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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2こだまでしょうか金子みすずと被災坩堝大和日本と神道と東日本大震災

2こだまでしょうか金子みすゞと被災坩堝大和日本と神道と東日本大震災


佐賀県嘉瀬川

 水稲栽培に不可欠な日と水。上記のように先人は日と水の上(神)を求めて上(神)に遡り上(神)に至り、そして川の要所要所には、社を祭った。魏志倭人伝邪馬台国検証過程での産物である。

 嘉瀬川は川上峡下流から放射状(人工か?)に分流し、佐賀平野を潤している。そして分流基部から真東に、ほぼ直線の道路があり、吉野ヶ里遺跡がある。今に残る「上無津呂」「與止日女」の上代仮名。日と水が頼りの水稲栽培、「川神」呼称、分流基部河畔の祭神「よどひめ(與と卑弥)(與と日水)」さんは、卑弥呼邪馬台国を彷彿させて余りある。

 水稲用水の源の川を上へ探査し、辿り着いたのが山頂と天。争乱と天変地異を鎮めるため、平和な時代を作った壹與と日水子を邪馬壹國の守り神とし、壹與と日水子の社を、信奉する子孫が重要な川沿いに祀り、壹與(いつよ)と日水子(ひみこ)祭神神社、訛って與と日水(よとひめ)社となったと考えられる。

 

嘉瀬川流域に鎮座する與止日女神社最上流から下流へ

1淀姫神社。佐賀市富士町上無津呂「上無津呂川河畔(嘉瀬川最上流)」。淀姫「與(壹與)と日水(卑弥呼)」神社は、本流、支流合流部に鎮座している。文久2年(1863の棟札に1350年祭をとりおこなったと、記録にあるので、513年創建と考えられる。旧郷社

 上無津呂川は、雷山(953.3)が水源。上無津呂川は、支流五つが合流し神水川ともいう。上流の、本流と支流はあわせて六つ。「雷山」「上無津呂川」表意は、「来山」「神六つ路川」と推測できる。神水川は、嘉瀬川(古場川)と合流し嘉瀬川となる。嘉瀬川と今はなっているが、表意は川神川、ではなかったか。上流下流にかかわらず、ダム、発電所名は川上で、下流景勝地名は川上峡である。

2淀姫神社。佐賀市富士町古湯(貝野川合流河口部河畔)。旧村社。資料無し。

3河上神社(與止日女神社)「よどひめ」さん。佐賀市大和町河上。欽明天皇25(564)年創立とある。最後の支流が合流し終えて、分流する直前の嘉瀬川河畔「景勝地河上峡」に鎮座している。

淀姫神社。佐賀市三日月町堀江(祇園川河畔で、嘉瀬川合流河口。嘉瀬川下流)資料無し。

淀姫神社。佐賀市川副町福富。旧村社。資料無し。

4与賀(よか)神社(與止日女神奉斎)。佐賀市与賀町。

 「神社名鑒」欽明天皇25(564)年創建し、與止日女神大明神と称したとある。旧県社。

 「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」欽明天皇26(565)年に、佐嘉郡小津西郷の塚原大明神を遷して祀ったと伝えられるもので、初めは塚原大明神と称したが、朝廷より、與止日女大明神の神号を賜り、勅願所となったと伝えられる古社。祭神は豊玉姫命のほか、七柱の神を祀っている。

5本庄神社(與止日女神奉斎)。佐賀市本庄町。本荘大明神とも称す。昭和38(1963)年、鎮座1400年祭がとりおこなわれた(563年創建)。佐嘉郡本荘妙見山淀姫大明神が、大塚妙見社において、示現したともいう。旧郷社。

自然災害の坩堝列島日本

 天災の台風は毎年襲ってきたが、防御と復興に団結して対処した。この自然災害は農耕水稲の民を幾たびも存亡の危機においつめた。しかし、恨みとせず(恨みなら住み着かず日本は無い)八百万の神々の試練ととらえ、自然災害克服の歴史とし、繰り返しの災害を克服してきた。それが日本の歴史だ。自然災害が日本精神(公・絆・究極の共産)を育んだといえる。

