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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2大東亜戦争が遺したもの全世界の証言アメリカタイセイロンインド

○ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256~7ページ)

○ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。・・・インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。「日本軍政とインドネシア独立」後藤乾一訳鳳出版社 

○タイのククリット・プラモード首相 1973年に氏は、「サイヤム・ラット」紙の主幹だった頃、「12月8日」と題した次のような記事を書いた。 

 日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して、重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。

○J.R.ジャヤワルダナ蔵相(後に大統領)の演説セイロン(現スリランカ)

 アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが協力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。

 ・・・「我々アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本こそが必要である」と強調。ロシアなどが主張した日本分割案に真向から反対してこれを退けた。そして、『憎しみは憎しみによってやまず、愛によってのみやむ』というブッダの教えを引いて、よってセイロンは日本に賠償を求めないと、対日賠償請求権を放棄し、各国にそれに続くよう呼びかけた。インド、ラオス、カンボジアなどがこの呼びかけに答え、自発的に対日賠償請求権を放棄した。(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

○インドの独立の英雄、「NETAJI SUBHAS CHANDRA BOSE」「ネタジ(指導者)」スバス・チャンドラ・ボースがインド人民に向けて訴えた演説。

 

 ・・・「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。・・・われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」は、後の自由希求独立への、合言葉となった。(1943昭和18年7月5日1万5千名のインド国民軍兵士への演説)

 

(注・日本のデリーは、自由希求の兵士の社、靖国だ。日本の自由希求の合言葉は『靖国へ!靖国へ!』)

 

 ・・・「大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。・・・1944年3月20日ラングーンで自由インド放送を通じて「インド国内の同志への呼びかけ」「ネタジと日本人」スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー著

 

 ・・・インドに関するかぎり、われわれの運命は日本及びその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や生き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一つの感心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドから駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章となることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを。・・・「大東亜会議」演説1943(昭和18)年11月5日

 

 インド独立運動の指導者(NETAJI)スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)(1897~1945)は日本と協力してシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立し(1943)、インド国民軍を組織し米英に宣戦し、インパール作戦を日本軍と共に戦った。日本の敗戦後も、最後まで、インドの独立に命を懸けたチャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の取り計らいで、ソ連に亡命する途中、1945年8月18日台北で日本軍機墜落、事故死、火葬後、遺骨は日本に運ばれ東京都杉並区の蓮光寺に手厚く葬られた。享年48歳。毎年8月18日に慰霊祭がおこなわれている。

 

 スバス・チャンドラ・ボースのこの世で最後の言葉 1945年(昭和20)8月18日 享年48歳

 「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」

 インド国会議事堂の正面にはスバス・チャンドラ・ボース。右にはガンジー。左にはジャワハラル・ネール(初代首相)の全身像が建てられている。Chandra Bose 亜細亜独立インド
 

○インパール作戦(インドの独立戦争) 

 この作戦は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人がした赤心の血適者生存の心(大東亜団結戦争、大東亜の適者生存のため、ひいては日本のために戦った)がインドの独立、アジアの独立をうながしたのだ。さらにこのした赤心の血は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながし宗主国撤退の起因となった。皆この作戦より、日本の本意にたどり着いている。

 

 ネルーもガンジーもラダ・ビノード・パールも、インパール作戦以後翻意している。NHKや朝日などの反日は、インパール作戦以前のこの方々の反日証言(1942年7月26日、ガンジー日本の「大東亜戦争」について等)を針小棒大に報道している。なぜ翻意したか、インド独立のため、ひいては日本のための比類なき適者生存護国の戦いざまを、目の当たりにしたからである。 

 

  昭和19(1944)年3月、日本陸軍(牟田口廉也第十五軍司令官)とインド国民軍の合わせて十万の将兵が、アラカン山脈を越えて進撃を開始し、一時はコヒマを占領しインパールの周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給が途絶し、飢餓と悪疫が重なって撤退を余儀なくされた。

 

 インパールの山野は「白骨街道」と化し、日本軍の死者は三万、戦病者は七万。インド国民軍は数千人の犠牲者を出した。

 

○マパオ村の「日本兵士を讃える歌」

 インパールの北16キロにあるマパオ村では、インド独立のために散った日本軍兵士の慰霊祭が行われ、「日本兵士を讃える歌」が、毎年マパオの空に響きわたっている。歌を作ったのは村の女性ニイヘイラさんである。

マパオ村とニイヘイラさんと歌を紹介する動画

http://www.youtube.com/watch?v=__7fG0aqJDk

 

「日本兵士を讃える歌」

作詞作曲マパオ村ニイヘイラと村民

日本語訳  古田中 勝彦

 

一、

父祖(親)の時代(時)より今日の日まで

美しきマパオの村よ

いい知れぬ喜びと平和(やすらぎ) 

永遠(とわ)に忘れまじ

 

*合唱(繰り返し)

美しきマパオの丘に日本兵来(きた)り

戦えりインパールの街目指して

願い果たせず

空しく去れり

 

二、

日本兵マパオの丘に来る

それは四日の火曜日一九四四年のことなりき

我は忘れじ四月のあの日

 

三、

罪なき民も散り散りに

西に東に追いやられ

再び神の恵を受け

集まり住まん

この地マパオに

 

