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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観小沢一郎一派は「中朝韓国民の未来の党」が正体で日本の害虫!

小沢一郎一派中朝韓国民の未来の党」正体で日本の害虫!

 逃げだした小沢を見て岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚

小沢一郎の母方の親族が千葉朝鮮信用組合から巨額融資

実家についた朝銀の抵当権

 今回の取材の過程で、小沢一族に関連する、もうひとつの不可解な事実に行き当たった。荒木家(小沢一郎の母の実家)のある親族が、昭和61年5月、自宅を担保に朝銀千葉信用組合(登記簿には千葉朝鮮信用組合と記載)から三億五千万円を極度額とする巨額の融資を受けていたことがわかったのだ。

 朝銀は周知のとおり不適切な融資を繰り返して経営破綻が相次ぎ、一兆四千億円もの公的資金が投入された金融機関である。もともと、戦後に在日朝鮮人のために設立された信用組合で、朝鮮総連を通じた北朝鮮との関係も懸念されている団体だ。

 土地建物の登記簿を見ると、債務者は姜某(なにがし)という朝鮮・韓国人名の第三者になっている。この人物が荒木家の自宅土地を担保に融資を受けたという体裁になっているが、実際は荒木家親族の借金だという。その抵当権自体は、同年十一月に抹消されているが、同日付けで今度はその親族を債務者として、三菱銀行が三億円の根抵当権を設定している。

 取材をすると、当時その親族の弟がクリーニング事業に失敗し、多額の債務を負ったことがわかった。その弟に事情を訊くと、「お金の面倒はすべて兄に見てもらった。なぜ朝銀の世話になったのかはわからない。第三者が債務者になった理由は知らないし、債務者の名も聞いたことがない」と答えた。

 そこで、その親族の兄を直撃すると、「借金の原因は私じゃないから、その件に関しては記憶に残っていない。債務者のことも覚えていない。小沢一郎とは関係がないと思うよ」と、まるで他人事のような、要領を得ない回答が返って来るばかりだった。

 借金の内実はともかく、外国人参政権を強力に推し進める小沢一郎の極めて近しい親族が、主に在日朝鮮人を顧客とする朝銀の助けを、このような形で受けていたという事実があるのだ。

 そして不可解なことに、その親族の家には、小沢一郎の逮捕された元私設秘書池田光智が親しく出入りをしていたという。

 一郎の母親、荒木みちの生涯を調べるつもりが、取材は思わぬ方向に転がっていった。それだけ小沢家のルーツには、予期せぬ引っ掛かりが数多くある。――

※一郎の母親の親族は、一郎の出生の秘密(荒木みちの実子に非ず)を、当然知っていたのであろう。池田光智や、一郎全秘書の出自と経歴を調べれば、より明らかになる。

夫人の手紙が事実なら、小沢佐重喜のカラクリ、小沢一郎出自の確証を得たのではないか!

 普通の日本人は、自分の先祖や家族の経歴について、このように策を弄する必要など皆無。ありのままで事足りる。工作は、日本人に非ずとの自白で、策士、策に溺れたサンプルである。

 小沢佐重喜と息子小沢一郎の経歴には、兄弟姉妹、叔父、従兄弟等の話がまったく出てこず、白紙である。小沢佐重喜が出世して、国会議員にまで登りつめれば、それを頼って名乗り出てくるのが世の常。小沢佐重喜の兄弟姉妹子孫は、そろって聖人君子とでも言うのであろうか?

 田中竹下金丸の茶坊主、小沢一郎ごときに、日本をこれほどまでにコケにされ挑発されると、「日本人?」と、誰でもが疑いたくなるのが人情である。

 小沢擁護の反論が、犯日朝鮮人反論とそっくりの、筋道無き逆上オウム返し反論で、皆同一なのだ。小沢一郎一連の言動は、日本人(唯心)ではなく、唯物(中朝韓罪日)である事を物語っている!出自の自白である!

 「日本語話す某国某人が、日本人小沢佐重喜と入れ替わり成り済ました。日本人戸籍を確実にするため、日本人荒木みちと結婚したが、石女のため、子供は授からなかった。某国人愛人との間に子供は出来たが、荒木みちとの離婚、愛人との結婚は、せっかく大業を犯して手に入れた日本人戸籍が、水泡に帰すので、できなかった。愛人との間に、男の子、小沢一郎ができたのがきっかけとなり、荒木みちが実子として育てることを決意し、ただちに、二人の姉も養女として引き取った」が、真相であろう。賢夫人である。

 やる事なすこと小沢一郎は、日本人としては余りにも不可解な言動だらけである。まるで、出自を疑ってくれと言わんばかりの目に余る言動で、挑発である。日本人なら、たとえ夫人であろうとも、疑うのは当然である。疑問が確信に変わったのは、母みち(1995年94歳で永眠)看護の間の、何気ない問わず語りであろう。

 小沢佐重喜の兄弟姉妹子孫と小沢一郎が、母みちと小沢一郎が、血筋か否かは、調べれば簡単に解るのが現代である。罪日と全く同じ轍を踏んでいる!キジも鳴かずば撃たれまい、天に唾棄と言える。夫人の手紙が捏造であったとしても、父と子の疑惑は、決して消えるものでは無い!

