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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2閔妃成敗は国家存亡戦時下攻防戦朝鮮の露西亜や清国合体では日本滅亡

2閔妃成敗は国家存亡戦時下攻防戦朝鮮の露西亜や清国合体では日本滅亡

 高宗(王)と純宗(閔妃実子)は殺害現場にいたことが記録されている(『機密第36号』、『機密第51号』及び『附属地図』)。 殺害現場にいた純宗は、「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇(往電31号)」と禹範善が「国母ノ仇」であることを目撃したと報告。禹範善自身も「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)」と自らが閔妃を殺害したと自白している。

 『朝鮮旅行記』ロシア人ゲ・デ・チャガイ編集の『1895年-1896年の南朝鮮旅行』章、ロシア参謀本部のカルネイェフ中佐が「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君がかなりの役割を演じていた」と記述。韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯を興宣大院君だと指摘した

 事件当時、在朝鮮日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している。

 八木信雄(終戦時には全羅南道の知事)は、閔氏政権が訓練隊を解散させようとし、事件前日の10月7日に解散通告をしてきたため、訓練隊の幹部が閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとしたが、これを知った三浦が岡本を大院君のところへ送り、共にクーデターを決行しようとという密約を結んだと述べている。

 また、事件直後の内田定槌による報告では「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」と両者の計画であったしており、これらの報告に沿って、日本国内における裁判では三浦と大院君との密約が事実として述べられている。

 三浦梧楼は事件直後に「何か特約でもあったことか」と明治天皇の言葉を伝えた侍従・米田虎雄に対して、「(大院君は)唯自分の言ひなり次第(作戦は三浦梧楼で殺害動機は大院君)になった訳で、約束も何もない」と答えたと晩年に回想している。

 事件直後の朝鮮裁判では、興宣大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ている(韓国官報)が、戦国時代である。韓半島が敵になるのを看過すれば、日本の喉元に匕首。日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いの中、朝鮮王室内部のクーデター興宣大院君や朝鮮の訓練隊に助成し、ロシアと朝鮮合体を断ったと見るのが常識。日本政府が直接関与ではなく、千載一遇のチャンス覇権争いに便乗、「戦国の常識」に基づいて成敗が、正論。

 事件発生時、京城領事館一等領事であった内田定槌は外務次官の原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが朝鮮人守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」と報告(10月11日付)。

 

石塚英蔵書簡石塚英蔵現場目撃ではなく、朝鮮人伝聞による現場説明(原文カタカナ交じり)。

(「国会図書館 憲政資料室蔵 伊藤伯爵家文書   末松法制局長官宛 石塚英蔵書簡」)

敬啓 其後は益御清福■為入奉恐賀候。

 扨、当地昨朝之出来事は既に大要御承知済之御事と奉察上候。

 王妃排除之儀は、若し時機の許すあらば、之を決行したしとは、不言不語之間に、誰人も抱蔵したる考に可有之候得共、若し一歩を過らば、忽ち外国之関係を惹き起し、永遠に国に占むる日本之地歩を亡失するは必然之儀なれば、深く軽率を戒しむべきは、今更申し越す迄も無之儀に御座候。

 今回之事、小生共最初より少しも計画に与からず、却而、薄々其計画を朝鮮人より伝聞致候程に有之。段々聞知する所に依るに、局外者にして其謀議に参与し、甚しきは弥次馬連が兵隊之先鋒たりし事実に有之候。

朝鮮人より伝聞で、石塚英蔵の目撃報告ではない。

 而して其方法は軽率千万、殆んど児戯に類するなきやと思わるゝも無之にあらず。幸に、其最も忌わしき事項は、外国人は勿論、朝鮮人にも不相知候様子に候。

 現公使に対しては聊不徳義之嫌有之候得共、一応事実之大要御報告仕るは、職務上之責任と相考候間、左に簡単に申陳候。

 一 発端

 王妃排除の必要は、三浦公使も夙に深く感ぜられたるものゝ如し。而て其今日に之を決行したる所以は、「危急の場合に露の援兵を請うべきの約束」半に「訓練隊解散の計画」を、宮内府に於て為したるに由るものゝ如し

  [即ち訓練隊を利用したるなり

 二 名義

 訓練隊解散、兵器没収の内議を聞くや、已むを得ず大院君を要し、大内に哀訴せんとして、侍衛隊に衝突を来したり。王城前に在る守備兵は之を鎮静せんが為、四門の警備に従事したりと云うに在り。

