QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 081234567891011121314151617181920212223242526272829302017 10

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観Ⅱ戦後3年ホットな世界史ヘレンミアーズの「アメリカ人の鑑・日本」

戦後3年に書いた米人歴史家ヘレンミアーズの「Mirror for Americans:JAPAN」より抜粋

 第4章は、翻訳抄訳版では省かれているが、「アメリカ人の鑑・日本」とした著者の、紛れも無く高い見識が第4章には在る。完全版を推奨する。

第4章伝統的に侵略的

1神道からの解放

 日本人は近代以前に「戦争美」を創出し、「武士階級」を崇拝し、常に「軍事独裁者」に統治され、天皇を生きた「軍(いくさ)神」として崇めてきた。そして日本人の宗教である神道は日本人を優れた民族と信じさせ、神である天皇を世界に君臨させるため日本人に「世界征服」を命じている。私たちはそう教えられてきた

 私たちの戦後対日政策には、神道と「天皇制」は本質的に戦争を作り出すものであるという考え方が組み込まれている

 神道と天皇崇拝は日本人の民族感情にとって重要な文化と宗教の伝統を表すものだった。これは、他の民族が固有の文化、宗教の伝統をもっているのと同じ国民感情である。伝統の力が強ければ強いほど、国家存亡の危機には、戦時体制の、国民一丸の要となる。

 日本の学童が天皇の肖像に最敬礼をしたのは、アメリカの学童が「国家に忠誠を誓う」のと同じ国民的儀礼だが、私たちはそれを見ようとしない。

 日本人が天皇を尊敬するのは、天皇が超自然的、超人間的存在であるからではない。象徴としてのしきたりの、長い歴史と伝統文化を崇拝しているからである。日本の天皇は、アメリカの星条旗、あるいはアンクル・サム(U.Sの戯言化。アメリカ政府または同国民のあだ名)のようなシンボルなのだ

 私たちの国旗は軍事的象徴ではない。それと同じように、戦争が無ければ、日本人にとって天皇は軍事的象徴ではなかった

 「天皇制」と「国家神道」は、私たちが民主的と呼ぶ世界のどの国でも、国の特性に応じてさまざまに現れる現象である。神話は日本人にとって民族主義の象徴に過ぎないのだが、私たちはその事実に目を閉じてきた。私たちアメリカ人には統合の心情的象徴となる皇室は無いが、私たちの民族主義同盟であるイギリスは王室をもっている。

 もちろん、イギリス人は、国王、帝国、イギリスの血と文化に対する忠誠心を「国家神道」といいはしない。しかし、神話を別にすれば、日本人にとって「国家神道」が神社、英雄、日本国と帝国を表すシンボルに対する国民的、心情的崇拝であるのと、現実には同じなのである。

 アメリカでさえ、戦争中は多くの教会が祭壇の後ろに星条旗を掲げ、礼拝の中で国家を歌っていたのである。

 戦争中は、私たちも国家神道を絶えず(理性ではなく)感情(本能)的に表現していたのである。日本人を教育して根源的国家意識を捨てさせたいと思うなら、まず私たちの根源的国家意識を捨てるべきである。

5日本とアメリカ―その生い立ち(真実史観注・唯心と唯物)

 彼らは均質の民族的伝統を発展させた。隣国の中国は、少なくともその15世紀前から高度に発達した文化を持っていたが、日本の移住民はその文化を受け継いだのではない。彼らは中国人の後を継がなかった。この点は、私たちアメリカ人がヨーロッパ文化との関係でやってきたこととは違うのである。

 17世紀まで、彼らは中国文化借りながら自分たちの文明を発展させてゆくが、それも無制限な借用ではなかった。ある程度接触したところで必ず隔離期間が置かれ、その間に中国文化を民族状況に適合させていった。最後の隔離期間は、私たちも知っているように、2世紀以上も続き、そして、今度は日本人自身によってではなく、ペリー提督に代表される他からの力で終わったのである。

