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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観7日本初出百済本記は実存語る西安墓誌白村江戦後海洋民離脱の韓半島

 「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、『日本』との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。

 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。

 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する」。

 「百済本記」に、「亥の年(531年)日本天皇及太子・皇子倶崩薨(日本の天皇や皇太子や皇子、そろって皆死ぬ」。「天皇」と国名「日本」初出「百済本記」は、実在した書であることが証明された。

665年 8月、耽羅(済州島)の使、来朝する。唐・新羅と組せず、日本海海洋民としての参加の意思表示目的であろう。

666年 1月、高句麗の使、来る。耽羅王子始如ら、来朝する。

667年 7月、耽羅、佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。

668年 唐と連合して百済・高句麗を滅ぼした新羅が半島の単独政権となったのは668年、大同江以南の地は唐を宗主国とした属国新羅が支配し、唐から儒教仏教律令制などを取り入れ、独自に発展させた。白村江までの朝鮮半島南部(三韓等)は、日本海海洋民が祖の、船が基幹の日本海文化圏であったが、白村江以後、日本海海洋民(海路)から離脱し、朝鮮半島は中国庇護の属国となり、中国文化圏最末端の地(伝播が海路から陸路)となった。唐風模倣で、以前(海洋民)の痕跡はことごとく破壊された。(注・新羅の大和朝廷への度重なる反抗は、出雲系の子孫の可能性が高い)

 日本史(神社基幹の連合国家)も朝鮮半島史(唐風で属国)も、白村江が全ての分岐点である!

 

669年 3月、耽羅、王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を授けた。

「冊府元亀」。北宋朝(1013年)完成の百科事典。北宋朝時代の公的認識を記した。

670年三月、罽賓国、万物を献ず。倭国王、使いを遣わし、高麗を平ぐるを賀す。

670年「三国史記・新羅本紀」。「倭国更えて日本と号す。自ら言う『日出づる所に近し』と。以って名と為す」。以後「三国史記」は、以前を「倭国」、以後を「日本国」と記している。

673年 6月、耽羅、王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した。

この度重なる耽羅の朝貢は、白村江の倭王没落し、近畿倭王の統一を証明している。

701年十月日本国、使いを遣わし、其の大臣朝臣、人を貢し、万物を貢す。「冊府元亀」(外臣部、朝賀三)。

「旧唐書・日本伝」

 「旧唐書・日本伝」冒頭文「日本国は倭国の別種なり。其の国(倭国)、日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは日う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す、と。或いは日う、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。・・・又云う、其の国の界、東西南北各々数千里あり。西海南海は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なりと」。

702年「冬十月、日本国、使いを遣わして万物を貢す」(旧唐書・本紀巻六・則天皇后)旧唐書で「日本」国名初出

703年「其の大臣朝臣真人、来たりて万物を貢す」。

717年「開元の初、又、使いを遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う」。

 630年からの遣唐使派遣合計18回。使節団一行は500人以上にも及び、普通4隻に分乗した。多くは2~3年で帰国。派遣中止3回、迎入唐使1回、894年で中止と、日本の史書は、伝えている。

 

618~907年「旧唐書・くとうじょ」唐代(618~907年)を扱った史書。宋代(941~945年)成る。「唐書・新唐書」は旧唐書の欠を補い補修。宋代(1060年)成る。

旧唐書(巻199)列伝・東夷・倭国・日本国

「倭国伝」

倭国者 古倭奴国也 去京師(天子の都)一万四千里 新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世与中国通

倭国の者は古の倭の奴国也。京師(天子の都)を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中にあり。山島に依りて而て居み、東西は五月行、南北は三月行、世々中国と通ず。

 中国史書初出倭国は、後漢の初代光武帝建武中元二(57)年の倭奴国が。一万四千里は唐の都長安(現在の西安)からの距離。

其国 居無城郭 以木為柵 以草為屋 四面小島五十餘国 皆附属焉 其王姓阿海氏 置一大率 検察諸国 皆畏附之 設官有十二等 其訴訟者 匍(ホ、ブ。はう)匐(フク、ブク。はらばう、ふす)而前

