QLOOKアクセス解析

真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
2017 07123456789101112131415161718192021222324252627282930312017 09

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

真実史観Ⅱ世界の毛皮の歴史と日本肉食の歴史

Ⅱ世界の毛皮の歴史と日本肉食の歴史

 世界が殺し合いの戦国時代、朝鮮人だけでなく、皆が悲劇であった。日本は窮鳥を矢面に立てず(朝鮮志願兵2万2182人、台湾志願兵3万304人戦死。日本は強制兵役、徴兵で、234万2341人が戦死)戦った。それを極悪人呼ばわりし(台湾人は誇りにしている)、朝鮮人だけが悲劇の主人公と捏造。同情を集め金をせびり取る詐欺の泣き売、厚顔無恥のし放題だ。南北朝鮮罪日、みな同じ詐欺手法で出自自白。日本人や台湾人に、愚民行為を愚民呼ばわりされても仕方有るまい、身から出た錆び、自業自得である。台湾満州朝鮮「日本の植民地の真実」黄 文雄著扶桑社2003.10.に学べ。朝鮮人や罪日が叫ぶべきは打倒李朝差別だ!犯日などではない。愚民呼ばわりは、無知や無恥を知らしめんがための、かっては身内の親心だ!

毛皮の歴史

毛皮(毛が付いたままの皮)のなめし法の発見 

 毛皮は剥いで直ぐ使えるものではない。裏の皮下脂肪等をそぎとり、乾かし硬くなったものを軟らかくしなければ使えない(なめし)。始めは叩いたり歯で噛んだりして軟らかくしたが、湿ると腐敗したので、燻製にし、対処した。この燻なめし法はBC8000年。植物の渋タンニンなめし法はBC3000年。並行して明礬(ミョウバン)なめし法が開発された。

皮革(表皮と毛を除いた皮)の古代製法

1・毛皮を水に浸け軟らかくし、掻きだし器(スクレイパー)でこすり表皮と毛を除去後、なめす製法。

2・動物の脳髄や肝臓、胃の内容物、獣脂、魚油、魚卵、草、枯れ葉、樹脂、などを漬けこんだ液に一定時間漬け、丈夫な真皮層以外の部分を腐らせ、腐りにくい丈夫な真皮のみを取り出した。時には人間や家畜の糞尿を用いることもあったらしい。現代人には不潔で穢れた製法と映るが、腐物中に増殖した細菌の分解作用を利用して、表皮と毛根皮脂線などを腐らせ一挙に除去するもので、実に、理にかなった方法である。汚物液中に発生したアンモニアやフェノールなどによって真皮層のコラーゲン繊維が固化されて、なめし効果も生じたはずである。この方法は、腐敗し残った毛の抜けた革の発見か、毛皮が湿ると腐り毛が抜けるがヒントであろう。腐らすという極めて簡単な原理で、しかも材料は身近なものばかり、手のかかる1ではなく2を、誰もが得心し用いたであろう事は推察できる。2の臭いが忌避され、部落化への大きな要因となったであろう。

 この方法は、シベリアの先住民族やサハリン北海道のアイヌでも、近年まで用いられていた。ヨーロッパでも、タンニンや明礬なめしが普及するまでは、糞尿でなめすことがおこなわれていた。おそらく、この方法はかっては世界各地で広くおこなわれていたのではあるまいか。こうして除毛・なめしがなされた革は十分に洗浄され利用された。タンニンなどのなめし製法との併用もあったらしい。「毛皮と人間の歴史」西村三郎著。

 「2で表皮と毛を除去後、タンニン法や明礬法でなめした」が、経緯から導かれる道理である。農耕定着以後近年まで、糞尿は田畑の有機肥料や魚の餌として人類の貴重な循環資源であったが、1843年英国化学肥料の発明以降徐々に忌避され、さらに水洗化で不浄な物に拍車がかかった。日本での糞尿不浄忌避は、たかだか半世紀程度。糞尿循環は生命体の習い、蟹味噌・シラス・煮干・うるか・貝類等現代でも食している。

