QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 09123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 11

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観2十人中九人がニセ者家系図露呈が恐怖となり朝鮮人の済州人虐殺に拍車

1946年12月軍政、南朝鮮過渡立法議員設置。官選議員45人、民選議員45人(済州島は凶産ではないので、凶産ボイコットの10月の選挙に参加、二名当選)の右派で占められた。

1947年7月10日米ソ合同委員会第二次会議決裂。左派右派の合作は決裂した。

島民団結平穏に自治の済州島と済州人をマネ中華差別大威張りの半島人

 南夷の済州人を差別せずの懇意は、同胞半島人からニセ者と疑われ除け者にされる。差別し続けなければ身分が疑われ、正体がバレて差別される。恐怖である。妊婦や赤子までもが赤と偽り大虐殺された原因は、ニセ両班同士の疑心暗鬼!
 
犯日を叫ばなければ親日とされ、差別される現代とまったく変わらない、反省無き愚民の成れの果てである。悪習破壊の日本撤退後、この恐怖の連鎖が半島人を覆い尽くし弾け、島での対立の溝が、限りなく深まった。悲惨、済州島ガス室の始まりである。

1945年8月15日終戦。済州島出自戦後帰島し、数ヶ月で島民倍増、30万に達した。日本軍5万人が島の駐留地に留まったが、島民倍増食料不足にもかかわらず、いさかいもなく食料も調達し、10月に引き上げている。重し取れ弾けたような韓半島の反抗暴動や、日本での戦勝国気取りの暴動三国人の不法行為は済州島では起きなかったのである。島民には李氏朝鮮獣家畜差別の身分差別は、皆無の証である。戦後日本に留まり、戦勝国と自称し暴れた罪日とは明らかに異なる。罪日は暴動で、李氏朝鮮儒教人身売買獣家畜差別の犠牲者出自を、自白している。李朝差別の憤懣が爆発し、賎民脱出に動いたのだ。犯日を叫んでいるのは輩の子孫、現代の罪日だ。暴動は李朝差別で帰国せずの罪日のみで、三国人(朝鮮、中国、台湾)などと同一視すべきではない。戦勝国、敗戦国、どちらともいえない国が三国の意味。朝鮮は敗戦国。

朝鮮には李朝差別が有り台湾には無かったが、暴動有無の違いである。

 現代同様差別の根の深さに無知な日本が、警察や官吏は親類縁者でつながる島民を避け、日本のように島外なら中立と思い込み、半島人を起用した。李氏朝鮮やマネ中華差別半島人の警察や官吏と島民は軋轢があり、島民末端は自治組織として団結していた。日本統治の間は、監視も行き届き目立った対立は無かった。しかし終戦後ただちに島独自の治安隊が自主的に組織されたことは、半島人の横暴を警戒してのことと推察できる。四三事件朝鮮人著作に、対日協力者として出てくるのは、島民を差別した半島人のことで、半島人の島民差別が起因の虐殺を、凶産や日帝や対日協力者等に責任転嫁して、隠蔽した。

1945年9月初めには日本や満州から帰還した青年を中心に青年会が組織され、島民への啓蒙活動を展開し、下からの積み上げで治安隊や自治組織等がつくられた。島の警察は無視されたのだ。

1945年9月10日半島木浦での建準(朝鮮建国準備委員会)に触発された凶産主義呉大進、金正魯などが済州島に渡り、島の自治組織にもぐりこんだ(凶産の撒き餌、平等が一致したのだ)。建準は、40~50代の島の長老や名士が重責を占め、韓半島凶産主義とは程遠い異なった組織であった。9月末には人民人民委員会(建準青年同盟)として発足した。

済州人をマネ中華差別し大威張りの半島人と伝統に生きる耽羅(済州)人

四三登場人物の出自資料があれば、こんな遠回りなどせず一目瞭然なのだが、いかんせん隠蔽されている。後の研究者に託す。

 済州島は北済州郡(済州邑、涯月面、翰林面、朝天面、旧左面)南済州郡(西帰面、中文面、安徳面、大静面、南元面、表善面、城山面)からなる。

 身分制度廃止の日本が居なくなると、待ってましたとばかりに、李氏朝鮮儒教人身売買獣家畜差別の半島人官吏が威張りだし、半島の役人が、済州島からの商品に関税を掛けたり、済州島からの旅行者に上陸税を課したりし始め、「血が汚れる」と半島人から差別された帰島者の話が真実となり、済州島は半島の南朝鮮労働党指導の下に済州人の人民委員会を設立、団結した。半島の「血が汚れる」差別を肌で感じた委員会は、獣家畜差別復活を畏怖し、半島の委員会従属を拒否、独立の道を主張した。 

