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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観7東條英機と汪兆銘と蒋介石と孫文誤謬訂正蒋経国と李登輝1941.8.~

1941年8月8日~14日大西洋会談で「大西洋憲章」

大西洋憲章

 アメリカ合衆国大統領とイギリス連合王国国王陛下の政府を代表するチャーチル首相は、会談の結果として、世界のよりよき未来を希求するための基礎となる双方の国家政策における共通の原則を、次の如く明らかにするものである。

 第一、双方の国は領土その他の拡大を求めない。

 第二、われわれは双方の国民が自由に表明する願望に反するいかなる領土上の変更も望まない。

 第三、われわれはすべての国の国民が自らそのもとで生存する政府の形態を選ぶ権利を尊重する。またわれわれは主権と自らの政府を力で奪われたものに再びそれが回復することを望む。

 第四、われわれは、現下の義務を遵奉し、すべての国々が、国の大小にかかわることなく、また、勝者あるいは敗者にかかわることなく、それぞれの経済発展のため、必要な貿易と原料への機会を均等に享受できるよう努力する。

 第五、われわれは、すべての人々によりよい労働基準、経済的調和、安全な社会を保証することを目的として、経済分野におけるすべての国々の完全なる協力関係を確立すべく努力する。

 第六、われわれは、ナチ独裁体制を壊滅させたのち、すべての国がそれぞれの国境内で安全に生存することを保証され、すべての人々がすべての場所で不安と貧困のない自由な生活を営むべく、平和の樹立を望むものである。

 第七、この平和によって、すべての人々が妨害を受けることなく、公海を自由に航行できるようにならなければならない。

 第八、われわれは世界のすべての国が、現実的また精神的理由から、武力行使の放棄にいたるべきであると確信する。自国の国境外に侵略を策し、あるいは策すかもしれない国が陸・海・空軍力を行使つづけるかぎり、将来の平和は維持しえないのであるから、より広範で恒久的な総合安全保障体制が確立されるまでは、そのような国の非武装化が不可欠であると信じるものである。われわれはまた、平和愛好国民の軍事負担を軽減するため、実効性ある手段はそのすべてを援助し促進させる。

 フランクリン・D・ルーズベルト

 ウィンストン・S・チャーチル

 1941年8月14日

1941年9月6日の御前会議で奉答永野修身(1880~1947)軍令部総長
 「・・・尚一言附け加へたいと思ひますが。平和的に現在の難局を打開し、以て帝国の発展安固を得る途は、飽く迄努力して之を求めなければなりませぬ。決して、避け得る戦を是非戦はなければならぬと云う次第では御座いませぬ。同時に又、大阪冬の陣の如き平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬ様な不利なる情勢の下に、再び戦はなければならぬ事態に、立至らしめることは、皇国百年の大計の為、執るべきに非ずと存ぜられる次第で御座います
 本日申述べましたる中、作戦に関しますることは、戦争避くべからざる場合に対する所見に付、之を開陳したる次第であります」「太平洋戦争への道」別巻資料編512P

永野修身もう一つの核心発言
19411018  近衞 文麿首相退陣し東條英機首相

 「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。戦って死中に活を見いだし護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう」

真実史観意訳

 「太平洋戦争の道、角田順・これだけは伝えたい武士道の心、名越二荒之助・人物抄伝太平洋の群像2永野修身、亀井弘」等、大同小異資料なので、大意を踏まえ簡略に違約し、解説を加えた。資料は、永野修身発言としているが、出席者全員の聞き書きであろう。

戦わざれば亡国、
 戦国時代である。中国、南京、満州、朝鮮は、英米仏蘭ソの争奪戦場となり分割。日本も、再度の資源封鎖で壊滅し、分割資源なき小国日本は、再び包囲されて餓死か、降伏して奴隷ドイツは英仏のWW1停戦約束不履行で、80万人以上の餓死者(ほとんどが老人女子供)となった(WW2起因)。弱肉強食時代の戦わずは、無条件降伏で、奪われても犯されても殺されても従うこと。(終戦時の韓国、ソ連の侵略を想起せよ・・・あれが現実の世界だ)。ハルノートによる戦わずの降伏は、台湾朝鮮満州南京汪兆銘への裏切り、未来永劫子孫の汚名となり、選択は不可。ソ中凶産合体阻止防共戦争日本が、敗戦で撤退するや否や即座にソ中凶産合体し、南京満州朝鮮と攻め入ったのが、厳然たる証拠である!戦わざれば、ソ中凶産や英米仏蘭餌食で、日本国は消滅していた!

