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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観自由貿易互恵の全世界共栄圏植民地独立付与宣言の起点が大東亜会議

自由貿易互恵

1919年10月10日 中国国民党結成し孫文総理となる(中華革命党を改組)

1920年1月10日 国際連盟発足。日本、理事国として加盟。提唱国アメリカ不参加。

1920年南洋諸島が日本の委任統治領となる。極東共栄圏政策で統治し、富国に励んだ。

1920第2次カラハン宣言。レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべき(ロシア領となった外満州や賠償金返還)」との宣言を行い、中国側に、領土返還撒き餌をまいた。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたが、ソ連代表の帰国により締結には至らず。後のスターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否した。孫文、汪兆銘、蒋介石はこの撒き餌に踊らされた。正に凶産党は捏造が党是なのだ。

1921中国共産党結成ソ連凶産党撒き餌の成果。この時、レーニンの秘書マーリンが、上海での共産党代表大会に参加し、孫文とも会って、新経済政策を吹き込んだ。また中国共産党員がコ ミンテルンの指示で、次々と国民党に入党し、主導権をとろうとしていた。 

1921年11月~22年2月 ワシントン会議。アメリカ大統領ハーデングの招請で開かれた。日米英仏伊の五大国と、中国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの計9ヶ国が参加。海軍軍縮、太平洋・中国問題に関する国際会議。九ヶ国条約、四ヶ国(日英米仏)条約が締結され、日英同盟が廃棄された。

1922年2月青島返還。日本は、日本人3万人が居住しかつ1億5千万の巨費を投資した青島を、山東懸案解決に関する日中条約によって、6ヶ月以内の還付を決定。

1922 ウクライナ・白ロシア・ザカフカス・ロシアの4ヶ国凶産化

1923年1月26日孫文・ヨッフェ共同宣言(上海)国共合作準備

 22年8月、孫文は広東軍閥陳炯明の反乱に遭い、広東を脱出して上海に着いた。彼はここで共産党員の李大釗、陳独秀らと接触し、彼らの協力を得て国民党改革を本格的に開始した。そして23年1月、ソビエト政府代表ヨッフェとともに、「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する」という共同宣言を発表して、「連ソ容共」への転換を鮮明に示した。

1923年孫文の指示により、蒋介石ソ連の軍制を視察しての報告。ソ連はまるで誠意を持っていない。…ソ連共産党の中国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とすること…彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世界革命とかも、その実はウィルヘルムⅡ世の帝国主義となんら変わることなく、ただ名前を変えて世間を惑わそうとするものだ。

1923年孫文「しかし、われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それはなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟するよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかることがわれわれの希望である」

1923 日英同盟失効。大東亜戦争(有色対白色)が萌芽した。

1924年1月20日第一次国共合作(中国国民党と中国共産党との協力体制。1927年7月まで、ソ連は広東政府に、小銃約23万丁、大砲100門及び飛行弾薬を送り、さらに毎年300ルーブル強の資金を提供した)。中国国民党孫文は、ソ連共産党の組織を模倣した国民党の新組織を形成し、第1次全国代表大会を広東で開催した。孫文は「民主主義を共産主義は包含している」と演説、共産主義受容発言。

 この頃から日本軍国主義批判、社会主義思想への共鳴を示し、国民党大会で容共、農工支援、ソ連承認を行った。ソ連、日本と国民党軍と日中反共戦争させて、衰えさせる、漁夫の利工作開始。

唯心日本とは異なる唯心唯物混合体国民党が孫文の苦悩

 宋慶齢(孫文未亡人)「私は孫中山(孫文)に、共産党員が国民党に入党することがなぜ必要なのかとたずねました。中山は答えました。『国民党は堕落して死につつあります。それゆえに、生き返らせるためには、新鮮な血液が必要なのです』と。堕落という言葉で彼は何を言おうとしたのでしょう?彼は、国民党員が革命精神、士気と勇気に欠け、国民党が革命の目的をかかげて創建されたことを忘れていたことを言いたかったのです。――個人的な利害が党員の行動を支配しはじめた、悲しむべき結果でしょう。

 一度ならず、中山は自分の身近で見たことに嫌悪や失望を覚えて、私に意見を述べました。『国民党は、中国のもっとも優秀な人びとと、もっとも卑劣な人たちからなっています。優秀な人たちは国民党の理想や目標にひきつけられ、一方、卑劣な人たちは、出世のステップになると考えるから入党します。もし、私たちがこれらの寄生虫どもを追い出すことができなければ、国民党にはどんな意味があるでしょうか』」