 日本人は、2世紀もの間、自分たちだけで生きてこられたし、それに満足していた。・・・彼らの文明はそれほど深く根を下ろし、彼らと一体化していたから、20世紀になって日本に流れ込んだダイナミックな西洋文明の奔流にも、毅然として立ち向かうことができた。

 私たちは、数十億エーカーの可耕地を持っていた。今日、アメリカの平均的な農家は150エーカーの土地を持っている。私たちを取り巻くすべての環境が、私たちをエネルギッシュな活動に駆り立てたのだ。

 これに反し、日本民族の土地は島の集まりで、主要4島合わせてもモンタナ州程度の大きさだった。・・・土地は一分の無駄なく耕されているが、それでもわずか1600エーカーに過ぎず、農家の平均所有地は2エーカーに満たない。

 私たちの文明は、社会と経済がある程度発達した段階から始まった。だから、私たちが発達した資本主義的商業技術を使って、機械文明に向かったのも当然である。そして、私たちの特殊状況が、発展を早めたのも当然である。

 私たちが民族となり、国家となるためには、ヨーロッパから自由を獲得する必要があった。インディアンを隷属させ、発明し、南北の隣接国と戦い、戦争や財力で、あるいは外交で領土を広げていく必要があった。

 広大な土地、富、少ない人口という私たちの条件が機械を必要とした。私たちは機械の創造に長けた民族だから、機械は兎のように増殖していった。

 前近代の日本人にとっては、事情はまったく違った。・・・彼らは環境を征服したり、変えたりするよりは、自分を環境に順応させることを選んだ。

 日本人は大部分が物々交換に固執していた。米が主たる富であり財貨だった。借財と税は、米などの生産物、あるいは労働などで決済された。物の値段は米を基準に決められていた、鋳造貨幣の使用は早くから中国に学んでいたが、それを利用していたのは、ほとんどの場合、大都市の特定集団だけだった。日本が統一国家として通貨を持ったのは近代に入ってからで、それまでは貨幣による徴税も行われていなかった。

 19世紀半ばになっても、現在東京といっている江戸は人口100万の都市で、流入する品物は、当時の記録によれば、下駄、下駄の鼻緒、木綿製品、植物油、紙、石鹸用ぬか袋のような日用品など百種類程度のものだった。もちろん、米は主要商品だった。前近代を通して、下級貴族も含むすべての人が、ぎりぎりの必需品で生活していた。

 日本の社会は米の収穫に大幅に依存していたのである。・・・だから、農業の障害のなるものはすべて経済の撹乱要因にになった。収穫物に損害を与える大地震、台風、津波は広範な不況を意味した。

 こうした災害は定期的に襲ってきた。しかし、日本の文明は、災害をいかに防ぐか、いかに小さくするかを考えることによって発達してきた。自然災害を制御するために、呪術農耕儀礼を営んだ。この自然と先祖に対する信仰の一部が神道なのだ。

 つまり、日本人は文明を発展させるにあたって、土地も富も少ない現実を受け入れ、集団化に慣れ、物が無くても耐え、もてるものを最大限利用することによって現実に適応してきた。土地は狭かったが、農作物の種類を制限し、一度に二種類の作物を栽培し、一つの土地に多くの人間を抱える集団農耕技術によってそれを克服してきた、この耐乏経済は集約農業と相互保全策を生み、それによって土地は肥沃に保たれ、島は美しい庭園になった。

 日本人は密集して生きることを受け入れ、小さな家に住み、物質欲を捨て、しきたりに順応し、家族、村、集団に従属することによって居住空間の狭さを乗り越えた。そして、個人による自己主張の欠落を、親への孝心、先祖崇拝、儀礼の徹底した形式化によって、品位あるものに高めていったのである。

真実史観注・唯物と唯心の統治の差となり、食民治と植民地になった。

6武士階級

 前近代の日本は暴力によって支配されていたのではなく、しきたり、共同体の意見、法律の力によって支配されていた。これは他の社会と同じである。職業軍人を抱合する「サムライ階級」は世襲の特権階級であった。

