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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1卜部日記富田メモ暴露分祀ナベツネ中曽根日経朝日秦保阪御厨半藤の犯罪


左右論者は、言葉と文字のペーパー似非識者か、工作員の自白である!現世には、真実と捏造があるのみで、ウヨ・サヨなど無い!

 ネット常識の追試が、やっと始まった。一学究の救国論「日本国民に告ぐ2010文藝春秋7月号「日中戦争は侵略ではない」と表意記憶。藤原正彦・御茶ノ水女子大名誉教授数学者、エッセイスト、新田次郎藤原てい夫妻の次男。以前は、「国家の品格」2005.11.新潮新書「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。・・・無意味で恥ずべき関東軍の暴走でした」 と、表音丸暗記だった。「日韓がタブーにする半島の歴史」10.4.室谷克美著新潮新書も、田母神諫言も、追試

 靖国分祀騒動富田メモ・卜部日記が炙り出したナベツネ・中曽根・日経・朝日・秦郁彦・保阪正康・御厨貴・半藤一利・立花隆・熊田淳美・安岡栄志・富岡知子(富田の妻)等の犯罪者

昭和天皇の御意

『東大落城──安田講堂攻防72時間』文藝春秋1993年佐々 淳行(さっさあつゆき)

 ・・・安田講堂の攻防戦からしばらくして、秦野章警視総監が治安情勢内奏のため参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、さっそく各機動隊長を通じて全隊員に伝達し、士気昂揚を図らなければいけない。ところが帰庁した秦野総監は怪訝そうな表情を浮かべている。「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。安田講堂のこと奏上したら、『双方に死者は出たか?』」と御下問があった。幸い双方に死者はございませんとお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ。機動隊と学生のやり合いを、まるで息子の兄弟げんかみたいな目で見ておられるんだな、ありゃあ」私は感動した。天皇は一視同仁、お相撲好きの昭和天皇が終生、誰がご贔屓力士かを口外されなかったように、「機動隊、よくやった」と御嘉賞されることは帝王学の道からは外れるのだ。・・・

昭和50(1975)年8月15日他虐偽善者三木首相参拝。三木首相が八月十五日の参拝を「首相としてではなく渋谷区南平台の一住民三木武夫として参拝します」と公式参拝ではなく私人としての参拝を力説。これ以後、公人私人などという特異な議論が、マスコミの世界を支配するようになった。天皇は日本の象徴公人である、公人たる天皇は参拝しにくくなった。摘み食いの会(九条の会)他虐偽善者三木睦子は、夫人。

昭和50(1975)年11月20日富田朝彦宮内庁長官が参議院で、明日の天皇靖国参拝は公人か私的行為かと厳しく追及された。吉国一郎内閣法制局長官は、憲法違反とまで言えないが、「第20条第3項の重大な問題になる(国の宗教活動の禁止)」と発言。神仏混交の錯誤、神道は宗教に非ず!日本は神の国(多神の国)宗教の国(多宗教の国)翌日終戦30周年の参拝。

昭和50(1975)年11月21日終戦30周年の参拝。これ以後参拝無し。

昭和53(1978)年10月17日「昭和殉難者」としてA級戦犯14人が靖国神社に合祀

昭和60(1985)年8月15日中曽根首相参拝。「内閣総理大臣たる中曽根康弘が参拝した」と言明し、公式参拝の声明。ところが「A級戦犯も祭る靖国神社への首相参拝はわが国人民の感情を傷つけた」として中国が激しく抗議。これに屈して、中曽根は春秋の例大祭も八月十五日も取り止めた。中曽根が中国首脳の名をあげて「盟友支援のために参拝を中止した」という意味の演説。これが起因で以後犯日拡大、脅しの外交カードと成り、中韓に脅され莫大な援助となる。ここで「盟友支援」などと阿諛追従せず、植民地独立付与宣言」を掲げ、楔を打てば、以後の中韓のゆすりたかり、陛下の参拝中止、犯日団の増長など皆無。凶産迎合中曽根は、板垣征四郎遺族正参院議員に、「分祀署名簿」を持参させ、7人の遺族を回らせた。英機次男輝雄は、「(靖国神社以外の)他国の干渉に屈した形での分祀は、認めることは出来ない」と、毅然と拒絶した。他の6人の遺族は分祀を認め署名したが、靖国神社の強い反対もあり成立せず(以後は、全遺族反対)。週刊朝日05年7月29日号にも「聞いた(合祀)瞬間、非常にありがたいことだと思いました。靖国神社に合祀されている現在の状況に感謝しています。もし、分祀をすると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれど、遺族は『それはいけない』と言う立場にないと考えています」。増すごみは東條家だけ反対と侮蔑したが、議論の余地など皆無の至論である!現在も懲りずに犯日扇動の中曽根は、国賊!