現代の表皮と毛の除去法

 毛を除去してなめしたものをなめし革、毛をつけたままなめしたものは毛皮。動物の皮はタンパク質ケラチンを主体とする表皮層と、強靭な繊維状のタンパク質コラーゲンを主体とする真皮層からなり、真皮層はさらに上層の乳頭層と、下層の網状層に分かれる。乳頭層の表面は銀面(ヒアリン層)と呼ばれ、各動物固有の凹凸模様を示す。

 生皮は腐敗しやすいので、塩漬け(塩蔵皮)・乾燥(乾燥皮)・塩蔵後乾燥(塩乾皮)・防腐剤処理後乾燥(薬乾皮)して保存。不要なタンパク質、脂肪など除去し皮の組織間になめし剤を充填してコラーゲン分子間に橋かけ結合を形成させ安定化させる。

なめし準備作業(汚物、可溶性タンパク質、皮下組織、脂肪、毛など不要部分の除去)

 浸漬し吸水軟化させ水洗し脱塩後、フラッシングで皮下組織を除く。アルカリの石灰水に漬け、皮を豊潤させ毛根を緩め、表皮層を分解し機械的に脱毛する。酸やアンモニュウム塩で皮から石灰分を除き(脱灰)。さらにペーチングでタンパク分解酵素により、コラーゲン以外の不要タンパク質を除去し洗浄。この石灰漬け法の起源は調査中。百科事典にもなぜか記載無し。

現代のなめし法

タンニンなめし(植物なめし・渋なめし)1760年英人マックス・ブリッジ、タンニンエキスを考案。

 薄いタンニン液から徐々に濃い液に数日から数十日浸す。ぬめ革、多油革等の製造に適し、堅く強靭で耐水性にすぐれる。ベルトや靴の底革など。

明礬なめし(白なめし)

 白い革となる。汚れやすく水に弱い。竹刀の握り。

クロムなめし(1858年クロップ発明)

3価のクロム塩溶液に浸す。なめしの80%以上がこの方法。水に強く伸縮や熱や摩擦に強い。

クロム・タンニンなめし

 クロムなめし→タンニンなめし。両方の特長あり。

ホルマリンなめしや油なめし

 セーム革 鹿、ヤギなどの皮の銀面を落とし油なめしした革。淡黄色で柔らかい、洗濯可。

日本の毛皮の歴史

 冬でも毛皮着用の寒さでもなく、夏は毛皮に大敵の微生物や害虫大繁殖の高温多湿での劣化で保存に不適の日本。遅くとも弥生時代(BC2百~3百)までには、寒冷地を除いて毛皮依存から脱却し、植物繊維へ移行したであろう。古代オリエント王国や欧米諸国や中国歴代王朝のように、権力や富のシンボルとして、利用されることはほとんどなく、毛皮の職能集団も近世以前の日本には育たなかった。弥生時代以降は牛馬を家畜として活用、隆盛を成し大勢を占め、狩猟依存民は極少数となった。さらに、6世半ばの殺傷禁止仏教の伝来が毛皮離れに拍車をかけ、日本での毛皮は、になった。

皮革の歴史

 日本では毛皮としてよりも、皮革、なめし革としての需要が高かったので、朝廷では早くから皮革の原料を貢物としていた。

 BC86年(崇神天皇12年)「男は獣皮を貢し、女は布を調せしめた」日本書紀。しかし、早くに狩猟民から水稲民に変化したため、なめし革製法は未熟だったに相違ない。

応神天皇朝(三世紀後半)に、百済から皮革で履をつくる革工来朝。彼等は手部(てひとべ)と呼ばれ、革帯、鞍具などの馬具制作にもたずさわったようだ。

291年(応神天皇22年)応神天皇淡路島の狩。日本書紀

485年(雄略天皇2年)10月大和の御馬瀬の狩。「猟場の楽しみは膳夫をして鮮(なます)を割(つく)らしむ」とある、獲物の肉を鮮(なます。生肉を細かく刻む)として、生食している。日本書紀

