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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観5遡り摘み食い日本史NHKと東大加藤陽子隠蔽年表指示は首魁凶産

石澤「あのー、中国にとってはあのー、日中戦争が長期化するこれは、どんな意味があったんでしょうか」

字幕4ヒカエオロー「東京大学大学院教授加藤陽子」

加藤「あのー、もちろん中国にとってはこれはまー、考えていた計画通りといいますか、たとえば」

石澤計画通りと」

加藤「はい、太平洋戦争の時の開戦時に駐米大使でいた中国の大使、これはあのー胡適という名前の、これは北京大学の学修さんだった方ですが、この方がその、1935年ぐらいに論じてた内容がやはりかなり覚悟を決めたものでした。つまり日本の軍事力を中国は自らは倒せない。結局日本の軍事力に勝てるのは、アメリカの海軍力、それとソビエトの陸軍力、この二つをどうにか巻き込んで二つの国を巻き込まないと中国は勝てないというんですねー」

石澤二つの国を巻き込んで、つまり日中の戦いじゃなくて世界を巻き込んだ戦争にしようと」

加藤「巻き込む、そのためには世界が自らの戦いという気持ちになるには、中国が負け続けなけやいけない。つまり、中国という巨大な大陸が日本によって制圧される。海岸線はすべて封鎖され、そして内陸まで中国が侵略される。これを2、3年続けることで初めて世界は動かされるだろうと。これを胡適が言うんですねー。で事実やはり、1937年からの戦争が、41年から世界化しますから、二つの陣営というのに世界が分かれていく、これの元となるのが、やはり日中戦争だったと思いますねー」

 資源無き小国日本の封殺カードは「兵糧攻め」。これは、当時も現代も同じで常識。戦後3年のヘレンミアーズ前掲書にも繰り返し記している。資源無き小国日本を長期戦に持ち込めば、資源枯渇で勝利は、子供でも解ることで、当時も現代も常識。

※加藤陽子胡適『日本切腹中国介錯』ソースは、石田憲編『膨張する帝国拡散する帝国』東京大学出版会所収、世界化する戦争と『中国の国際的解決戦略』鹿錫俊(1955年~)(大東文化大中国人教授で、元凶凶産隠蔽)著1それでも日本人は戦争を選んだ東大教授加藤陽子は女スパイ誘導…参照

NHKと東大大学院教授加藤陽子が隠蔽した年表が暴く「日本切腹中国介錯」論の真実

 真実史観と遡り日本史との違いは、「なぜどうして」の有無である。NHKや東大等の犯日スパイ史観には、欠落。

1934年10月長征開始。ソブィエト共和国(中国内共産党国家)への、蒋介石軍5回に及ぶ包囲攻撃の結果、中国共産党軍30万人が瑞金を捨て、華南華中から敗走移動。移動中毛沢東の指導権が確立した。2年後の長征終了時には2.5万人に激減、崩壊寸前となった。

1935年広田弘毅外相の施政演説。日中双方の「不脅威・不侵略」を強調し、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担する、と主張した。

 この誠意に満ちた演説は、中国側に好感をもって迎えられ、一週間後、蒋介石は次のような声明を発表した。「中国の過去における反日感情と日本の対支優越態度は、共にこれを是正すれば、隣邦親睦の途を進むことができよう。わが同胞も正々堂々の態度を以て理知と道義に従い、一時の衝動と反日行動を抑え、信義を示したならば、日本もまたかならずや信義をもって相応じてくることと信ずる」

1935(昭和10)年8月1日日中戦争の始まり。盧溝橋事件に先んじる2年前、中国凶産党日本に宣戦布告。

 1935年、ソ連「抗日民族統一戦線」を崩壊寸前の中国共産党に指示。敗走移動中の8月Ⅰ日に、溺れる者藁をもつかむの心境で中国共産党が日本に宣戦布告。「八・一宣言、抗日救国のため全国同胞に告ぐるの書」を発した。内戦停止・一致抗日(蒋介石と休戦し日本と戦う)と、「救国」運動にすり替えて訴えた。30万人から10分の1以下の2.5万人に激減、壊滅寸前の中国凶産党は、矛先を蒋介石から日本に変え、テロ工作に専心、日本人に成りすましてのテロ活動や、日本軍挑発工作に必死になった。捏造工作で仮想敵国をつくり、国内人心懐柔は、捏造が党是の凶産党常套手口。なんと現在の偽中国、癌半島、罪日が日本を敵として捏造、未だに続けているのだ