戦うもまた亡国
 世界の超大国米英仏蘭中ソが相手では、必滅。

であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。
 不屈の抵抗の歴史を子孫に残し、国名が消滅してもポーランドは復活した。抵抗もせず降伏すれば、屈辱、屈伏の歴史は隠蔽され、抵抗の歴史は無きものと成る。さらに、征服者に洗脳され愚民化された抵抗の歴史無き子孫は、二度と立ち上がることなどなく、日本は消え、食民治と化し、正に、日本民族永遠の亡国となる。(南北アメリカの先住民族、・・・あれが現実の世界だ)

戦って死中に活を見いだし
 戦うもまた亡国かもしれないが、戦って一縷の望みに挑戦し、資源封鎖で絶えず迫る、独占貿易の宗主国を、アジアから永遠に排除しなければ、資源無き小国日本の、未来は無い。独占貿易の食民治主義共産主義と戦い、アジアから追放すれば、一縷の望み(自由貿易を旗印に団結、大東亜共栄圏を成し、対峙)が生まれる。たとえ敗れても、大東亜共栄圏が覚醒し独立すれば、独占貿易は破壊され、自由貿易の世となり、資源無き小国日本に、一縷の望み生まれる。敗れても、同胞が覚醒し追随するような、

護国の精神に徹するならば、
 勝者に隠蔽されないような、子孫を守るための必死な姿、生きざま、戦いざま、死にざまさえ残せば

たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう。
 たとえ占領され食民治にされ征服者に愚民化されても、残した挑戦の心や生きざま、戦いざま、死にざまを想起し、必ずや子孫は覚醒し、再び独立し、日本は復活する。我々はただの戦いではなく、子孫が必ずや想起し、覚醒復活するような、勝者に隠蔽されない、史上比類なき戦いを、残す。子孫のために。

 永野修身個人の発言だけではなく、出席者全員のほとばしる総意が集まり成したのだろう、大同小異の資料が物語っている。子孫へのほとばしるおもい「最適者生存」は深く重い。当事の指導者、苦渋の決断が滲んだ言葉だ。・・・ここには侵略者の影など微塵もない。あるのは、子孫への思い、適者生存、唯一つ

19411018 ( 近衞 文麿首相退陣し東條英機首相
194111 残りのAVGメンバーも1941年の11月に到着し彼らの戦闘機「カーチス P-40」の組み立てを始めた。1940年夏から1941年12月8日までの闘いは、宣戦布告なき米国の秘密戦争である。

首相 

1941年11月26日 妥協案をすべて拒絶し服従を要求して、ハル国務長官は、最後通牒である「ハル・ノート」を日本に手渡した。

 「日本は、1938から1941年まで12回も、領土要求なしの和平提案をした」蒋介石顧問のW・H・ドナルド(豪州)証言。「アメリカの鏡・日本」ヘレン・ミアーズ著

194112日 大東亜戦争開戦。小国が大国と戦う時は奇襲戦法しかない、桶狭間で戦ったように。

1941(昭和16)年12 「大東亜戦争開戦に当たっての『帝国政府声明文』」朝日新聞夕刊

 「――而して、今時帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亞を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たん祈念するに外ならず、帝国はこれら住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」

 大東亜戦争開戦直前までのあらすじが、少年倶楽部にも掲載誰でも分かりやすいので、クリック必読!昭和16年4月号高瀬海軍中佐に 太平洋戦のお話を聞く昭和16年12月号少年時局問答「日本の覚悟」木村 毅著 
 

1943年 蒋介石カイロ会談に参加する。

1943年7月タイへ旧領地返還 昭和18年7月に東条首相はバンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタイに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだ。

1943年8月1日 ビルマ独立。

1943年9月3日 イタリア降伏。

1943年10月14日 フィリッピン独立。

1943年10月30日 日中不平等条約を撤廃し、対等の関係にした。

NHKや工作員が、傀儡国家南京政府、「漢奸」汪兆銘と罵り隠蔽した真実。汪兆銘大東亜会議にての発言。

「本年1月以来日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、殊に最近に至り日華同盟条約をもって日華基本条約に代え、同時に各種付属文書を一切破棄されたのであります。国父孫先生が提唱せられました大東亜主義はすでに光明を発見したのであります。国父孫先生が日本に対し切望しましたところの中国を扶け不平等条約を破棄するということも、既に実現せられたのであります」

