み嫌う西洋覇道の鷹犬、覇道文化凶産党に、孫文主義から逸脱した覇道文化蒋介石に気付いたのだ。孫文の筆頭後継者が確実に凶産なのに、覇道蒋介石に気付いたのだ。孫文が早死にしなければ歴史は確実に変わっていた。重慶脱出の際、汪兆銘は蒋介石に、「君は安易な道を行け、吾は苦難の道を行く」と書き残したという。中国の国民の幸せのために、売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。孫文の誤謬「容共』を訂正し、孫文主義完成のため「反共親日」に賭けた。孫文の筆頭後継者としての使命完遂に賭けたのだ。

 中日戦争の見通しは明るくない。中国を救うには日本との和平しかないと自分は考えており、近く重慶を出て、別の地から和平工作を手がけるつもりだ。どこに抜け出そうと、戦争している相手国と和平ルートをつくる役割は、周囲から非難中傷を受けるのみならず、危険も伴うに違いない。しかし、自分が身を捨てる覚悟でやり遂げるつもりだ。はじめ非占領地区(四川か雲南)に支持勢力を結集して反蒋政権を樹立し、日本との和平交渉をまとめようとした。しかし呼応する勢力は全く現われなかった。(注・蒋介石武官、汪兆銘文官のため、軍を全く掌握出来ていなかったのが最大の原因である。また、一度抗日の旗を揚げてからの親日は、傍から見ても「漢奸」「中国の売国奴」にしか見えないものなのだ。赤化戦争を抗日に摩り替えた狂惨党の策謀に、屈したのだ)

1938年12月 1937(昭和12年)年7月に勃発した支那事変の推移は、1938年12月までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、蒋介石・毛沢東の資金源アヘンも押さえ、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかった、米・ソ等が「対日戦継続を条件」に武器・資金援助を行ったからである。

対中国への食民治主義と凶産党の支援

 米国1927~1941.4億2000万ドルの援助。1941開戦後に17億3000万ドル援助。英国1939~1940.2000万ポンドの借款。ソ連1億5000万ドルの援助。その他数回援助。フランス1938年1億5000万フランの借款。1939年9万6000フランの援助(蒋介石支援ルートへの援助)。 西安事件(1936年12月12日)国共合作②(1937年9月)日本南京占領(1937年12月)以後、資金源アヘンを絶たれた蒋介石・毛沢東の裏に隠れ本格的に援助したが、中ソ合体では日本必滅。合体阻止防共の砦死守戦争なので、終わりの無い戦争となった。反共戦争なので日本は引き下がれなかった。退けば、いつでも中国とソ連は合体し、圧倒的に優位な兵力と資源で、日本に攻め入る恐れがあったからだ。日本敗戦で退いた途端、中ソ凶産が合体し、攻め入った。あれが現実である。日中戦争は反共自衛戦争である

 戦後WGIPが洗脳した正義解放の連合軍は真っ赤な嘘。食民治主義と凶産党は中国に隠れ、寄ってたかっての日本・中国(有色人種)潰し、食民治化が真相なのだ。

1938(昭和13)年12月31日駐日英国大使がグルー米国大使に、対日経済制裁について提案の覚書を送ったが、グルーは「日本人は頑強な民族で、個人的また国家的犠牲に慣れている。彼等は歴史を通じて惨事や災害との遭遇に慣れており、『命懸け』の精神は他のいかなる民族よりも深く日本民族の中に沁み込んでいる。支那においてこれだけ多くの血と財貨を投じた今、日本が今事変での敗北を認めるというが如きは、当大使館としてすこぶる考えがたい仮説である」と、反対であった。

1939日 中国国民党、汪兆銘を永久除名。

1939(昭和14)年1月米国は日本に対し、航空機及び部品の道義的禁輸、2月にはクレジット禁止の対日経済制裁を実施した。

193915 (近衞 文麿首相退陣し司法官僚平沼 騏一郎首相 

193920日 ベトナムハノイ市に滞在していた汪兆銘一行が重慶側の藍衣社の特務工作員に襲撃された。深夜、突然汪の側近、曾仲鳴夫妻の部屋のドアが叩き壊され、開いた穴から夫妻めがけて銃撃が行われました。曾仲鳴はフランス陸軍病院で死亡、妻は全治6ヶ月の重傷を負った。