1945年半島の凶産暴動勃発「10月人民抗争」。日本軍帰還後鉄道労働者のストの鎮圧と穀物の強制徴収に端を発し、日本罪日と同様の暴力騒動が半島の各地で起こり、米軍の戦術部隊が鎮圧するまでに、警察とデモ隊合わせて数百名の犠牲者が出たことで、米占領軍の左翼に対する姿勢は急に硬化した。済州島は凶産組織ではないので、島民は当然不参加、平穏な島であったが、済州島委員会も左翼とみなされ、公職から追われ、差別団体右翼が攻撃するようになった。10月差別団体「漢撃団。右翼」と衝突し、委員会が罰金刑、差別団体は処罰されなかった。半島人は被差別者の乱と認識済みだが、米軍は左翼と認識するのみ。済州衝突実体は、差別者(半島人)対被差別者済州(耽羅)人である。“三無”の人の良さが災いし、殲滅者(半島人)と明確に判別出来得ず悲劇となった。

1946年10月の半島軍政。前記のように、半島凶産がボイコットした選挙に、凶産に非ずの島民は当然参加、二名選出。島の人民委員会は学習会や講座、体育会や演芸会などの文化啓蒙活動を全島で展開し、教育に力を入れ、1947年までに小学校44校新設し、生徒数18000人増加。中学校は10校新設、生徒数3百人から3千6百人に急増している。(済州島四三事件第一巻済民日報)。島の人民委員会は半島の凶産と異なる、島民総意がボトムアップされた最新の民主主義自治組織として機能していた。凶産独裁ではなく、現代民主主義同様、共産の集合体であった。

1947年2月5日物資が不足し、米軍政官吏や警察と癒着し密輸で荒稼ぎする「暴利輩」がはびこり「暴利輩天国」と呼ばれた(東亜日報)。

1947年2月23日半島から100名の増派警察官来島。

1947年3月1日三・一事件。三・一節28周年を記念して、現在の済州市で開かれた集会の行進に警察が発砲、10数名の死傷者を出した事件。

 軍政の指定会場を拒否し、済州北国民学校で開かれた。この済州の地区には3万人、ほかの10地区でも数千名が集まり全島挙げての大会となった。南朝鮮過渡政府の形勢に反対し、モスクワの三国外相決定と国土統一を求める大衆行動へと急速に発展、島の政府職員や警察官や兵士も加わったが、半島や日本のような暴力騒動ではなく、非暴力的なデモであった。行事終了後警察署の近くを行進中、騎馬警官の馬に6歳ぐらいの幼児が蹴られたが、、騎馬警官気づかず通り過ぎようとしたため、群集が非難し責めた。驚いた警官が馬を走らせ警察署に逃げ込んだため、居合わせた警官、群集が攻撃と勘違いし一斉射撃。15歳の少年と島民6人が死亡、6人が重症を負った。近くの道立病院に血だらけで担ぎ込まれた負傷者を見て、病院にいた警官が動転して小銃乱射、通行人二名に重症を追わせた。発砲したのは一週間前に半島から増派された100名の警官隊であった。半島の「血が汚れる」519年の獣家畜差別とニセ中華差別、行進=左翼=赤化の先入観と最下層民で、過敏に反応、獣を撃つごとくに一斉射撃した。注・警察官のほとんどが半島人で、差別破壊の日本の重しがとれたため弾け、島民をマネ中華で獣差別が、真相だろう。三・一までの島民対警察の軋轢が隠蔽されているので、推測に過ぎないが、余りにも安易な発砲の説明がつかない。