1943年11月5日 大東亜会議。

 1943年11月6日、占領地域の協力体制強化のための会議が東京で開催。日本(東條英機首相)、満州(国務総理帳恵景)、中国(南京政府代表汪兆銘)、タイ(ワンワイタヤコーン首相代行)、自由インド仮政府代表(チャンドラー・ボース主席)、フィリピン(ラウレル大統領)、ビルマ(バモー大統領)が出席。

 まだ独立していないので正式参加ではなかったが、インドネシアからスカルノ(独立後の初代大統領)とハッタ(独立後の初代福大統領)が来日し、皇居に招かれ、天皇と対面した。

 共存共栄・自主独立を尊重・伝統を尊重・互恵提携・人種差別を撤廃・資源の開放(貿易の自由化)などを定めた「大東亜共同宣言」を採択した。AU(Asia Union)(アジア連合)を目指したのだ。

大東亜共同宣言

「抑(そもそ)も世界各国が各(おのおの)其の所を得相倚(あいよ)り相扶(あひたす)けて万邦「ばんぽう(万国)」共栄の楽を偕(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり。

 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞(たくま)しうし遂には大東亜の安定を根底より覆(くつがへ)さんとせり。

 大東亜戦争の原因茲(ここ)に存す。

 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏「しっこく(手かせ足かせ)」より解放して其の自存自衛を全(まっと)うし左の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。

 

一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す

一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す

一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚「こうよう(高める)」す

一、大東亜各国は互恵「ごけい(相互に図りあうこと)」の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す

一、大東亜各国は万邦との交誼「こうぎ(親しい交わりを)」篤(あつ)うし人種差別を撤廃し普(あまね)く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運「しんうん(進歩)」に貢献す」

1944 頭山満死去

194411 フランクリン・D・ルーズベルト、大統領選に勝利、四選。

19441110  (昭和19)、汪兆銘、字は精衛。1944年名古屋で病死。南京で病(撃たれたときの古傷が原因)に倒れた汪兆銘は、名古屋で治療を受けたが、11月10日帰らぬ人となった。小牧飛行場から遺体を飛行機に乗せて送り出す際には、近衛文麿、重光葵等が見送りに訪れた。南京空港から公館までの道のりを民衆が詰めかけて、棺を迎えた。遺言により南京郊外の梅花山に葬られた。夫の墓を暴かれることを恐れ、棺の将来を案じた夫人は、5トンの鉄粉を混ぜたコンクリートにより遺体の周囲を防護した。 

 翌年、日本が敗れ、南京政府も瓦解した。孫文を祀った中山陵の傍らに作られた汪兆銘の墓は、蒋介石の指令で爆破され、遺体は長江に棄てられた。その蒋介石も共産軍に敗れ、やがて台湾に逃げ込む。(注・ここが日本と異なる。中国遺体損壊、日本手厚く葬る) 

 汪兆銘が国民革命に一生を捧げて救おうとした中国人民には、共産党独裁政権のもとで、大躍進や文化大革命で数千万人が餓死するなど、さらに過酷な運命が待っていた。そして今に至るまで一度も正式な選挙で自らの政府を選んだことがないという点では、清朝時代の人民と変わらない。「革命未だ成功せず」。

 本人の理想とは逆に、中華民国や中華人民共和国では代表的な「漢奸」(中国の売国奴)としての評価しかない。

 汪兆銘は精衛と号した。精衛とは伝説の中の小鳥の名である。昔、炎帝の姫が東海に溺れて死んだが、炎帝夫妻の悲歎は見るに忍びぬものがあった。姫は精衛という名の小鳥としてよみがえり、東海をうずめるならば、後世東海に溺れる人もないであろうとの考えから、精衛は日夜一粒ずつの砂を口にくわえて東海に運び、海を填めんとしたというのである。かなわぬかも知れぬが、庶民の難を救うために努力をつづけるという寓意である。「精衛填海」という言葉が残されている。中国四億の大衆の福祉のためにあらゆる努力をしたいという汪兆銘の悲願を精衛なる小鳥の名に託したものである。