2自由貿易互恵の全世界共栄圏植民地独立付与宣言の起点が大東亜会議

1924ソ連モンゴルを侵略し征服赤化。「蒙古人民共和国」と凶産化。南下征服残る唯一の植民地候補中国満州日本を、ソ連の独裁者スターリンは虎視眈々と狙っていた。

1924ソ連ウズベク・トルクメンの2ヶ国を侵略し凶産化。

1924年5月31日中ソ国交回復

1924年6月16日孫文、広州に黄埔軍官学校開校(校長:蒋介石)

1924年9月18日孫文、第二次北伐宣言

1924年9月18日第二次奉直戦争。1920年成立の奉直連合政権の対立戦争。奉天派軍閥張作霖と直隷派軍閥呉佩孚との戦争。第一次(1922)は英米支援下の呉が勝利。第二次は日本の支援下に再起した張が、呉側の馮玉祥の内乱もあり勝利。結果呉が下野し、張が北京に進出した。

1924年12月28日馮玉祥は北京を占領すると、孫文を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本に立ち寄り、頭山と対談し、講演をした。

「大アジア主義」神戸高等女学校において、神戸商業会議所外5団体におこなった、病死(肝臓癌)3ヶ月前の講演(「孫文選集」1966)

 「本日は皆様よりアジア主義と言うことについて、私に講演しろと言うお話でありました。わがアジアはとりもなおさず最も古い文化の発祥地であります。

 ・・・日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべきである。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがるならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張するということは、正義公理によって西欧人を感化することである。

 ・・・我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復しようとするには、唯だ、仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。

 さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。

 我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬「たかいぬ(鷹狩の犬)」となるか、或は東洋王道の干城「かんじょう(国家を守る軍人)」となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります」。

1924年汪兆銘は中国国民党中央委員・宣伝部長に選出。

1925年2月24日孫文の病状が絶望的になった時、後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言い、3月11日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇りとした。その遺書は、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「革命尚未成功 同志仍須努力」(中国革命未だ成らず、同志なおすべからく努力すべし)という有名な一句を含んでいる。

 公的な問題に関する彼の最後の発言は、「平和・・・闘争・・・中国を救え」であったといわれている。

1925年3月12日朝孫文病死(肝臓癌北京にて)行年59歳。孫文の南京での国葬、犬養毅、頭山満、近衛文麿など参列。

 救国愛民の志士孫文も、各国の凶産化が侵略ではなく解放に、凶産が共産に、凶輪国が共和国に、見えたのだ。人民の植民地化に気付かなかったのだ。捏造主義に世界中が欺かれたように、孫文も欺かれたのだ。病がそうさせたのだろう。もう少し長生きすれば実現不可のおいしい空論凶産に気付いたはずだ。現に孫文側近の汪兆銘も、蒋介石も、気付いた。孫文がもう少し長生きすれば歴史はかくじつに変わっていた。

1927年4月12日蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。汪兆銘も偶然、ソ連から派遣された国民政府最高顧問ボロディンへのコミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の真意を知った。そこには、汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、クーデター後、コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、などの内容があった。中国共産党は、まさしくソ連共産党の手先であり、それと組んでいることは、中国の自主性を奪われることであると気づいた。こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、両者は協力して南京で国民政府を組織した。上海クーデターで南京事件の主犯として中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。

1927年7月国共合作破棄。中国国民党と中国共産党分裂

1927(昭和2)ソ連コミンテルンの指令により中国共産党は武装暴動を決議し、最初のソヴィエト政府を広東省に樹立した。

1927年12月15日中国国民政府、ソ連に国交断絶を通告。

1928年蒋介石政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。

1928(昭和3)年8月27日不戦条約ケロッグ・ブリアン協定)。不戦条約の正体は、日本のような新興国家の力を制限し、それぞれが征服分割し終えた食民治の、再争奪戦防止目的の意味合いが強く、平和を基にしたものではない。極論すれば、食民治主義者が侵略で奪い取ってきた領土や権利を、新興国家日本は侵すな、植民地は紛争を起こすな、宗主国同士は争うことなく連合し、事に当たれ、という「黄禍論白人連合」条約である。

193118満州事変柳条湖事件(満鉄線路爆破)から満州事変対ソ反共戦争)始まる。

1932年3月1日満州国建国。極東共栄圏政策で助力した。

193410中華ソブィエト共和国臨時政府(瑞金)は、蒋介石第5次掃討戦(1930年から)に敗れ、長征(逃亡)開始。中国共産党軍30万人が華南華中から撤退。移動中3万に激減し、毛沢東の指導権が確立した。

