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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観小沢一郎へ妻が離縁状事実なら夫人の命が危険捏造なら週刊文春の自殺


1小沢一郎へ妻が離縁状事実なら夫人の命が危険捏造なら週刊文春の自殺

 三行半が事実なら、夫人和子が小沢一郎の正体を把握したということで、命が危ない!週刊文春偽造なら、文藝春秋の自殺である。

「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃全文公開
小沢一郎 妻からの「離縁状」
松田賢弥+本誌(週刊文春)取材班
松田賢弥(1954~)岩手県北上市(小沢一郎の選挙区)出身。業界紙「新文化」記者を経てジャーナリストとなり、「週刊現代」を中心に執筆活動を行う。政界について多くの記事を執筆している。

松田賢弥著講談社
闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体(2003年)
無情の宰相 小泉純一郎(2004年)
逆臣 青木幹雄(2008年)
小沢一郎 虚飾の支配者(2009年)
角栄になれなかった男 小沢一郎全研究(2011年)

小澤和子(小沢一郎の妻)
 大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか、 害になることがはっきりわかりました。小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。 
週刊文春 掲載記事2012年6月14日発売
小沢一郎夫人が支援者に「離婚しました」

2012.06.13 18:03ワープロ文書ではなく、直筆文写真掲載

「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃
民主党の小沢一郎元代表(70)の和子夫人(67)が、昨年11月に地元・岩手県の複数の支援者に、「離婚しました」という内容を綴った手紙を送っていたことがわかった。

 便箋11枚にも及ぶ長い手紙の中で、和子夫人は、昨年3月の東日本大震災後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている。

 手紙では、小沢元代表の愛人や隠し子の存在についても触れている。8年前に隠し子の存在がわかったとき、小沢元代表は和子夫人に謝るどころか、「いつでも離婚してやる」と言い放ち、和子夫人は一時は自殺まで考えたとも記している。

 そして、このように綴っている。

「それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水を差すようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。

 ところが3月11日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました

「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです」

 こうした大震災後の小沢元代表の言動がきっかけとなり、和子夫人は昨年7月に家を出て別居を始めたという。その後も現在まで別居は続いているが、小沢事務所は「離婚の事実はない」としている。

 和子夫人はこうも綴っている。

「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています

 現在、消費税増税法案の採決をめぐって、小沢元代表は造反をちらつかせて野田政権を揺さぶっているが、和子夫人の手紙はそうした政治情勢にも大きな影響を与えそうだ。
文「週刊文春」編集部

在日・帰化・背乗り(はいのり)と三種類の朝鮮人混在の日本
 背乗り(はいのり)とは、工作員が、他国人の身分や戸籍を乗っ取り成済ます行為を指す公安用語。背乗りは、多い!

人相が出自を語るか?小沢一郎!
奥野修司著『小沢一郎 覇者の履歴書』
小沢 一郎(おざわ いちろう1942年~ )
 岩手県人の弁護士・政治家小沢佐重喜の長男として東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に生まれた。父佐重喜は当時東京府会議員をしていた。母・みちは元千葉県会議員荒木儀助の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという。本籍地は岩手県奥州市水沢区(旧水沢市)袋町。

 一郎が3歳になる頃、東京大空襲を逃れるため、小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開した。

背乗りならどの時点で本人と入れ替わったか?
 小沢一郎の父小沢 佐重喜(おざわ さえき、1898~1968)は政治家・弁護士。衆議院議員(10期)。正三位勲一等。

奥野修司著『小沢一郎 覇者の履歴書』
 小沢の父佐重喜には、六人の兄弟姉妹がいた。父・徳太郎、母・トメ、兄弟姉妹は6人。

 佐重喜の父徳太郎は、岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現・奥州市)に、田畑をそれぞれ三反歩ずつ所有する、いわゆる中農であった。

 徳太郎はかなりの大酒飲みで、のちに没落して田畑を手放した。徳太郎は、田小路の鈴木家で下男として働き、トメと結婚した頃には馬車引きをして生計をたてていた。1898年(明治31年)11月25日に佐重喜が生まれた。

 佐重喜には六人の兄弟姉妹がいたが、家が貧しく、すでに妹も長兄も奉公に出されていた。

 佐重喜自身も幼いときから徳太郎の手伝いをさせられたが、それでも隙を見ては学校に通っていた。妹たちが家の手伝いのために半分も学校に行かなかったのに、佐重喜の場合は一日だけ休んでほとんど授業に出席するという熱心さであった。