 その後警察隊は、病院での発砲は無分別と認めたが、警察署一斉射撃は正当防衛と開き直り、翌3月2日実行委員会の幹部15人を捕縛した。

 一週間後石と棒で武装した1000人を超える群集が逮捕者の釈放を求めて朝天面の留置所前に集合し小競り合いとなり、警察の発砲で五人が死亡した。

1947年3月10日南労党は反警察を掲げ、全島ゼネスト突入、一部の警官や160の団体と軍政庁官吏の75%が参加した。この抗議のゼネストは島のすべての行政を麻痺させた。要求事項は、警察官の処分と対日協力者の警察からの追放、事件死傷者への保障、逮捕者の釈放、米ソ共同委員会の再開などであったが、米軍政は拒絶。

1947年3月14日米軍政調査団の見解。「ストライキの根本原因は三・一暴動当時の警察の行動に対する憎悪心によるようである。最近、南労党がこのような憎悪心を住民の扇動に利用している」。「済州島は人口の70%が左翼団体の同調者や関係者であるような、左翼の拠点として知られている」(3月14日付米第6師団G-2報告書)注・半島人=対日協力者なのだが、婉曲表現。米軍は単に左翼とみなしているだけ。

 摘み食い朝鮮人の著書だと、こんな見当違いの捏造本となる「近世の済州島の民乱と抗日運動の伝統を引き継いだ民衆戦後史の絶頂」「済州島抗日運動と四・三の関連性・朴贊殖」。戦国時代、寄る辺無き窮鳥となり、日本の懐に飛び込んで来たくせに、抗日運動などとは摘み食いの限りだ。米軍を恐れおののき迎合し、単に抗日を隠れ蓑にしたに過ぎない。厚かましいにも程がある。

1947年3月14日半島から警察総帥趙炳玉警察部長来島」し済州道庁のストライキ中止の呼びかけで、「済州島の人々は思想的に不穏である、建国の邪魔になるなら、一気に片付けてしまうこともいざとならば出来る」と語った(道職員の証言。済州島四・三事件。文京洙)。注・同胞半島人へ家系図誇示、明白なマネ中華差別、済州島ガス室宣言である。

西北青年会(西青)以下、西青と略。

 西北青年会(西青)は半島北で土地無し賎民に追い出された元土地所有者。人間を獣扱いし、生かすも殺すも思いのままの、元は凄まじい人身売買獣家畜差別した身分で、復讐心の塊でバリバリの反共蔑視差別集団である。当時の人口南北2.512万人の1/2で約一割、80から100万人の亡命者数は、ほぼ全員であろう。実体は下克上の落人、難民なので、見透かされるのをキライ、耽羅人虐殺をより粗暴に残酷に振る舞い、南半島人に見せつけた。半島人も耽羅人をやさしく扱えば家系図捏造がバレ、差別されるので、負けじと凶暴になった。残虐と凶暴の競争である。犯日を叫ばなければ親日とされ、差別されるので、犯日競争に明け暮れる現代の韓国や罪日、まったく同じである。李朝時代半島北が西北呼称されたことが由来。当時西北とか西青と略称された。1946年11月30日の結成式には700人余りが参加、49年9月に一部分派(大同青年団略称は、大青)、登録団員は6000人ほどであったが、最盛期には7万人を超えた。西青は李承晩や韓国民主党を後ろ盾に反共テロ右翼活動のみならず、政敵の暗殺、半島北工作にも利用された。この西青を済州島に送り込んだのは軍政警務部長趙炳玉。

 1947年3月15日左派暴動吹き荒れる半島から増派された222~400名の済州蔑視のマネ中華警察官と左派に土地を奪われ恨み骨髄の西青800名(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)の元生殺与奪権者到着。差別が元のいさかいが、新たな差別を呼び拡大し、もはや消火ではなく火に油は、誰の目にも明白である。半島や罪日隠蔽の皮を、一皮剥げば差別が現出、明解になる。耽羅(済州)人は、ユダヤ人虐殺民族浄化のヒトラー差別で虐殺されたと言える。済州島はガス室にされた。

