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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観3ガス室済州島耽羅人大虐殺四三事件は民族浄化同胞殺し族譜戦争の始まり

1948年5月10日選挙当日の攻撃で警察官一名、右翼青年団7名耽羅死守隊21名が死亡。五・一0選挙、米軍の総力を挙げた韓半島では95,5%となったが、済州島南済島郡86,6%、北済島郡甲区43%、乙区46,5%となり、甲乙区の選挙区無効宣言し、6月23日の再選挙とした。しかし耽羅死守隊の攻勢止まず、6月10日無期延期と発表。

1948年5月20日頃米軍政ブラウン大佐を済州地区米軍司令官として派遣。ブラウン大佐指揮下で、“済州島民30万を犠牲にしてもかまわない”殲滅宣言の朴珍景第11連隊による海岸地域を除くすべての鎮圧戦が始まり、2000人の警察は海岸地域を攻めた。第11連隊は五月下旬から6月の6週間で4000人を逮捕し尋問、約500人を拘束。しかし逮捕された者のほとんどが、警察や右翼の横暴を避け入山した村人達であった。

従軍記者趙徳松の取材
「・・・捕虜たちが護送されてくる・・・うなだれたまま引き立てられていく彼・彼女たちの顔色はその衣服の色と同じ色だった。どこから観ても暴徒にはみえない。12~13の少年だったり、60を越える年寄りだったり、さらに婦女子までもが、なぜ暴徒だとされなければならない境遇に至ったのか、話かけてみた。しかし、後ろを向いてしまう。鉄兜と軍の腕章をはめた筆者の姿も、彼・彼女たちの目には警備隊と映ったであろう(流血の済州島)」

1948年6月1日この戦果に満足した軍政は、殲滅宣言朴珍景を大佐に進級させた。朴珍景は進級祝賀会の翌朝6月18日に部下に暗殺された。

 こうした無差別逮捕は溝を深めるばかりで、6月18日266人に減った耽羅死守隊は、7月15日には逆に501人と増え、武器もM1銃6、カービン銃19、小銃147、軽機関銃1、摘弾筒2門、手榴弾43、ダイナマイト69、拳銃8と、蜂起初めの、98式銃30、竹槍斧鎌とは異なり、充実した物となった。(済州島人民遊撃隊報告書)

1948年7月15日第11連隊を分割し第9連隊を復活させた警備隊総司令部は、住民虐殺に及び腰の崔

慶録連隊長から、宋尭讃だい9連隊長に挿げ替えた。

1948年7月李承晩(73歳)大統領に選出。

 半島北も南に対抗し統一選挙を打ち出すが、戦時下の済州島では、白紙に署名捺印の白紙委任方式となった。

1945年9月28日日本軍の降伏受理と武装解除が任務の米軍先発隊38人到着。

1945年10月22日日本軍送還が任務の米軍到着。総計5万人の民間人と日本軍はすみやかに帰還した。

1945年11月10日米軍スタウト少佐の中隊、将校7人兵士40人、たったの47人で島の占領と軍政が始まった。いかに平穏であったかの証である。「済州島出身の朝鮮人が大挙して帰郷してきたのである。解放後の数ヶ月で民間人の数はほとんど倍増し30万人に達した。・・・ようやく11月半ばになって第59軍政中隊が到着した。それまでの間に人民委員会が“島で唯一の政党、一切の範囲と目的において唯一の政府”として自らを強固に確立した(済州島四三蜂起。ジョン・メリル)」

1948年8月初めこうして選ばれた金達三など5、6人の幹部は、済州島を脱出し半島北の会議に参加、35人の主席団の一人に金達三が選ばれ、南側から選出の360人の代議員に済州島の5人(金達三、安世勲、姜圭燦、李貞淑、高珍姫)も含まれていた。金達三は以後済州島に戻らず、朝鮮戦争で戦死とされている。輩は耽羅殲滅戦と見切っていたため、無駄死になので帰島せず。まさに凶産は唯物そのものだ。耽羅死守隊凶産に非ずの証。

 金達三指導部が去ったため、耽羅死守隊再編成、当時28歳の李徳九が隊長となった。古来済州では指導者を状頭(チャンドウ)と称し、李在守(1901年新徴税行政とカトリック導入に対しての李在守の乱)のように戦いに成果を収めた後は、命を差し出し、島民に塁が及ばぬようにした。事態悪化を前にして、凶産主義金達三らの戦線離脱は非難の的となった。唯物凶産の正体である。