昭和61(1986)年藤尾正行文相 日韓併合は韓国にも責任」に韓国抗議。正論で→罷免

昭和61(1986)年8月15日この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」前年靖国参拝の中曽根首相が、一転して不参拝発表当日の歌。「この年のこの日にも」が御意、余命を悟られた御詠である。3年後の8月15日を迎えることなく、昭和天皇は1月7日に崩御された。「この年のこの日にも(合祀は8年前、この年ではない。終戦後41年も経たこの大事な日にも)また靖国のみやしろのことに(なぜ靖国不参拝に)うれひ国思わぬ輩に、参拝の道を閉ざされた嘆き)はふかし」。ご不快は分祀に非ずは明白!

昭和63(1988)奥野誠亮国土庁長官「(日中戦争について)日本に侵略の意図はなかった」中国抗議。正論で→辞任

 4月28日合祀騒動の発端、富田メモ・卜部日記の日付

 8月15日全国戦没者追悼式最後の御製やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

平成1昭和64(1989)年1月7日昭和天皇崩御

平成2(1990)年10月20日「おほうなばら・昭和天皇御製集」宮内庁侍従職解説・徳川義寛・岡野弘彦・読売新聞刊。徳川義寛元侍従長(尾張藩)(1906~1996)1936年侍従、1969年侍従次長、1985(昭和60)年10月1日~1988(昭和63)年4月13日侍従長(入江相成の後継)、1988年4月26日から参与。

 ・・・徳川義寛元侍従長解題・・・昭和62(事実は61年御製、本文も61年)年8月15日この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」靖国とは国をやすらかにすることであるが、とご心配になっていた。昭和63年8月15日全国戦没者追悼式「やすらけき世をいのりしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」永遠の平和をいのりつづけて、なお心残りがおありになった生涯であった。那須でお詠みになった秋の庭は最後の御製であった。「あかげらの叩く音するあさまたき音たえてさびしうつりしならむ」

平成16(2005)年3月3日去る二月十五日、テレビ朝日番組「サンデープロジェクト」で放映されました中曽根康弘元首相と田原総一朗キャスターとの対談において、中曽根氏からまたしても所謂A級戦犯分祀案が提言され、今回は分祀に対するご遺族の同意も得られそうだとの見解を示しました。しかも過去において、靖國神社が分祀案を頑固に反対したので果たせなかったとの発言もありました。このことは、翌日の朝日新聞朝刊にも報道されたことから、神社に対する問い合わせも多くありましたので、この際、靖國神社としての見解を明確にする必要を感じ、ここに発表させていただきます。・・・もし仮にすべてのご遺族が分祀に賛成されるようなことがあるとしても、それによって靖國神社が分祀することはありえません。以上靖國神社社務所

2006(平成18)年4月13日日本経済新聞社杉田亮毅社長と唐家璇(セン)国務委員の会見。・・・中日関係は国交正常化以来、これまでにない困難に直面しているが、中国政府と人民は中日関係を重視しており、中日友好の基本方針は終始変わっていない。・・・われわれは「日本経済新聞」はじめ日本のメディアが現在の中日関係と中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導き、中日関係の改善と発展のために積極的かつ建設的役割を果たすよう期待している。

 杉田社長は、日中関係は現在、重要な時期にあり、日本経済新聞は両国民の理解増進、日中関係の改善のため積極的に努力したいと表明した。(北京4月13日発新華社)