 父徳太郎は、佐重喜が尋常小学校4年(満10歳)を終了する年に、仙台の鍛冶屋に住み込みの丁稚奉公として出してしまう。鍛冶屋の主人が亡くなると水沢に戻った。

 15歳のとき、母からもらった僅かな金を手に東京に向かった。

※尋常小学校は満6歳入学、修業年限は4年。1907年に6年ここまでは、地元の証言(他人複数)から得られるであるが、以後は自称であろう。尋常小学校4年中退徒手空拳15歳の小沢佐重喜、恩人も皆無が、どうやって中学に通い、私立大学の受験資格を得たのか?入れ替わり成り済まし以外、余人は納得しないであろう

 下野中学校(現・作新学院)に入学し3年生に進級するときに、開成中学校の編入試験を受けて合格する。

 東京では新聞配達や人力車夫をしながら中学校に通った。中学校を卒業すると、鉄道省に勤めながら日本大学法学部法律学科に進学した。昼間は働き夜は勉強した。1923年(大正12年)に大学を卒業すると、その年の12月に25歳の若さで弁護士試験に合格し、翌年弁護士事務所を開業する。

「小沢一族の深き闇」君島文隆著「私は一人っ子で妹がいたことなんてない。小沢家とは何の関係もない。ただ祖父の泰造が、佐重喜と日大時代のポン友だったことは知っている」とあるので、以後の佐重喜は同一人と確認できる。日本大学法学部法律学科に進学した時点では、入れ替わっていたと推測出来得る。

年表
1894年明治28年8月1日清に宣戦布告。日清戦争(朝鮮半島や満州は、島国日本の生命線である。その朝鮮支配をめぐる、日清間の戦争)1895年日本勝利

1895年10月7日 閔妃派政権 訓練隊解散と武装解除通告

10月8日 乙未(いつび)事変閔妃成敗

 兪吉浚(政治家、啓蒙思想家)のアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害を日本に要請したのは大きな間違いだ」との記録が残っている。日本側の記録では、大院君が軍事顧問の岡本柳之助に再三再四密使を送っている最中(p492 日本外交文書デジタルアーカイブ 第28巻第1冊(明治28年/1895年)に、訓練隊は解散で隊長を厳罰詮議と10月6日に漏洩。激昂した訓練隊が大院君を奉じ決起

1895年10月8日午前三時、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。大院君の護衛に日本人が参加することなどについて三浦梧楼は黙認。

 日本統治前ではあるが、朝鮮は、閔妃と大院君の争いで動乱の真っ最中、朝鮮人は動乱のたびに亡命し、日本に滞在、助けた日本人もいた。

 閔妃成敗首班、実行部隊隊長の禹範善は日本に亡命し日本人女性酒井ナカと結婚、「韓国近代農業の父」あるいは「キムチの恩人」として有名な禹長春(須永長春)が生まれた。禹範善は朝鮮の中でも裏切り者とされ1903年、閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。禹長春は渡辺小春と結婚、父の恩人で朝鮮人亡命者を支援していた須永家に養子に入った。禹長春には6人の子供がおり。四女朝子は、京セラ創業者稲盛和夫に嫁いでいる。

1898(明治31)年父・佐重喜生まれる 

1901(明治34)年母・みち生まれる

1904年日 日露戦争(朝鮮半島や満州は、日本の生命線である。その朝鮮半島と満州の制覇を争った、ロシアとの戦争)1905日本勝利

1910年(明治43)年朝鮮併合、日本統治。

1913(大正2)佐重喜上京。15歳。※空白の時代開始で、入れ替わったとすれば、上京から大学入学までの、この、短期間に限定される。

1923(大正12)年日本大学法学部卒業。12月に25歳の若さで弁護士試験に合格。

1924(大正13)年3月東京市下谷区御徒町に弁護士事務所を開業。父・佐重喜26歳、母・みち(千葉県東葛飾郡出身で、東京九段精華学校卒)23歳結婚。

1929(昭和4)年3月東京市会議員に当選

1932(昭和7)年長姉・スミ子、愛人との間に誕生

1936(昭和11)年5月東京府会議員に当選

1940(昭和15)年次姉・則子、愛人との間に誕生

1942(昭和17)年5月25日小沢一郎東京市下谷区御徒町にて誕生。この時、父・佐重喜44歳母・みち41歳結婚して18年目に授かった「初めての」子供であった。本籍地は岩手県奥州市水沢区(旧水沢市)袋町。

