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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観終戦のエンペラーあらすじの真実天道に額ずいた昭和天皇と日米の人々

天道に額ずいた人々

終戦後3年1948年出版「アメリカ人の鑑・日本」ヘレン・ミアーズ著

第九章の5誰のための共栄圏か

 ・・・私たちは「世界を征服し奴隷化する」野望に燃えた軍国主義的侵略者、日本の姿にとらわれすぎ、日本が「白人ブロック」の「奴隷体制」から、太平洋地域と「アジアを解放する」というスローガンの下に、日華事変(日中戦争)と第二次世界大戦を戦っていることを、見ようとしなかった。・・・1931年の満州から1941年のインド国境まで日本が破竹の勢いで進出できたのは、アジア・太平洋諸国をヨーロッパの政治・経済的支配から解放するという大アジア建設計画(大東亜共栄圏)のダイナミックな革命的魅力が起因。

 ・・・開戦当初の日本は、ほとんど銃火を交えないで戦果を収めている。

 ヨーロッパのアジア「領有者」たちは、日本軍からの逃亡ではなく、現地住民の敵意からの逃亡だった。私たちが「解放」戦争と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしいことに、アメリカが手を貸した)だったのである。

 ルーズベルト大統領は・・・アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないといった。まったくそのとおりだ。しかし、歴史的に見てアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは日本ではなく、私たちが同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズベルトは隠蔽したのだ。

 日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返している。戦争中にもかかわらず日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。

 たとえば、フィリピンは1942年10月14日に「独立」を獲得している。これは私たちが二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。ビルマは1943年8月1日に「独立」した。マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。マレーではインドの代表的指導者、ボースが率いる自由インド亡命政府が樹立された。ボースはイギリスに宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍とともにインドへ進撃した。今日の、インド代表的指導者の中には、イギリスの政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者(ガンジー)の、長く実りない平和的手段(非暴力主義)ではなく、ボースの隠然たる脅威、(イギリスに)忠誠心のないインド軍、そして日本軍だったという人もいる。

 日本の初期段階の勝利から、再び戦争の潮(再征服の欧米軍)が押し寄せてくるまでの比較的平和な期間、日本の「保護」のもとに樹立された現地政権は、かなりの安寧秩序を達成していたようである。

 たとえば、戦争中に「独立」したビルマは急成長する国として紹介されている。独立から一年間で、12ヶ国(フィリピン、中国南京政府、満州国、ドイツ、その他の枢軸国を含む)がビルマ政府を承認した。ビルマ政府はまず土地を農民に配分してから計画に着手した。ビルマ国立銀行、物資統制委員会を設立し、経済を安定化させ、戦争が国民与える影響を最小限にとどめようとした。これらの計画は日本人の利益のために、日本人によって促進(指導)されていた。しかし、これは現地の人々にとっても大事なことだった。彼らの独立が法的擬制であったにしても、かっての植民地としての地位を越える一歩だった。(注・時は戦時下、保護下の指導は当然で、素人の指導は傀儡とは言わない、教育と言う)

 もしヨーロッパ諸国とアメリカがアジアの植民地に戦争をもち込まなかったら、現地独立政権は彼らの共栄圏発展のために、喜んで日本に協力しただろう。そう考えられる証拠は十分にある。1943年11月、大東亜「解放」諸国会議が開かれ、「共同宣言」を採択した。日本のジャーナリズムが「大西洋憲章」になぞらえて「太平洋憲章」と呼んだものである。太平洋憲章によれば、大東亜共栄圏の目的は西洋の支配から自由を勝ち取り、世界の平和と繁栄のため、文化、経済の両面での発展を図るというものだった。

 ある日本の記者はこう説明している。「これまでの統治者が搾取を目的としてこれらの諸国に押し付けた植民地的、半植民地的経済構造は排除されるだろう。そして、遠隔地の領主のために働くのではなく、住民の幸福を図る経済システムに置き換えられるのである」。

 太平洋憲章はこういう。「大東亜諸国は世界の国々との友好関係を培い、人種差別撤廃と文化交流の促進を図り、資源を広く世界の利用に供するために、ともに努力し、人類の進歩に貢献するものである」。

