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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観3郡~東南一直線女王国佐賀常用水行二十日を水行十日陸行一月ああ!

末盧國?末(バツ・伐。マツ・松。末。待。俟。バチ・撥。鉢)盧(ロ・路。ル・留。縷。流)國

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之

 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・末盧國だけが、官記載無し。

 これだけの航海をしている、疑いも無く倭人はあま(海)の民でもある。邪馬壹國はあま(海)の民からはずしては語れないのは明白である。對馬國、乗船南北(九州や韓半島)市糴、一大國、亦南北(九州や韓半島)市糴とある。海洋民あま(海)の民である、船で行ける所までは行って、陸行が自然。末盧國から「東南陸行五百里  伊都國」である。陸行は川沿いが自然だ。福岡、唐津、伊万里が候補地となる。福岡は当時も大平野で港、数万は想定できる。「有四千餘戸」ではいかにも物足りない。「南北市糴」の常用ルートからは、遠い。「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛」とある。あま(海)の民の黒曜石産地佐賀県腰岳、ふもとの伊万里も、記載条件を満たしてはいるが、「亦南北市糴」の常用ルート最短は唐津、そして官記載無し。末盧國は、松浦川がある唐津界隈が妥当。

 6,000年前陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培縄文前期の本格的農耕生活。水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

 ,600年前(紀元前600年)水稲(温帯ジャポニカ)栽培わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。

 これまでの自給自足狩猟採取焼畑農業の生活を、米の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水稲は水が不可欠、川沿いに移動し水田作り、水路作りに集団であたった。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力は必須の要素。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進み国が生まれた。

 川沿いに国が生まれたのである。初めは高低管理し易い上流、進歩に従い下流へ。下流は平地が多いので開田し易いが、高低差がないので水管理が難しいのと、氾濫で壊滅し易い。両刃の剣ではあるが、大量の収穫を得られる。水田管理が進化し、下流を制した集団が大国を築いたであろうことは、うかがい知れる。水は上流から下流へ流れる、下流を制した集団は、当然上流も支配は必須なので支配した。いわば一つ一つの川が一つ一つの集団国家と言える。
 倭国大乱は、上下流支配で統一するまでの過渡期の水利権争い、であったろう。
倭国水稲栽培発祥の地は皆山裾、山ト「土(土地の神、田畑、国)、処、門」である。古称ヤマトは、正にふさわしい。

 黒曜石を半島日本に伝播した海洋民あま(海)の民は、陸稲(熱帯ジャポニカ)入手も先駆け栽培伝播した。「里」は区画した「田」、「畑」が本来の意である。中里、二里、伊万里、有(あ里)田、佐里、伊万里界隈は多い。

 当然水稲(温帯ジャポニカ)栽培も先駆け伝播した。食料を安定確保した栽培の民の人口増加は、必然。不可欠の水、川の新天地を求め集団で移動、各河川に定住した。当然、近隣の松浦川流域にも定住した。

 そして、伊万里南東30キロ、唐津南東30キロは、佐賀県、数多の河川と伴う平野、水稲栽培絶好の新天地伊都(いつ)である。有明海に注ぐ河川平野部上流伊都(いつ)は、どんなに輝いていたか、それは、国名伊都(いつ)国が証しだ。注・「厳・稜威」(いつ)は、食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑

 伊万里から松浦、多久、小城、川上、鶴、鳥栖、基山。伊万里から有田、北方、江北、牛津。山間部は川沿いに、平野部は山裾沿い、西から東に移動定着し、灌漑や栽培技術の進歩に伴ない、南の下流にも定住した。古道は、渡河頻度最少の河川分基部、山裾沿いが常道。末盧國(唐津松浦川河口)から東南直線30キロ(五百里)は川上である。川上界隈の古道沿いが、伊都國中心部と推察できる。

 推察による意訳文。「末盧國(唐津松浦川河口)から南下し、多久、小城と、古道を西から東に行き、玄関伊都国到着。さらに東へ続く道路を行けば百里で不彌國。東南百里には奴國がある。郡からの常用旅程は水行二十日、伊都国南投馬國到着。郡から水行十日陸行一月、投馬國南邪馬壹國に到着。ああついに、女王の居る都に着いた」。陳寿は、玄関伊都国からの東西南北を簡明に記した。

