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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観4八紘一宇の一環防共回廊隠蔽洗脳NHKスパイ相沢考義・松村亮一・角英夫

松平「亡くなってから22年間開けられることのなかった金庫が残されていました。鈴木は昭和の初めから常に陸軍の中枢を渡り歩いてきました」

遺族孫鈴木光範「御前会議で報告する原稿がありましたねー。例の開戦前夜の開戦を決定する」

松平「資料からも、陸軍の転機となる場面の多くに立ち会っていたことがうかがえます」

遺族孫鈴木光範「戦争を遂行するに際して資源の調達とか陛下に上奏した」

松平「金庫に保管されていた日記には、鈴木が若手将校として活躍を始めた1920年代すでに、組織の改造を議論したことが記されていました。鈴木は肉声テープも大量に残していました。ここでも改革の始まりについて語っています」

鈴木貞一証言「それは根本はね、非常に深いのですけれど、ご承知のように日本の陸軍というものはほとんど山県さんがやっていたわけだ。山形さんというものがおってペン先のように動いていたわけだね。目を開いてモノをやるということがないわけだ。だから下のほうの永田とか言うような優秀人から見ると『ああ馬鹿らしい』」ということになるのですよ」

松平「元老が支配する古い組織に疑問を抱いていたという永田とは、永田鉄山。その明晰な頭脳から永田の前に永田なし、永田の後に永田なしといわれた陸軍きっての逸材でした。永田は軍事研究のため6年間ヨーロッパに駐在、改革の思いをつのらせました。今回、彼が同期の仲間と密会したといわれるホテルの建物が今も残されていることが分かりました。集まったのは旧露西亜駐在陸軍武官小畑敏四郎少佐、そして、欧州出張中の岡村寧次少佐、この時彼らは何を語ったのか、資料を基に再現しました」

字幕「ドイツバーデンバーデン」

字幕「1921年10月27日」

語り「午後10時過ぎすぐに議論が始まった」

スイス駐在武官永田鉄山「陸軍の装備は日露戦争当時から進歩がない」

小畑敏四郎少佐「しかし山県元帥言いの息がかかった古い上層部に改革は出来ない」

岡村寧次少佐「国民と軍が乖離している現状では、新しい戦争に備えられない」

語り「話題は祖国の立ち遅れに集中した。部屋中に危機感がみなぎった。そして三人の考えが一致した。古い陸軍を刷新する」

字幕「古い陸軍の刷新」「第一次世界大戦1914~1918年」

松平「彼らがヨーロッパで目にしていたのは、国家同士がすべての資源を投じぶつかり合ういわゆる総力戦でした。視察を終え帰国した永田は、日本も総力戦に向けた戦争準備を急ぐべきだと報告します。それは国内産業を軽工業中心から重工業へ転換させるなど、国家全体の改造を含む急進的なものでした」

鈴木貞一証言「広い目で世の中を見て、多少改革もやらなくちゃいかん、そういう考えを持っていた人は、永田さんだけでしたからね。第一次大戦後のドイツを見て、まあ日本を振り返ってみてね、これではいかんという考えをもたれたんですね」

松平「そして彼らはあるグループを発足させます。会の名は一夕会。永田鉄山ら陸軍士官学校16期生党等と政友会の二大政党は選挙目当ての政争に明け暮れ贈収賄事件が相次いでいました」

国際日本文化研究センター教授戸部良一「彼ら(一夕会)が議会政治を見てですね、何に本質があるかと、あのー思ったかというと、やはりその、二つの政党の間のですねー、つばぜり合いとか、なすり合いとか、党利党略ですね、議会政治政党政治というのはようするに、その、私の利益を掲げで、自分たちの権力欲のためにだけやっているのではないか、という見方が強く出てしまった。だから彼らは(一夕会)あれ(政治)にきたいしちゃだめだと」