1935年10月国民党政府が共産党討伐に全力を尽くしていた時は、排日事件も余り起こらなかった(排日事件は凶産主犯の証し)のであるが、共産党が延安に拠点を移して華北一帯に共産遊撃区の構築に乗り出し、昭和10(1935)年8月1日、日本に宣戦布告した時期から、排日事件(凶産主犯)が再び頻発するようになったため、日本政府は、広田3原則を発して、排日事件の解決をはかった。その概要は、

1、中国側で排日言動を取り締まるとともに、日華両国は相互独立の尊重と和親協力関係の増進に努める。

2、中国側で満州国を承認し、日満華の新関係の樹立をめざし経済的文化的提携を結ぶ。

3、北支一帯における共産主義の脅威を排除するという見地にたって国民党政府と日本との合作を行う。

というものであり、共産主義の脅威を除去して、中国と友好関係を結ぶことを目的としたものであった。それは共産党討伐を推進していた蒋介石も、利害が一致したからである。これにより、日本は、排日テロ事件防止のために国民党と合意し、「冀察(きさつ)(河北省とチャハル省)政務委員会」を成立させることになった。この時期には、対共産主義政策において、日本政府と国民党政府の間には。このような協力関係が成立していた。

 従来より中国国民党は、親日派と親米派の派閥対立があったが、この時期を境に、親日派であった行政院長の汪兆銘が狙撃される事件や、同じく親日派の唐有壬(とうゆうじん)交通部次長が暗殺される事件が起こり、国民党内の親日派は衰退し、国民党の主導権は親米派に握られるようになった。

193511日 汪兆銘と蒋介石の指導のもと、日中和平路線が着々と進められたが、これを喜ばない勢力があった。国民党六中全国大会で、汪兆銘はカメラマンに扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめたが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。

1935年12月9日「一二・九運動」。北京の学生が日本の「華北侵略」に抗議、国・共内戦停止、一致抗日を扇動(水と油が工作?)。胡適は学生の説得にあたった。「華北侵略」とは下記の事

 「1935年後半までに、日本は軍事力よりむしろ外交的、経済的手段で中国での目的をかなりのところまで達成していた。日本は華北を蒋介石政権の「悪政」からほとんど「解放」していた。日本は華北三省を統治する将軍たち(軍閥)の協力でこれを達成したのだ。将軍たちはいずれも華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を支持すると宣言していた」戦後3年の前掲書ヘレンミアーズ

 防共の砦(満州と華北融合)を、「黄禍連合」と認識した白人支配者水(宗主国)と油(ソ連凶産)は、以後、「白人連合」に一直線。

1936月 松井岩根、南京にて蒋介石と協調路線続行の会談をしたが、核心ははぐらかし、すでに変節しており、赤化分子も増殖中であった。

1936年春桜美林創立者清水安三が、中国旅行で高まる抗日に不安を覚え、知人の蒋介石側近胡適と面会、戦争防止を訴えたが、「我々は日本と戦う。自分は以前、国民から嘲笑を浴びながらも、決して戦ってはならないと主張した。しかし今や、どうしても一度は日本とは戦わねばならない・・・と感じている」と答えたという。清水安三の妻もこの後、蒋介石妻宋美麗と面会、戦争防止を訴えたが、耳を貸さなかったという。桜美林HPより