 

伊都國?伊都(ツ・ト)國=イツ・厳・稜・斎・稜威)國。伊(イ・斎)都(ト・所。門。渡。人。杜。都。ツ・津。通。都(とりしまること)國。斎(けがれのない、神聖な意)。開拓当初はいつ(厳・稜威)の地だが、この水稲栽培下流隆盛の時代には、変化の可能性はある。表意は(斎)(所。門。渡。杜。都。処)。

 倭=ヤマト(山土)→大倭・大和(元明天皇期二字表記)。大(和、倭)は、倭(和)が融合しての、大きな和(倭)の意か。該当地界隈の大和は、1954年、三村合併後だが、無意識での命名か

 

東南陸行五百里  伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐

 東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆、統(おさめ)て、女王國に屬す。郡使往來の時、常に駐(とどまる)る所である。

 は曲がりくねって到着(其北岸狗邪韓國、伊都國)。はほぼ直線で到着、および方向。

 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ)と詳細が後述されている。川の管理、諸国検察、邪馬壹國玄関が、主な任務と推察される。

 常識に基づき検証しよう。「魏志倭人伝」は国王への、同時代の見聞録説明紹介文だ、旅程記載は概略から詳細へが常道。

 伊都國は邪馬壹國の玄関。まず玄関の近隣を述べ、そして邪馬壹國へ行き、邪馬壹國の近隣や状況を述べるのが自然。現代でも案内図記載の常道である。

 「魏志倭人伝」は国王が読者。玄関からさらに水行二十日、水行十日陸行一月などは、打ち首もので、そんな不敬な記載は、不可能。記述不備不敬の疑問も呈されず、正史『三国志』「魏志倭人伝」として残ったことは、当時も歴代誰一人、邪道な解釈をしなかったことの、証明である。ましてや同時代の見聞録、当時の常識を元に書くのは当然である。

 帯方郡から「水行二十日」は、頻繁に往来する当時の常用ルートの旅程で、誰が読んでも分かる、常識であったことを物語って余りある。400年後の「梁書・北史」のみが「又・・・」と、粗雑解釈。

 玄関伊都國、南北接する投馬國は、邪馬壹國と同一とみなし、投馬國に従来の常識、常用ルート日数、邪馬壹國に今回の韓国倭国歴訪日数と、混乱を避け分割記載、明解にした。最後に帯方郡からの全距離(自郡至女王國 萬二千餘里)を記載し、まとめている。中国帯方郡からの「倭」への常用ルート日数、今回の歴訪ルート日数、全距離、皆おさまっている。

注・有明海経由、帯方郡までの「水行二十日」の常用ルート、河岸の港が、投馬國に在る可能性は大である。北九州海岸からのルートは、陸行し水行なので誰の目にも不便、不見前人」とある、すたれたのではないか。

 また、後の倭の五王の隆盛、末盧國
の官名記載無しから推察すると、従来の北九州海岸からのルートは、倭の五王の先祖に支配され始めていることが窺える。結果、有明海を常用ルートとしていた。今回は中国帯方郡からの使者なので、倭の五王の先祖も不問に付したが、真相ではないか。

 

奴國?奴「光輝く玉、連ねて首飾りにする)野。沼。・土(土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神)」國。表意は『國』か「國」。

東南至奴國百里 有二萬

 伊都國から東南百里(6キロ)で奴國に至る。二萬餘有り。

 

不彌國?不(ブ・部。武。奉。フ・夫。フウ・奉。附。府。フツ・。ホチ・)彌(ミ・臣。民。美。水。神。霊。ビ・美。弥。備)國。部(ぶ。渡来物製造集団)。表意は、部民(ぶみん)、部臣(ぶみ。部の家来)。後に変化→武→物部。

至不彌國百里 有

 伊都國から東の百里(6キロ)で不彌國に至る。千餘有り。と記載は、訪れて、何らかの集団(部民?)と観た!