 便箋11枚の手紙は、単なるワープロメールではなく、真贋鑑定可能な直筆文(これほどの懇意なら、他の手紙も当然有る)である。執筆者松田賢弥は、小沢の選挙区出身なので、当然数多のリーク有り。地元でしか知りえない佐重喜疑惑の噂が、松田賢弥の幼少時より、絶えなかったのではないか。中朝韓罪日の傀儡NHK等のマスコミ報道無しは、逆に、真実を語って余りある。路傍の石と看過出来得まい!

 小沢一郎の愛人や隠し子は、子供一郎も、そっくりそのまま、親佐重喜の、轍を踏んでいるのではないのか。日本人なら、夫人も、ここまでかたくなにならなかったのではないのか?

 事実なら、夫人が、身の危険に逼迫しての開示、とも考えられ、夫人の危険度が高い。杞憂であればよいのだが?

 は、現地で暮らした夫人和子や母みちのほうが、夫一郎よりはるかに深い。手紙は、心の叫びと言える。

小沢佐重喜と酷似する息子小沢一郎の愛人遍歴と隠し子の処遇

小沢一郎「妻からの「離縁状」全文公開 週刊文春6月21日号

「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 緊急特集政局動乱

ジャーナリスト 松田賢弥+本誌取材班

政局がにわかに緊迫してきた―。野田首相が政治生命を賭ける消費増税法案の採決が迫り、小澤グループの動向が最大の焦点となっている。そんな中、小誌は小沢氏の政治姿勢に決定的な疑問符を突きつける文書を入手した。和子夫人が支援者に充てた悲痛な手紙を公開する!

 

 まだ強い余震がある中、お変わりございませんか。

 この度の大震災ではさぞご苦労があったと思います。ご家族・ご親類はご無事でいらっしゃったでしょうか。何のお手伝いもできず申し訳ありません。被害の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情けなく思っています。

 このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳なくショックを受けられると思いますが、いずれお話しなければと思っていましたのでこの手紙を差し上げました。お聞き苦しいと思いますが今迄のことを申し上げます。

 八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。それで私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰でも金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手つだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。あげく「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。

 その言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。息子達に支えられ何とか現在やってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。

 お世話になった方々に申し訳なく、又、説明もできず、もしお会いしてやさしい言葉をかけていたゞいたら、自分が抑えられず涙が止まらなくなるのがわかり岩手に帰れなくなりました。選挙の時には、皆さんがご苦労されているのに、どうしても「小沢をお願いします」とは言えず、申し訳なさに歯をくいしばって耐えていました。

 隠し子がわかって以来、別棟を建てて別居しています。SPさんや秘書の手前、料理や洗濯は変わらずやっていました。用事の時は、小沢は私に直接言わず、秘書が出入りしていました。

 それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をさすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。

◆「なんですぐ岩手に帰らないのか」

 ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました。

 三月十一日、あの大震災の中で、お世話になった方々の無事もわからず、岩手にいたら何かできることがあったのではと何一つできない自分が情けなく仕方がありませんでした。

 そんな中、三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、「内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書たちを逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました」と胸をはって言うのです。

 あげく、「先生も逃げますので、奥さんも息子さん達もどこか逃げる所を考えてください」と言うのです。

 福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して「国会議員が真っ先に逃げてどうするの!なんですぐ岩手に帰らないのか!内々の情報があるならなぜ国民に知らせないか」と聞きました。

 川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われてからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。

 国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです。

 私は激怒して「私は逃げません。政治家が真っ先に逃げ出すとは何事ですか」と怒鳴りました。川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。

 小沢は「じゃあしょうがない。食糧の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と言って書生に買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外に出なくなりました。復興法案の審議にも出ていません。女性秘書達と川辺の家族は一ヶ月余り戻ってきませんでした。二日遅れで届いた岩手日日には三月十五日国会議員六人が県庁に行き、知事と会談したとありました。

 彼らに一緒に岩手に行こうと誘われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。

 三月二十一日「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやって下さい」と書生が言いに来ました。しかしそのような情報は一切発表されていませんでしたので、私が「他の人と同じ様に水道水を使います」と言いましたら、それなら先生のご飯は僕達で作りますと断ってきました。