四、

広島の悲報

勇者の胸をつらぬき

涙して去れる

日本の兵士よ

なべて無事なる帰国を

われ祈りてやまず

 

○英軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将

 「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけだった。指揮の崩壊と飢餓に追いつめられたとき、前途に横たわるものは生地獄だった。日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくして敗れた。兵理である。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れた。しかし、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。『すなわちもし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』

日本軍に関する報告書

①日本軍はアアジア諸民族の眼前で、彼らがとてもかなわぬと思っていた欧米軍を 一挙に爆破した。

②とても独立の意思も能力もないと思っていた植民地民族を戦時中の短期間の組織し訓練し、強烈な愛国心をかきたて、軍事力も行政力も見違えるばかりに変貌させた。いわゆる《metamorphosis(魔術的変化)》を遂げさせた。このことは、当時の連合軍の誰もも予想できないことであった。

③日本軍は敗戦すると、連合軍との間に交わされた停戦協定に基づいて、武器は全部連合軍に引き渡すことになっていた。ところが、日本軍はインドネシア軍に『武器が奪われた』と称して巧妙に裏で武器を渡していた。それによって、これまで『猫』のようにおとなしかったインドネシア人が『虎』に変身し、ついに独立を達成したのである。回想記「ビルマ戦線の大逆襲」ルイス・マウントバッテン。

 

マウントバッテン司令官ネパール国王の戴冠式パーティの席での皇太子殿下への言葉

 インド独立のための工作をした藤原岩市中佐がインパールへの遺骨収集実現のためインド側と交渉し、昭和50年(1975年)に無事それを実現させ、現地の人々の予想外の協力を得て帰国した。その模様と東宮御所に参上し、皇太子殿下(今上天皇陛下)に報告されたときに皇太子殿下が、マウントバッテン元帥の言葉を仰せになられた。

 「藤原さんの報告を伺って、事の次第が分明いたしました。先月、ネパールの戴冠式に参列した節、パーティの席で、英国首席随員・マウントバッテン元帥が私を捉えて、いとも懇ろに『過ぐる戦争中、私が東亜連合軍総司令官として、印緬戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう』と激賞してくれた」(藤原岩市「進めデリーへ」の反響に想う)

 

 かっての敵将も、インド独立のため、ひいては日本のために流した日本の赤心の血に、日本の本意を見たのだ。そしてイギリスは宗主国から撤退した。

○アーノルド・トインビー(英国歴史学者)

 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の汎神でないことを明らかにしたことである。イギリス人もフランス人もアメリカ人も、ともかくわれわれはみな将棋倒しにバタバタとやられてしまった」(1956年10月28日、英紙「オブザーバー」)

 「英国最新最良の戦艦二隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーショナルをまき起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対して、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の士気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである」(昭和43年3月22日 「毎日新聞」)

 

○ロンドン大学教授のエリック、ホプスバウ

 日本では殆ど知られていないが、インド独立のきっかけも大東亜戦争にあった。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック、ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ、ボース率いるインド国民軍(I N A )が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた」と述べている。

○卒塔婆を建てた村長 インパール作戦で日本軍は惨敗した。シンハ村の村長は次のように語った。「レッド・ヒルの争奪戦で、戦死した日本軍の将兵の骨を集める為、村民を総動員した。村民は丘の激戦を見ていました。日本軍は全滅し、丘は真紅に染まりました」イギリス軍がレッド・ヒル(真紅な丘)と名づけた理由がよく分かった。

 村長はその丘の麓(ロッパチン村)にレンガを積んで、卒塔婆(高さ約4㍍)を建て、毎年、日本軍が玉砕した5月20日には、村を挙げて法要していると言う。我々は、ロッパチン村の卒塔婆に参拝し、あつく礼を申し述べた。卒塔婆の中心に貼られた白い大理石に、雄渾な日本の文字で立派な追悼の詩が書いてあるので、尋ねたとら、村長は「我等の尊敬してやまない牧野財士先生が書いたものです」とほほえんだ。シンハ元村長は、「この頃私は呆けましたが、死ぬまで日本兵の墓を守ります。私が死んだら、息子(現在の村長)が引き受けます。その後は孫が守ります」とまことに実直である。

 この優しい老人の家(村長の家)は、余りにも質素(貧乏)なので心が痛んだ。竹の家に、竹の寝台、竹のテーブル、鍋釜と槍だけである。牧野先生は「農地が無かったら老村長はカルカッタに行って出稼ぎ人夫になっていた」と教えてくれた。家の前に3百坪ほどの水田と養鶏場と養鯉池もある。畑には豆類と薬草が植えられ、やせた小菊や菜の花が咲いていた。完全な自給自足である。我々がレッド・ヒルを見上げている時、シンハ元村長は「生き残った兵隊はいなかった」と涙を浮かべてつぶやいた。(平成9年6月25日号)アジアの曙光 -6-アセアンセンター代表 中島慎三郎

○元クルガ兵(ネパール人)の証言 我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

○ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー 激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。  「自由アジアの栄光」副題「インドミャンマー独立史」

○インド 日本に対する賠償を放棄している。

アジアにおける大東亜戦争←さらに詳しく

○グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶) 3につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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