1942(昭和17)年長姉小沢家の養女

1943(昭和18)年次姉小沢家の養女

1945(昭和20)年3月小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開。一郎が2歳、佐重喜47歳。妻みちは、三人の子供とリヤカーを引いてやってきたという。佐重喜は秋頃に来た。※30数年の歳月と弁護士の肩書きで、田舎での成り済ましも完成していたようだ

1946(昭和21)佐重喜48歳。東京市会議員、東京府会議員を経て、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に旧岩手2区から立候補し衆議院議員に当選。以後、当選通算10回。

 母みちは野菜を担いで東京に行っては、すぐ水沢に戻る生活だった。水沢にいても、夕食時に帰宅するのが珍しいぐらい、夜道を歩き、佐重喜の講演会の家を一軒一軒巡っていた。家は木造二階建てで、一回は玄関と二間、台所程度しかなかった。その家は四方板張りで朽ちて塵をかぶっているが、現在も残っている(2003年)。長姉のスミ子は、次姉則子が4年生のころに、水沢から東京の女学校に移っている。

 次姉則子「鎌倉に家族旅行をしたこともありました。父も弟も泳げなかったんですが、そのとき、弟の乗ったボートが流されそうになって、父は海の中をただ走っていって弟のボートをじっとつかんでいたんですよ」『闇将軍野中広務と小沢一郎の正体』※この佐重喜はカナヅチだった?

1957(昭和32)年4月、一郎は中学2年生で、上京、佐重喜の住む文京区湯島の中学校へ転校した。翌年の東京修学旅行の際には、上野で、次姉・則子と一郎が出迎えたという。以後、小石川高校に入り、弁護士めざし東大を受験したが、二度失敗。

1967(昭和42)年慶応大学から日本大学大学院へ

1968(昭和43)年5月、父佐重喜が69歳で急死。

1969(昭和44)年12月、小沢一郎27歳は、地盤を継いで立候補、当選した。水沢市を出てから12年後のことである。

1973(昭和48)年10月小沢一郎31歳は、和子29歳結婚。小沢は結婚後すぐに母親の居る水沢市に住まわせ、和子夫人は3人の子供を育てた。長男が小学校を卒業し一家が上京(1986年ごろ)するまでの約12~3年間、別居生活はつづいた。※選挙区は、母みちと妻和子が守ったので、一郎の影は薄い

1976(昭和51)年小沢は当選三回(七六年)頃から、ほとんど地元に帰らなくなった

1983年の総選挙で小沢が最下位当選をした直後、母みちは和子に“財布の紐”を預けた。

1993年11月鹿島建設から小沢への五百万円献金が発覚した。これ以降和子夫人は、余り水沢に戻らなくなった。

1995年母みち他界(94歳)

2003年9月26日自由党は民主党と正式に合併。小沢が民主党と合流。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘で、小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後、横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。

 民主主義者(選択有り)が社会主義者(独裁で選択無し)に変節では、腐ったマグロを刺身用と偽って、店で売ったと同じ真逆の詐欺で、死人も出るだろうし、これは、当然捕まる。

 引っ掻き回して遊んでいる、混乱を喜んでいる、小沢には、信念など皆無の我欲有るのみ。

2006年4月7日の民主党代表選で小沢は119票を獲得し菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた。

2009(平成21)年5月11日西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任。自身の後継を決める代表選挙では、鳩山由紀夫を支持した。

2009(平成21)年9月3日鳩山が小沢に幹事長就任を要請し、小沢が幹事長に就任。

2011年2月22日、小沢一郎が刑事被告人になったことを受けて「強制起訴による裁判の判決確定まで党員資格停止」とする処分を決定した。

2011年3月11日東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。

2011年3月28日震災後、初めて岩手県を訪問。

2012年(平成24年)1月3日、震災の被害が大きかった岩手県の沿岸部を訪れた。

松田賢弥著『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』
“外で”つくった子
 佐重喜とみちの実子は小沢だけで、姉二人は養女というかたちとなっている。佐重喜時代からの小沢後援会員らは、いまでも、「姉二人は、みちさんの子ではなく前妻の子・・・」と、言葉少なに語り、あとは口をつぐんでしまう。