其の国は、居むに城郭無く、木を以て柵を為し、草を以て屋と為す。四面の小島の五十餘国は、皆焉(これ)に附属。其の王の姓は阿海氏。一大率を置き、諸国を検察し、皆之を畏附。官を十二等設て有り。其(なんと)訴訟者は、匍(ホ、ブ。はう)匐(フク、ブク。はらばう、ふす)而て前(うったえる)。

 ここまでは、「三国志」・「隋書」等からの転載。

地多女少男 頗有文字 俗敬仏法 並皆跌足 以幅布蔽其前後 貴人戴錦帽 百姓皆椎髻「けい(もとどり)」無冠帯 婦人衣純色裾「きょ(すそ)」 長腰襦 束髪於後 佩「はい(おびる)」銀花 長八寸 左右各数枝 以明貴賎等級 衣服之制 頗類新羅

地(くに)に女多く男少なし。頗(かなり)文字有り。俗(世間では)仏法を敬う。並(とも)に皆跌足(はだし)。幅布を以て其の前後を蔽う。貴人は錦の帽を戴り、百姓(人民)は皆、椎「つい(つち)」のかたちの髻「けい(もとどり)」で、冠帯無し。婦人の衣は純色の裾「きょ(すそ)」で、長い腰襦(襦袢)。髪は後に束ね、銀花を佩「はい(身に着ける)」 び、長さ八寸、左右に各数枝。以て貴賎の等級を明らかにす。衣服の制は、頗る新羅に類「に(似る)」る。

 隋書の俀国風俗がかなり異なる。

貞観五年(631年) 遣使献方物 太宗矜其道遠 勅所司無令歳貢 

又遣新州刺史高表仁持節往撫之 表仁無綏遠之才 与王子争令 不宣朝命而還 至二十二年 又附新羅奉表 以通起居

貞観五年(631年)、使を遣わして方物(その地方の産物)を献んず。太宗(唐の二代皇帝)は其の道の遠きを矜(あわれ)み、所司(長官)に勅(つ)(みことのり)げ、歳貢(毎年の貢物)を令じること無し。

又新州刺史の高表仁に節(羽や旄牛の尾などで編んだ、大将や使者にさずける割り符)を持ちて遣わし往きて撫んじる。表仁は綏遠(すいえん。遠い地方を鎮めやすんじる)の才無く、王子と令を争い、朝命を宣べずして還る。二十二(648)年に至り、又新羅に附けて表(君に陳情する書面)を奉り、以て起居(暮らし、安否)を通える。

 唐の貞観五年(631年)は日本書紀舒明天皇の三年で、舒明天皇二年の八月5日の条には、「大仁の犬上君の三田耜(すき)、大仁の薬師の恵日を以って大唐に遣わす」とある。このことを指しているのか?

 「又」以後の「高表仁」は日本書紀舒明天皇の四年(貞観六年。631年)の条か?

 「四年(貞観六年。631年)の秋八月に、大唐、高表仁を遣わして、三田耜を送らしむ。

 冬十月の辛亥の朔(ついたち)甲寅に、唐国使人高表仁等、難波津に到る。即ち大伴連(むらじ)馬養(かい)を遣わして、江口に迎えしむ。船三十二艘及び鼓吹(ふえ)旗幟(のぼり)皆具に整餝(ショクかざる)。便(すなわち)ち高表仁等に告げていわく、「天子の命のたまえる使い、天皇の朝(みかど)に到れりと聞きて迎えしむ」と。時に高表仁答えていわく、「風寒き日に船艘(ソウふね)を餝(ショクかざる)整して迎え賜ること、歓び愧(キ気が引けて心が縮まる)る」と。是において、難波の吉士の小槻大河内直の矢伏に令して、導者として館の前に到らしむ。乃ち伊岐史の乙等難波の吉士の八牛を遣わして、客等を引きいて館に入らしむ。即日に、神五年(貞観七年。633年)春正月の己卯の朔甲辰(26日)に、大唐の客高表仁等、国に帰る。