伊都國から不彌國は、行=道路がある。吉野ヶ里遺跡界隈を指示して余りある。吉野ヶ里の歴史は、倭国誕生と邪馬壹國消滅を明白に、語っている。

 

投馬國?投「トウ・統(系統・伝統・血統)。当。陶。等(なかま)。倒。討。闘。祷。稲。踏。ズ・」馬(・間。身。魔。真。磨。摩。澗。バ・メ・)國。表意は、統(系統・伝統・血統)間→伴間(ともま)。伴(とも。職業集団)→伴造→大伴。

南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸。

 伊都國の南投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は水行のみの水行二十日五萬餘戸ばかり。

 「自女王國以北 其戸敷道里可得略載」と後述され、投馬國は「自女王國以北」なのは明白。帯方郡からの常用旅程水行二十日が、最速。

伊都國・郡使往來 常所駐郡使の往来では、常にここにとどまる)と有り。また往来は、度々後述もされており、頻繁にあった。

 「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰」 渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す)と航海の詳細が後述されているように、「對馬國・・・乗船南北市糴」、「一大國・・・亦南北市糴」と、島民が日常の交通に用いている今回の安全水行ルートだけでなく、厳しいが速い、水行(後述の、皆臨津捜露)の常用ルートがあることを明解に語っている。「水行二十日」の港は、嘉瀬川か、筑後川の流域河畔であろう。

 「南至投馬國 水行二十日」だけを抜書きし、中国人は誰一人「帯方郡から」とは解さないと書いた、分厚い本があった。もちろん日本人でも誰一人解さない。なんと情けないことに、文系作家史家の類は、こんなに常識が無いのだ。摘み食いは解釈ではない、捏造だ。

 ここで常用ルートの旅程を記載し、次の倭国歴訪旅程と対比、理解を明快にした。

 

邪馬壹國?邪(、ジャ、シャ、)馬(、バ、メ)壹(イツ)國

南至邪馬壹國 女王之所 都(越)水行十日陸行一月 可七萬餘戸。

 投馬國南、邪馬壹國に到着。女王居住地に着いた、 (帯方郡からの常用旅程は水行のみの水行二十日なのに、今回は韓国倭国歴訪見聞のため)ああ水行十日陸行一月、長かったなー(今回は韓国倭国歴訪見聞なので、水行十日陸行一月もかかった 七萬餘戸ばかり。

注・は、・・・に至る。は、場所、住所。は、みやこ、ああ、感嘆を表す言葉。陳寿原文草書体「都」と「越」は酷似し、楷書体で写本の際に間違えやすいので、「越」の可能性も有り(草書体で解く「邪馬台国の謎」書道家が読む魏志倭人伝・井上悦文

 常用ルートなら水行二十日の旅程。「魏志倭人伝」に採録なので、韓国倭国歴訪特別ルート、合計水行十日陸行一月(歴訪なので、見聞日も加算)の、韓国倭国東南一直線歴訪旅程記載となった。「從東京至与賀神社・水行一日・至与賀神社 水行三日(四国下船歴訪一日)陸行三日(歴訪二日)」と同じ。事足りた「女王之都」とせず、「女王所 都」にしたかの無検証、 」、「」、「」の、読み違いが混乱の原因。初心に帰り辞書を繰れば判明すること、原点回帰がいかに大事か、物語って余りある。と到着の感動を掛詞にしたともとれる。

 後述された「參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里」も、同類。

 倭の地に参り訪ねてみると、中心の洲は絶海に在り。島は、連結あるいは隔絶し、辺りに至り、辺りのは、中心から五千(300k)余里ばかりでめぐる洲・大陸、国。島・小島。之・に至る。上・ほとり、辺り。旋・めぐる。

東大と京大の邪馬台国論争は、原典無検証、検証回路皆無、空論の証明でもある。

 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、倭國最南端は女王國を指示している。

 七萬餘戸は、あま(海)(漁業)とあま(天)(農業)の民。人口に対応した食料は十分である。

其餘旁國遠絶?

自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

 女王国より北は、その戸数、道を簡に記載しえた。そのほかの国は遠く険しく、詳細は得られない。

次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌 好古都 不呼 姐 對蘇 蘇(ス・栖ソ) 呼邑 華(ケ・カ) 鬼(キ・クイ) 爲吾 鬼(キ・クイ) 邪馬 躬臣 巴(ヘ・ハ)利(リ) 支(シ)惟(イ・ユイ) 鳥(ウ・鵜。烏。オ) (注・次有と国は、略記) 次有奴國(・・・つぎに奴國有り)。

此女王境界所盡

これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

 