 私たちは戦争中日本に協力した現地政権はすべて傀儡であると、いとも簡単にきめつけてきた。確かに自己利益のために、日本に協力したものもいた。しかし、当初、現地住民が日本のプロパガンダと計画に熱烈に応えたのは、法的擬制の「自由アジア」というスローガンを現実のものとして考えたかったからだろう。日本に協力したのは、ほとんどの場合、それぞれの国を代表する人たちだった。彼らはナチスの協力者とは違って、対日協力の動機は純粋に愛国心であると胸を張っていえた。なぜなら、戦争は日本と現地政府の間ではなく、日本とヨーロッパの異民族支配者との間で戦われていたから。

 アメリカがすでに自由を約束していたそのフィリピンでさえ、単なる傀儡的人物として切って捨てることのできない人々の中に、日本は協力者を得ていたのだ。たとえば、ケソン大統領の閣僚だったヨルヘ・バルガスである。彼は大統領がアメリカに亡命する前にマニラ市長に任命された人物だが、1944年10月14日、フィリピン独立一週年を祝うために、フィリピン共和国から大使として東京に送られている。バルガス大使はこの記念式典で次のように演説した。

 「しかし、大日本帝国は軍政を撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこの上ない形で、その高邁な精神と理念を証明した。帝国はそのすべての制約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。・・・

 大東亜において・・・日本帝国は、あまりにも激しく、あまりにも不当に圧制暴虐の侵略者として非難されているが、その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国ではあったが、・・・一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した」・・・。

 賛同しての一斉蜂起は、日本敗戦後も続行、宗主国の翻意となり、撤退(食民治主義崩壊)、米軍の日本占領統治も緩和され、早期の独立と相成った。残滓は凶産(偽中国、贋朝鮮)と偽ロシアと贋国と罪日のみ。

TPP論争に欠落日清日露大東亜戦争は食糧確保生存が目的の適者生存戦

世界中が戦国時代の弱小国適者生存の術が共栄圏

 1騎馬文明(モンゴル)2帆船文明(スペイン・ポルトガル)3化石燃料文明(イギリスのワットから)と、これまで三度の文明伝播(世界一体化)の波が日本に押し寄せた。第3波の較差に驚愕した日本は、歴史に従い、天皇の基に団結し、開国し、日本存亡の危機に対処した。

 戦国時代の資源なき小国日本の開国は、自給自足から、輸入加工輸出国への転換となリ、同時に兵糧攻めが弱点となった。結果、開国以後の日本は、戦国時代の防衛と、兵糧攻めへの対策、軍事と資源確保が護国の要となり、そして資源なき小国の宿命、対策の後手は必滅、先手のみとなった。

 TPP論争に欠けているもの。生命体はおしなべて衣食住ではなく、食衣住。世界が食糧危機に陥った場合、自国優先は当然で、輸出せずは当たり前、余してもいいから、食料確保自給自足は国の根幹。

 日清日露大東亜戦争は、露西亜、凶産ソ連中国、列強食民治主義の、ブロック経済を破壊、食糧確保し生存するのための、適者生存戦争であった。

 時代対処のため戦国の世に開国し、自給自足(江戸初期1600年1227万人で、121年後の1721年3128万人に倍増したが、以後は、125年間江戸末まで横ばい間引きと推察されるで、1846年3230万人。つまり、これが、当時の日本の、自給自足限界人口棚田は、日本民族自給自足苦闘の証し!)から輸入加工輸出国に転換、85年で人口倍増(昭和6年1931年6500万人なので、自給自足に後戻りは、二人の内一人が餓死者)。迫る清国とその属国朝鮮、南下する露西亜、そして凶産ソ連と食民治主義連合、そして更に巨大化した黄禍論白人連合との対峙と、まさに未曾有の時代であった。先人はこの死活(負ければ二人の内一人が餓死者)の時代を、一丸で命を懸け、子孫に禍根を残さずと、日清日露大東亜、すべて先憂後楽で対処した。資源無き小国、援軍のあて無き籠城や後手は確実な餓死。全て先手、外地戦は、古今東西小国戦法の、定法である!※人口推移資料は、「図説・人口で見る日本史・鬼頭宏著PHP2007」。

 マッカーサー証言「1951年5月3日・彼らが戦争を始めた目的は、大部分が護国(by security)のためだったのです」は、このことを看破した、証言なのだ。ベンブルース等、弁護人の弁護も同類である。