以下正体現出したので耽羅死守隊(済州人と潜り込んだ凶産)と朝鮮殲滅軍(半島人、警察、西青)と略記

 趙炳玉はストライキ首謀者の逮捕を命令、18日まで200名、趙炳玉が半島に戻った後も検挙は止まず5月10日までにさらに500名が検挙された。

1947年4月15日三・一ゼネストに同調した朴景勳は解任され、米軍政も極右みなす柳海民知事が、西青7名を護衛に従え来島。就任当初は「極右極左を廃し、中道で臨む」との言明であったが、常にサングラスの強面で島民に接し、極右そのものであった。西青は、西北の腕章を巻き大極旗や李承晩の写真の押し売りを収入源とし、島民へのテロに明け暮れたが、47年後半になると警察や教育分野に登用される者が増えた。

 1947年6月終達里村で何人かの警察が殺害されたため、警察と西青の朝鮮殲滅軍は終達里村を包囲、村人数人を手当たり次第に引きずり出し、即決で処刑し報復した。こうしたことで西青や警察との対立がさらに深まり、より結束は固まり、敵の敵は味方凶産の撒き餌、共産の平等へ飛びついていった。

1947年10月21日大青の大同青年団済州道団部統合(警察補助隊として、左派勢力に対抗した島民右派が主体。当初団員数1000人を超え西青を凌駕していた)

1947年11月2日西青の西北済州道本部結成大会。

1947年11月12日~48年2月28日までの米軍特別監査官の報告「柳(知事)が独創的な方法で政治理念を統制しようとしていること、これによって左派は地下に追いやられその活動は一層危険変貌し、その数と同調者は増加している。警察の幹部をすべて本土出身者に挿げ替え、警察はテロ行為をほしいままにしている」と報告し、柳海辰知事の更迭、警察行政等の改革意見を上申したが、柳海辰知事は留任し、やり方はそのままとなった。西青に正規の収入は無いため、島民に寄生し、ゆすり、脅迫、所場代など“赤狩”をたてに、警察の法の枠からも外れ、非道の限りを尽くした。警察と反共李朝差別階級西青の島民への振る舞いは横暴を極め、横暴、報復の悪循環が始まった。そして柳海辰知事の強硬な米穀徴収政策は、島民の差別の不満や怨念をたぎらせ、島は一食即発の爆弾と化した。「全島が鬱憤と呪いで満ち溢れた。村ごとに職場ごとに、秘密集会が開かれ、ビラが撒かれ(地上に匙一つ。玄基榮)」

 事実と対面せず歪曲し今度は米軍に責任転嫁する摘み食い朝鮮人著書「テロと報復テロの悪循環を起動させたのは結局、そうした米軍政の対応であった(済州島四・三事件。90P文京洙)」朝鮮人著書は一様に右翼左翼の戦いとしているが、「血が汚れる」差別の半島人の侵略者対、奴隷拒否の済州人蜂起が実体である。

1948年初頭までには島の人口の二割6万人が南朝鮮労働党員となり、8割の島民が支持した。半島人(警官・西青)対済州人との対立が明確になった。

1948年1月22日朝鮮殲滅軍、朝天面の耽羅死守隊アジトを急襲106名を逮捕、26日までにアカと決め付けさらに221名を逮捕、逃走慣れのアカは逃げるのも巧みで皆逃走、捕まったのはほとんどがアカとは無縁の島民。

1948年2月9~11日国連介入反対の二・七ゼネストに呼応し、済州島南労党デモや警察への襲撃。警察は南労党本部襲撃し一斉検挙。3月6日に朝天警察で学生(21歳)、14日に留置中の大静面の青年(27歳)、3月末に翰林面で青年(22歳)がそれぞれ拷問獄死や銃殺され、済州島に極差別皆殺しの恐怖が走った。当然穏健意見が消えた。

1948年2月末~3月初旬南労党メンバーで蜂起に参加し日本に脱出した李三龍の証言(真相調査報告書)「武装蜂起が決まったのは、1948年2月末~3月初めのことだ。その日、新村で会議が開かれ、島党の責任者と各面の党の責任者など19人が新村のある民家に集まった。参加者は趙夢九、姜大錫、金達三、私、金斗奉、高七鐘、金良根など19人だ。李徳九(後に凶産逃亡後引き継いで戦死)は居なかった。その場で金達三が、蜂起の問題を提起した。金達三が先走ったのは彼が短気だったからだ」。