1948年8月13日USAから朝鮮独立。ここから実体あらわな、ナチスとユダヤの民で、同胞半島人へニセ家系図誇示のため、済州島は虐殺のガス室と化した。

1948年8月28日800人の警察応援部隊到着。海岸線封鎖し、旅客出入り査察を強化し、島民を隔離し閉じ込めた。

1948年8月29日国防警備隊と海岸警備隊が国軍に編入され、9月に国軍として正式発足。国軍司令部は引き続き米軍のまま。

1948年10月5日島民の済州警察監察庁長が突如更迭、後任に半島北(平安南道。元生殺与奪権者)出身の洪淳鳳が着いたため、また皆殺し西青団員が大挙して来島した。

1948年10月11日新規発足国軍直属の済州道警備司令官が設置され、半島の金相謙大佐が司令官に着き、すべて掌握した。警察主体から軍隊に移行した。「強制鎮圧作戦は米軍顧問官の強制の下に実施された(済州島四・三の焦土化作戦と大量虐殺に関する研究。咸玉琴)」と半島人はここでも責任転嫁しているが、米軍は半島の済州差別「血が汚れる」を知らない。知っている半島人が、現代までひた隠しに隠したように当時も隠蔽したので、当然である。米軍は単に敵凶産と認識したに過ぎず、焦土化作戦を実行したのは独立直後の半島人で、米軍ではない。実に醜い責任逃れである。

1948年10月17日老若男女無差別殲滅宣言、宋尭讃第9連隊長の布告。
 「軍は、漢拏山一帯に潜伏し、なんぴとも憤怒する蛮行を敢行する売国極列分子を掃討するため、10月20日以降、軍の行動終了までの期間中、全島の海岸線から5km以外の地点および、山岳地帯の、不許可通行禁止令を布告する。この布告に違反するものはその理由如何に関わらず、暴徒の輩とみなし、銃殺の刑に処す」そして海軍7隻の艦艇で、済州の海は封鎖された。まさに済州島は虐殺のガス室と化した。

1948年10月19日麗水・順天事件。済州焦土化作戦を発令された韓半島麗水駐屯の第14連帯が拒否し反乱。14連帯は左翼が多い光州地域の兵が主で、警察への反発も強かった。四・三蜂起以後の「粛軍(軍内左翼粛清)」の猛威で、左派は逼迫していた。2500人余の将兵に、左翼や学生が合流、順天を始めに近隣に拡散した。占領地では警察や右翼に対し“人民裁判”が横行、麗水だけでも1200人が殺害された。10月22日に戒厳令。以後30日の軍鎮圧と、60日の特殊警察の関係者逮捕で終息。残党は山に逃れ野戦隊に合流、後に智異山界隈で勢力を成した。「この鎮圧作戦を指揮したのは米軍事顧問ハウスマンであったが、その強硬な鎮圧家庭には民間人を含むおびただしい犠牲者がともなった(済州島四・三事件文京洙)」 とここでも、国内の差別復活阻止下克上の乱を、責任転嫁である。

 第14連帯と兼任の、半島の金相謙司令官は更迭され、済州道警備司令部の副司令官宋尭讃が昇格、済州島殲滅作戦の陸海警察の陣頭に立った。

 麗水・順天事件以後、「11月から12月にかけての2ヶ月間の間に、少なくとも1000人以上の西青団員や警察が警備団員としてにわかに服を着替えて鎮圧戦のただ中にたつことになった(真相調査報告書)新司令官宋尭讃は西青団員を、軍の“特別中隊”とし「特別中隊にはタッチするな、もし手を出せば死ぬ思いをするだろう」と将校を威嚇、同胞半島人へ家系図誇示し、西青団生殺与奪差別に拍車をかけた。「実はこの西青済州島への導入にも、米軍は関与していた(済州島四・三事件。文京洙)」とここでも日帝日帝と叫ぶが如くに、米軍米軍とそこかしこで責任転嫁、まさに無恥な愚民だ。

1948年11月11日耽羅死守隊朝天面警察支所襲撃。

1948年11月13日深夜2時朝天面橋来里を朝鮮殲滅軍襲撃し放火、100余りの村が一夜にして消えた。3歳から70歳までの老人女子供30人が虐殺された。朝鮮殲滅軍は近隣臥屹里にも移動し襲撃、2歳の赤子や婦女子が虐殺された。この虐殺は他の村々でも同様であった。「9歳になる息子が“お母さん”と私のほうに走りよってきました。すると軍人は息子めがけてまた銃を撃ちました。“この野郎まだ死ななかったのか”という軍人の声が今でも生々しいです。息子は胸を貫通して撃たれ心臓が飛び出ました。彼らは人間ではありませんでした。それに背中に負ぶっていた娘の足にまで銃弾が貫通して、手の平ほどに穴が開いていたのです(梁福天証言。済州四・三。許榮善)」