 先人は最悪の中で先憂後楽の選択(応戦)をして果てたが、墓標となり、虐げられし諸民族が継続し続け、開闢以来の戦国を、ブロック経済を、破壊、新秩序自由貿易と互恵を産み、人類の総意(賛成89、反対0、棄権9)で現代の全世界共栄圏(植民地付与宣言)を築き、平和をなした。

 少なくとも、俯瞰した三次元史観が、子孫の思索であろう。先人が余りにもあわれだ。ましてや愚弄や善悪の二次元史観や、「九条」が平和の源などとの世迷いごとは、追随した同胞への、この上ない侮辱である。

その1占領軍が最も恐れたもの「大東亜会議の主催者東條英機の「解放の戦士」としての神格化」

「ハル・ノート」で知られるコーデル・ハルの言葉と解放の戦士日本国の痕跡の排除

 ハルは終戦前年の秋、「日本は敗れても、解放の戦士としてアジアに影響力を残すだろう。その影響力を排除しないと欧米のアジアの植民地支配は終わり、マッカーサーのいう『米国の未来はアジアとその周辺の島々(の支配)にかかっている』という夢も無駄になる(大統領文書44年10月5日)」と。ルーズベルトに警告している。戦後日本の名残を消し去る作業は、あの「戦場にかける橋」の泰緬鉄道をはじめとし、パラオや、アジア各地でも見られた。彼らは、すべてを消し去ったあと、もっと積極的に日本の否定的イメージを植え込んだ。「日本は侵略国家」だとか「残虐非道」だとか、「極悪日本」だとかと。

 大東亜共同宣言に基づき一斉蜂起している大東亜。ただの処刑では大東亜会議の主催者東條英機は、殉難者になる。貶めての処刑が前提条件となった。手始めが「解放の戦士剥奪失墜作戦であった。「自決未遂」作戦は開始され、東條英機は66年後の今日も、日本国民から愚弄され続けている。

大東亜会議の主催者東條英機からの殉難者剥奪作戦

 午後4時19分左胸部を撃った~午後5時19分傷口を洗浄するのみ~午後6時25分米軍医師縫合か~午後7時出発~第98陸軍野戦病院到着(早くても8時30分以降治療輸血だろう)。左肺を貫通一時間後消毒、二時間後縫合モルヒネ注射、四時間以降に治療輸血。左肺を貫通で二時間後に縫合である、出血多量で死なないものだろうか、四時間も輸血なしで、もつものだろうか?そして、なんと緊急搬送もせず、三時間も新聞記者の晒し者にし、カメラマンまで呼び寄せ撮影している。作意無しと思うほうが、異常で、語るに落ちている。

 先憂後楽清濁併せ呑み決断しての応戦で、新秩序「大東亜共栄圏」を掲げ、「大東亜会議」を開催し、「大東亜共同宣言」をなして、虐げられし同胞への指針とし、あらん限りに戦ったが刀折れ矢尽き敗れた。そして、敗戦の責を負った。東條英機は急に総理大臣となり満4年で予備役に下がった。野心など皆無の、日本国忠臣で、現代平和の源、全世界共栄圏(植民地独立付与宣言)の基礎を築いた。それ以外の何者でもない!

 かつ子(東條英機の妻)の晩年、五十三年十月二十日にマレー半島に住んでいるインド人が東條家を訪れた。かつ子に記念すべき行事の報告と東條の仏前に参るためであった。マレー半島に住んでいるインド人達が、インド独立のために尽くした人達の慰霊祭を行い、日本の東條英機もその一人として共に慰霊したというのである。インドの独立は、チャンドラ・ボーズがつくったインド義勇軍の活躍が発端となっているが、その運動に日本が協力した事に対し、インド人はいまも感謝し続けているのだ。

 ・・・東條は処刑される前、刑務所内の、墨でいたるところを消した不自由な新聞を読み、アジアの国々が次々と独立していく様を察することが出来、とても喜んでいたという。それを知っているかつ子は、インド人達が東條の慰霊祭をしてくれたという報告を聞いて、涙を流して喜んだ。四十年もたって東條もやっと報われたと思ったのであろう。東条英機の妻・勝子の生涯・佐藤早苗著