 「ところが、議論は強硬派と慎重派に二分した、慎重派は趙夢九城山浦人達7人だった。彼らは『我々は失うものもない、もうちょっと成り行きをみよう』といった。強硬派は私と李鐘佑、など12人だった。当時中央党の指令はなく、済州島自身で決定したことだ。オルグはいつもやって来たし、金斗奉の家が本拠地だった。解放後、姜文鐘は一度も済州島に来ていない。金達三は20代だったが、組織部長なので実権を掌握していた。もう長老たちは捕まって獄中にいるか、逃げていた。安世勲、呉大進、金澤銖など長老はすでに済州を発った後だった。強硬派の中心人物は金達三であり、この証言に登場する姜文鐘は、南労党の中央委員会で金達三の岳父(妻の父)であった。この大物南労党員の七光りも済州島内での金達三の昇進や発言力を支えていたと考えられる。いずれにしても、蜂起の決定は、南労党中央の指令を待たず、李三龍の証言を借りれば、『情勢把握も出来ず、慎重さを欠いたまま金達三に煽られ』るようにして下されたのだった」

 脱出者の証言なので鵜呑みには出来ないが、『我々は失うものもない、もうちょっと成り行きをみよう』は本音だろう。極度に追い詰められ、敵の敵は味方としての蜂起が実体。

1948年3月15日済州島人民遊撃隊報告書。「漢拏山は知っている。埋もれた四・三の真相。文昌松」「・・・事態がより悪化することを看守した島常委は、3月15日頃、道(全羅南道)派遣のオルグを中心に会合を開き、第一に単選・単政(単独選挙・単独政府)反対の救国闘争の方法として、適当な時期に全島民を決起させる武装反撃戦を企画決定した。決行の日時が決まったのは3月28日のことであった」。

1948年4月3日午前1時前後、漢拏山中腹に烽火揺らめき、蜂起の信号弾煌きこだました。

 合言葉大豆小豆を交わしながら、攻撃は、警察24支所の内12支所と、右翼事務所宿所に限定された。「真相調査会」による、この日の犠牲者。「警察死亡4人、負傷6人、行方不明2人、右翼など民間人死亡8人、負傷19人。耽羅死守隊(推定300人が、98式銃30丁、竹やり、斧、鎌で襲撃した。貧弱な武器、まさに蜂起である)死亡2人逮捕1人」

 耽羅死守隊「武装隊、遊撃隊、人民解放軍、自衛隊、特警隊。山の人、山軍、山部隊と記録や証言が様々である。報告書では遊撃隊(主力部隊)、自衛隊(村ごとに組織の主力部隊を助ける補助部隊)、特警隊(偵察情報の特務隊)」が組織されたとある。

蜂起のビラ島民へ

市民同胞よ!

敬愛する父母・兄弟の皆さん!

今日、4月3日、あなたがたの息子と娘、兄弟たちは、武器を持って立ち上がりました。

売国的単独選挙・単独政府に死を賭し、反対し、祖国の統一・独立と完全な民族解放のために。(凶産)

あなたたちを苦難と不幸に貶めた米帝人食い人種(凶産)とその手下等の虐殺行為を阻止するために!(耽羅人)

今日あなた方の骨髄にしみた怨恨を解き放つために!我々は武器を持って決起しました。(耽羅人) 

あなた方も、最後の勝利のために闘っている私たちを援護し、我々と共に決起しなければなりません!

注・凶産反乱目的は後方撹乱で、耽羅人は虐殺蛮行行為阻止目的で異なる。唯心「三無」の好人物耽羅人は、唯物凶産に利用された。

蜂起のビラ警察官へ

親愛なる警察官よ!

弾圧ならば抗争だ。済州島遊撃隊は人民たちを守護し、同時に人民たちと同じ立場に立っている。

良心的な警察官等よ!抗争を望まないなら人民の側に立ちなさい。

良心的な公務員等よ!一日も早く我々の側に立って、任務を遂行し、職場を守りながら、悪質同僚らと最後まで闘え!