松平「一夕会は陸軍改革を実行に移していきます。そのために着目したのが人事でした。予算を握り政治と軍をつなぐ陸軍省。戦争の際、作戦を担当する参謀本部。防衛省にはこの二つの組織の、明治から太平洋戦争終戦に至るまでの人事記録が残されています。そこから見えるのは幾十にも張り巡らされていたある人事の上のルールです。たとえば、大臣や次官に出世した人のほとんどが、軍事局軍事課長キャリアを積んでいたという事実、一夕会はこうした人事のルールを一つ一つ調べ上げていきました」

鈴木貞一証言「大体大差以下の人事というのをほとんど課長のところで決める、それだから我々に本当につながって仕事をしていく人間を我々の思うところに行ってもらうためには、まず課長をそこへ持っていく工作をやらなければならない。ということになって、岡村寧次という人をそこへやった」

松平「岡村とは、かって永田らと南ドイツで改革を誓い合ったあの同士の一人です。計画通り、岡村は人事局の課長に就任。早速その影響が現れます。翌年8月には、リーダーの永田鉄山が軍務局の軍事課長に、そして参謀本部動員課長に東條英機が就任します。この横のつながりをさらに別の人事に利用しながら、一夕会は実質的な権限を上の世代から奪っていきます」

元陸軍大佐西浦進「人事も」皆の協議で、もみながら自然に決まっていくというのが本当だと。ですから憤慨して首を切ろうと思っても、八方にくもの巣のように張っておりまして、それが掣肘(せいちゅう・束縛)するから首一つ切れない。ある意味では非常にせん越(出すぎた)なことも出来た」

CG画像東京某所、石原莞爾中佐、永田鉄山大佐、東條英機大佐。

鈴木貞一「鈴木少佐入ります」

語り「結成以来何度も勉強会を開いてきた一夕会、しかし重要なポストを押さえて後は意見の相違が目立ち始めた。上の世代を取り払うという改革の目標だけは一致していたが、具体的な中身は一人一人ばらばら、一本化には程遠かった」

松平「人事の改革では一致した彼らも一人一人の思惑はばらばら、この一夕会のいびつな構造が、戦争へと続く歴史のコマを早めることになります。満州での日本の権益を守るために旅順に置かれていた関東軍司令部。一夕会はここの参謀にグループきっての中国通の板垣征四郎大佐、そして、石原莞爾中佐を配置します。石原は一夕会の中でもひと際過激な戦争感を持つ人物として知られていました」

元関東軍参謀片倉喪「石原中佐は満州というものを確実に領有するということが、国防的に大事なことである、この線を確保することによってソ連の侵略を止める、それがひいては支那の安泰にもなる。ところが当時支那では排日運動が激化してきた時期でありまして、交渉によっていろんな問題をやっていくていうことは、なかなかもう至難である。これは武力を背景にした解決をせざるを得ないと。こういうふー生ー、考えに到達したわけなんですね」

字幕「武力による満州の領有」

松平「この石原が考えた過激な構想がにわかに現実味を帯び始めます。なぜなら、関東軍は組織の層が薄いため、一夕会の板垣と石原は、すぐに作戦の責任者の地位に着けたからです。これは、石原自らが撮影した映像です。東京から主張してきた一夕会のリーダー永田軍事課長の姿がおさめられています。一夕会のつながりが石原の関東軍での地位を確固たるものにしていました。しかしここでも、石原や板垣と永田との間で、考え方を一本化することはできていませんでした」  

片倉「会ってますねあってます、永田さんには、大砲を頼んだのは事実です」

聞き手「満州でやった場合に、中央でそれを支持するという問題ですね。その確認はどの程度なんですか」

片倉「それはないですね。軍事課長の永田さんにしたってやるなというんですから」

松平「立場上現実路線を歩く永田。一方で信念を曲げない石原に、現場の支持が集まってゆきます」

戸部良一教授「過激な人たちとそれから問題意識を共有しながらですねー、どうやってその常識の範囲内で、あるいわ合理性の範囲内で、これができるかということをあの、悩んで苦悩しながら、あのー考えていた人たちと、両方混在していたんだとおもいますねー。でもどっちが魅力的に見えるかというと、あのー、フアイナルアンサー(最終回答)を出した人たちだよねー。きっと」