 子供だましのずさんな東條英機失墜作戦は、2008年3月問題点検証済み(東條英機真実解明こそが大和日本隆盛起点戦後60年間誰もが忌避)。現代の法医と鑑識が本格参入すれば、更に詳細に判明するであろう。

その2占領軍が最も恐れたもの「裁判での、全責任を負った天皇の、『臣下無罪発言』」

 占領軍が次に恐れたのは、東京裁判法廷での「朕が一切の責を負う、臣下はすべて無罪」発言であった。命令一下ですべて矛を納めた国民が再決起し、一斉蜂起中の大東亜に連動して、さらに全世界の有色人が決起しての、白人対有色人の大戦に発展しかねなかったからである。この圧力が、征服者の転換となった。多民族国家米国は即内乱なので、真実(有色人対白人の差別戦争)徹底隠蔽、日本の国体は鎮静化目的で護持、軍隊のみを極悪侵略軍と捏造するすり替えで、内乱の危機を回避した。

天道に額ずいた人々(2013年3月公開映画「Emperor」邦題「終戦のエンペラー」7月公開の真実

 神道を理解し天皇不訴追に尽力したクエーカーフェラーズ、一色ゆり、河井道、グルー、フーバー、そして忠臣東條英機、大東亜共栄圏同胞の一斉蜂起、昭和天皇無私の覚悟。この一丸が、日本分断食民治化を阻止し、護った

クエーカー(震教徒)

 1650年ごろ、イギリスのフォックスが始めたプロテスタントの一派。正式名称はフレンド教会。クエーカー(震教徒)の名は、フォックスが審問を受けた時「キリストの名を聞いて震えた」が由来。奴隷解放・刑務所改良・男女同権・非暴力・絶対平和を主張。WW1・WW2に多数の良心的兵役拒否者をだしたことは有名で、1947年この団体にノーベル平和賞が授与された。

 クエーカー(キリスト友会・反会徒・アメリカ東部ペンシルバニア州フィラデルフィヤ)全世界で60万人。北米12万英国約4万。中心にある考えは「内なる光」。クエーカーの大学アーラム大学では「教授」や「博士」と呼称せず、個人名で呼んでいる。神道と共通点有り。

 「ララ物資」として救援品(学校給食の脱脂粉乳、食料、医療、医薬品当の生活必需品)を、1946年11月30日から1952年まで、約200隻の輸送船で運んだ。「Lara」とは米国13のキリスト教界が超教派で組織した「アジア(特に日本、朝鮮)救済連盟」の通称で、アメリカフレンズ奉仕団もその一つである。

 ちなみにヘレンミアーズ(1989年3月13日老衰で死去、行年90歳)の葬儀は、クエーカー教のフレンドシップ・ハウスで行われ、遺灰は湖に散骨された。

ボナー・F・フェラーズ(1896~1973)元米軍陸軍准将(1944年から2年間マッカーサーの軍事秘書・共和党)はイリノイ州の農家(プロテスタントの一派クエーカー教徒)に生まれた。

 フェラーズ(18歳)はクエーカーの設立したアーラム大学で、日本の留学生渡辺ゆり(1888生まれ26歳)と知り合い、二年間学生生活を共にした。渡辺ゆりは津田英語塾に入学、英語教師の河井道(日本のYWCA創設に尽力した女性で恵泉女学園創立者)の影響でキリスト教に入信。渡辺ゆりが卒業して帰国した1916年、アーラム大学を退学し陸軍士官学校に進んだ。(ゆりの一人娘一色義子恵泉女学園理事)

1922年フィリピン駐留のフェラーズ(26歳)は休暇を利用して来日、渡辺ゆりと再開した。ゆりはクリスチャンの仲間を次々と紹介した。とくに河井道(1877年生まれ44歳)は印象が深く「戦争を望まないリベラルな日本人リーダー。世界のすばらしい女性の一人」と書き記している。

 フェラーズ来日のもう一つの収穫はラフカディオ・ハーンとの出会いだった。

 休暇は早くも終りに近づいた。私は横浜からマニラ行きの船に乗ることに決めた。ゆりは横浜までついてきてくれた。そのとき、日本をもっと知るにはどうすればいいかと私は尋ねた。一番いい資料はラフカディオ・ハーンだと、彼女は答えた。外国人だけど、日本人の内面をよく理解している。文章も美しい。そして日本に西洋を紹介した。でも、と言ってゆりは付け加えた。「彼はクリスチャンじゃないから、私は好きじゃないわ」