良心的な警察官、大同青年団(警察補助員として左派勢力に対抗した。島民右派が主体。当初団員数千人を超え西青を凌駕した)よ!あなた方は誰のために闘うのか?(混在する耽羅人へ)

朝鮮人ならば我が領土を踏みにじる外敵を跳ね除けなければならない!国と人民を売って、愛国者等を虐殺する売国・売族等を倒さなければならない。(凶産)

警察官たちよ!銃口は奴らに向けろ。あなた達の両親・兄弟達に銃口を向けてはならない!(混在する耽羅人へ)

良心的な警察官、青年、身主要人らよ!一刻でも早く人民の側に立ちなさい!反米救国闘争に呼応して、決起しなさい。(凶産)

注・警察官と大同青年団と公務員に混在する耽羅人への呼びかけと、凶産の呼びかけ。

1948年4月5日警察監察庁内に済州非常警備司令部が設置され、半島より司令官金正浩が来島。新たに趙炳玉警察部長の要請で応援警察官100人と、西青団員500人が済州島に派遣された。

1948年4月17日警察力だけでは無理と判断した軍政は、軍を介し、朝鮮国防警備隊だ9連帯にも鎮圧作戦参加を命じた。

朝鮮国防警備隊

 警備隊は軍政化の軍事組織として1946年1月16日に組織。軍隊とは名ばかりで装備は警察より劣り、警察の補助機関的存在であった。第9連隊は島のほかの連隊より遅れて組織され、他は島民隊員なのに韓半島光州から54人が派遣され創設された。47年からは島民も募集され。四・三当事は800人となっていた。

 耽羅死守隊は警備隊を識別し、第9連隊攻撃を避けており、鎮圧命令後も第9連隊は討伐ではなく宣撫活動に専念した。第9連隊長金益烈の後日証言「米軍政の監督不足と失政(本音は半島人極差別)によって島民と警察が衝突した事件であり、官(半島人)の極度の圧政に耐えることの出来なかった民の最後の手段として起こした、民衆運動(四・三の真実。金益烈)」。

1948年4月17日咸徳里付近で数名の警官を捕らえた。「戦闘で済州に捕らえられた警官は、人民裁判の後の刑の執行は、済州の女性兵士にゆだねられた。彼女たちが警察に最も苦しめられていたからである。(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)」。注・米軍失政の証言であるが、本音は半島人極差別。李朝の奴婢差別を物語っている。現政権隠蔽中なので語れない。

1948年4月28日第9連隊長金益烈と耽羅死守隊金達三の和平交渉で以下の三つの条件で戦闘中止に合意、島軍政も同意した。

一、72時間以内の戦闘の完全中止。もし散発的な衝突があれば連絡ミスとみなし、五日以降の戦闘は背信行為と見なす。

二、武装解除は暫時行うものの、約束を違反すれば直ちに戦闘を再開する。

三、武装解除と下山がなされれば、主謀者の身の安全は保障する。(四・三の真実。金益烈)

 三・一事件から四・三蜂起まで一年余の逮捕者は2500人を超え、左翼や同調者と見なされただけで、職場からも追われた。「血が汚れる」差別に徹底抗戦のため、一身を賭して山にこもるか、差別の軍門に下り奴隷となるか、島を捨てて差別無き日本に亡命するかの、選択肢しか無かった。4月3日から29日までの死亡者は65名であった。(第24軍団の情報報告書)。

 しかしこの和平はソウル軍政の強行鎮圧論で破られた。(真相調査報告書)

1948年4月29日ある警備中隊の大多数30~100人が耽羅死守隊に合流した。(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)。

1948年5月1日警察の手先右翼青年団が吾羅里の村に放火する「吾羅里事件」を引き起こし、ソウル軍政首脳が急遽来島、和平を破った。

1948年5月1日和平交渉の第9連隊長金益烈は解任され、第9連隊は第11連隊が吸収。5月15日朴珍景中佐が第11連隊長に就任し、「暴動事件を鎮圧するためには、済州島民30万を犠牲にしてもかまわない(四・三の真実。金益烈)」と同胞半島人へ家系図誇示の殲滅宣言。騒乱の根源極差別が正体を現した。まさにナチスである。注・この時点で済州島民30万。3につづく⇒

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/221-8ad577f5

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。