 三 謀議者

 推察するに、岡本は主唱者たるの如し。大院君の入闕を斡旋したるは、正しく同人なり。外に柴、楠瀬、杉村は密議に参与したりと云う。其他は少しも関知せず。守備隊長馬屋原の如きは、命令的に実行の任に充られたるが如し。

 四 実行者

 此荒仕事之実行者は、訓練隊の外、守備兵の後援あり[後援は或は当らざるが如し]。

 尚お守備兵の外に、日本人二十名弱あり。熊本人多数を占む[漢城新報社連]。中に新聞記者数名、又医師、商人もあり。隨て洋装和装相混ぜり。

 岡本は大院君と同時入城し実行の任に当れり。

 守備隊の将校兵卒は四門警衛に止まらず門内に侵入せり。

 殊に野次馬連は深く内部に入込み、王妃を引き出し、二三ヶ処刃傷に及び、且つ裸体とし、局部検査[可笑又可怒]を為し、最後に油を注ぎ焼失せる等、誠に之を筆にするに忍びざるなり。其他宮内大臣は頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う

 右は士官も手伝えたれ共、主として兵士外日本人の所為に係るものゝ如し。

 大凡三時間余を費して、右の荒仕事を了したる後、右日本人は短銃又は劔を手にし、徐々として光化門[王城正門]を出で、群集の中を通り抜けたり。

 時已に八時過にて、王城前の広小路は人を以て充塞せり。

 五 外国使臣

 米露両公使は、宮闕内に於ても大院君及三浦公使に向て、頻りに質問し、尚お同日午後は、各国使臣相続て日本公使館に来り、一々証を挙て難問し、夜に入て各々帰館したり。三浦公使弁解頗る力む。結局双方水懸論なれ共、当方は余程の痛みを感ずる廉なきにあらず。折悪しく或米人現場を目撃し居りたりと云へば、普通一般之朝鮮人之証言之如く、一概に抹殺し去るを得ざるべく、乍去、三浦公使の弁解も亦頗る上出来なるが如し。[公使之談話に依れば]又、大院君始め各大臣は、堅く約して日本に不利ならざるの返答を為し居れり。然れ共、遂に国際問題たるを兔れざるべし。

 六 影響

 仮りに、当地に於ける外国使臣間之談話にて要領を得て国際問題とならざるも、夫の遼東問題には必ず影響を与うるに至るべし。

 尤も公使は、困難なる場合には兔官せられ不苦と被申候得共、公使之辞任、豈能く国際紛議を解かん。

 要するに王妃が従来改革之妨害たる事は、小生共之夙夜憤慨に堪えず打過候事なれば、此断然なる処分を喜ぶと同時に、其方法の宜しきを得ざりしを深く惜まざるを不得と存候。

 公使は右の野次馬連中に対しては、表面上夫々処分を施さるゝ事ならん。乍去、諸外国之困難を排除し得べきや、否疑なき能はず。

 勿論此る荒仕事之事なれば、多少「ボロ」を現わすは兔れざる所なりと雖、今回之事、余り「ボロ」多からざるか。

 右は前記に申陳候如く、三浦公使に対しては甚不信実之至には候得共、職務上之義務に馳られ、不得已御報道申上る次第に御座候。右何卒篤く。

      十月九日 英蔵

 末松

 

10月10日 「大院君の提言」で、閔妃身分を剥奪され平民となる(高宗実録)。

10月11日 王太子の上訴で廃庶人閔氏に嬪「妃(ひ)・夫人(ぶにん)の下位・ひん」を与える。

10月17日 三浦公使、解任・召還。(18日)→朝鮮国駐箚小村寿太郎弁理公使

10月19日 朝鮮の閔妃殺害裁判では、「王妃殺害を今回計画したのは、私です(朝鮮での裁判。裁判に関しては官報に記載あり)」と証言した李周会(前軍部協辨=次官)、尹錫禹(親衛隊副尉)、朴鉄(日本公使館通訳)及び彼らの一族を処刑。李周会の妻子は田舎に身を隠す。

11月26日 小村壽太郎の助言で閔妃を平民とした詔勅が取り消される。再び王后閔氏に。同日、興宣大院君と高宗の亀裂は決定的となり、興宣大院君失脚。趙羲淵、李周會、権濚鎮は免官。