 「私はハーンの本を二冊抱え航海に出た。その後、彼のすべての著作を私は集め、読破したと思う(フェラーズ文書以下F文書)」

 フェラーズのハーンへの傾倒ぶりは、ワシントン在住、娘ナンシーの自宅本棚に残された、200冊以上ものハーンの著作で、窺い知れる。

1930年、フェラーズはドロシー夫人(25年に結婚)と共に再び来日し、初めてハーンの遺族小泉家(東京西大久保)を訪ねた。健在の節子夫人が出迎えた。訪問時の来客名簿の記帳が今も小泉時(ハーンの孫)に残されている。「私がウエストポイント陸軍士官学校でブラウニングやジョージ・メレデスやカーライル(それぞれ、イギリスの詩人、作家、歴史家)を教えようとした時、ハーンがこれら作家の考えを理解しているばかりかその先へいっていることに気がつきました。ついでハーンは私に日本を愛することを教えてくれました。今回のお宅へのご訪問は私の生涯の感激であります。ハーン夫人、あなた様に御礼申し上げます」

 「ハーンは日本人を理解した、初めての、そしておそらくは唯一の西洋人であろう」(F文書)

 フェラーズ夫妻は湘南の一色ゆり(旧姓渡辺)の家にも滞在した。ゆりの夫一色乕児は、英語が堪能な実業家であったので、話がはずんだ。

 「武士の精神と日本の国民精神は不可分なものであり、切腹と言うのは、絶望的な苦境に立たされた武士が安らぎを得るための自然な行為であるという。彼は、日本国民が天皇に崇敬の念を抱いていることを懇切丁寧に説明してくれたのである」(F文書)1946年4月東京雑司ヶ谷ハーンの墓参り。「墓地にある間中脱帽して居られた謙虚な態度には少なからず感激させられた」(小泉一雄「父小泉八雲」)

1944年8月29日心理作戦部(PWA)部長にフェラーズ就任。彼の指示書。

 「先ず、敵の心理を詳しく知ることが重要である。『日本兵への回答』と『日本兵の心理』、それに新聞や雑誌の記事が参考になるだろう」フーバー研究所資料

『日本兵への回答』

 「天皇を退位させたり、絞首刑にしたりすれば、すべての日本人の激しい暴力的反発を招くだろう。日本人にとって天皇が絞首刑にされることは、我々にとってキリストが十字架にかけられることと同じである。すべての日本人が蟻のように死に物狂いで戦うだろう。悪質な軍人の立場は限りなく強まるだろう。この戦争は極端に長びき、我々の損害も必要以上に増えるだろう」

1945年4月上旬に天皇の扱いについて方針付加。フーバー研究所資料

 「天皇に関しては、攻撃を避け無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目的達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない」

1945年5月28日10年間駐日大使を務めたジョゼフ・グルー(マッカーサーと同じ共和党・プロテスタントの一派聖公会教徒)が、トルーマン(民主党)政権の国務次官に就任し、トルーマンに訴えた。「日本政府は無条件降伏によって『天皇と天皇制を永久に破壊されてしまう』と恐れており、『将来の政治体制は日本人自身の決定に任される』と保証すれば、降伏しやすくなる」この日元大統領(31代)ハーバート・フーバー(共和党・早世した両親がクエーカー・防共の砦日本と評価していた)も「鈴木を首相に任命したのは、天皇が和平を求めていることをアメリカに伝えるためのシグナルだ」と説き、グルーと同じ要請を繰り返した。(F文書5月7日メモ)

 同様の進言を受けたトルーマンは、フーバーに覚書の作成を依頼した。覚書は6月上旬届けられた。グルーは「天皇を戦争犯罪人として裁いたり、天皇制を廃止したりすることが連合国の意図ならば(日本人は)徹底抗戦するつもりだ」と論点を強調し、採用を強く迫った。(ハワード・B・ショーンバーガー著宮崎章訳「占領1945~1952」) 5終章へつづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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