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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観2海洋民と黒曜石と丹と水稲が語る邪馬台国と卑弥呼

 ,600年前(紀元前600年)水稲(温帯ジャポニカ)栽培わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。

 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から30例発見されている(外山秀一さん、皇學館大学)。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

 石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。

紀元前8百年~3百年(炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた)日本、弥生時代。弥生式土器。稲の水稲栽培開始の時代。

 紀元前9世紀に、大陸や南西諸島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。 弥生時代早期に完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及した。また海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同様に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島)国を生んだ。

 これまでの自給自足狩猟採取移動の生活を、稲の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水田作り、水路作りは集団が協力しないと出来ない。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力して作業に当たった。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進んだ。中国から農耕具の青銅器や鉄器も輸入し使用した。さらなる開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされ、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生した。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。稲の水稲栽培が国を造ったといえる。

 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。

 

 このようにして、狩猟採取定着の、あま(海)海洋文明集合体から、農耕定着の、あま(天)水稲文明集合体に権力が移動した。あま(海)の衰退ではない。あま(天)のほうが大きく勃興し、はるかに巨大化したため、権力は禅譲されただけである。あま(海)は以後も隆盛を成し、島国日本の礎となった。水稲栽培は天候が命、集合体の命の要、あま(天)を神とし、太陽を最高神として崇めた。卑弥呼(日水子、日巫女の当て字であろう)、天照大神となり、現代に至る。日海子、日水子(卑弥呼、日巫女)、天照大神となり、現代に至る。

 佐賀県の腰岳、大分県姫島、島根県隠岐、秋田県脇本、瀬戸内海や黒潮ルートあま(海)の子孫は、競合しながら同様に進化し、一つとなった。

 

黒曜石が語る邪馬壹国と卑弥呼

 前述のように島根県隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州で発見され、島根県出雲神話は、あま(海)の民、古代海洋国家を物語っている。

一方、九州佐賀県伊万里腰岳産の黒曜石も、沖縄本島や朝鮮南部で発見され、大分県国崎半島東端の姫島産も朝鮮南部で発見され古代朝鮮南部は、日本同様のあま(海)の民海洋文明圏で、3世紀末の魏志倭人伝にも、倭人の北岸狗邪韓国と明記され、中国も公認の、黒曜石海洋文明圏の継続を物語っている。

 黒曜石、稲、
青銅器鉄も、あま(海)の民が最初に入手し隆盛、伝播した。隆盛した国家(稲を最初に入手)魏志倭人伝中の邪馬壹国は、九州佐賀県伊万里腰岳黒曜石や、大分県国崎半島東端の姫島黒曜石を生業とした海洋文明国家あま(海)の民、子孫を物語って余りある。

 
魏志倭人伝中「其山有丹」と記載された丹(丹砂、辰砂)は、いずれにも産地有り。青銅器、鉄の伝来で黒曜石はすたれたが、あま(海)の道で得た稲と、あま(海)の道の交易(丹や稲の伝播と、青銅器鉄の入手伝播)で隆盛を築いた。祭神も、あま(海)とあま(天)になり、卑弥呼(日水子、日巫女)があま(天)に使えるようになった。当然、あま(海)の道の交易で、太陽神信仰や諸々のものも、同時に各地に伝播され、また、入手もした。

 

真実史観で検証魏志倭人伝邪馬台国と卑弥呼

 あま(海)の民の世界は、板子一枚下はまさに地獄、方角距離の間違いは死である。正確だから生きて海洋文化圏を築けた。

 これまでの実技無き仮想現実界の歴史家は、この現実界の道理を簡単に無視、魏志倭人伝記載の距離方角を間違いとし、勝手に書き換え解釈、日本を混乱の坩堝にした。

 歴史には流れがあり、理由もなく突然邪馬壹國
や卑弥呼が生まれる訳など無い。戦後の迎合識者と同じである。現代文明などワット以後の化石燃料文明、たかだか250年である。鳥も渡り鮭も回帰する。古代人には現代人が失った鋭敏な、確かな五感があった、矮小判断すべきではない。

 前述のように、あま(海)の民により山の民に水稲がもたらされ、あま(海)の民と山の民とが融合し定着、大集団となり、国が生まれ、やがて国家が連合した。卑弥呼の時代は正にその時代といえよう。

 