11月28日 春生門事件(しゅんせいもんじけん)。前述のウィリアム・ダイとアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与し、朝鮮親露派の李範晋・元農商工部大臣が金弘集首相暗殺を企てたカウンタークーデター。守備隊の説得等で高宗を奪い、詔命を得る目的は達成できなかった。この事件は翌年の露館播遷へとつながっていく。

12月3日 この日はじめて閔妃の崩御が公表される。(閔妃を平民とする詔勅や王后に復活させる詔勅時、閔妃の死亡は公表されていなかった)

12月12日 三浦梧楼以下48名、広島地方裁判所にて予審開始。(一部軍法会議)

1896年

1月20日 三浦梧楼以下48名、証拠不十分で免訴される。(広島地方裁判所)

 日本国内における裁判にあたっては、事件は朝鮮政府内部のもので大院君を首謀としたい朝鮮政府(金宏集政権)の意向(大院君が不忠の輩を成敗)が日本へ伝えられていた。

2月 ロシア軍が王宮へ突入。高宗と世子、ロシア公使館へうつる。(露館播遷)

 高宗は露館播遷後に事件の再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮で、日本人壮士らが閔妃が殺害したこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどとし、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した。高宗は1906年、韓国統監代理・長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒(私の部下の中に犯人が居た)」と述べている(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))。特赦された趙羲淵(当時軍部大臣)、李斗鎬(訓錬隊第一大隊長)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、権濚鎭(当時警務使)の6名を「王妃を殺害した張本人である」として、勅命で処刑を命じている。

 閔妃殺害直接起因が「訓練隊は解散で隊長を厳罰詮議と10月6日に漏洩、激昂した訓練隊が大院君を奉じ決起」であることは、勅命処刑者直前の「勤務先」を見れば、一目瞭然であろう。

5月11日 朝鮮国ニ渡航禁止ノ件

1897年 大韓帝国成立

閔妃 明成皇后の諡号を受ける。

1898年

2月22日興宣大院君死去。略式の葬儀で、高宗は父親の葬儀に参列しなかった。

8月11日皇太子毒コーヒー(毒茶)事件。夜10時頃、高宗、皇太子(後の純宗)と3人の大臣ら十数人の高官らが同席した時、出されたコーヒーを高宗は、味の異変のため一口だけ含んだが飲まなかった。皇太子が飲み、一時人事不省に陥った。高官らは飲まず、同じコーヒーを飲んだ内侍7名、女官3名、別入侍1名にも中毒症状が見られた。

 閣監庁(大膳部)の庖厨14名を拘束し取調べに及んだ。取調べの結果、免職になっていた金鍾和という者が浮かび上がり、金鍾和は前典膳司主事孔昌徳より1,000元の報酬を受ける約束で毒物を混入したと自白。孔昌徳は金鴻陸から協弁職を受ける約束で毒茶により高宗を殺害するよう依頼されたと自白した。孔昌徳と金鍾和とその妻の3名が逮捕され、その他の庖厨は全て監獄署に移された。1898年10月10日朝、外2名と共に紋​罪に​処​せ​られ​その死​体​は鍾路に曝された。

1903(明治36年)年

11月24日 禹範善が、「王妃を殺害した極悪無道の者」への復讐で、高永根と魯允明により広島県呉市で暗殺された。享年52。

1904年2月8日日露戦争

1905年9月 日露戦争終結

1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下六名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している。高永根は減刑され、1909年、5年間の刑期を終えて帰国した。その後は高宗から御手元金などを下賜されていた。

1907年7月20日、高宗がハーグ密使事件により李完用らに迫られて譲位したため、ただちに即位した。純宗には子がないため、皇太子には異母弟英親王(李垠)が冊立された。

1910年8月22日、日韓併合条約を調印。李完用総理は、一進会などの親日派勢力の後押しを受けて日本政府との間で韓国併合の話を進めた。

※現代における李完用の名は、親日派(チンイルパ)売国奴の代名詞となっている。韓国において2005年、親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が公布され、李完用を含む親日派9人の子孫から土地を没収し、韓国政府に帰属させる決定を下した。

 単独独立(アジアでは日本のみ)など、当時では夢のまた夢。当時の世界の現実を踏まえた愛国者李完用が、現実の常識に基づいた選択であったといえる。1926年肺炎により死去。その葬儀は国葬でも無いのに、葬列が数キロに達したという。当時の大多数の国民は、愛国者李完用の心中を察していたということである。朝鮮愚民子孫よ、好いとこ盗りは、現実界には通用しないのだ!