493年(仁賢天皇6年)高句麗より製革染革の工匠須流枳(するき)奴流枳(ぬるき)らが来朝した。天皇は革なめしと革染めに不可欠な流水豊富、大和郡額田村に居住させ、製造にあたらせた。「高麗(こま)の熟皮師(おしかわし)」と呼ばれ、代々製革染革に従事し、後に狛部(こまべ。狛は高句麗人の意)、狛染部(こまそまべ)と称された。日本書紀。これより急激に発展し、染革も、文(模様)を出せるほど精巧なものになった。

538年殺傷禁止の仏教伝来。

545年(欽明天皇6年)百済への使いが帰朝時に、虎の皮を持ち帰ったのが最初の虎の皮の文献。日本書紀

592~628年(推古天皇)仏教の伝来以後は薬狩と名を変えて、毎年5月5日朝廷の恒例行事となった。5月5日は中国の風習に習ったもの。中国の薬草学で珍重された鹿の袋角(この時期に伸び始め、まだ袋をかぶった若い角で鹿茸「ろくじょう」とよばれた)を獲るのが目的とされ、推古天皇以後多くなった。

 しとめた鹿は袋角のみならず、内臓から毛皮まであまねく利用されたことが、現存最古の歌集万葉集(400~759年まで、約350年間の歌集)16巻乞食者(ほがいひと。元来は、貴人の面前で祝福の言葉や歌をつくり唱えて報酬を得る芸人の一種)が薬猟でしとめられる「鹿の為に痛みを述べて」つくったとして収録されている、寿歌(ほがいうた)からもうかがい知れる。

大君に われは仕えむ わが角は 御笠のはやし

(材料) わが耳は 御墨の坩(つぼ)・・・わが爪は 御弓の弓(ゆ)はず わが毛らは 御筆はやし わが皮は 御箱の皮に わが肉(しし)は 御鱠(なます)はやし わが肝も 御鱠(なます)はやし わが肱(みげ。胃袋)は ひ塩(塩辛)はやし・・・

 肉や内臓がなます(生食)や塩辛の材料とされ爪や毛、皮まですべて利用されている。このほか、鹿の毛皮は敷き皮や衣服としても利用されたことは疑いない。当時も多数生息した鹿は、もっとも利用された動物の代表であった。日本狼は絶滅し、鹿は残った。日本民族共存共栄の証しである。

611年(推古天皇)高位の大徳と小徳は黄金の飾り、次の大仁小仁は、毛皮の「豹の尾」を着けるとある。日本書紀

646年大化の改新の詔で駅伝制度始まる。駅に多数の馬が飼われた。

658年~660年阿倍比羅夫の出羽(山形・秋田)津軽(青森)渡嶋(北海道)の「征夷」。生羆(ひぐま)二つ、羆の皮七十枚を朝廷に献上。

688年(持統天皇)新羅からの献上品。馬一疋、騾(ラバ)一頭、犬二頭、薬物類、虎や豹の毛皮合わせて百余品。日本書紀

701年(文武天皇6)日本最初の法典大宝律令の「牧厩令」で「官の馬牛、死するものあるときは、各々皮、脳、角、膽(たん。肝臓)、を収めよ」とある。当時朝廷は騎乗用の馬を大和や河内の馬飼部が飼育し、各地に駅伝や軍団用として飼い、官田耕作や、乳や蘇(ヨーグルト)を得るために、牛も飼っていた。この牛馬が斃死の際は、捨てずに採取とのおふれである。皮はなめし革、脳はなめし材料、角は弓矢の部品、膽(たん。肝臓)は薬用。注・朝鮮のような牛馬畜殺(屠殺)ではなく、斃死(自然死)。

718~757年「養老律令・職員令別記」当時造兵司には、甲(よろい)作戸、靫(ゆき)作戸、鞆(とも)張戸、楯(たて)縫戸。漆部司には、泥障戸(あおりこ)、革張戸などが所属し、毎年10月から3月の間(農閑期)、各々の製品生産に一丁(成年男子)が従事した。