中国の文献に書かれた倭と韓

『三国志』(魏志・呉志・蜀志)。三国(魏呉蜀・184~265)時代に関する史書(280~289年完成)。

『三国志』(魏志東夷伝)。夫余、高句麗、東沃沮、わい、韓、倭などの史書。

『三国志』(魏志東夷伝韓の条)。通称『三国志韓伝』。韓・馬韓・辰韓・弁辰(弁韓)の史書。

『三国志』(魏志東夷伝倭人の条)。通称『魏志倭人伝』。倭人の史書。

『後漢書(じょ)』(東夷伝)。通称『後漢書馬韓伝』。南朝宋の范曄の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その東夷伝。「続漢書」には『三国志』未記載文もあり、『三国志』と同じ資料を基にしている可能性もある。「続漢書」は『三国志』と同時代だが、完成は後である。

『三国志韓伝』韓國 乍南乍東」の見聞録

 は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し(狗邪韓國)「方可四千里」方(南北)は四千里(1里60km×四千里=240km)ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない」

 ・・・又有洲胡 在馬韓西海中 大島上 其人差短小 言語不與韓同 皆コン頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬 其衣有上無下略如裸勢 市買韓中。

『後漢書韓伝』

「韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。「地合方四千里」土地は方四千余里を合わせる、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である」

『後漢書倭人伝

 其大倭王居邪馬臺国 楽浪郡徼去其国万二千里 其西北界狗邪韓國七千余里 其地大較在曾稽東冶(原文は治)之東 

『後漢書弁辰(弁韓)伝』

 馬韓之西ゝ海上有洲胡国 其人短小 コン頭 衣韋衣 有上無下 好養牛豕 乗船往来 貨市韓中。

「隋書俀(タイ)国伝」隋代(581~619年)去楽浪郡 境及帯方郡 並一万二千里。

『魏志倭人伝』倭国の見聞録

 中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)の東夷伝倭人の条をいう。「三国志」全65巻は280年~289年に完成している。全文で2008文字。「三国志」はその後、歴代王朝が木版本を刊行し現存は6種類。12世紀中葉に作られた南宋の紹興本が有名。日本で最も入手しやすい魏志倭人伝資料は、石原道博編「新訂 中国正史日本伝1」。百納本(張元済が20世紀に刊行)の「倭人伝」写真版が掲載されている。

陳寿について

  魏志倭人伝は魏の後継の晋、著作朗という官職にあった西晋(216~316年。317~420年を東晋)の陳寿(蜀の国で誕生233~297年)が著者。3世紀末(280~290年)に書かれた同時代の見聞録である。著者陳寿の死後、正史となる。陳寿は蜀の皇帝に仕えた後、浪人となり魏が晋に滅ぼされた後で晋に仕えた人。魏には恩顧はない。つまり魏に都合のよい話ばかりを魏書に書く必然性は低い。三国志の編纂に取り掛かったのは西暦280年とみられる。同じ歴史家の夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を読んで、その内容に感銘、自著である魏書を自ら焼き捨てたと言わている。陳寿の三国志は、文章が簡潔で感情に左右されることなく冷静、公平に書かれている。

「魏志倭人伝」

「魏志倭人伝」と『後漢書倭伝』

 范曄が著した『後漢書』東夷伝は『魏志倭人伝』より後に書かれている。しかしその内容は「魏志倭人伝」にない「桓霊間倭國大亂」などの記事がある。司馬彪の『後漢書倭伝』は、「魏志倭人伝」の原史料を見ているのではないか。

「邪馬壹国」と「邪馬臺国」と「祁馬臺国」

 現存の『三国志魏志倭人伝』の版本は、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。

 同時代だが後に書かれた「後漢書倭伝」では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書倭伝』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」。原文は「邪馬壹国」

『魏志倭人伝』の「景初2年」と「景初3年」

 『魏志倭人伝』は景初(238)年。

 『梁書』や『太平御覧』引用の『魏志』では、景初3年(239年)が遣使の年。

 景初2年8月23日(238年)公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)。魏が帯方郡を治めたのは、それ以後と言うのが理由。原文は景初2(238)年

魚豢の魏略(逸文)や司馬彪の「続漢書」等も参照した大まかな原本を、さらに検証し距離方角等詳細を極めたと、陳寿「魏志倭人伝」は語っている。があるが、魏志倭人伝をありのままに読む。水行陸行は通過では無く見聞歴訪。距離方角のみが正確。
 

 国名、方角、距離、国の特徴だけを抜書き。全文は後述。原文はスペースなし。国名は表音記載なので、限定せず、辞典の字音を記載。

「對馬國」と「對海國」

 「對海國」(中国側呼称)は宋紹熙本。「對馬國」(日本側呼称)は宋紹興本。一大國(中国側呼称)。壱岐(日本側呼称)。

(ワ・吾。我。和。イ)人居住地

倭人在 帯方(出発地点南浦)東南 大海之中 依山島爲國邑

 倭人の住んでいるところは帯方の東南、大海の中。山や島に依りそって、国や村を為している。

 注・「依山」がヤマトの語源か起点南浦は、隋書隋書俀(タイ。(大))国伝、「古云 去 楽浪郡境及 帯方郡並 一万二千里」からの仮説。

国北岸(ガン・行き詰まりのがけ)(ク、コウ)(ジャ、シャ、ヤ)(カン、ガン)