 中国国民懐柔洗脳のための犯日がほころびかけたため、凶産カルト中国が手下朝日を使い再攻勢、韓国罪日便乗。戦後教育の負の遺物、仕掛けに乗った財界と日経杉田社長、負い目払拭中曽根、拝金ナベツネが便乗した。分祀騒動の発端である。凶産カルト相手では、ミイラ取りがミイラは世の習い、赤子の手をひねるようなものである。わずかの真実開扉に、うろたえた犯日国とその輩、捏造犯日が暴露とあわてふためいた。ここが輩の弱点で急所!ここを突ける政治家メディア不在が、日本の仮想界である。思想戦には思想戦、捏造国家や罪日が恐れる最大の敵は、捏造国家転覆可能、真実史観である!

平成18(2006)年7月20日日本経済新聞(朝刊)

富田朝彦元宮内庁長官昭和63年4月28日のメモだとして発表。松岡白取は裁判中、プリズンで病死。○は判読不能。()は朝日解釈。

「私は 或る時に A級が

合祀され その上 松岡、白取 

までもが、

筑○は小○○に対処して (筑紫は慎重に)

くれたと聞いたが

松平の子の今の宮司がどう (考)

えたのか 易々と

松平は平和に強い○○○ (考えが)

あったと思うのに 親の心子知

らずと思っている

 だから私あれ以来

していない それが私の心た」

富田メモの捏造報道

富田メモ研究委員会“御厨貴(東大教授)・秦郁彦・保阪正康・熊田淳美(元国立図書館副館長)・安岡栄志(日経特別編集委員)・富岡知子(富田の妻)”は「分祀、天皇不快感以外の解釈はあり得ない」と結論、2007年4月30日発表。富田メモは非公開で隠蔽のまま。密室での御意判断自作自演は、検証回路皆無か工作員で、日経は亡国奴の巣窟を自白した。

 昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀について不満を示し、合祀後、参拝中断を決意したと勝手に解釈し発表。「親の心子知らず。参○」等、言葉遣いが天皇ではない。天皇は親拝、参拝とは言わない。宮内庁長官である、天皇なら、たとえメモでも不敬は明白(後述卜部日記原文参照)、陰日向宮内庁長官である。富田の妻が御意と判断は、夫富田朝彦への最大の侮辱で、拝金妻の白状以外の何物でもない。

 松平永芳宮司が当時、昭和天皇のご意向を無視して勝手に「A級戦犯」を合祀したかのように報道。事実は異る。誰を合祀するのか、その対象名簿は、遺族援護法等に基づいて政府が決定。政府は遺族援護法等の対象となる戦没者の名簿を「祭神名票」という形で靖国神社に提出。「名簿」受領の靖国神社は、合祀該当者の芳名を記した「霊璽簿(れいじぼ)」と「上奏簿(じょうそうぼ)」二通作成。「上奏簿」を宮中に提出後に合祀。例大祭の前に合祀はされ、合祀後の例大祭には必ず勅使を戴いている。「A級戦犯」も、当然このような手順で合祀された。「私はあるときA級が合祀され・・・聞いた」は、話し手、天皇に非ずを明白に語っている。手順に無知な偽造者の捏造メモなのは、明白である。無検証で取り上げ、松平宮司が勝手に合祀は捏造報道    

 合祀後も、引き続き昭和天皇からは勅使を戴いており、昭和天皇の弟宮である高松宮同妃両殿下と三笠宮同妃両殿下、そして常陸宮同妃両殿下、寛仁親王同妃両殿下がたびたび御参拝になっているのは、史実。

平成18(2006)年12月20日「昭和天皇御製・四季の歌」岡野弘彦著同期舎メディアプラン。岡野弘彦(1924~)宮内庁御用作歌指南歌会始の選者(1983~2007)。