しかし、佐重喜の経歴のどこにも離婚の記録はない。

 小沢家をよく知る水沢在住の古老が、昔を振り返りながらこう語っている。「長女のスミ子、次女則子はさあ、佐重喜先生が外でつくった子。みちさんはしっかりしていて、すぐにスミ子、則子を引き取って育てたんですよ。だからといって、みちさんが一郎を含めた三人の子を分けへだてするようなことは微塵もなかった」194p

 ――あるとき、みちはその古老に、自嘲気味にこう語っていたという。

 「うちの人は一日も外泊しないで、二人もつくってきた」

 そして、みちはその事実を子供たちに隠しつづけた。

 私は小沢一郎という人間を知るためにも、典子にその事実を尋ねるしかないと思った。彼女は一瞬、とまどった。が、ためらいながらも重い口を開いて語った。

 「ずっと、(みちが)実の母だと思っていました・・・。結婚するときになって、わかったんです――」

小沢一郎の国(選挙区)替え発言
小沢代表の国替えある 鳩山幹事長が再び言及 民主党 産経新聞
2008年9月20日民主党の鳩山由紀夫幹事長は20日午前、民放番組に出演し、次期衆院選での小沢一郎代表の選挙区変更問題について「わたしと何度か2人で話す中で『自分自身の決意を示したい。背水の陣で今まで築いた城を捨て、新しい城を築く。例えば東京あたりに出ることを真剣に考えたい』と言っていた。今でもその考えは変わらないだろう」と述べ、国替えの可能性はあるとの見方を示した。

時事ドットコム:特集 第45回衆議院議員選挙【23】小沢氏、「国替え」せず
2009年7月21日 民主党の小沢一郎代表代行は7月24日午後、都内で記者会見し、衆院選で検討していた東京12区への「国替え」を見送り、同区に同党参院議員の青木愛氏(43)を擁立すると発表した。自身の選挙区についてはなお明言を避けたが、地元の岩手4区から引き続き出馬する見通しだ。

 自民党自滅し、良し悪し二の次の批判票で、民主党が政権を取っただけなのだが、自戒とせず。日本人の羽目を外しての亡国奴迎合発言は、子供そのもの。

政権奪取した小沢一郎絶頂時の亡国奴迎合発言

2009年12月10日
小沢氏、胡中国主席と会談「私は人民解放軍の野戦軍司令官」 
【北京=原川貴郎】民主党の小沢一郎幹事長は10日午後、北京に到着し、人民大会堂で胡錦濤(こ・きんとう)中国国家主席と会談した。両氏は、日中関係の強化や民主党と中国共産党の政党間交流の促進を図ることで一致した。

 小沢氏は会談後、記者団に対し、来夏の参院選について胡氏に、「こちらのお国(中国)に例えれば、解放の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っていると伝えた」と語った。

 他の先進国の主要政治家が、天安門事件で民主化運動を武力で鎮圧した人民解放軍の幹部に自らをなぞらえることはあり得ない。

 小沢氏はまた、「参院選で民主党が過半数を取ることで、思い切った議論をできる環境が整い、関係を深めることができる」と語ったことも紹介した。

 胡氏は「民主党政権になってからも交流を深め、日中の互恵関係が新たな段階に入った」と語り、鳩山政権のアジア重視の姿勢を評価した。

凶産相手に、「わたしは人民解放軍の野戦軍司令官」発言は、「日本は中国の軍事支配下に入ったことを容認した」発言と、凶産中国は受け止める。我欲お坊ちゃまなどは凶産の大好物だから、尖閣、やりたい放題となった。友愛の海鳩山も、野戦軍司令官小沢一郎も、世間(凶産)知らずのお坊ちゃんの政治ごっこ。凶産相手に、言っていいことと悪いことの区別がついていない。そして、メモを片手に首脳会談する馬鹿丸出しの馬鹿菅である。こんな者に託せば、戦争を引き寄せてしまう。

2009年12月12日
小沢一郎、韓国で売国公演 2/5韓国の大学での講演動画小沢猫なで声迎合凱旋講演

 ――日本で東京大学の教授でありまして、歴史の専門家でございますけれども、江上(江上波夫)先生という先生がおられまして、この先生は日本国家の成り立ちを騎馬民族征服説というのを強く唱えておった方で有ります。