郡 至 倭 循海岸水行 韓國 乍南乍東  其北岸狗邪韓國 七千餘里

 郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、陸行韓國は、乍(たちまち)南乍(たちまち)東と東南に歴訪(韓の条、倭の北岸(行き詰まりのがけ)、狗邪韓國に到る。郡より七千餘里の距離である。注・帯方郡ソウル説は、循海岸水行が否定した。ソウルなら水行の必要は無い。歴韓國 乍南乍東は、『三国志』魏志の東夷伝韓の条の、韓國歴訪でもあった。韓國の領域は、郡から北岸狗邪韓國間で、方(南北)は、四千里(後述・1里60km×四千里=240km)、東西は海で尽きる。旅程は以下も歴訪、旅程の距離論争は愚論

(ツイ、タイ)(カイ)國・(ツイ、タイ)(マ、バ、メ)

度 一海 千餘里 至對海(對馬)國 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

 倭の北岸より一歩一歩進み、やっと倭の北岸よりここ渡航地までが千五百里)一海、千餘里、對海(對馬)國に至る。居住地は絶島で、島の方(⇔領域)は四百餘里可(ばか)り。土地は、山險しく深林多く、道路は、禽(鳥)や鹿の徑(こみち)の如し。千餘戸有るが、良田無く、海物を食し自活、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

(イツ、イチ)(タ、ダイ、タイ、ダ)國・壱岐

又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 方可三百里 多竹木叢林 有三千許 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴

 又南一海を渡る。千餘里、名を瀚海(かんかい)と曰い、一大國に至る。島の方(⇔領域)は三百里可(ばか)り。竹木叢林多く、三千許(ばか)り家有り。差(やや)田地有るも、収穫少なく食不足。ここも同様に、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。と記載は、何らかの集団(兵士?)と観た!

末盧國

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之

 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・末盧國だけが、官記載無し。

伊都國

東南陸行五百里  伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐

 東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆女王國に統屬。郡使往來の時、常に駐(とどま)る所。

奴國

東南至奴國百里 有二萬餘戸

不彌國

至不彌國百里 有千餘

投馬國

南至投馬國 水行二十日 五萬餘戸

邪馬壹國

南至邪馬壹國 女王之所 水行十日陸行一月 七萬餘戸

狗奴國

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王

其の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。

郡至女王國

郡至女王國 萬二千餘里

自り女王國に至る、一萬二千餘里。

注・ここまでが、自り女王國に至るための方角と距離。そして、自り歴訪日数

2009年邪馬壹國へ真実史観一直線上の旅

 方角と距離が正確だったから海を制し、戦国時代(三国志)を制し適者生存した。直線距離と方角は正確とみなすのが道理。

出発地点帯方?

 郡は、循海岸水行(海岸に循(沿)って、水上を行き)とあるように、現在の南浦(黄海北道の南浦・『後漢書倭人伝』「隋書俀国伝」から想定)から黄海南道西岸、南岸が自然だ。ソウルなら水行の必要は無い、帯方郡ソウル説は、誤謬。狗邪韓國も、(歴韓國乍南乍東 北岸狗邪韓國) とあるように、東三洞(トンサンドン)貝塚もあり、現在の釜山界隈が自然ではないか。

魏志倭人伝の一里?道行全てが一直線上!

 魏志倭人伝中で現代と間違いなく一致する所が、一大国=壱岐である。しかも方可三百里(島の方⇔領域は、三百里ばかり)とある。壱岐長辺南北18kmを、三百里で割ると、一里は60mとなる。次に該当する下県郡(南対馬)長辺南北24kmを、四百里(倭人伝は四百餘里)で割ると、一里は60mとなった。「方」は一方向、二方向の場合は「地 方四千餘里・同時代の『後漢書韓伝』」となる。魏志倭人伝の一里は、里ではなく方可三百里と記載の60mを用いる。倭人在帯方(南浦)東南女王國萬二千餘里(720km余)は、佐賀城址。道行全てが、この一直線上に在る郡(南浦)七千餘里(420km余)北岸狗邪韓國千五百里( 一海。北岸から一歩一歩進み90km巨済島で、やっと一海。三国志韓の条記載→巨済島千餘里(60km余三国志倭人の条記載)→對海國千餘里(60km余)→一大國千餘里(60km余)→末盧國東南陸行五百里(30km)→伊都國南→投馬國南→邪馬壹國女王之所(佐賀)。 3につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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