1948年11月17日戒厳令布告。「戒厳令布告以前は若い男子が犠牲の対象であったが、以後は、3,4歳の子供から80代の老人まで老若男女が銃殺された(真相調査報告書)」済州島耽羅民族老若男女無差別殲滅作戦は、韓国政府の陣頭指揮で始った。裁判無しの無差別殺戮は、島民を山に追いやった。

 さらに朝鮮殲滅軍は11月21日避難し空になった朝天面善屹里に放火し、村を壊滅。次いで25日から3日間難民捜索し、隠れていた難民を即決銃殺し、ガソリン焼却した。

1948年11月28日朝鮮殲滅軍の手先とみなされ、南元面為美里で、約50人の住民が耽羅死守隊の犠牲になった。

1948年12月3日旧左面細花里で朝鮮殲滅軍の手先とみなされ、約50人の住民が耽羅死守隊の犠牲になった。

1948年12月14~19日表善面兎山里の虐殺。兎山里は指定避難地海岸から5キロ以内の2キロにある上兎山と下兎山からなる村である。12日、上兎山村民が下兎山への移動を命じられ、素直にしたがった。15日、18~40歳までの男たち157人が、表善の砂浜に連行され、虐殺された。

1948年12月10日朝鮮殲滅軍は涯月面蓋水洞で戸籍を手にし、村民を飛鶴トンサン(村の山)に呼び出し、応じず隠れた者は探し出され、63人が殺害された。東広里ムドゥンイワッ集落は朝鮮殲滅軍に消された村で、現在は爪あとのみが残っている。済州で86の村が殲滅の村となり消えた。「25歳くらいの妊婦でした。警察はその女性を大きな榎木に縛りつけ、警察官3人が銃に帯剣をはめて突き殺した。(死んだ母親の下敷きで助かった当時13歳安仁行証言。真相調査報告書)」

1948年12月19日あらたに250人の皆殺し西青団員到着。そのうちの一人朴亨尭の回顧「李大統領の許しも無く誰もが裁判も無しに民間人をやたら殺せる権限を持てるだろうか・・・李承晩は我々を利用した(済民日報四・三取材班済州島四・三事件第4巻)」

1948年12月20日ごろ、海岸から3キロの新興里や、表善里でも集団虐殺された。表善里でも同様に命令に従い避難した住民を表善里国民学校に集決させ、戸籍を点呼、1人でも抜けていれば耽羅死守隊家族と決め付け、家族を代わりに“代殺”、76名を虐殺した。「人々を集めておいてそれを見物しろといった。そして銃殺するとき拍手しろといった。銃殺のとき、子供が這って上のほうへ上がっていくとその子供にも銃を撃った(当時23歳呉泰京証言。済州四・三。許榮善)」

1948年12月21日「“自首”の呼びかけに応じて、朝天面成徳国民小学校に集まった200人あまりの住民の内、20代の青年を重点に、150人余りをパッソンネの川辺に連行し即刻銃殺、ガソリン焼却した。(一人だけ生き残った金太準の証言)」。

 「裁判なしの無差別殺戮は、住民を隠れ場所の無い海岸から山へ追いやり、漢拏山や周辺の雪中に6000人余の住民が避難した(地上に匙一つ。玄其榮)」。朝鮮殲滅軍はこのような難民も暴徒とみなし即決処分の対象とし、命令順守海岸部難民老若男女も、暴徒の家族とされ、処刑された。漢拏山麓の130余りの村はすべて焼却され、少ないときでも数十名の虐殺が12月まで毎日繰り返された。

 済州人と明記はされていないが済州島各界も、“左翼・赤色・細胞”として粛清された。10月末から11月初めにかけて第9連帯100人余が処刑、11月1日85人の警察官が検挙され、其のうちの20から30人が即決処刑で水葬、11月5日新韓公社職員30人余りが即決処刑で水葬、11月中旬、裁判長や現職検事等が連行され、大半が処刑。京郷新聞済州支社長玄仁廈やソウル新聞支社長李尚熹や済州新報の編集局長金昊辰等が処刑された。