1935(昭和10)年8月1日。日中戦争の始まり。中国共産党「八・一宣言」で日本に宣戦布告。「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」が発せられた。蒋介石の表現によれば、凶産掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。中国共産党軍の兵力は30万人から3万人に激減したため矛先を日本に変え、宣言した。赤化戦争を抗日救国戦争にすり替えた。起死回生の一発がこの宣戦布告で、日本と蒋介石国民党軍と交戦させ衰えさせる、漁夫の利作戦を本格的に開始したのだ。以後日本との交戦はすべて、国民党軍に潜入していたコミンテルンの指令を受けた中国共産党工作員による、中国凶産軍の仕業と考えて間違いはない。そしてそれは1937年7月7日の「盧溝橋事件」へと展開してゆく。

1935111汪兆銘はカメラマンに扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめ たが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。

1935年12月9日「12・9運動」北京の学生の抗日運動。

1936年消滅寸前の共産党にとっては、反共で一致している日本と蒋介石を分裂させ、味方につけて、反日(赤化)戦線を形成することは、まさに死活問題であった。国民党幹部として共産党討伐に携(たずさ)わっていた張学良は、共産党に一本釣りされ、共産軍に食料や防寒衣や巨額の私財を送るようになった。

19361212西安事件。共産軍討伐のため西安に駐屯中の張学良の旧東北軍が、抗日救国反日戦争を要求し、南京から督戦に来た蒋介石を監禁した事件。凶産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、西安事件である。「黄禍論白人連合」成立

1937年7月7日盧溝橋事件。蒋介石が再び親日反共掃討戦に戻らぬよう、クサビを打つため、「最後の5分間」の段階の凶産党が、抗日戦争を仕掛けたのだ。

1937年7月8日「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコト避クベシ」7月8日付けの日本軍の不拡大方針を指示した電報の原文が靖国神社の遊就館に展示してある。

1937年7月11日盧溝橋事件そのものは国民党政府軍の宋哲元が、正式陳謝し、責任者を処罰し、部隊を撤収させることで解決(現地協定)をみていた。日本政府は不拡大方針を示し、11日現地で停戦協定が結ばれた。ところが事件を機に日中間の全面衝突赤化戦争に発展させようとするソ連・コミンテルンの策動が行われた。

1937年7月29日通州事件(中国人保安隊の日本人虐殺事件)通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があった。中国側の謝罪、慰藉金支払いで落着はしたが、この事件をきっかけに、日本国民と日本軍の間には激しい怒りが支那側に向けられることになり、日中間で対立が極度に激化し、凶産の思う壺となった。

1937年8月9日大山事件は、国民党軍に潜入していた中国スパイによる日本将兵虐殺事件。中国兵の死体を現場に置き、偽装工作。

1937年8月13日第二次上海事変。上海では事を起こさないと言う蒋介石の方針に反し、国民党に寄生したコミンテルンは非武装地帯に陣地を構築し、日本の陸戦隊を挑発し8月13日先制攻撃を開始した。中国空軍のマルチン爆撃機は共同租界フランス租界などところかまわず爆撃し、千二百数十名が犠牲になった。14日応戦し、各地飛行場、翌15日には、南京・上海方面に対し、渡洋爆撃し、敵空軍基地に打撃を与えた。このように凶産党は、国民党に寄生し、党勢を拡大するという秘密指令を実行していった。日中戦争本戦。

1937第二次国共合作(中国国民党と中国共産党との協力体制)。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省の重慶へ遷都。

1938年11月3日第二次 近衛声明(対日協力と和平を呼びかけた東亜新秩序声明)

 近衛の『東亜新秩序声明』は日中(黄禍論有色人)連合で、白人が畏怖する連合である。使い方を間違えると対白人への戦争必至宣戦布告声明となる。深慮無き声明は、西安事件以後連合した「黄禍論白人連合」の火に油を注いだと言える。近衛側近凶産の画策か。

1938年12月第三次近衛声明。近衛三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)