1939年7月26日 フィンランド、ポーランド、およびバルト諸国を侵略していたソ連とは同盟を結んでいるのに、日本の「中国侵略」を口実に、ルーズベルト大統領は制裁を科し、日米通商航海条約の廃棄を通告(4026失効)。

193930 (平沼 騏一郎首相退陣し陸軍軍人阿部 信行首相 

1939(昭和4)年5~9月 ノモンハン事件。満州国とモンゴル人民共和国との国境で発生した、日ソ両軍の武力衝突。8月に独ソ不可侵条約締結されたため、9月に停戦。

1939年9月1日 ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦開始

1939年12月 米国航空用ガソリン製造設備、製造権の対日輸出禁止。

194016 (阿部 信行首相退陣し海軍軍人米内 光政首相 

194030日  汪兆銘(南京)政府成立。「和平反共救国」を唱える汪兆銘を首班とした「中華民国国民政府」。日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府(反共で孫文の正当な後継者汪兆銘)、米英が支援する重慶政府(宗主国とソ連の傀儡蒋介石)、ソ連が支援する延安政府(凶産党毛沢東)の三つ巴の内戦となった。その中で日本は重慶(蒋介石)に対しても、内戦の早期終結と、「日中共同防共」の希望を捨てなかった。

1940 蒋介石の指令でシェノールト(Chennault)はアメリカに帰国し、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、募集した。アメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で集められた。(American Volunteer Group,)略してAVGと呼ばれた。中国名「飛虎」。「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった、と六日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。(1991年7月8日読売新聞)。

1940年6月22日 フランスがナチス・ドイツに降伏。

194022 (米内 光政首相 退陣し近衞 文麿首相 )

1940 アメリカ、航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸。

1940年9月 蒋介石軍への米英の援助ルート封鎖するため仏領印度シナ進駐。ドイツに降伏したフランスのビーシー政府に交渉し、日本軍北部占領。英国とも交渉し、ビルマルートを閉鎖させることに成功した。これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルトは、英国の対日妥協を10月に撤回させて援蒋ルートを再開させ、また日本に対して鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった。

194025日三国同盟目前に、米国は蒋介石に、2千5百万ドルの借款を供与。

26日米国はくず鉄の全面禁輸を発表、10月16日から実施。

194027 日独伊三国同盟(相互援助協定)。1936年11月25日の日独防共協定(正式には共産インターナショナルに対する日独協定。対コミンテルンの対抗措置を定め、秘密付属協定でソ連を仮想敵国とした反ソ反共協定)、翌年1937年11月イタリヤも参加の反コミンテルン同盟日独伊防共協定が原点。付け焼刃などではなく、敵の敵は味方の同盟。戦国時代の常套戦術である。

1940 日本の主要物資の輸入先(開戦1年前昭和15年<1940>) 

・鉄類  アメリカ69,9% 中国15,6%(注・米、中、合計で85,5% ③インド7,5% ④その他7,0%

・石油  アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%

・機械類 アメリカ66,2% ドイツ24,9% ③その他8,9% 「アジア・太平洋戦争」

主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。

 反凶戦争(日中戦争を継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。衰えた者を啄ばむ、正に弱肉強食適者生存の戦国時代である。

 日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに(侵略食民治化)(侵略食民治化)(侵略食民治化)(侵略凶産化)(侵略凶産化)に戦争の意図や動機があった。

10日米国は東亜在住婦女子の引き上げを勧告。

1016日米国で選抜徴兵法成立。最初の兵員抽選式は10月19日に行われ、陸軍に徴集される最初の80万人が決定された。

1018日英国はビルマ・ルートによる援助蒋介石輸送を再開した。

1019日米国は名古屋領事館を閉鎖。

1023日米海軍長官、フィリピン海軍を強化する用意ありと言明した。

1940年10月30日、ルーズベルトは大統領選挙の1週間前の発言。「私は、母であり、あるいは父であるあなたがたに話すにあたって、いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べたことがあるが、今後何度でも繰り返し言うつもりである。あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることはない」。そして、ルーズベルト大統領は「戦争不介入」を公約として当選した。