字幕「柳条湖」

松平「そして石原は、一夕会メンバー相手に語ってきた構想を本当に実行に移します」

字幕「満州事変1931年(昭和6)」

松平「石原率いる関東軍は南満州鉄道の線路を爆破、これを中国人の仕業として武力によって満州を制圧します。中央の命令なき独断攻撃でした。この時三宅参謀長本庄司令官はこれを追認、一夕会のメンバーを前になす術がありませんでした」 

鈴木貞一(当時は少佐)「万一満州で事が起こったときにはそういうものをその、右顧左眄(決断をためらう人)しない人を(関東軍)におってもらったほうがいいのじゃないかということで、そしてまー、板垣とか石原に行ってもらった。それとあそこに三宅(参謀長)というこりゃまー、毒にも薬にもならないような当時の人がおったわけだ。笑い。それで満州事変をやった。笑い。そういうことなんだな。笑い。ふっふっふっ」

鈴木貞一は当時少佐、上司や満州事変を鼻であしらってのこの証言は、戦後の日和見迎合証言を自白している

松平「エリート達の机上の議論が実際に国家を戦争へと引きずり始めました」

松平「上の重しが失われ一夕会世代が実権を握った軍隊、しかし、メンバーの間では方針の一本化ができずまたもや意見対立が始まりました。あの南ドイツで改革を誓い合ったはずの永田鉄山と小畑敏四郎です。満州国成立後の路線をめぐる対立でした。国境を挟んで向き合うことになったソビエト、駐在経験からその脅威を知り抜いている小畑は、ソビエトへの先制攻撃を主張します」

字幕「陸軍省・参謀本部首脳会議1933年4月中旬」

CG映像語り「小畑と永田は事あるごとに対立しました」

永田鉄山「今は戦争よりむしろ満州を安定させ、総力戦に向けた改革を急ぐべきだ」

小畑敏四郎「いや、ソビエトが軍備増強する前に叩くべきだ」

語り「彼らを信奉する若手官僚を巻き込み、論争は陸軍を二分していった」

松平「この対立をさらに激化させていたのが、一夕会が担ぎ上げた荒木、荒木貞夫陸軍大臣による人事でした。荒木は本来軍事課長から軍務局長にあがると見られていた永田を、出世コースから外すなど、強引な人事で陸軍の要職を自分の息がかかった人材に次々と変えてゆきます。特に同じ露西亜駐在経験のある小畑を重用しました。このとき取り立てられたのが皇道派、冷遇されたのが統制派としてその後、組織内で激しい権力闘争を行うようになっていきます」

元陸軍大佐西浦進「いつも私は笑っておったんですが、小畑第三部長の車はいつでも朝出勤してくると必ず、陸軍省の門を通って自分の部屋に行くのが本当なのに、あそこの所へ来るとすぐ右に曲がって陸軍大臣官邸へ必ず朝寄ってから行くんです。だから小畑さんは荒木さんの・・・本当の意味での幕僚長をもって任じていましたですね」

CG映像「東京外務省」

語り「永田たちは外のパイプを使って巻き返しに出た。国際関係の修復に乗り出していた外務省」

永田鉄山「ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です。出来れば陸軍も協力したい」

語り「他にも宮中や元老、政党と支持を広げた永田達は、皇道派を追い詰めていった」

松平「そして皇道派の荒木大臣は政府でも次第に孤立しついに退陣、永田に近い林が大臣に就任します。今度は永田が軍務局長に取り立てられる一方、皇道派は次々と中央から遠ざけられていきます。ここから陸軍中央は派閥抗争一色に染まります」

字幕「陸軍省参謀本部跡」

松平「組織の内部には怪文書が飛び交いました。主導権を握った永田らを皇道派は執拗に攻撃しました」

松平「そして1935年8月12日(昭和10)白昼の陸軍省で事件が起きます。永田が、突然皇道派の将校に日本刀で惨殺されたのです」

永田惨殺映像

元陸軍参謀片倉衷「大変だーという声が聞こえてきたんです『局長がやられた』と。というんですぐに、局長室に飛び込みますと、刀が永田さんの胸を貫いて突き刺さったんですね、それで私は馬乗りになりましてね、人工呼吸をやったんですよ、40分ぐらいやりましたね、それでもついに生きない」