 徳川時代の日本の性格をいちばんよくうかがわせるものは、社会の階級性である。19世紀に行われた「国勢」調査によると、当時の人口構成は、サムライ7.2%、農民86.7%、手工業1%、商人・金融業者3.3%、その他1.8%となっている。サムライ階級には学者、医師、芸術家、事務職、行政管理者が含まれる。手工業の数が少ないのは、サムライを含めて、実際、すべての人が必要なものは自分で作ることができたからである。農民は稲藁を使って屋根を葺き、草履、敷物、その他何でも必要なものは自分で作った。

 私たちの日本人感は、支配体制を「軍事独裁」と呼んだことで混乱してしまった。支配階級は世襲官僚で、実際に国を動かしていたのは「神のサムライ」、すなわち舞台裏で仕事をする行政官(職業的知識階級ホワイトカラー)だった。

 彼らは警察権力の恐怖政策によってではなく、まことに綿密につくられた法と規制で安定を維持していた。

7間違いの歴史

 私たちは急いでいた。広大な大陸を手なずけ、収めなければならなかった。・・・私たちは形式にとらわれず、やるべき仕事を直進しなければならなかった。

 日本人の場合はまったく逆だ。性急であるより気長である事に重きを置いた。・・・彼らは形式を無視するどころか、極限の儀礼を求め、伝統的に正しいとされる行為の礼を社会制度の基本にしたのである。

 私たちは使えるものが余りにも豊富だったから、何でも惜しみなく使い、試した。日本人はそれができなかった。彼らには直ちに補充するという考え方の上に、文明を発達させてきた。日本人は節約を最大の徳とした。彼らは節約信仰を作り出し、何物も無駄にせず、持っているものはすべて完全に使い切った。

 私たちは大きいものを信じた。日本人は2エーカーの農地から、小さな家、箱庭、根付、盆栽といった独特の表現様式にいたるまで、小さなものを信じた。

 私たちは急いでいた。装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にも無かった。私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。日本人は急いではいなかった。彼らは物質的に貧しかったから、持っているものを飾ることを考えた。美は彼らの文明の大事な要素となった。

 私たちは自然を征服することを考えた。日本人は自然を敬い大切にした。

 日本人は土地に恵まれていなかったから、持っている物を崇め保存し、自然崇拝を彼らの宗教、社会、政治の主要な柱とした。伝統神道の多くの神事は、肉体的満足の対象である食べ物と、精神的満足の対象である美をもたらしてくれる自然に感謝する儀式だった。私たちは土地がありすぎたから、広大な地域を砂漠にしてしまうまで、保存の必要性を感じなかった。日本人は持っている物が少なかったから、大切にした。二千年に渡って耕してきた、今でも彼らの小さな島は肥沃であり、森や田畑はさながら手入れの行き届いた菜園である。

 日本が総じて安定した非侵略的な独自の文明を作ってきたことは記録に明らかだ。近代以前の日本は少なくとも千八百年の間、様式化され限定化された内戦の時代と、全体的混乱の一時期を除けば、平和と安定の中で文明を発展させ、人口を増やし、制度を整備し続けてきた。そして、外国を征服しなかったことは事実である。日本人を「間違い」で非難するなら、世界の大国になった近代国家で、こうした歴史を誇れる国が他に在るか、探してみるべきだ。

第三章世界の脅威についての後知恵的見解

1捏造された脅威

 パールハーバー以前は、経済封鎖に対する日本の脆さを知っている人なら、日本が大国にとって軍事的脅威になるなどということを、誰も本気で考えたことは無い。日本は近代戦のための重要物資をすべて輸入しなければならないのだから、物資の補給が遮断(兵糧攻め)されれば、戦争機関は自動的に停止してしまう。しかも、日本は食糧も輸入しなければならないのだから、海上輸送路が遮断(兵糧攻め)されれば、通常の国内経済は麻痺する。