 それ以来、書生達が料理をし、洗濯まで買った水でやろうとしていました。東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるようにと指示したのはその二日後です。すぐにそれは解除になりました。

 三月二十五日になってついに小沢は耐えられなくなったようで旅行カバンを持ってどこかに逃げだしました。去年、京都の土地を探していたようですのでそこに逃げたのかもしれません。

 その直後、テレビやマスコミが小沢はどこに行った?こんな時に何をしているかと騒ぎだし、自宅前にテレビカメラが三、四台置かれ、二十人位のマスコミが押しかけました。それで、あわてて避難先から三月二十八日に岩手県庁に行ったのです。ご存知のように被災地には行ってません。四月に入ってからも家に閉じこもり連日、夜岩手議員を集めて酒を飲みながら菅内閣打倒計画をたて始めました。菅さんが放射能の情報を隠していると思ったらしく相談を始めました。自衛隊幹部や文科省の役人に情報収集をしたようですが、発表以外の事実は得られず、それなら菅内閣を倒し、誰でもいいから首相にすえて情報を入手しようと考えたようです。この結果、不信任決議がだされ政治が停滞したことはご存知と思います。

 この大震災の中にあって何ら復興の手助けもせず、放射能の情報だけが欲しいというのです。

 本当に情けなく強い憤りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会にまで相談していました。

 もう岩手のことは頭になかったのでしょう。

※真実史観注・新潮45別冊「小沢一郎」研究 2010年04月号(新潮社)「小沢一族の深き闇」君島文隆が、引導同様の、大変な打撃を与えたようだ!「国(選挙区)替え」とは、明らかに狼狽している。京都には盟友、京セラ創業者稲盛和夫がいる。稲盛の妻朝子の父は、「キムチの恩人」として有名な禹長春(須永長春)で、禹長春の父は、閔妃成敗実行部隊隊長の禹範善である。

 

◆放射能をおそれて魚や野菜を捨てた

 こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたのかと思うと申し訳なく恥づかしく思っています。

 更に五月には長野の別荘地に土地を買い設計図を書いています。

 多くの方々が大切なご家族を失い何もかも流され仮設住宅すら充分でなく不自由な避難生活を送られている時に、何ら痛痒を感じず、自分の為の避難場所の設計をしています。●●●という建設会社の話ではオフィス0という会社名義で土地を買い、秘書の仲里が担当しているということでした。

 天皇・皇后両陛下が岩手に入られた日には、千葉に風評被害の視察と称し釣りに出かけました。

 千葉の漁協で風評がひどいと陳情を受けると「放射能はどんどんひどくなる」と発言し、釣りを中止し、漁協からもらった魚も捨てさせたそうです。風評で苦しむ産地から届いた野菜も放射能をおそれて鳥の餌にする他は捨てたそうです。

 かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。

 長い間お世話になった皆さんにご恩返しができないかと考えています。せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。今岩手で頑張っている方々がすばらしい岩手を作ってくれることを信じています。

 ご一家には、本当に長い間お励ましお支えを頂きましたこと心から感謝しております。ありがとうございました。

 七月には別のところに住所を移しました。

 ご一家のご多幸を心より祈り上げております。

     小澤和子

  (注・受取人が特定される記述は一部省略。伏せ字は原文では実名である)

 

■和子夫人の手紙を支援者はどう読んだか 松田賢弥

 「この手紙が表に出たら、小沢一郎はもう終わりだ」

 この五月、私は「和子の手紙」を求めて、数週間、小沢の地元・水沢(現岩手県奥州市)を歩き続けた。

 年初から永田町では、「小沢一郎がすでに離婚したらしい」とか、「奥さんが離婚したと手紙にしたため、後援会幹部らに送ったらしい」などと囁かれていた。だがいずれも真偽不明の断片的な情報だった。私も一月以降、手紙を求めて取材を始めたが、多くの支援者や後援会関係者は、「そんなものはもらっていない」と頑なに否定するばかりで、真相はわからなかった。

 そもそも、二人の結婚は、小沢の師・田中角栄が仲介したものだ。角栄の後援会「越山会」の大幹部だった新潟の建設会社「福田組」の社長・福田正(故人)の長女・和子を角栄が秘蔵っ子に娶らせた、いわば政略結婚である。しかも二人の間には三十代の三人の息子がいて、積み重ねた四十年近くの歳月がある。七十歳の小沢と六十七歳の和子が今さら離婚するなど、にわかには信じ難い話だった。

 一方で、今年三月に新たな事実も明らかになった。私は本誌三月二十九日号で、「小沢一郎『完全別居』次男と暮らす和子夫人を直撃!」と題した記事を寄稿した。和子は小沢邸から徒歩三分ほどの秘書寮に次男と暮らし、自分宛の宅配便や手紙も、すべて秘書寮に届くように手配していた。その光景は、夫婦間に大きな異変が起きた事を物語っていた。