728年(聖武天皇)「高句麗の子孫が、韓半島北部白頭山地帯(高品質の毛皮獣産地)の狩猟民靺鞨(まっかつ。いずれも革偏)人を支配し、建国した渤海(ぼっかい)使節団、国書と貂(しょう。テン)皮三百枚天皇に奉った」。日本からは絹・絹糸・綿・綿織物・黄金・水銀・金漆(こしあぶら。塗料および矢じり固着用硬化接着剤)・ツバキ油・真珠などが贈られた。始めは対新羅の軍事同盟目的だったが、交易目的に変化、以後200年間37回にわたり来航は続き、貂のほか、虎・豹・羆・蜂蜜・朝鮮人参などがもたらされた。続日本書紀。日本から贈られたものは韓半島になかったため、入手のための来航といえる。

780年(光仁天皇勅)続日本紀

「今後は丈夫で軽便な革製の甲冑を造って国に納めよ。しかし、以前に造った鉄製の甲冑も捨てずに修理して使うように」武具や馬具製造のための革の需要は増大した。

790年(桓武天皇勅)続日本紀

「駿河以東、信濃以東の国々に、国ごとに数を定め、三ヶ年以内に造るよう命じた」蝦夷討伐に備えて革の甲(よろい)二千領造らせた。

927年「延喜式」皮革産地は鹿皮35カ国、牛皮14カ国。

905~927年「延喜式(巻49兵庫寮)」甲冑一具に2~3頭分の牛革が必要。馬革鹿革は革紐用。甲冑一具製作日数。長工(熟練工)192日、中工220日、短工265日。

古代日本穢れの思想と仏教

 生命体は「1食・2衣・3住」の生きるが第一義、食料生産民が主で正業、以外は「穀潰し」、従の序列となる。現代とは真逆である「生れた以上死にたくない」死の忌避は、生命体の業で、結果、最下層が芸能や生きると真反対の死に関する業となる。造化の神の造化物狩猟採取「獲る」、の受動から、農耕「育てる」、の能動へ、自らが造化の神となる心の変化が、意識の大変革となり、精神と技術が研磨され、現代人の原点となった。しかし現代の資源無き日本燃料は未だに受動で採取のまま、そして穀潰しは隆盛の極みで、生きるが第一義の食料生産民が「汚れ多」である。

律令制 良民と賎民に分け、賎民を、五賎に分けた。陵戸・官戸・家人(武士の時代は御家人、家来)は家族生活を許され売買されず、公奴婢・私奴婢は売買され、家畜と同じ扱いの規定。総数は全人口の1割。650年頃からで、750年頃が最盛期。律令制国家の崩壊で拡散、10世紀には良・賎の区別消滅。

538年殺傷禁止の仏教伝来。

675年(天武天皇4年の詔)野獣・家畜・家禽・猿の肉を食するを禁止。日本書紀。

676年(天武天皇放生の詔)捕らえた鳥獣や魚を解き放つ詔。後にもたびたび発せられている。以後朝廷や貴族の獣肉食は穢れとなり、口にした場合は忌みの期間を設け、穢れを落とした。肉食の拒絶反応は、貴族や仏教界等の現実界の実業無き階層に先に広まった。家畜、特に犬や牛馬は苦楽生活を共にした友で、その死は人と同じで涙したことは想像できる。自給自足の農家育ち、同じ原体験有りの真実史観も同感である。死と肉食を穢れと拒否する水稲民以後の信仰が根底にあるので、日本人の特性として深く根付いた。古代日本水稲民以後の土俗信仰は死を穢れとして忌み、穢れが我が身に及ぶことを恐れ、死体に接したり見たりすることを避ける風習となった。

 土俗信仰は死を穢れとして忌避したが、立ち会う人がいて埋葬した。牛馬の斃死にも同様の人がおり「現代の(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)畜解体業者」)、引き取り多方面に加工した。地方は水葬や埋葬。しかし前記のような社会情勢、「穢(けが)れが多い→ゑた」と見られ特定の人に限定された。水稲民以前狩猟時代の獲物や家畜の処理は、家族単位で加工し、家族内で用い、禍福をあざなった。やがて共同作業の水稲が主体となるにつれ、肉から穀物へ変化、そして犬や牛馬との苦楽共同生活が、家畜の家族化となり、人間の死と犬や牛馬の死が同等なり、肉食や(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)畜を穢れとする信仰が生まれ、始めは処理したが後に、斃死の家畜をマタギの先祖山の民に依頼した。分業化が進み、仕事が細分化、禍福業が生まれ、最福業が実業無体験の人、最禍業が当時の穢業となった。