 昭和61年8月15日この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」御製解説 昭和天皇の和歌のご相談をお受けするのは三・四ヶ月に一回、三・四首たまったお歌を侍従長の徳川さんが持ってこられて拝見していた。昭和61年(1886)の秋、このお歌を初めて見た時の印象は今も鮮明である。天皇がこれほど深い憂いを抱いていられる理由が、歌の表現だけで十分に計りかねた。なにをどう憂いていられるのかを尋ねると、徳川さんは次のように答えられた。「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです。天皇はA級戦犯が処刑された日、深く謹慎して悼みの心を表していられました。ただ後年、その人たちの魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきたとき、お上は反対の考えを持っていられました。その理由は2つあって、1つは国のために戦に臨んで戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わるとお思いになっていること。もう1つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとお考えなのです。ただ、それをあまりはっきりお歌いになっては差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです。そのお上のお気持ちは、旧皇族のご出身の筑波宮司はよくご承知で、ずっと合祀を抑えてこられたのですが、筑波宮司が亡くなられて、新しく松平(永芳)宮司になるとすぐ、お上の耳に入れることなく、合祀を決行してしまいました。それからお上は、靖国神社に参拝なさることもなくなりました」徳川さんの話は大要、右のようであった。

 当時の世論を考慮した侍従長徳川当然の職責、真意露見隠蔽、天皇擁護目的の歪曲解釈工作で、天皇の御意ではない。理由二つは徳川個人の持論で、かつ御意隠蔽目的の方便「それ(御意)をあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがある(世論に反する)」のです」と徳川は、御意隠ぺい工作を白状している。天皇擁護目的の侍従長徳川の歪曲解釈を、語感に鋭敏な歌詠みは当然見抜いた。結果、特筆し、詳細な解説となった。臣の差別皆無天皇の「うれひ」は、天皇の基に臣一丸の護国蜂起軍愚弄の分祀騒動か、合祀か、考えれば子供でも分かる事だ。工作員がこの歌で騒がなかった理由でもある。

 昭和50(1975)年11月20日富田朝彦宮内庁長官が参議院で、明日の天皇靖国参拝は公人か私的行為かと厳しく追及された。吉国一郎内閣法制局長官は、憲法違反とまで言えないが、「第20条第3項の重大な問題になる(国の宗教活動の禁止)」と発言。翌日終戦30周年の参拝。これ以後参拝無し。当時徳川は、侍従次長。

 昭和53(1978)年10月17日「昭和殉難者」としてA級戦犯14人が靖国神社に合祀。徳川は、侍従次長。

 昭和54(1979)年4月19日「入江相政日記」朝日新聞社刊『・・・朝刊に、靖国神社に松岡、白鳥合祀のことなど出、テレビでもいふ、いやになつちゃう・・・』と入江侍従長記す。合祀で大騒ぎするマスコミを非難したのであって、合祀を非難したのではない。

 昭和61(1986)年8月15日前年靖国参拝の中曽根首相が、一転して不参拝発表当日の歌。「この年のこの日にも また靖国のみやしろのことに うれひはふかし」日本国最上位の臣職天皇に、臣職上下の差別など皆無。「また」は、昭和50年昨年今年と、中韓に迎合し参拝を非難する与野党とマスコミ。天皇の「うれひ」は合祀に非ず、国民の愚民化騒動が「うれひ」。世論に反する御意を知り、徳川侍従長は以後、天皇擁護工作に動いた。当事者徳川は侍従長として、問われた場合の返答に、世論に迎合した、前出の二つの理由を用意した。御意と明らかに異なる理由が工作の証し。

 翌62年9月22日天皇入院、腸の通過障害のバイパス手術、10月7日ご退院。

 63年4月25日天皇天皇誕生日(29日)のための記者会見(最後の)。体調不良で半分の15分で会見切り上げ。卜部日記に「陛下の涙が話題に(目に光るものがあったと記者の証言)」とある。
 4月26日
に徳川は侍従職参与となり、最初の出勤が28日。

 昭和63(1988)年4月28日(翌29日は天皇誕生日)は、当時宮内庁長官富田のメモ日付。同様のことを聞いたとされる、報道担当卜部侍従の日記も同じ日付。体調不良の天皇に非ずは明白。徳川は侍従長を退任し、4月26日から参与職、問われたので答えたで辻褄が合う。富田メモ研究委員会は“合祀に不快”と捏造、敗戦にも逃げずの天皇を、他虐偽善者扱いし愚弄。御製が捏造を暴いた。2につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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