松平「間も無く小畑も失脚。派閥抗争の結果全体を取りまとめるリーダーがいなくなり、軍は百家争鳴となります。この統制の不在が陸軍を迷走させ、国家を戦争へと近づけていくことになります。鈴木貞一は永田の死についてこう語っています」

NHK能動戦争で洗脳の下心、見え見え。

鈴木貞一「ああー大きいね、これはもう非常に大きいですよ。あれ、殺されていなければ、日本の姿っていうものがよほど変わっていたでしょうね。あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」

松平「エリート集団の陸軍の中でもとりわけ将来を嘱望された若手の軍官僚が、世界の潮流に乗り遅れまいということで改革運動を始めました。しかしこの運動は、満州事変などの過激な軍事行動を可能にし、それは結果としてですね、陸軍のそれまでの組織の秩序を破壊することになってしまったのであります。永田鉄山暗殺の翌年には、2・26事件が起こります。そしてその1年後に日中戦争が始まる、この組織の秩序の崩壊というのは戦争への歩みを速めてしまう結果ともなりました」

松平「さーそれでは、その日中戦争の時代をこれから取り上げてみることにいたしましょう。この泥沼とも言われた戦争に突入し、そこから抜け出せなくなった過程からもですね、巨大組織が抱える問題点が浮かび上がってまいります」

松平「192年(神戸港映像)民衆の圧倒的な歓声に迎えられ帰国した軍人たちがいました。満州事変を起こした関東軍の責任者達です。組織の統制を乱し処罰の対象であるはずの彼等を、陸軍中央はむしろ表彰。世論も熱狂し、いまさら事変が謀略とは表ざたに出来なくなっていたのです。この頃から現地では、独自の中国政策を立案しその成果を競い合うようになります。たとえば中国人とのトラブルが多発した天津、その天津軍参謀酒井隆は、自らの計画で手柄を上げる計画をうかがっていました」

重光葵回想録「酒井参謀長はかねてから断固として北支工作を自分の手でやることを決意していた。同僚の中でただ一人これまで勲章にありついていなかった」

字幕「北京市内1935年5月29・30」とCG

語り「酒井ら天津軍は、装甲車と機関銃部隊を展開、中国政府を威嚇し北京周辺からの撤退を要求した。陸軍中央には無断の、独断行動だった」

CG天津軍参謀長「今日は相談ではなく、わが軍の決意を通告しに来た」

語り「酒井はこの事件後帰国し、少将に昇進した」

松平「隣の関東軍も刺激されます。やはり中央に無断で、満州を超え華北地域へ進出を繰り返しました。この時関東軍の指導者は満州事変の首謀者板垣征四郎。満州国境の安定という独自構想から、北京近くに傀儡政府を樹立します。中央はこれも追認、満州事変を不問に付したことでその後の暴走も認めざるを得なくなっていました」

字幕「冀東防共自治政府成立1935年12月」

上記は1938年2月1日汪兆銘南京政府に合流。

京都大学助教授森靖夫「陸軍ていうのはもう、今の官僚組織とまったく同じことだと思うんですけど、ひとつのうー、慣例とか慣行とかが成立してしまうとそれが前例となり、同じ行動をとっても罰せられないし、えーそれが許されるということになってしまうんですけれども。それが満州事変えー、ですねー」

研究センター教授戸部良一「結果よければいいんだと、結果オーライの話が非常に多くなっていきますねー。結果的に陸軍のためになる、結果的に自分の立身出世にもなるというー発想が非常に強くなっている」

松平中央が現地軍に以下にものが言えなくなっていたか、それを裏付ける機密資料が見つかりました。そこには、陸軍中央が関東軍を抑えるために、隣の天津軍を増強するという手まで使ったことが記されていました」

映像「昭和11年密大日記大四冊陸軍省」

元陸軍中佐稲葉正夫「『軍事工作をやめろ』それでも関東軍は聞かないわけですよ。北支進出とか領域を侵すわけですよ。それを何とか抑えようとしたのがこの手なんですよ。北支(天津軍)を大きくすれば関東軍は次第に出なくなる。要するに関東軍の北支進出を抑えるためなんですよ」