神社連合の証(大いなる和)が「大和」の地名

 以後神社は、海洋民が水稲耕作と共に伝播し、日本全土に広まった。神社単位の日本水稲共同作業集団(倭)が、白村江の戦い以後、唐・新羅の侵攻に備え、談合し連合、瀬戸内海最深部に本拠を移し、地名を「倭連合」の大和(大倭)(大いなる和)と命名、連合の証しとした。神社(水稲共同作業集団)が連合(大和)し、祭司も統一された天皇「日水子から日(天)の本の子」となり、日本「日=天=創造主・本=本源=中心」と成った。

 基は同じ海洋民なので、水稲栽培伝播、国形成も同じ、かつ船での頻繁な往来が有るので、神話神社等も共通する。国産み神話で祖を明確にしたので、従属や国譲りに抵抗は少なかったのではないか。国産み神話は、大乱無き統一のために、必要不可欠なものであった。大乱にしての食料や田畑破壊は敵味方皆消滅する、倭国大乱で学習しているので、避けたはずだ。神武東征は戦争ではなく、各所集まっての国難対処の討議であろう。戦争なら、あんなに短時間で団結は出来得ない。そしてそのまま神道統一国家日本となった。

「和をもって貴しとなす」から始る聖徳太子の「十七条の憲法」は天道(災害列島に生きる術)の明示

 侵略者唐・新羅の恐怖が、根源での比類なき団結(大和)となり、日本を成し、連合の新たな根拠地の地名を、「大和」と名づけた。神社団結といえる。黒曜石も陸稲水稲も神社も墓制も、海洋民がタイムラグ無く伝播した。その海洋民、海の神崇拝の長の地が出雲だったが、海岸なので唐新羅連合軍に攻められやすい。白村江敗戦以後の唐新羅侵攻に備え、懐の深い土地に移動し連合。その土地を、倭連合の証、「大倭=大和(大いなる和)」と命名したと、推察される。

辞書には、「山処」の意か?「大和・倭」は旧国名。もと、天理市付近の地名から起こる。初め倭と書いたが元明天皇(661~721.在位707~715)のとき国名に2字を用いることが定められ、「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とした。「大倭」とも書いた。とあるが、この時代は白村江の戦い(663年)から40数年経て、「唐・新羅連合軍」混乱から政権がやっと安定した時代で、古事記風土記等が編纂されている。がしかし、唐の資料との不一致が多く、一系政権正統化宣伝用資料としての意味合いが色濃く、統一過程が無い。上記推察は、中国史書と日本史書から、導き出されたものである。「和を以って貴しとなす」の「大和日本誕生」までの詳細はこちら⇒1邪馬台国佐賀卑弥呼陳寿魏志倭人伝歴訪日加算旅程方角距離のみが正確

「訓知識」ではなく「音知識」丸暗記の東大准教授本郷和人とNHK天皇家を王家と呼称

 「考証の本郷氏 当時、天皇イコール「王」だった」NHK「平清盛」、皇室を「王家」呼称?産経新聞愛読者倶楽部(24日付13面)。NHKで時代考証を担当、「王家」の表現を使うよう提案した本郷和人・東大史料編纂所准凶授の言い訳。

 「なぜ天皇家、皇室という言葉を用いなかったか。ひとことで言えば、『平清盛』の時代には使われていなかったから。…この時期には…天皇家も皇室も、また『王家』も、言葉としては定着していません」

天皇家(祭司連合)と、王家(武力の長)の判別すらも出来得ないほど「お馬鹿」で、「訓知識・検証回路」皆無丸暗記が、東大文系凶授の正体!

   

災害国家日本であるが故に究極の共産主義(天道を敬い助け合う絆)は産まれるべくして生まれた。

 天地異変は八百万の神のなせる業。人間界の神、宗教ではどうにもならないことを体感して来た。天災は宗教を、絆を、ことごとく破壊し奪い、ノアの箱舟にした。残ったのは宗教も絆も無縁の生命体のみ、残った生命体が新たな絆を構築し適者生存した。これが日本開闢来の歴史である。残った生命体には宗教で争う暇など無かった、それどころではなかった。同胞相争えば滅亡あるのみであった。日本先人はこうして天災から学んだ。多宗教が混在し、八百万の神、神道の子として適者生存したゆえんである。