 そしてこの五月、「この人なら手紙を受け取っているのではないか」と思われる長年の支援者らを、再び私は訪ね始めたのだった。

 ある三十年来の支援者の家を訪ねたときのことだ。

 玄関口で訝しげな顔をする支援者に、私が三月に小沢夫妻の別居を報じたこと、四月末には本誌(五月三日・十日号)で「小沢一郎に隠し子がいた!」と題し、今や二十一歳になる小沢の隠し子について報じたことなどを告げると、こう語りだした。

 「あぁ、あの記事は読んだ。間違ったごどは書いてないよな」

 そう言い、私を居間に招き入れた。率直に「和子さんからの手紙は来てないですか」と尋ねる私に、その人はこちらの目を見据えながら、間を置いてポツリポツリと語るのだった。

■和子に泣きながら電話した

 「来たよ。去年の十一月だ。長い手紙でなぁ。小沢が被災地に行かないごとに和子さんが怒ったとか、小沢が放射能を怖れて『東京から逃げろ』『水飲むな』と言ったことが情けないと思った、ど書いであっだ」

 さらに、こう続けた。
 「私は手紙の内容に仰天して、和子さんに泣きながら電話したんだ。『一郎でない。和子さんがいるがらごそ、(小沢の支援を)やってきたんだ』と伝えだんだ。和子さんは『息子たちは私についているから。息子たちが、別居したら、と言ってくれたの』と話していだ。

 和子さんは昔から演説がヘタでなぁ。いつもまわりから怒鳴られでいだ。それでも一生懸命だった。演説の帰りに、『息子たちが楽しみにしているから』と三人分の線香花火を買っていった姿が忘れられねぇ・・・・・・」

 やはり手紙は実在したのだ。私は驚愕し、何度も「手紙を見せてほしい」と頼んだ。だがその人は、現物を見せる事を頑なに拒んだ。その理由として、冒頭の台詞を語ったのだった。

 別の支援者を夜遅くに訪ねると、その人は門扉の前で言葉少なにこう語った。

 「和子さんからの手紙は確かに来ました。小沢が被災地へ行かないことへの不満の他に、『離婚』と書いてあった。手紙を読んで、和子さんと電話で話をしました。『水沢に来たら』声をかけたけど、『ありがとう』としか言わなかった。一郎が和子さんを、これほど苦しめていたとはな・・・。私はもう、一郎からは離れました」

 私はさらに別の支援者を何度も訪ねた。何度目の訪問だったか、早朝に訪ねると、その支援者は意を決したのか淡々と語りだした。

 「和子さんの手紙は去年の十一月の初め頃に来た。『離婚しました』とあった。原因は、あなたが隠し子の記事で書かれていた通り、小沢の女性問題だ。小沢がそこまで和子さんをないがしろにしたとあっては、もう許せない。小沢は次の選挙に出られない。もし出たとしても落選だろう」

 その後も取材を重ね、和子の手紙は去年の十一月頃十名近くの支援者に送られていたことがわかった。ただ、彼らは取材に応じてくれたとはいえ、手紙の提供は拒み続けた。

 協力者を守るために詳細は伏せるが、私は手を尽くして手紙のコピーをようやく二通入手することができた。そのうちの一通が全文公開したものだ。もう一通も筆跡は同じで、冒頭と末尾に、その支援者や家族を気遣う文言などが書かれている以外は、内容もほぼ同一といっていい。念のため元秘書らに筆跡を確認してもらったが、間違いなく和子のものである。

 いうまでもなく、これは「小澤和子」が支援者に送った私信である。和子には手紙で再三取材を申し入れたが未だ果たせていない。私信を公開することに逡巡がなかったわけではない。

 だがこれは単なる私信ではない。大げさに言えば、後に平成の政治を振り返る上でも、極めて重要な意味を持つ一級の資料である。

 私が本格的に小沢を取材し始めたのは、平成元年。この年の八月に小沢は弱冠四十七歳で自民党幹事長となった。以降の平成政治史において、時に政権与党の影の支配者、時に大野党のリーダーとして、今日に至るまで政局の中心に座り続けてきた。それは消費増税をめぐる目下の政局で野田政権を揺さぶり続けていることでも明らかだろう。

 その小沢一郎が、未曾有の大震災に際していかなる行動を取ったのか。その実像を、最も近くにいた人物が書き記した、極めて公共性の高い文書だと考え、公開に踏み切った。

 また、これだけ多くの人に手紙を出し、隠し子の実名まで記した十一枚の便箋を、何通も書き上げた和子の心情を思った。小沢の真の姿を支援者のみんなに広く知って欲しい。そうした和子の思いが行間から滲み出ているように感じられたことも、公開を後押しした。4につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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