第九章誰のための共栄権か

3日華事変からパールハーバーへ

 ・・・日本は何を考えていたのか。中国の情勢は混沌とし、錯綜していた。しかし、日本から見れば、問題はきわめて簡単だった。つまり、(1)満州に、「合法的自衛」手段としての戦略拠点を確保し、(2)日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる経済ブロックをつくって経済の安全保障を確立しようというのが日本の計画だった。そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカ、イギリス、フランス、オランダに依存しなくてすむ。日本は、一方では再び極東に進出してくる可能性のあるソ連に対する「防衛」手段として、もう一方ではイギリスの強力なポンド経済圏(貿易地域)とアメリカのドル経済圏に対抗する手段として、自分たちの計画を考えていたのである。しかし、イギリスとアメリカは日本の政策に反対した。

 日本から見れば、イギリスは中国の「中央政府」を経済的、政治的に支配し続けたいから、反対しているのだ。そして、アメリカは日本がアジアで指導的地位につくことを望んでいないのだ。つまり、人種差別的、通商的、戦略的反対であると、日本は解釈した。この政策的対立が日華事変(日中戦争)の交戦国は中国と日本ではなかった。それは依然として、日本と欧米列強、とりわけイギリス、アメリカとの対立だった。中国人の将軍(蒋介石)と政治家(日本と汪兆銘)がついていた。中国人民は、相も変わらず、双方の犠牲者であり、飢えるか殺されるかの役回りしか与えられていなかった。

 1935年、華北を蒋介石政権の「悪政」からほとんど「解放」していた。日本は華北三省を統治する将軍たち(軍閥)の協力でこれを達成したのだ。将軍たちはいずれも華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を支持すると宣言していた。汪精衛(兆銘)(後に南京「傀儡」政府を率いる)も日本についていた。彼は1935年当時、蒋介石が率いる「南京政権」の行政院院長だった。この政権は列強が「中華民国の」の「中央政府」として承認したものである。つまり、日本は中国の統治グループの中に緊密な協調関係をつくっていたのである。

 中国「国民政府」の中にさえ、政策の不一致があった。蒋介石はどちらかといえば親英路線、汪兆銘はどちらかといえば親日路線だった。1935年、汪は日本の協力して、蒋介石を国民党の指導的位置から外そうとしていた。

 この時点までイギリスは蒋介石と日本の双方をけん制しつつ支援していたが、華北が独立を宣言し、日本と満州国が共同して関税同盟と経済ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになった。イギリスは華北に大きな「権益」を持っていたから、フレデリック・L・ロス卿を送り込み、銀の国有化計画を成功させて、蒋介石を外交的にも強化した。同じ頃、国民党大会初日の記念写真におさまろうとしていた汪精衛は、カメラに隠されていた銃で撃たれ負傷した。

 複雑極まりない情勢の中でおきた一連の事件は、日本の計画にとって大きな障害となった。日本の盟友汪精衛は入院し、蒋介石はイギリスの財政援助で威信を高めた。このために日本は華北の「解放」計画を断念せざるを得なくなったのである。イギリスに代わって華北を分離させようとした経済ブロック計画(防共回廊)は阻まれ(防共回廊は、日本が武力によらず「合法的」に達成寸前だった)、日本は一歩一歩、日華事変の泥沼にはまり込んでいった。その過程で日本は、不正義ではあったが(解放という正義が第一義ではなく、日本の自衛が第一義で、解放は自衛目的達成のための手段)、「アジア解放」(宗主国欧米に頼らない自己保存目的の大東亜共栄圏の樹立)の旗手として台頭してきた。

 日本は、中国一部の地域の開放(華北解放の挫折)から発展して、汎アジアを目指し始めた。これはアジア諸国が「西洋列強の支配から解放され」て、(日本人の説明によれば)南北両アメリカ大陸の諸国が、汎アメリカ大陸同盟を形成して、共存共栄を図っていると同様に、「共栄圏」を形成して、協力するという構想であった。

 ひとたび日華事変が火を噴くと、日本は苛烈な獰猛さで進撃した。そして、東部の海岸地域を奪取し、蒋介石政権を重慶に追いやることに成功した。1940年4月、日本は汪精衛を南京に担ぎ出し、同11月汪政権を中国の正当な合法的「中央政府」として承認した。米英両国政府はただちに蒋介石政権を正統政府として承認すると発表した。アメリカは汪精衛を日本の傀儡とみなし、日本は蒋介石を米英の傀儡とみなした。