 陳璧君夫人は、捉えられて蘇州の獄につながれていたが、釈放の直前に毛沢東軍が南京、蘇州を占領し、出獄は不可能になり、のち蘇州にて獄死。2男3女の子がいたが、汪兆銘死後はアメリカ合衆国、中華民国、香港にそれぞれ移住した。汪兆銘の長男の言葉「政治は結果であり、自分としては何も為しえなかった父親を讃えたりしないけれど、父親が愛国者であったことだけは人々の間に浸透するよう祈りたい」。汪 精 衛 を 想 う


1945年2月ヤルタ会談。英米ソ首脳会談。
ドイツ降伏後3ヶ月以内に参戦の密約。

1945年4月日ソ中立条約1946までの5年間)の不延長通告

1945年4月7日鈴木貫太郎内閣。ソ連に終戦工作仲介依頼。ソ連拒絶。

1945年4月12日 無条件降伏要求のフランクリン・D・ルーズベルト脳溢血で死去

1945 トルーマン(民主党)第33代(1945~1953)大統領。クー・クラックス・クラン(KKK・黒人排斥秘密結社)に加入歴のある副大統領のハリー・S・トルーマンが大統領に昇格。

1945 ドイツ無条件降伏。

1945年7月26日米英中3カ国による降伏要求ポツダム宣言。(日本終戦工作仲介依頼の情報をソ連より得、勝利宣言、降伏要求)

1945 広島原爆投下。

1945 長崎原爆投下。

1945 中立条約破棄しソ連(無法が党是の凶産党)も参戦。連合国の正体は弱者嬲り殺し無法集団百七十万人のソ連軍が満州に攻め入った。

194514 ポツダム宣言受諾。満州葛根廟に向かって避難中の無辜の市民、老人、女、子供千数百人がソ連軍に惨殺された。葛根廟(かっこんびょう)事件

194515 日本終戦。蒋介石は、8月15日重慶放送を通じて「以徳報怨」「徳を以て怨に報いる」と演説し、日本軍に降伏を呼びかけた。毛沢東との交渉により双十協定(中国国民党と中国共産党との和平協定)を締結する。

194518 陳群自決(56歳?)、青酸カリ(中国人は身体損傷自殺を忌避する)で。汪兆銘より一足早く陳群は、「中国は日本と手を結ぶべきだ」と日華和平運動を展開した。福建出身で明治大学東洋大学で学んだ。長丈の遺書要旨「私は国父孫文の大アジア主義を遵奉「じゅんぽう(固く守り)」して日華合作に挺身したが、東亜の共栄はついに実らず、終生の恨事「こんじ(非常に残念な事柄)」とする。しかしこれは、主義の誤りに非ず、ただ天の時を得ず、方法に欠陥があったために過ぎない。従ってたとえ敗戦となっても、政敵蒋介石の裁きを受けるに忍びず、自ら地下に赴(おもむ)き、国父孫文の批判を仰ぐこととする。共産主義は、絶対、東亜の天地に容れ難い」。政敵蒋介石下の南京各新聞は、「陳群“鉄の漢奸”であった」と暗に称賛した。

1945 国後島占領。スターリンの勝利宣言。「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まっている。1904年の日露戦争の敗北は、国民意識の中で悲痛な記録を残した。その敗北は、わが国に汚点を留めた。わが国民は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っていた。40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待った。遂にその日が到来した」油橋重遠「戦時日ソ交渉小史」油橋重遠著霞ヶ関出版

 帝政ロシアの黄色い大陸(満州)への欲望が原因で、日露戦争は勃発。とのそれまでの教科書記載は以後、日本の満州への侵略が原因であり、日本の卑怯な奇襲に無準備なロシア軍は勇敢に戦ったが、敗北したと、真反対に書き換えられた。まさしく、凶産党は捏造党。「ソ連と日露戦争」清水威久著原書房1973年

1945年 蒋介石は、台湾を統治する機関・台湾行政公所を設置した。

1946年 国共内戦赤化戦争に突入する。反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。

194727夜 行政公所の要職は新来の外省人が独占、更には公所と政府軍の腐敗により、それまで台湾にいた本省人(台湾人)が公所と政府軍に反発し、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。「2・28台湾人虐殺事件」台北市内の闇たばこ取り締まりをめぐる市民殺傷事件を発端に起こった。国民党による台湾人虐殺事件。国民政府は台湾人の抵抗意識を奪う為に、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている(2・28白色テロ)。