 思考の始まりが誕生で、思考停止が死である。天災の度に、現世=±(禍福=思考)で、来世=0(禍福皆無=無思考)で、生命体=0±0と現実を体感させられた。宗教や唯物は一切流され現実(生かされた己と生命体)だけが残った。

かんながらの民日本人と世界屈指の天災多発列島

 三陸沖地震と大津波古くは869年(貞観津波はM8)と、1611年(慶長津波)が被害甚大で、1677年、1836年、1856年の各年の地震にも、大津波を伴った。明治以降では1896年6月15日の明治大津波(全半壊流出家屋1万0617、死者2万7122人、津波の高さ岩手県綾里湾で30m)、1933年3月3日の昭和大津波(家屋損失9000、死者2986人、津波の高さ綾里湾で24m)、チリ地震津波1960年5月24日(家屋被害4千戸、死者142人、津波の高さ6m)、2011年3月11日岩手県宮古市で37,9m(4月9日現在。全半壊流出家屋5万8487(全壊4万8572、半壊9909、流出6 全焼84、死者1万2915、行方不明1万4921)。

 

天災は鎮守の森や「いぐね(屋敷林)」に学べ

 高田松原と称されたあれほどの防潮林が、たった一本残したことは、八百万の神々の怒り啓示である。神(造物主)への道を遡り、止まった時計を動かす事が、遺された子孫の勤め。

宮脇 昭「いのちを守る300キロの森づくり」
 

止まった時計

 

泣いて泣いて、泣き尽くし

おもいで人の声を聴く

時を刻めの声を聴く

怒りの神々一本松原

時を刻めの声を聴く

止まった時計を動かすことは

生かされ人の想いで時計

  真実史観

 

 ちなみに宮沢賢治は、1896年明治大津波(6月15日)の後(8月27日)に生まれ、1933年昭和大津波(3月3日)の後(9月21日)に亡くなっている。

 富士山は781年~1707年まで10数回の噴火記録があり、800、864、1707年が大噴火。

 1771年沖縄八重山諸島と宮古島が明和の大津波で1万2千人の被害者。

 東南海地震1944年12月7日東海近畿が大被害M8震源は紀伊半島沖。尾鷲ほか熊野灘沿岸で8~10mの大津波。死者998人負傷者3059人、家屋被害7万3千80戸。

 南海地震1946年12月21日九州中国四国近畿が大被害M8震源は潮岬南西方50Km家屋被害3万9千127戸死者1330人。

 新潟地震(1964)死者26人、阪神淡路大震災(1995)6434人の死者、新潟県中越地震(2004)死者68人は、記憶に新しい。

 この他に加えて、毎年の台風被害と、日本は世界にまれな、天災大国である。

 

こだまでしょうか金子みすゞと被災大国大和日本と神道と東日本大震災

 金子 みすゞの本名は、金子テル。1903年(明治36年)4月11日~1930年(昭和5年)3月10日。山口県大津郡仙崎村(現長門市仙崎)に生まれ.、大正末から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人。1923年(大正12年)9月に、『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に詩が掲載され、西條八十が若き童謡詩人の巨星と賞賛した。26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴った。「こだまでせうか」のほかに、代表作は、「わたしと小鳥とすずと」や「大漁」などがある。

 みすゞのふるさと仙崎は、古くから鯨が糧の、捕鯨漁師の村であった。獲り尽くさずの共存共栄互恵、鯨に対する感謝の念から、胎内にいた70数頭の子鯨を弔った鯨のお墓、鯨墓がある。墓には「生きるためにやむを得ず命を奪ってしまったが、どうか成仏してほしい」と刻まれている。また村の寺には、鯨鯢(げいげい)過去帳という鯨の戒名242を記した霊簿が保存され、鯨を獲らなくなった現在でも、毎日のお供えやお墓参りはかかさないという。

 こうした獲り尽くさずの共存共栄互恵の漁村で育った金子みすゞは、鯨の供養のために、鯨法会を催す地域の慣わしに感銘、「鯨法会」という作品を書いている。自然とともに生き、いのちを慈しむ思い、いのち有るものへの深い洞察が、金子みすゞ詩集の原点となっている。童謡の姿ではあるが、徹底して昇華しており、童謡詩人と言うよりも、命の詩人が正当である。みすゞの詩は、表音ではなく表意言葉でつづられているので、直接琴線に共振し木霊する。