 始めは狩猟民儀式の下の清め。水稲駅伝等、牛馬作業時代となり、動物斃死や清掃等の始末処理仕事の浄め。殺傷禁止の仏教以後れ」。武具需要増で屠者となり、」か。

清めの兼業から専業の「」へ、仏教が差別社会の元凶となった。

 皮剥ぎ・解体・なめしは、多量の流水を必要とするため、始めは河原が作業場の「清め」仕事であった。鷹狩の鷹の餌獲りと並行し、三世紀後半の革工来朝、493年高句麗より製革染革の工匠来朝の技術革新で需要拡大し「部」となり定職化、周辺に住み技術は世襲された。がしかし、後の武具馬具の需要拡大(本音・現実・清め)と仏教(建前・理想・穢れ)のはざまで賎業者を救済し、葛藤しながらの、皮革産業日本の幕開けとなった。清めと穢れ拮抗の時代を経て前記905年のように、濫僧屠者「ろうそう・としゃ。非人、落伍者・(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児、動物解体者」と朝廷では定まったようだ。

琵琶法師 琵琶を弾き語り、語るを業とした、盲目僧形の芸人。平安時代が初出で、平家物語などを弾き語った。江戸時代に傀儡芸人と結びつき、人形浄瑠璃、文楽に発展した。

1185年鎌倉時代となり、これまでの身分制度は完全に崩壊した。がしかし、衰微したが、身分制度の公家は残った(現代差別の坩堝関西、特に京都の原点)。落伍者の入れ替えはあったろうが、屠者も残った。平安末期の天下の分け目の源平合戦、独占業なので実入りも多く隆盛となった。動乱で律令国家崩壊、官の革加工は民へ移行し、以後民間産業と成った。

 律令国家を破壊した武士の始祖は、律令制の良民以外の賎民であることは間違いのない事実だ(下克上)。陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢の五賎が始祖である。律令制では売買され、家畜と同じ扱いだった公奴婢・私奴婢も、始祖なのである。京都(公家)以外の良民は、皆賎民と化したであろうことは、否めない。代々の世襲で浮世離れし、生命力の衰えた良民の行き着く先は、落伍者以外あっただろうか(落人伝説)?白拍子は平安末から鎌倉にかけての歌舞である、無関係とは言えないだろう。平清盛が愛した祇王・祇女(ぎおう・ぎにょの姉妹。後に嵯峨でともに尼となる)も、源義経の愛妾静(しずか)も白拍子であった。以後の河原者の遊芸・造園等は、その末裔ではないのか。当時の日本の縮図、転落者賎民の坩堝で安らぎ所ゑたは、現代スポーツの故障者リストの場といえる。虚業数多の転落者救済の主力が、実業の物づくり、賎業とされた皮革業であったことは間違いない。

河原者

 律令国家が解体し、官の皮革従事者は荘園などに所属したが、一部は失業し、免税の河原に定住したため、河原者と呼ばれた。斃死牛馬処理や葬送や寺社など「聖なる場」の清掃墓守、刑吏役、ライ者の管理など清めの仕事に深くかかわった。細工(皮革・竹)・造園(御庭者)などにも従事し、善阿弥(銀閣寺作庭師)のような造園の名手も出た。遊芸の者も多く、江戸時代には役者の賎称。兼業か専業かは現時点では定かではない。

餌取と(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)(穢れ多)の文献初出

白丁(はくちょう・はくてい)

 律令制で公の資格を持たない、無位無官の一般男子。「白張」とも書く。傘持・沓持・口取などの役をする白張装束を着た仕丁(しちょう・律令制で、親王家大臣家寺社等の雑用に従事した者)。神事や神葬などに物を運ぶ人の呼称。(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)多や朝鮮のペクチョンとは異なる。