8月29日に両国皇帝の裁可をもって条約は発効し、大韓帝国は滅亡、日本の朝鮮総督府の統治下に入った。

1919年

1月21日 高宗崩御。三・一運動

閔妃、京畿道南楊州市 金谷洞の洪陵に高宗と合葬される。

1926年4月25日大韓帝国(朝鮮王朝)消滅後の純宗は、王族として李王に封じられていたが、52歳で逝去した。閔妃家系は途絶えた。

 

閔妃の浪費

『韓国 堕落の2000年史』崔基鎬(Che keiho)著加耶大学客員教授より抜粋

 閔妃は王子拓を世子として冊封するために莫大な資金を費やした。そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫女(シャーマン)たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。そのかたわら、金剛山の1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施した。当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものでなかった。これは法外な浪費だった。宮廷の要路(重職)の顕官たちは、民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、巫女たちとともに踊った。閔妃は、狂気の宮廷に君臨する女王だった。また、閔妃は音楽を好んだので、毎夜、俳優や歌手を宮中に招いて演奏させ、歌わせた。そして自分も歌った。俳優や歌手たちに惜しみなく金銭を撒いて、遊興した。――

 日本のおろかな女性作家が、閔妃に同情的な本(角田房子著「閔妃暗殺」)を書いたことがあるが、閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである。

閔妃の実像

 ジョージ・トランブル・ラッド博士米国の朝鮮専門家。「頭は良かったが朝鮮の玉座にとって恥となるほど最も残酷な人物であり、何年も国王の父である大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきた」。

 崔基鎬は自著『韓国 堕落の2000年史』において、閔妃は自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く、恩人であった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかして逮捕されたり、ある時は日本に擦り寄り、ある時は清国に接近し、清国を捨てると今度はロシアと結んだりと、智謀家ではあったが、倫理が無く、『背恩忘徳(恩に背く裏切りをする行為)の生涯』だったとしている。

 朴垠鳳は『わかりやすい朝鮮社会の歴史』で、門戸開放した朝鮮は西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかったが、閔妃とその一族は、この内どれも満足にできず、その結果として、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、閔妃を攻撃の的とし、また甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて閔妃とその一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を得られなかった閔妃は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために清を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは閔妃である。

『朝鮮紀行』英国人女性旅行家のイザベラ・バード(結婚後ビショップ)抜粋

 閔妃が暗殺されたその同じ1895年に、彼女は4度も国王夫妻に招かれ会っている。文中の「皇太子」は当時21歳の純宗。

 ――王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と鋭い洞察力と知恵の全てを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失墜させるべく闘っていた。――王妃はまた、側室の息子が王位継承者に選ばれるのではないかと日々不安にさらされていた。頻繁に呪術師を呼んだり、仏教寺院への寄付を増やし続けたりといった王妃の節操を欠く行為は、その不安に起因するものだったろう。 謁見中の大部分を母と息子は手を取り合って座っていた。

日清日露戦時下における戦争の一部分が閔妃成敗

 事件きっかけは訓練隊の解散。朝鮮大院君とその忠臣、李周会(前軍部協辨=次官)、尹錫禹(親衛隊副尉)、朴鉄(日本公使館通訳)、趙羲淵(当時軍部大臣)、李斗鎬(訓錬隊第一大隊長)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、権濚鎭(当時警務使)は、不忠の輩を成敗した。

 三浦梧楼以下48名の日本憂国の壮士は、この「不忠の臣成敗」に、露西亜朝鮮合体阻止目的で便乗した。利害が一致した韓日合同作戦であったと言える。

 日清日露戦争いずれもが、大院君と閔妃の争いがきっかけとなっている。正体は日清日露戦時下の小競り合い戦争で、司法介入の余地など全くないのだが、日本が強権発動せず譲歩し、日朝共に建前とし司法の手続を踏み、終結した。禹範善殺害犯高永根減刑、趙羲淵以下六名特赦等が証拠である。

 これだけの証拠があっても、臆面もなく朝鮮御得意の、反省皆無の一方的つまみ食い非難だが、難癖以外のなにものでもない!3につづく⇒

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Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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