 結婚し一人娘(ふさえ)も産まれたが、夫の放蕩は止ます、淋病を罹病、歩くことも困難(当時は特効薬も無く、死に至る病でもあった)となった。詩作も禁止した夫との、罹病や子供の親権等でケンカも絶えず、離婚の危機が迫っていた。

 「こだまでせうか(原文)」は、こんな、人生最悪の時につづられたという。1929年は、金子みすゞ自殺前年(25歳)である。

 

金子 みすゞ

 

こだまでせうか 、

 

「遊ぼう」っていふと、

「遊ぼう」っていふ。

 

「馬鹿」っていふと 

「馬鹿」っていふ。

 

「もう遊ばない」っていふと

「遊ばない」っていふ。

 

さうして、あとで

さみしくなって、

 

「ごめんね」っていふと、

「ごめんね」っていふ。

 

こだまでせうか、

 いいえ、誰でも。

 

※優しい言葉には優しい言葉が、冷たい言葉には冷たい言葉が返ってくる。こだまでしょうか?いいえ、(こだまではなく、このように)誰でも(皆同じ言葉を返すのが人間だから、優しい言葉をかけようね。助け合おうね!)。

 括弧部分を加えると意味は解るが、詩ではなく、ただの説明文になり下がる。がしかし、みすゞのように切り捨てると、詩となる。読み比べれば、「誰でも」で斬ったことにより、この詩は凝縮され、昇華していることがよく解る。

 現実の苦界を見事に昇華しての再結晶化が、この詩の、静かな響きとなっている。この詩は、唯心なら共振するが、唯物は共振しない。

 

 優しい言葉には優しい言葉が、冷たい言葉には冷たい言葉が返ってくる。「優しい言葉をかけよう、いつかは夫も変わるかもしれない。優しい言葉をかけ続けさえすれば、やり直せるかもしれない」という、夫への思いともいえる。

 しかし夫は変わらなかった。

 心身共に疲れきった娘を見た母親は、娘を離婚させ、みすゞと孫娘を連れ帰った。

 1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一旦受け入れたが、すぐに翻意、娘の親権を強硬に要求。離婚から数日後、夫は、期日を指定して「娘を連れ戻す」と手紙で通告してきた。この時代、子供を引き取る権利は父親にしか認められていなかった。

 願いを夫に承諾させる方法は、自ずから命を絶つこと以外、思いつめたみすゞには、もはや、浮かばなかった。

 死の前日の3月9日、写真館で最後の姿を写し、娘に遺影として遺した。「娘が夫のもとで育っても 幸せにはなれない ふさえには心の豊かな子に育ってほしい (みすゞの言葉)」と訴え、娘を自分の母に託すことを懇願した遺書を遺し、睡眠薬を服毒し自殺。1930年(昭和5年)3月10日、みすゞは、26年の短い生涯を閉じた。

 高く昇華する繊細な感覚は、過度に過敏で壊れやすい。繊細な感覚には、煙に揺らぐ線香の様でさえも、時には雷光雷鳴となる。方向を違えると、己への刃とも成る両刃の剣である。死と生を見つめる目は、末期の目そのもの、芥川の視点と同じである。最後の写真の右目は異様で、左目は温和である。

 

人間は神に非ずを身を以てその都度実体験(天災台風は毎年)し、災害の坩堝に居住した先人。

 幾たびも繰り返された大災害、そしていつも人造物(財産や宗教)はすべて押し流され着の身着のまま(平等体)の、この災害列島にがたどり着いた先祖の姿、ノアの方舟(旧約聖書の創世記6~8章)となった。

 いつも残された自然と残された命との対話から始まった。八百万の神への祈り、残った生命体との共生が生きる術であった。こうして、ご先祖の血と汗と泪で、何度も何度もDNAに刻み織り込まれた。

 いくら人間が生命体の覇者とおごり高ぶってみても、他の生命体と同質の、生命体の一部にすぎないことを、その都度繰り返し繰り返し思い知らされた。神のご加護で生かされている生命体の一部の、命をつむぐ糧として、他の生命体や道具等をうやまう八百万の神信仰が生れたのは当然なのである。