1948 松井石根刑死

1948年 蒋介石中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)。

1949 戴 季陶・天仇(たい きとう・てんきゅう)(1890~1949)蒋介石国民党に絶望し自殺。著作「日本論・1929年」「孫文主義之哲学的基礎」。中国の政治家。名は伝賢。四川漢州の人。日本に留学。筆名は天仇。孫文の秘書として活動。孫文の死後、三民主義と共産主義の究極的不一致を主張し、国共合作に反対した反ソ反共の人。

1949 蒋介石国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる。台湾の戒厳令は1987年(昭和62年)7月15日にようやく解除された。

1950月 蒋介石再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去)

1950年6月25日朝鮮戦争

1951年9月8日 対日(サンフランシスコ)平和条約 日本と連合国(48カ国)との間に結ばれたWW2終結のための平和条約。1951年9月8日サンフランシスコで調印。1952年4月28日発効。条約により、南樺太、千島列島の放棄を規定させられたが、帰属先は不明で、2010年の現在も未定のまま。南樺太、千島列島はソ連(ロシア)が日ソ中立条約を破棄し、条約破りで勝手に占領したもので、平和条約に基づいたものではない。ましてやソ連は、条約にも署名していないので、同条約の権利主張は出来ない。当時の連合国(48カ国)に、南樺太・千島列島の再帰属を願い続け承認を得れば、何ら問題なく領有できる。

1952年 ソビエト共産党に改名。

1952(昭和27)年4月28日日本独立
1959(昭和34)年IOC総会で、欧米白人国家(アメリカ10票オ-ストリア9票ベルギー5票)を破り、日本大差の34票圧勝、1964年東京オリンピック開催決定戦後14年!独立後、わずか7年である!戦勝国の反省と人類の良識で、東京五輪開催決定
1960(昭和35)年の、第15回国連総会で、アジア、アフリカ43カ国による共同提案が採択され、植民地を保有することを不法行為であると宣言植民地独立付与宣言賛成89、反対0、棄権9カ国(主要宗主国の英米仏、ベルギー、ポルトガル、スペインと、南アフリカ、オーストラリア、ドミニカ)。
1964(昭和39)年10月10日東京オリンピック開催。戦後19年!独立後、わずか12年である!戦勝国の反省が植民地独立付与宣言で、人類の良識実証が、東京五輪開催

1966 昭和41年私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。

 「いつか」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。

 松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。

 ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。

 私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。

 周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。

 あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋介石)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。

 蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。

ってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。

 蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。

 蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く。(興亜観音を守る会会長 田中正明)

1969年 蒋介石交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。

1970年 蒋経国4度目の訪米を行なうが、ニューヨークで中華民国人青年の黄文雄、鄭自才による暗殺未遂事件に遭遇している。

197110月 李登輝(りとうき)蒋経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党している。

1972年 蒋経国李登輝を行政院政務委員に任命。

1972 日中共同声明 日中国交回復を表明。台湾中国帰属承認。

1973年 日本との国交を断交をした。

1975日 蒋介石死去。死因は心臓病とも言われる。享年89(87歳没)。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。

1978年 第5期総統代行である厳家淦の任期満了。第1回国民大會により中華民国第6期総統に指名され、蒋介石の長子である蒋経国(しょうけいこく)、総統に就任。蒋経国李登輝を台北市長に任命。「台北芸術祭」や翡翠ダムの建設。農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。

 蒋経国(しょうけいこく)、東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となり、静かな孫文革命開始。

1979年 米中国交が樹立した。同時に、アメリカは台湾との国交を断交した。海外観光旅行が自由化された。

1981年 蒋経国李登輝を台湾省主席に任命。

19841115日 江南(本名=劉宣良)暗殺事件。『蒋経国伝』を書いた中国系米国人の江南がカリフォルニアの自宅で台湾の特務に暗殺された。米捜査当局は、国民党の特務機関の一つである国防部(省)情報局長の汪希苓中将が竹聯幇(台湾で最大の「外省人」系暴力団)のボス・陳啓礼に江南の暗殺を命じ、彼の部下が暗殺を実行した証拠を掴んだ。汪希苓に江南暗殺を命じたのは、蒋経国の息子でその後継者と目されていた蒋孝武であることも、米国で逮捕された犯人たちの一人の自供でわかった。そこで米下院は、汪希苓や陳啓礼らの引き渡しを要求した。もし汪希苓を米国に引き渡せば、蒋孝武が江南の暗殺を命じたことも明らかになったであろう。困った蒋経国は、米国への引き渡しを拒否して汪希苓や陳啓礼らを逮捕。彼等の投獄は形ばかりで、何不自由ない生活だったといわれている。