 女王国の位置から推察すれば、奴國は、女王国の北で接していることになり、伊都國から「東南至奴國」と合致。また、上記「其餘旁國遠絶」とあるが、南は「其南有狗奴國」、西も「其山有丹」と記載されている。自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、最南端は女王國と語っている。上記其餘旁國」は、女王国北(略載以外の北)、北東、東河川流域各国となる。

注・1784年、博多の志賀島で発見された「漢委国王」金印(57年後漢光武帝)にも、後述の「」にも、上記にも、「」は数多である。「奴(ヌ・ド)」=「瓊(ヌ)光輝く玉、連ねて首飾りにする。土(ド)土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神は、中国語「國」伝来以前の、「集団、族、国」を表す、日本原語の一つ、南方系原語の可能性が高い。「魏志倭人伝」は中国風に翻訳し、皆「國」を付しているが、当時のは、「瓊・土」から「國」への過渡期で、「國」呼称は未定着ではなかったのではないか。

 

狗奴國?狗(ク)奴(ヌ。ド)國。ク(ヌ、ド)(美しい黒色の石、九の大字)ヌ・光輝く玉、連ねて首飾りにする)。。土盛りして土地の神を祭ったもの。社の原字で後に土地の神)が、正当。意訳すると、(九つの川の国々から成り立つ国)となる。

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王

 邪馬壹國の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。

郡至女王國?

郡至女王國 萬二千餘里

 郡より女王国までの里程は、一万二千余里である。

一萬二千餘里(12000×0.06キロ+餘=720餘キロ)。

 「郡至倭・・・ 其北岸狗邪韓國 七千餘里」ではなく、「郡至女王國」である。郡自り女王國に至る(佐賀県庁)からの直線距離は、12000里×0.06キロ=720キロ載寧、12500里×0.06キロ=750キロ南浦、12670里×0.06キロ=760キロ平壌、13000里×0.06キロ=780キロ平城。「隋書俀(タイ)国伝」隋代(581~619年)「去楽浪郡 境及帯方郡 並一万二千里」とある。旅立ちは南浦界隈、郡は沙里院・載寧界隈か。南浦から東南420キロが狗邪韓國の北岸道行は、ただひたすら東南へ「魏志倭人伝」は、一直線上見聞録といえる!見聞歴訪日程の距離計算は、愚論!

 後述の「參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里」もピタリ符合。

 倭の地に参り訪ねてみると、中心の洲は絶海に在り。島は、連結あるいは隔絶し辺りに至り、辺りのは、中心から五千(300k)余里ばかりでめぐる。720k(佐賀県庁)-420k(郡→韓国)=300k(倭地)。倭地は女王國基点300k餘内の地。銅剣・銅戈・銅鉾圏が現出した。

方角距離のみ抜書き

倭人在 帯方東南 大海之中 

郡至倭 循海岸水行 韓國乍(見聞韓の条) 岸狗邪韓國 七千餘里

始度「其北岸狗邪韓國(見聞韓伝)からやっと大海」岸から大海出港地点までが千五百里

以下(見聞倭人の条)

一海千餘里至對海國

渡一海千餘里至一大國

又渡一海千餘里 至末盧國

東南陸行五百里  伊都國

東南至奴國百里(玄関伊都國起点)

至不彌國百里(玄関伊都國起点)

至投馬國 水行二十日(玄関伊都國起点方角。郡の常用日数)

至邪馬壹國 女王之所 水行十日陸行一月(投馬國起点方角。郡の今回の日数)

有 狗奴國

郡至女王國 萬二千餘里

後述の「參問倭地 絶在海中洲 島之上或絶或連 周旋可五千餘里」

 「郡 至 倭 循海岸水行 韓國 乍南乍東  其北岸狗邪韓國七千餘里 」までが三国志韓の条』、以後が三国志倭人の条』の歴訪で、水行十日陸行一月はその全合計日数。誤解回避と比較のため、常識の旅程水行二十日を記した。しかも日数はこの2ヶ所のみで、浮いており、重要視していない。克明なのは距離と方角。訪倭目的は既知の日数に非ず、位置(方角と距離)と歴訪見聞録に有りを、明確に指示している。

注・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。

 現実界の道理が日本を変える。オウム返しのオウムはオウム信者と同類、思考力皆無仮想現実界に自浄力は皆無。4につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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