 ――朝鮮半島南部いわば韓国――この地域の権力者が、多分海を渡って九州にたどり着き、九州に拠点を構え、それから海岸沿いにずーっと紀伊半島、――三重県まで九州からずーっと海伝いに行きまして、そして三重県に上陸し、今の奈良県に入って、奈良盆地で政権を樹立した。それが日本の神話で語られております神武天皇の東征という。初代の天皇がそうでありますけれども。江上先生はそういう説をずーっと唱えておられまして――これ(応神天皇仁徳天皇のお墓)を発掘させて欲しいと一生懸命言っておりましたけれども、そうすればすべてが歴史の謎が解明されるとまあこんな話をいたしておりましたけれども。いずれにいたしましても、そういう著名な日本の歴史文化学者であります江上先生という方が、それを唱えておるくらいでございまして、まあこれは余り私が言いますと国に帰れなくなりますので強くは言いませんけれども、多分歴史的な事実であろうかと思っております。

 ――ノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)――ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服いたします。そしてイギリスに住み着いてしまいました結果フランスの領土で民族運動が激しくなりまして、いわゆる英仏百年戦争というのが起こりました。まあそん中でごぞんじの救国の英雄ジャンヌダルクが登場するわけですけれども、結局ノルマン王朝はフランスの領土をすべて失ってしまっちゃうわけですけれども、いずれにしてもこのノルマン・コンクエストと同じだというのが江上先生の結論で有ります。

 まあそういうようなこともありますと同時に、古代史を振り返りますとお国と当時新羅百済という国がありました。その両国とも非常に緊密な関係に有りましたけれども、古代の物の本にも両国、日本の大和朝廷と百済や新羅の皆さんとの交流の中で、いわゆる通訳を使ったという記録は全く有りません。といいますのは結局、言葉そのものも発音そのものも、おんなじだったということであろうと思います。現実に大和朝廷のいわゆる軍人やら役人やらが百済や新羅の朝廷に仕えて大臣になったり、あるいは百済や新羅の皆さんが来て、大和朝廷の大臣になったりということは頻繁に行われておったようでございます。

 まあそんなこともありますし、近くにはこれは日本の天皇陛下も挨拶で言ったことでありますけれども、――今の京都――これを作った桓武天皇――その桓武天皇の生母は百済の王女さまだったということを天皇陛下自身も認めておられます。

いまだに捏造話を騙り出自白状しまくりの汚沢一郎
2014年02月11日 産経新聞 小沢氏、皇室と韓国の関係で事実誤認

 生活の党の小沢一郎代表は11日、都内で講演し、皇室と韓国の関係を引き合いに日韓関係について、日中関係とともに「非常に異例な状況になっている」と述べた。だが、事実誤認が相次ぎ、説得力を欠いた。

 小沢氏は「紀元節(建国記念の日)は神武天皇のご即位なさった日だ」と述べた。その流れで「桓武天皇のお后は朝鮮半島の百済の王女様とのことだ」との認識を示した。

 「今の天皇陛下がお話しになったことがある」と根拠に挙げ、「半島との縁は誰も否定できないほど」などと述べた。

 天皇陛下は平成13年12月、翌年の2002年サッカー・ワールドカップ日韓共催に関連し「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」と述べられた。

 

 小沢氏は「生母」を「后」、「王の子孫」を「王女」と2カ所言い間違えている。百済は桓武天皇誕生の70年以上も前に滅亡しており、天皇陛下は平安時代に編纂(へんさん)された「続日本紀」を引用されたにすぎない。

 

天皇陛下御誕生日前日の合同記者会見での「韓国ゆかり」発言毎日新聞記事

2001.12.23】 

 「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招聘された人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。

 日本のその後の発展に、大きく寄 与したことと思っています。 私自身としては,桓武天皇(在位781-806年)の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。

 武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代 々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

  しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ、このことを通して、両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております」 

筆者・百済は660年滅亡。続日本紀は697年(文武天皇)~791年(桓武天皇)までの史書で、797年編纂。

 

武寧王(在位501~523)と王妃のは、紀伊半島の高野山でしか採れない高野槙(こうやまき)

武寧王陵(宋山里古墳群)

 墓室は磚(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置されていた。日本語の説明板には無かったが、英語版の方に「この柩は日本の近畿地方南部の Koya-Mountain でとれた槙の木で作られていた。」となっている。コウヤマキは日本にしか生育せず、この柩の材料は日本製ということになる。武寧王と日本の深い関 係が窺える。2につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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