1938年12月月20日汪兆銘は、副総裁の座を捨て近衛三原則に呼応し、反共親日を唱え重慶を脱出しハノイ経由で南京入りした。

極東共栄圏樹立に尽力「アメリカ人の鑑・日本」ヘレン・ミアーズ著

第三章の1「蒋介石のオーストラリア人顧問W・H・ドナルドが、ルソンの日本の抑留所から解放された後の記者会見によれば、日本軍は1938年から1940年に至までの時期に、『十二回講和提案』を行ったとのことである。ドナルド氏の略述したところによれば、日本側の条件は、中国に有利だった。日本軍はただ、満州国の独立承認、北支におけるある種の経済的及び開発権益、及び「外蒙からのソ連勢力の拡張防止のため、内蒙の政治的調整」を要求したに過ぎなかった。ドナルド氏の言によれば日本は『これらの提案の中で、何ら領土的要求はしなかった』」

※中国225万人、ソ連130万人、日本25万人。日中戦争の常備軍の兵力である。いつでも中国とソ連は合体し4百万の兵員と圧倒的優位な資源で日本に対する恐れがあった。中国赤化で日本の命運は尽きる(戦後の朝鮮戦争が証拠)。日中戦争(支那事変)は、日本の護国(防共)戦争である!第二次国共合作(1937年9月)後も、蒋介石に「防共」を呼びかけたが、米・英・仏・ソの「黄禍論連合」にがんじがらめの蒋介石は、梨のつぶてであった。

 日中戦争(支那事変)は「黄禍論」に惑わされた米・英・仏の凶産無知が、起因と言える。と同時に、日本助力後の満州の大躍進を目の当たりにした「黄禍論白人連合(米・英・仏・ソ)」にとって、日中有色人連合は恐怖であった(凶産無知のため、防共連合を有色人連合と錯覚した)。戦国時代は相互が疑心暗鬼、不可避の戦争となった。

 

1940年3月30日汪兆銘(南京)政府成立。日本(台湾、朝鮮、南洋)と満州(五民族)の極東共栄圏に、孫文後継筆頭汪兆銘南京が加入し、極東共栄圏から拡大、大アジア共栄圏を目指した。その第一弾が唯一の独立国タイ国との交渉である。大東亜政策の趣旨のもとに平和的交渉が進められ、その結果が下記。

1940年6月12日大東亜政策の趣旨のもとに、日泰友好和親条約締結。

1941年5月9日保証および政治的諒解に関する日泰閣議定書を締結し、相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約した。

 応戦後も。「1941年12月21日、日泰同盟条約を締結し東亜新秩序建設の趣旨に合意し相互に独立および主権の尊重を確認しかつ和平的軍事的相互援助を約した。1942年10月28日には日泰文化協定を締結して両民族の精神的紐帯強化することを約した。1943年8月20日帝国はマレーにおける日本の占領地域中の旧泰国領土中マレー四州すなわちベルリス、ケダー、ケランタン、およびトレンガンならびにシアンの二州ケントン、モンパンを泰国領土に編入する条約を締結した」で、継続している。

後付論者」は凶産隠蔽の半端者

 渡部昇一は「東條英機歴史の証言」で、「たしかに、ここでも認めているように、『東亜の解放』という理念は、開戦後の後付けです。はじめからその理想をめざして戦争を始めたわけではないことは、認めているのです(P470)」と検証が半端である。加藤陽子も遡り日本史NHKで「後付け」とけなしている。東條英機宣誓供述書「東條内閣はこれを承継して戦争の発生とともに之を以って戦争目的の一としたのであります」とあるように、後付ではない!民間の高村光太郎なども開戦時歌に詠んでいる。戦争の勝敗よりも「戦争目的の一」としたのだ。「後付論者」はすべてつまみ食いである新聞も下記のように報道。

「大東亜戦争開戦に当たっての『帝国政府声明文』」昭和16年12月9日の朝日新聞夕刊

 「――而して、今時帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亞を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たん祈念するに外ならず、帝国はこれら住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」

 大東亜戦争開戦直前までのあらすじが、少年倶楽部にも掲載。誰でも分かりやすいので、クリック必読!昭和16年4月号高瀬海軍中佐に 太平洋戦のお話を聞く昭和16年12月号少年時局問答「日本の覚悟」木村 毅著
 

1941年11月26日妥協案をすべて拒絶し降伏を要求した「ハル・ノート」をハル国務長官は、日本に手渡した。ハルノート要旨

(1)日本陸海軍はいうに及ばず警察隊も支那全土(満州を含む)および仏印より無条件に撤兵すること。

(2)満州政府の否認

(3)南京国民政府の否認

(4)三国同盟の死文化。

 「ハルノートでは、どんな小国でも戦うだろう」と、東京裁判で、米軍弁護士等、数多の人が証言している。3につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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