 凶産の矛先転換工作、「八・一宣言(日本への宣戦布告)」が、国民に浸透し、親日では国民党も乗り切れなくなったのだ。

193610月延安に全軍到着し長征は終わった。中国共産党敗走軍の兵力は30万人から2万5千人に激減し壊滅寸前となった。

 汪兆銘の証言「中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたのです。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動していると私は読みとりました。謀略にひっかかってはなりません」

水(宗主国)と油(凶産ソ連)の融合剤黄禍論

黄禍論畏怖の白人連合有色人分断工作が西安事件で瀕死の凶産軍を蘇生させた

1936年12月12日西安事件。共産軍討伐のため西安に駐屯中の張学良の旧東北軍が、抗日救国を要求し、南京から督戦に来た蒋介石を監禁した事件。

 蒋介石釈放をめぐっての調停工作に当たっては、日中(有色人)連合畏怖の米英ソ等の白人は、水と油だが、黄禍論で一致し、中国凶産と同一歩調がとられ、抗日統一戦線を形成。以後蒋介石は国共合作・抗日へと方針を急転換し、「最後の5分間」の反共掃討戦を中止し、中国凶産党は復活した。事件後、国民党の外交部長で親日家の張群が罷免され、国民党(英米等)やから、共産党に毎月50万元が支給され、国民党は反日に染まり、「黄禍論白人連合」が形成された。

 胡適は直ちに打電し、張学良を国家民族の罪人であると激しく非難した。

 西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作を進めた。

 盧溝橋事件の数ヶ月前、米国ルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェノールトを、中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして蒋介石が雇った。

1937年7月7日盧溝橋事件

 周恩来首相、中国凶産党が廬溝橋事件の犯人である事を暴露。周恩来首相中華人民共和国宣言時の証言

 「あのとき(支那事変勃発時)我々の軍隊が、日本軍と中国国民党軍(蒋介石軍)の両方に(夜暗にまぎれて)鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽り、停戦協定を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光をもたらした起因である」

日中戦争工作目的の凶産テロ

1937年7月29日 通州事件(中国人保安隊の日本人虐殺事件)。通州において、婦女子を含む日本人居留民約2百名が目をくりぬかれるなど、残酷な強姦・虐殺事件があった。

1937年8月9日前哨戦たる国民党軍に潜入していた凶産スパイによる、日本将兵虐殺事件が発生。

1937年8月13日第二次上海事変の勃発。日本の陸戦隊を挑発し先制攻撃を開始した。

937年秋蒋介石著「中国のなかのソ連」より毛沢東の演説。

1、中日戦争は中共発展の絶好のチャンスである。我々の基本政策は全力の七分を中共の発展に二分を国民政府との対抗に、残りの一分を抗日に使用する。

2、この政策は次の三段階に分けて実施する。第一段階では国民党と妥協して中共の生存と発展を図る。第二段階では国民党と勢力の均衡を保ち、彼らと対抗する。第三段階では華中各地区に進出して根拠地を築き国民党に反攻する。

1937年9月二回目の国共合作

1937年10月14日ローマ法王のピオ11世は支那事変(1937年7月7日)が始まった年の10月14日に、全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、次のようなメッセージを出している。「日本の支那事変は侵略戦争ではない。凶産党と戦っている。凶産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよ」

1937年12月13日 日本南京占領。

1937年(昭和12)年「今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に 幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか」。汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる孫文の誤謬「容共」を訂正し、遺志の実現「反共大アジア主義」を目指した。 

193810毛沢東が部下に与えた指令。「・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである」林彪編集『毛沢東思想万歳』

1938年10月27日 日本軍、武漢占領

1938年11月3日第二次近衛声明。 対日協力と和平を呼びかけた「東亜新秩序声明」

1938年12月第三次近衛声明。近衛三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)

1938年12月20日  汪兆銘、重慶を脱出しハノイへ。夫人や、陳公博、周仏海ら「汪兆銘」派同志たちを、日本と交戦中である蒋介石の重慶から飛行機に乗せ、仏印のハノイへ脱出させた影佐禎昭大佐工作成功。