 中国人の立場から見れば、両政権とも法的擬制(誤魔化し)である。蒋介石も汪精衛も外国の後押しがなければ支配的地位を握ることはできなかった。どちらも中国人の力で政権に就いたのではなかった。両政権の軍隊は外国列強(片や米英、片や日本)によって資金手当てされ、訓練されていた。両政権ともいわゆる中国「共産党」からは敵視されていた。日華事変では中国共産党は重慶(蒋介石)に協力して日本と戦ったが蒋介石軍は日本軍、共産軍双方と戦っていた。

 米国政府は蒋介石に多額の借款を与えるだけでなく、日本の厳しい経済制裁(日本最大の弱点兵糧攻め)をちらつかせることで、日華事変(事実上、1939年の世界大戦に合流する)に参画していた。[著者注7 1940年11月、汪精衛の南京政権の樹立に対抗して、アメリカは重慶(蒋介石)に一億ドルの借款を与えた。これは1935年のアメリカの対中国投資総額の半分に相当する]。1939年6月、私たちは日本との通商条約(1911年締結)を破棄した。これによって、私たちはいつでも貿易を停止(兵糧攻め)できるようになった。

 1941年7月、アメリカ、イギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中断(兵糧攻め)した。

 ここにいたって日本は、満州事変以来脅えつづけてきた最後のとき(兵糧攻め)がついにきたことをさとった。これら諸国の物資がなければ、日本はアメリカ、イギリス、オランダのいう条件で中国と満州から撤退するしかない。

 近衛公が去り、東條大将が登場すると、凍結措置は戦争行為(兵糧攻め)なりと、たった一言で喝破した。次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本側の立場にたってみれば、これらの攻撃は、「我が帝国の存亡」を懸けた、当然の、自己防衛だった。[ヘレンミアーズ注11 第2章の2「攻撃と反抗」の日本国天皇の開戦の詔書を読み返していただきたい。ここには日本の視点が明確にされている]。第2章の2「攻撃と反抗」米英帝国に対する宣戦の詔書、1941年12月8日

 [東洋支配のあくなき野望に狂奔する米英は、重慶政権を支援しつつ、東アジアの動乱をいよいよ悪化させてきた。米英両国は他の国々に追随をそそのかし、われわれに挑戦すべく、わが帝国周辺において軍事力を増強した。彼らはあらゆる手段を用いて、わが平和通商を 妨害し、ついには経済関係断絶の挙に出るにいたった。これはわが帝国の存立を根底から脅かすものである。かくのごとき情勢にいたれば、わが帝国は実にその存立と自衛のために、武力に訴え、そのいく手にたちはだかる障害を打破するほかにとるべき道はないのである]。開戦の詔書全文赤裸な国民の総意開戦の詔書と終戦の詔勅と戦後公職追放令でのし上がった売国奴 
(真実史観注・玉砕特攻集団自決の原点 ハルノートに応じたら最後、大阪城の内堀を埋めたのと同じ、立ち上がる術など皆無。応じても、保障なき戦国時代、再度資源封鎖されて完全亡国の奴隷国は明白で、滅亡あるのみ。ABCD経済封鎖は宣戦布告、座すれば確実に国民は餓死、アジア同胞覚醒追随に一縷の望みを懸け、打って出た。故国に残した国民の生存を懸けた戦いに、兵士も国民も上下の区別なく団結、滅私で戦った)

 日本が戦争の道徳的弁明のための、あえて設定した合法的虚構は「大東亜の解放」であった。

(真実史観注・資源豊富な大国アメリカの観点では、「合法的虚構」かも知れぬが、兵糧攻めで白人支配のドル・ポンド圏からはじき出された資源無き小国日本には、被差別有色人アジアに、第三の経済圏大東亜共栄圏樹立以外、適者生存、生き残る術は無かったのだ)