905~927年「延喜式(神祇三臨時祭)」鴨御祖社(下鴨神社)の南辺は、四至(境内)の外に在りと雖も、濫僧屠者(「ろうそう・としゃ。非人、落伍者・(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児」等は居住するを得ざれ。注・「屠(と)。殺してばらばらにし、肉をとること。日本在来語は、ほふる。屠は、仏教伝来以後か?」初出は、武具需要増加で皮不足となり屠殺。清めの始末業兼業から、専業の屠者()に変化。

931~938年「和名類聚(じゅ・じゅう)集」日本最初の分類体漢和辞書

(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)児。和名、恵止利(えとり) 「牛馬を屠り肉を取り、たかヒナのえさとするの義なり。殺生及牛馬を屠り、肉を取り、売者也」

1120~1156年「今昔物語」15

北山餌取法師往生語第27

「奇異(あさまし)く餌取の家に来にけるかな・・・餌取の取残したる馬牛の肉を取り持ち来て・・・食に依りては往生の妨げと不成ず。只念仏に依りて極楽には参る也けり」

鎮西餌取法師往生語第28

「奇異(あさまし)き所に来にけるかな、我は餌取りの家に来にけり」注・餌取忌避、肉食は往生の妨げか。

1240年「今物語り」説話集。「美しげなる女房のきよめが家の有りけるに」注・キヨメ(清め・浄め)不浄なものの清掃に従事する人、業。美しく変化させること、美化。

1275年鎌倉末期「名語記」国語辞書。

え多 「河原の辺に住して、牛馬を食する人をゑたとなつく如何」「ゑたは餌取なり。ゑとりをゑたといえる也」

1264~1288年鎌倉末期「塵袋」百科事典

「きよめをゑたと云ふは何なる詞ばぞ。注・え多、以前はキヨメ(清め・浄め)。 41餌取

根本は餌取と云ふべきか、餌と云ふはししむら(肉)、鷹等の餌を云うなるべし。其をとる物と云ふ也。ゑとりをはやくいひて、いひゆがめて、ゑたと云えり。たととは通音也、えとをゑたと云ふなり。えとりを略せる也。子細しらぬものはらうそう(濫僧)とも云ふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀、僧にもあらぬを濫僧と名けて、施行ひかるるをば濫僧供(施しをする)と云ふ。其れを非人・かたひ(乞食)・ゑたなど、人まじろいもせぬ(交流をしない)、おなじさまのものなれば、まぎらかして(まぜこぜにして)非人の名をゑたにつけたる也。らむそうと云ふべきをらうそうと云ふ、弥(いよいよ)しどけなし。天竺に栴陀羅(せんだら)と云ふは(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)者也。いき物を殺てう(売)る、ゑた体の悪人也」

 旃陀羅(せんだら)はインドの最下級身分、狩猟・屠殺などを業とした。チャンダーラ。仏教は旃陀羅を差別した。1133~1212年法然「南無阿弥陀仏」。1173~1262年親鸞「悪人正機説」。日蓮(1222~1282)佐渡御書(御勘気抄1273年)に「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ、旃陀羅が家より出たり。心こそ、少し法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり」とあり、法然親鸞日蓮は差別を超えようとしたが、いずれも流罪。この一時期旃陀羅は、狩猟(獣、鳥、魚)業の呼称として使われた。旃陀羅から、屠者の字句が使われ始め、穢れ多か?注・不可触民(チャンダーラ)、インドの最下級身分。ガンディーは身分制度撤廃を目指し、ハリジャン(神の子)と名づけた。

1296年鎌倉時代「天狗草子」絵巻。
 「(この漢字が言葉狩りで使えない。言葉狩りはよけいに目立つだけで、差別増長の愚行!)多」の表記。鳥肉商いと、河原で天日干しの皮の図。Ⅲにつづく⇒

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://sinzitusikan.blog.fc2.com/tb.php/215-a9744961

フリーエリア
プロフィール

真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。