194011 フランクリン・D・ルーズベルト、大統領選に勝利、三選。

1113日英国はシンガポールに極東軍総司令部を新設。

1130日米国は日華基本条約を否認し、蒋介石に1億ドルの借款供与を発表。

12日ルーズベルトは工作機械41種目を10日以後輸出許可制にすると発表。

1210日ルーズベルトは全ての鉄鋼製品を30日以後輸出許可制にすると発表。

極東共栄圏樹立に尽力「アメリカ人の鑑・日本」ヘレン・ミアーズ著

第三章の1「蒋介石のオーストラリア人顧問WH・ドナルドが、ルソンの日本の抑留所から解放された後の記者会見によれば、日本軍は1938年から1940年に至までの時期に、『十二回講和提案』を行ったとのことである。ドナルド氏の略述したところによれば、日本側の条件は、中国に有利だった。日本軍はただ、満州国の独立承認、北支におけるある種の経済的及び開発権益、及び「外蒙からのソ連勢力の拡張防止のため、内蒙の政治的調整」を要求したに過ぎなかった。ドナルド氏の言によれば日本は『これらの提案の中で、何ら領土的要求はしなかった』」

中国225万人、ソ連130万人、日本25万人。日中戦争の常備軍の兵力である。いつでも中国とソ連は合体し4百万の兵員と圧倒的優位な資源で日本に対する恐れがあった。中国赤化で日本の命運は尽きる(戦後の朝鮮戦争が証拠)。日中戦争(支那事変)は、日本の護国(防共)戦争である!第二次国共合作(1937年9月)後も、蒋介石に「防共」を呼びかけたが、米・英・仏・ソの「黄禍論連合」にがんじがらめの蒋介石は、梨のつぶてであった。

 日中戦争(支那事変)は「黄禍論」に惑わされた米・英・仏の凶産無知が、起因と言える。と同時に、日本助力後の満州の大躍進を目の当たりにした「黄禍論白人連合(米・英・仏・ソ)」にとって、日中有色人連合は恐怖であった(凶産無知のため、防共連合を有色人連合と錯覚した)。戦国時代は相互が疑心暗鬼、不可避の戦争となった。

1941年3月11日米国武器貸与法成立。

1941年4月13日 日ソ中立条約。有効期間5年で1946年まで。最初渋ったが、ドイツの対ソ戦企図を知り、日本と締結。相互不可侵や、一方が第三国と交戦した場合、他方は中立を定めた。

1941年 (昭和16)年5月、来日した汪兆銘は、日本国民の熱狂的な歓迎に感激した。また昭和天皇に拝謁し、日中間の「真の提携」を願っているとのお言葉に、この一言だけで訪日目的の大半は達せられたと述べた。「日中戦うべからず」との孫文の遺訓を抱く汪兆銘は、昭和天皇と日本国民に相通ずる心を見いだしたのであろう。

1941(昭和16)年6月22日独ソ戦。日本参戦せずは、三国同盟死文の証である。米国も認識済みで、引き伸ばしの道具に使っただけ。

1941年7月25日にアメリカ、イギリス、オランダが打ち出した「凍結」令である。三国は自国領内にある日本の全資産を凍結し、貿易、金融関係を全て断絶した。日本は輸入必需品80パーセントを「凍結」地域に頼っていたから、三国の行動は、日中戦争の泥沼化だけでなく、国内経済の窒息死(餓死)を意味するものだった。ヘレンミアーズ

1941年7月28日南部仏印進駐。南部仏印は世界総生産量のゴム90%、錫は60%で、戦略物資の宝庫。米国(ゴムの国内生産0%)は総輸入の80%を東亜に依存し、英国も同様であった。資源無き小国日本、米とゴムと錫の地を、米英に先んじて押さえた。「大東亜共栄圏と米国」鈴木修二

1941年81 米国の大統領ルーズベルトは八月一日に英国、オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛け、しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。当時の日本の石油自給率は5パーセント、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、存亡の危機に見舞われた。開戦前年の昭和十五年の石油製品の需要は年間五百六万キロリットルなので、当時の石油備蓄量からは一年前後で在庫がゼロになる事態が予想された。ABCDラインABCD包囲陣(資源封鎖7につづく






コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/36-cd1998ad

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。