松平「天津軍は3倍に増強、関東軍の南下は止まりました。しかし、が、これが誤算の連鎖を生みます」

字幕「抗日運動1936年」

松平「中国に説明なく進む急激な天津軍の増強に現地では反日運動が激化、瞬く間に全土に広がりました。誤算は続きます。一夕会の強硬派として知られる牟田口(廉也)大佐が天津軍連隊長に就任。派閥人事で転出後再起を狙っていました。天津軍は連日国民党の精鋭部隊がいる盧溝橋の近くで演習を繰り返します。そして、発砲事件が発生。牟田口はこれを国民党軍からの発砲だとし独断で攻撃を許可します。これが日中戦争の始まりでした」

字幕「1937年7月7日(昭和12年)」「日中戦争1937~1945」

松平「成果を競い暴走する出先軍あいまいな対応しか出来ない中央、その関係が多大な犠牲者をだす戦争へと陸軍を引き込んでいきました」

字幕熊本菊陽町「陸軍中将武藤章」

松平「ではなぜその日中戦争がアメリカとの戦争へと発展して行ったのか、その鍵を握る人物の遺族を今回取材することが出来ました。一夕会メンバーで、太平洋戦争開戦時陸軍省軍務局長についていた武藤章です。そのポストにあったことからA級戦犯として処刑されました。これまで武藤は一貫して戦争に積極的な強硬派と言われてきました。しかし、戦後巣鴨刑務所から家族に宛てられた手紙には意外な事実がつづられていました」

遺族武藤ヒサオ朗読「軍務局長着任以来支那事変を急速に解決することを主眼として、他列国とは絶対に事を構えてはならぬと考えてやってきた

松平「支那事変の急速な解決。軍務局長となった武藤が組織の肥大化に悩まされていた事実が浮かび上がってきました」

字幕「組織の肥大化

松平「日中戦争が始まって2年、大陸に派遣された兵士の数は60万から100万人に増加していました。組織の肥大に伴い現地には11の新たな軍を組織、20を越す司令官や参謀長クラスのポストが新設され、これが大臣を経験した大物軍人などの格好の移動先となります。しかし組織の膨張に戦費は逼迫、さらには侵略戦争だと非難するアメリカからの撤退要求。軍務局は危機感からついに派遣軍の縮小を検討し始めます。その交渉の矢面に立たされたのが西浦進中佐、陸軍省入省後予算畑を歩いてきたエリートでした。西浦たちは現地軍とりまとめを、参謀本部に提案します」

元陸軍大佐西浦進「支那派遣軍の兵力を減らしてもらわないと困る。それを第一年に10万か15万減らす。第二年にはどれだけ減らすかといって、覚書を作ってこの覚書きがあったらこれだけの軍備充実しましょうと、私は下心は何も言わずにどんどん人で詰めだしたわけなんです」

松平「それは参謀本部が切望する軍備の近代化と引き換えに段階的な現地軍の縮小を呑ませる作戦でした。しかしいっせいに反発の声が上がります、現地中国大陸の司令官たちがでした。最前線の第11軍の司令官に就任していた一夕会創設メンバー岡村寧次が意見書を送り付けました」

字幕「岡村寧次意見書1939年11月」

CGと語り「現地からの強力な抵抗を受け、参謀本部からの西村への圧力は日増しに高まっていった。参謀次長は日曜日にも電話し西浦の呼び出しを謀った。第一第二第三部長も同様に西浦に激しく詰め寄った」

「戦況を考えて兵力縮小計画を緩和しろ」

語り「しかし西浦はガンとして譲らなかった」

松平「ついに現地軍の大物も動きます。陸軍大臣を経験した支那派遣軍総参謀長の板垣征四郎が帰国、縮小どころか増派を訴えました」

慶應義塾大学教授菊澤研宗「陸軍全体にとっては、明らかにこちらの方が合理的な資源配分になるというのはもう判っていたとしても、実際にそのセクションの長になったら組織全体のことではなく、そのセクションの最大化を担うのは自分だと考えるようになる。そうすると全体の利益と合わなくなる。この事も今の企業で起こっているんですね、同じことが」