1948年12月29日第9連帯から第2連帯へ済州島駐屯部隊交代。

1949年1月安須徳面東広里の住民120人は逃れ、クンノルケの洞窟に40日余り隠れ住んだが発覚、朝鮮殲滅軍に捕らえられ虐殺された。

1949年1月13日表善面城邑里で38人の住民が、朝鮮殲滅軍の手先とみなされ、耽羅死守隊に殺された。

1948年1月16日涯月面ピルレモツ窟に隠れている30余命の女子供老人を発見、外に出るよう誘導し、朝鮮殲滅軍は皆殺しにした。「子供たちの足をつかみ岩にたたきつけて殺し(済州四・三。許榮善。だまされず洞窟に残り助かった梁泰柄、当時25歳の証言)」

1948年1月17日朝天面北村里で朝鮮殲滅軍第二連隊が奇襲を受け、二人の軍人が死亡した。驚愕した北村里の長老等は議論の末に、二名の死体を担架に乗せ、成徳の軍本部に届けた。しかし軍は警察の家族1名を除き皆、殺した。さらに軍は、村民全員1000人余りを北村国民学校に集め、村を焼き払い、歩哨不行き届きで民保団責任者を即決処刑、挙句の果ては、村民を銃殺し始め、夕方の大隊長の中止命令まで延々と続けられた。大隊長は生き残った村民に、明日成徳軍本部への出頭を命じ、引き上げた。この日は300人余りが犠牲になった。一部の村民は山に逃れたが、翌日命令に従い出頭した村民100人余が、犠牲になった。「おぞましい悪夢、寡婦の村・・・男女の有権者の比率を見るとほとんど1/3に近いほどに男子の比率が少ない所(1960年12月22日の朝鮮日報)」

1949年3月2日新たに済州地区戦闘司令部が設置され、漢拏山や周辺に帰順勧告のビラが撒かれ、掃討戦(~4月12日)となった。「最も血生臭い時期で、一日平均の死亡者が100人を超えた(済州島四・三蜂起。ジョン・メリル)」。飢えに瀕した1万人余りが下山し、酒精工場に閉じ込められた。その内の多くが軍法会議にかけられ、量刑も罪名も知らされず、韓国の刑務所に送られた。

1949年4月9日李承晩大統領来島。

1949年5月10日再選挙で半島から1年遅れで国会議員選出。

1949年5月15日済州道司令部解散。

1949年6月国民補導連盟組織(左翼を転向させる思想善導団体)組織。1年後の済州島では2万7千人が加盟。

1949年6月7日逃げた凶産金達三の後を引き継いだ耽羅死守隊長李徳九、耽羅殲滅軍との戦闘で戦死。警察は木の十字架に縛り、丸1日さらし者にし、火葬にした。「骨だけでも収拾せよといいました。しかし、翌日雨がたくさん降り、すべて流してしまって収拾できませんでした(李徳九の姉の子で在日本済州四・三事件遺族会会長康実証言)」。耽羅の神々が哀れみ大地に引き取った。

1949年6月23日第二回四・三軍法会議

1950年6月25日朝鮮戦争。差別が起因で、差別で拡大の同胞殺し合いの愚行が半島で始まった。北朝鮮軍南下し4日後にソウル占領。数で勝る賎民(8割)の、差別復活阻止の乱、各地で爆発し助けたので、一気に南下出来た。韓半島は凶産の乱に非ず。すべて下克上の乱で、凶産はただ便乗しただけ。北朝鮮軍に占領された地域の囚人一万七千106人は解放され行方不明。戦乱を逃れ日本に脱出であろう。それ以外の地区の囚人2万229(済州人300人)人は、暴動を恐れた韓国が惨殺したと見られている。済州島に10万の難民が殺到した。

闇処刑闇埋葬で検束者の口封じ

1950年7月27日済州邑予備検束者(左翼活動経験者や左翼と疑われる者)集団虐殺し水葬。

1950年7月29日西帰浦予備検束者150人を集団虐殺。

1950年8月4日警察や酒精工場に閉じ込められた予備検束者500名余りが済州沖合いで水葬にされた。

1950年8月19日済州警察収監中の予備検束者数百名が済州飛行場で銃殺され闇埋葬された。島民252人が安徳面南端の旧日本軍弾薬庫で虐殺されている。松岳山で予備検束者252人を集団虐殺。同様の虐殺され闇埋葬は、各警察で有った。口封じのためである。 4につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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