第二章 懲罰と拘束

2攻撃と反抗

 パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んでし仕掛けられた「一方的攻撃」であるというが、この論理では日本を公正に裁くことはできない。なぜなら、私たちの公式記録が、パールハーバーはアメリカが日本に仕掛けた経済戦争(兵糧攻め)への反撃だったという事実を明らかにしているからだ。パールハーバーは青天の霹靂ではなく、然るべき原因があって起きたのだ。原因は、1941年7月25日にアメリカ、イギリス、オランダが打ち出した「凍結令」である。三国は自国領内にある日本の全資産を凍結し、貿易、金融関係を全て断絶した。日本は輸入必需品80パーセントを「凍結」地域に頼っていたから、三国の行動は、日中戦争の泥沼化だけでなく、国内経済の窒息死を(餓死)意味するものだった。

 日本はアメリカに特使を送り、こうした厳しい措置の緩和を要請した。しかし、アメリカは両国間の対立を解決する意志を持っておらず、戦争は不可避と考えているように、日本にはみえた。会談の公式記録を読んでみると、アメリカは自国の「防衛」計画を整備するまでの時間稼ぎをしている、と日本が思ったのは、当然である。アメリカの政策(イギリス蒋介石政権を支援し、日本を経済制裁)は正しかったというのもいいだろう。しかし、私たちの政策ではなかったと、真面目な顔でいうのはおかしい。なぜなら、政府は各種の公式声明であれ「凍結(兵糧攻め)」令はアメリカの政策だったと言明しているからだ。

 日本の立場で言えば、こうである。イギリスとオランダが禁輸したインドネシアとマレーの物資(兵糧)を力で奪いに行く決意を固めた。そこでアメリカが両国の陣営に加わらないよう、奇襲によって出鼻をくじく必要があった。パールハーバーは伸るか反るかの賭けだった。

 東京裁判で日本側は「封じ込め」を逆非難し、「正当防衛」を主張した。これには強力な裏付けあったために、私たちはパールハーバーを中心訴因から外し、「少なくとも、いわゆる満州事変の発生時の1931年から」日本が企てていた「世界征服」の「陰謀」まで訴因を拡大せざるをえなくなった(国際検察局主席検事joseph keenan書簡参照)

第三章の1

 私たちの戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった。戦前戦中を通じて、日本が帝国の一部として、あるいは常任統治領として支配する地域に攻め入り、アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を占領することがアメリカの目的だった。

第七章牝鶏の餌は牡鶏の餌

7確立された満州の秩序

 雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソースにもなる(欧米列強の行動と、日本の行動は同じで、非難する資格など欧米列強にはない)。

「アメリカの反省」(副題・アメリカの鏡としての日本)翻訳者原百代40歳(終戦時33歳)の後書き

 「本質において、終戦後氾濫した『真相はこうだ』式のいわゆる、暴露ものと雲泥の相違があることの所以も、またこにあるのだ。 我々日本人の中に、占領中はおろか、独立後の今日に至ってもなお、決して征服者アメリカ人に対する遠慮とか、皮相的な同調からではなくて、本心から、アジアへの認識を始めとして、文化、教育、政治、百般の観念において、アメリカの、しかも正鵠「せいこく(真実)」を失したアメリカの対日観念を、そのまま鵜呑みにしている人々。換言すれば、アメリカ人の目の、しかも歪んだレンズを通した、そのままの姿で、己が祖国日本を観ている人々が、数少なくない事実。しかも自他共に、敗戦後の新日本の指導者を持って任ずる、いわゆる、文化人、知識人と称する人士の間にも、こういう人々の相当数が、現に各々の分野において、指導者として活躍している一事を思う時、この書は正に、正に、日本国民への頂門の一針(頭上に針を突き刺す)である」1952.12.31.

「アメリカの鏡・日本」頂門の一針無き翻訳者伊藤延司61歳(終戦時11歳)の後書き

 「途中何度も泣いた。・・・太平洋戦争、沖縄における日本兵と民間人の死、大空襲と原爆による一般市民の死の惨めさと、同じ惨めさをアジアの人々に強要した近代日本の運命が無性に悲しかった」1995.引用終わり Ⅲにつづく

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/253-d48eb00d

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。