松平「縮小反対の大合唱。一方アメリカは中国からの撤兵が進まないことを理由に、通商条約破棄を通告してきます武藤は追い込まれました」

アメリカの破棄通告は、利権がらみでの蒋介石支援が理由、NHKの洗脳

字幕「参謀長会議1940年2月上旬」

CGと語り「会議の席上中国から帰国した一人の参謀が突然武藤に言い放った」

支那派遣軍参謀副長鈴木宗作「伺えば現地の兵力を減らし軍備充実を実行しようとする計画があるようだがこれは困難であり、むしろ不可能である」

語り「そして提案を突きつけた」

鈴木宗作「この秋まで極力予算を増やし、秋以降に圧縮するというのはどうか」

語り「現地軍が春先に計画している軍事作戦を念頭に置いた先送り案だった。武藤が口を開いた」

武藤「参謀本部と相談してご意見のとおりにいたしたい」

語り「現地軍との妥協だった。矢面に立たされた最後は、はしごを外された西浦。武藤の決定に黙って従った」

松平「武藤が妥協した訳。それを知る鍵が人事の記録です。この頃陸軍省の権威は完全に崩壊、戦場と東京とがめまぐるしく入れ替わる人事が行われていました。。この時の大臣畑俊六、さらに軍務局長の武藤も就任直前まで戦場で積極作戦を展開していました。そうした軍歴が逆に彼らの足かせになっていました」

京大助教授森靖夫「人事のシステムがおかしくなっているというのが一つの問題点。過去に現地軍で戦果を上げた人、陸軍中央に帰ってきてー、現地軍を統制してほしいといわれると、逆に今度は出来なくなる。陸軍省で穏健だった人が現地軍に行くと、今度は強行になったりと。もうグチャグチャな状態」

後手は必滅の戦時下を隠蔽し、NHK洗脳

字幕「宜昌作戦1940年5月1日」と宜昌映像。

松平「支那派遣軍は予算縮小がうやむやになった一月後、総攻撃を実行します。縮小反対の根拠となった作戦、一撃を加え和平に持ち込むという算段でした。しかし、それが日本を更なる泥沼のゲリラ戦へ引き込みます。現地では政治に関心のなかった地元の若者たちが次々と抗日へと駆り立てられていきました

郭誠さん(91歳)「23.4歳の若者はほとんどは遊撃隊に参加しました」

敖昌華さん(92歳)「日本軍はここを焼き払ったんです。だから、蒋介石の軍隊に加わり日本と戦おうと、思いました」

西安事件以後なので、米英仏蘭ソと傀儡の蒋介石毛沢東対、汪兆銘南京政府と日本である。先にやらなければやられた。互いに悲惨なのが戦争、偽中国の“泣き売”強調洗脳映像

松平「攻撃を強めるほどに高まる中国のナショナリズムに和平交渉は頓挫、国際的な非難も一気に噴き上がります。この事態を西村は、ただ呆然と見守るだけでした」

西村「なんだかこう、黒い嫌な空気がその肩に掛かってきたような気がしましたな。本当にアメリカと戦をしなきゃいかんのじゃないかと。非常にこー、なんていうか嫌っていうか。その、押し詰められたような気になりました。私個人のことなんですが、翌年の16年の8月には私、大佐になってよそへ出る順番になっておったものですから・・・いよいよ戦になるのは、自分がおらなくて誰か次の人の代になった時にやってほしいとか。はなはだ無責任な話ですが」

字幕「まわりの人や所属する組織が間違った方向に向かっていると感じた場合自分が反論できると思いますか?12月10~12日の1716人への電話調査」

 「長い物には巻かれろ的なものは有るかと思いますけどね。いったらねー怖いもんねー。目付けられたら困るから。絶対逆らえない。出来ませんねーそれは無理ですねー。言わないと何も変わらない訳ですねー。今僕の会社はまさにそうなんですねー。言いたいことは言いたい派だからなんでも言う」

「反論できる40.4%。反論できない49.2%。わからない・無回答10.4%」 5につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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