 戦後の復職赤化教授や、継承した文系パブロフ犬教授に歪曲された下善上悪共産カルトではなく、下善上善の共産(掟破りは死刑のリンチではなく、戒めの村八分とし、残りの二部、葬式と火事は、同胞として扱った。生きる知恵)であった。死者はたとえ敵であっても丁重に弔った(死者はみな同じ。生命体の尊厳を守った)。ゆえに、天災坩堝日本列島で適者生存出来得た。

 被災したら、略奪騒乱などの自滅行動(関東大震災や終戦時の朝鮮罪日)はせず、じっと同胞を信じて待つ。非被災同胞が助けた歴史があるからだ。日本は南北に長い、被災地があればかならず非被災地はあった。こうして日本精神互恵は育まれた。こうした艱難辛苦が、一見、傍目には美しい、まほろばの民を創造した。

お馬鹿を繰り返す日本の「言葉と文字界」と透徹した至言の英仏

 英経済コラムニストマーティン・ウルフ氏は、「悲劇に鍛えられた文明があるとすれば、それは日本だ。日本人は(悲劇性)を乗り越える」と書いた。4月22日。

 フランス動画震災後なぜ日本人は冷静なのか
 TV朝日「千思万考」4月24日黒金ヒロシという漫画家が、今回の東日本大震災の秩序に基づいた行動は、孔子の「論語」からきた訓えだと、お馬鹿なことをいっていた。

 生死の境に訓えなどで人間は動かない。集団自決は軍の命令などと書いた大江や裁判官判決も同じ。生死の境で皆さんは訓えや命令などで、動きますか?みな、本能に従うものだ。胸に手を当てて考えれば判ること。余りにも日本の仮想界(判事や売文業の大江や漫画家等)は現実離れし、現実を知らなさ過ぎる。TV朝日は朝日新聞記者と同じで、現実知らずの温室ボケばかりが出演者!

開国以後日本の指針露西亜凶産食民治主義のブロック経済破壊互恵自由貿易で真の独立

 TPP論争に欠けているもの。生命体はおしなべて衣住ではなく、衣住。世界が食糧危機に陥った場合、自国優先は当然で、輸出せずは当たり前、余してもいいから、食料確保自給自足は国の根幹。

 日清日露大東亜戦争は、露西亜、凶産ソ連中国、列強食民治主義の、ブロック経済を破壊、食糧確保し生存するのための、適者生存戦争であった。

 時代対処のため戦国の世に開国し、自給自足(江戸初期1600年1227万人で、121年後の1721年3128万人に倍増したが、以後は、125年間江戸末まで横ばい(間引きと推察される)で、1846年3230万人。つまり、これが、当時の日本の、自給自足限界人口)から輸入加工輸出国に転換、85年で人口倍増(昭和6年1931年6500万人なので、自給自足に後戻りは、二人の内一人が餓死者。棚田は、日本民族自給自足苦闘の証し!)。迫る清国とその属国朝鮮、南下する露西亜、そして凶産ソ連と食民治主義連合、そして更に巨大化した黄禍論白人連合との対峙と、まさに未曾有の時代であった。先人はこの死活(負ければ二人の内一人が餓死者)の時代を、一丸で命を懸け、子孫に禍根を残さずと、日清日露大東亜(人口三倍増加で負ければ三人の内二人が餓死者)、すべて先憂後楽で対処した。資源無き小国、援軍のあて無き籠城や後手は確実な餓死。全て先手、外地戦は、古今東西小国戦法の、定法である!

 ちなみにWW1勝者英・仏、敗者ドイツへの仕打ちは、休戦条件「即座の食糧供給」の無視で、餓死者80万(ほとんどが老人女子供)もの犠牲者を出し凄惨を極めた。休戦条件破りが戦国時代の常識であった。そしてこれが、WW2の遠因となり、日本先人のトラウマの一つとなった。

 マッカーサー証言「1951年5月3日・彼らが戦争を始めた目的は、大部分が護国(by security)のためだったのです」は、このことを看破した、証言なのだ。ベンブルース等、弁護人の弁護も唯心で、同類である。3につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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