1984年 選挙の結果、蒋経国第7期中華民国総統に就任した。蒋経国李登輝を副総統候補に指名。

1986 蒋経国総統は1986年に、国民党以外の政党である民主進歩党を承認した。

198715 「国家安全法」が施行されると、38年間にわたり施行されていた台湾及び澎湖地区の戒厳令が正式に解除され、また30数年にわたって続いた政党結成とメディアへの規制を撤廃した。

198813日 蒋介石の息子である蒋経国(しょうけいこく)総統、糖尿病に起因する臓器疾患により、台北栄民総医院にて死去。その職務は憲法の規定に従い副総統であった李登輝に継承された。台湾史上、初めての台湾人総統である。「報禁」(制限報道)が解除され、自由になった。

1990月 政府は政治改革に着手し、国民大会では万年議員の自主退職条例を可決された。議員の民選化。

1991月 動員戡乱時期臨時条款を廃止し、初めて中華民国憲法を改正し、民意代表機関の改選を実施。国民大会代表及び立法委員の民選化。

1991年 国家統一委員会に於いて『国家統一綱領』を策定、中華民国は中国の一部であり、中国大陸もまた中国の一部と表明した。

1992年 「万年国会」問題を解決。

1993年 日本語放送が全面解禁になった。

1994年 1994年に台湾省、台北市、高雄市での首長選挙を実施。

1994月 国民大会で、第9期総統より直接選挙を実施することを決定し、同時に総統の「1期4年、連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止した。

1996年 中華民国史上初の総統直接選挙を実施し、李登輝圧勝。

199811月 李登輝は台北市の市長選挙の馬英九(大陸出身、与党国民党)の応援演説で、「数百年前だろうが、数十年前だろうが、台湾に渡ってきた人はみんな新台湾人だ。台湾人はもうすでに過去の悲しみと別れを告げた。これからはみんな21世紀に向かって、この土地で生きるものとして力を合わせて頑張ろう」と述べ、新台湾人論を演説し、反響を得た。

1999年 9月21日未明、台湾中部大地震(M7.7規模の直下型大地震)が発生した。死者2399人、負傷者1万人の大惨事となった。

 孫文、汪兆銘、戴 季陶(たい きとう)(仇天は筆名)、蒋介石、蒋経国(しょうけいこく)と続き、後継者李登輝、東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となり、静かな孫文革命を創めて成し遂げた。

200018日 李登輝の後の、台湾の指導者を選ぶ総統選挙の投開票が行われ、李登輝自身の後継者として推薦していた国民党の連戦候補は、国民党を除名され、無所属で立候補した宋楚瑜候補からも200万票の大差をつけられ惨敗した。この惨敗の責任を取り、国民党主席を辞任。同時に連戦との確執が発生し、李登輝は3月に国民党主席職を辞任している。

 台湾生まれで台湾育ちの本省人である、民進党の陳水扁(49)が、初当選を果たした。中国政府は、陳氏を台湾独立派ととらえ、独立は許さない姿勢を表明した。

2001月 「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」との台湾正名運動を展開し、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立派活動家と共に「台湾団結聯盟」を結成。

200121日 国民党中央考核紀律委員会は、反党行為を理由に李登輝に対する党籍剥奪の処分を決定した。

2002年 選挙運動中の演説で「もはや中華民国は存在しない」と演説。

2007 台湾は既に独立した国家だから、いまさら独立する必要はない。と李登輝発言。

2007 2007年6月1日、第1回「後藤新平賞」受賞(後藤新平の会主催)。

2007 李登輝、実兄が祀られる靖國神社を参拝。兄は2歳年上の李登欽、フィリピンにて日本軍人として大アジア主義に殉じ、自由希求の兵として戦い、戦死している。終章8につづく


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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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