 汪兆銘、字は精衛。1938年国民党副総裁。副総裁の座を捨て近衛三原則に呼応し、反共大アジア主義を唱え重慶を脱出し南京入りした。法政大学卒で孫文の筆頭側近汪兆銘は、共産ではなく実体は、孫文が忌み嫌う西洋覇道の鷹犬、覇道凶産党に、孫文主義から逸脱した覇道蒋介石に気付いたのだ。孫文が早死にしなければ歴史は確実に変わっていた。重慶脱出の際、汪兆銘は蒋介石に、「君は安易な道を行け、吾は苦難の道を行く」と書き残したという。中国の国民の幸せのために、売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平大アジア主義に賭けた。精衛の字は、その証し。しかし、中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政権のもとでの圧制大虐殺という、過酷な運命が待っていた。そして彼が幸せを願った中国国民は未だに尚、「革命尚未成功 同志仍須努力」。

1938年12月支那事変の推移は、1938年12月までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、蒋介石・毛沢東の資金源アヘンも押さえ、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかった、米・ソ等が「対日戦継続を条件」に武器・資金援助を行ったからである。

対中国への食民治主義と凶産党の支援

 米国1927~1941.4億2000万ドルの援助。借款(第一次桐油38年12月第二次滇錫40年3月)。1941年開戦後に17億3000万ドル援助。英国1939~1940.2000万ポンドの借款。ソ連1億5000万ドルの援助。その他数回援助。フランス1938年1億5000万フランの借款。1939年9万6000フランの援助(蒋介石支援ルートへの援助)。 西安事件(1936年12月12日)国共合作②(1937年9月)となり、日本南京占領(1937年12月)以後、資金源アヘンを絶たれた蒋介石・毛沢東の裏に隠れ、本格的に援助したため、終わりの無い戦争となった。反共戦争なので日本は引き下がれなかった。戦後WGIPが洗脳した正義解放の連合軍は、真っ赤な嘘。食民治主義と凶産党は中国に隠れ、寄ってたかっての日本・中国(有色人種)潰し、食民治化が真相なのだ。

1939年7月26日 フィンランド、ポーランド、およびバルト諸国を侵略していたソ連とは同盟を結んでいるのに、日本の「中国侵略」を口実に、ルーズベルト大統領は制裁を科し、日米通商航海条約の廃棄を通告。

1939年9月1日 ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦。

1939年12月 米国航空用ガソリン製造設備、 製造権の対日輸出禁止。

1940年3月30日  南京政府(汪兆銘)成立。「和平反共救国」を唱える汪兆銘を首班とした「中華民国国民政府」。日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府(反共で孫文の正統な後継者汪兆銘)、米英等が支援する重慶政府(宗主国の傀儡蒋介石)、ソ連が支援する延安政府(凶産党傀儡毛沢東)の、三つ巴の内戦となった。その中でも日本は、重慶(蒋介石)に対して、内戦の早期終結と、「日中共同防共」の希望を捨てなかった、前述の『十二回講和提案』。

1940年夏から集められた義勇兵、中国名「飛虎」。「フライングタイガーズ」は、日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった。

1940年6月22日 フランスがドイツに降伏。

1940年8月 アメリカ、航空機用燃料の西半球以外への 全面禁輸。

1940年9月 蒋介石軍への米英の援助ルート封鎖するため仏領印度シナ進駐。英国と交渉し、ビルマルートを閉鎖させることに成功した。これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルトは、英国の対日妥協を10月に撤回させて援蒋ルートを再開させ、そして、日本に対して、鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった

1940年9月27日 日独伊三国同盟(相互援助協定)。敵の敵は味方の同盟。戦国時代の常套戦術である。

日中戦争大東亜戦争の起因は凶産!米中ソの詳細は下記参照

日中戦争大東亜戦争の首魁は凶産

1欧米とソ連の植民地争奪(大航海時代)

大東亜戦争の元凶アメリカ

護国日本とアメリカの西進

日中戦争の元凶ソ連

頭山満孫文汪兆銘大東亜共栄圏

6につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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