 送り使い吉士雄麻呂黒麻呂等、対馬に到りて還る」。

 末尾の貞観二十二(648)年は孝徳朝の大化四年だが、日本書紀には記載無し。

日本国者 倭国之別種也 以其国在日辺 故以日本為名 或曰 倭国自悪其名不雅 改為日本 或云 日本旧小国 併倭国之地 其人入朝者 多自矜大 不以実対 故中国疑焉(これにより) 又云 其国界東西南北各数千里 西界南海咸至大海 東海北海有大山為限 山外即毛人之国
日本国は倭国の別種なり。其の国は日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或曰、倭国は自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。或云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併わすと。其の人の入朝は多く自ら矜大にして、実を以て対せず。故に中国はこれにより疑う。又云う、其の国の界は、東西南北各数千里、西界南海咸(みな)大海に至り、東海北海は大山有りて限を為し、山の外は即ち毛人の国。

 中国文献に、国名「日本」初出である。日本文献初出は、推古朝13(605)年四月朔。「高麗国の大興王、日本国の天皇、仏像を造りますと聞きて、黄金三百両貢を上(たてまつる)る」

長安三年 其大臣 朝臣真人 来貢方物 朝臣真人者 猶中国戸部尚書 冠進徳冠 其頂為花 分而四散 身服紫袍 以帛(ハク絹)為腰帯 真人好読経史 解属文 容止温雅 則天宴之 於麟徳殿授司膳卿 放還本国

長安三(703)年、其の大臣(おおおみ)の朝臣(あそん)真人(まひと)、来たりて方物を貢。朝臣真人は、猶中国の戸部尚書(財政をつかさどる官名)のごとく、冠は徳冠(最上官名)に進み、其の頂は花を為し、分れて四散し、身の服は紫袍(紫の服)、帛(ハク絹)を以て腰帯と為す。真人は経史(経書と史書)を読むを好み、文を属(つづる)を解し、容止(身のこなし、振る舞い)は温雅なり。 則天(則天武后)は宴して、麟徳殿(宮殿)に於いて司膳卿(食物及びお膳をつかさどる)を授け、本国に還るを放(や)める。

 長安三(703)年は文武天皇の大宝三年。朝臣真人は粟田朝臣真人か?

 「続日本紀」大宝元年正月23日に「守民部尚書直大弐、粟田朝臣真人を以って遣唐執節使となす」とあり、同行7人も任命され、五月七日に、「入唐使粟田朝臣真人に節刀(遣唐使の印の刀)を授く」とある。大宝2年正月23日の条「遣唐使等は去年、筑紫よりして海に入る。風浪暴険にして、渡海することを得ず。是に至りてすなわちは発す」。本文には帰国を断念とあるが、しかし、「続日本紀」には翌年の慶雲元(704)年七月一日の条「粟田朝臣真人、唐国より至る」とあり、八月十一日の条には「遣唐使粟田朝臣真人に、従三位を授く。その使いの下の人等に位を進め物を賜うこと各々差あり」とある。

 そして同じ「続日本紀」慶雲元(704)年七月の文には、

 「秋7月甲申の遡、正四位下栗田朝臣真人、唐国より至る。初めて唐国に至りし時、人有り、来たりて問いていわく、『何処の使人ぞ』といふ。答えていわく、『日本国の使いなり』という。我が使い、反りて問いていわく『此は是れ何の州の界ぞ』と、問う。答えていわく『是は大周楚州塩城県の界なり』という。更に『先に是大唐、今は大周と称(なず)く国の号何に縁りて改め称くる』ととふ。答えていわく、

 『皇太后登位 称号聖神皇帝 国号大周』 問答略了 唐人謂我使曰 『亟聞海東有大倭国 謂之君子国 人民豊楽 礼義敦行 今看使人 儀容大浄 豈不信乎 』語畢而去」。

 『(永淳二年、天皇大帝崩じたまいき)皇太后位に登り、号を聖神皇帝、国を大周と称す』という問答(則天(則天武后)は690年~704年を「周」朝とし、この間「唐」朝は中断した)略了(おおむねおわり)て、唐の人、我が使いにいいていわく、『海の東に大倭国有り、これ君子国という。人民豊楽にして、礼敦く行わると、亟(度々)聞いた。今使人を看るに、儀容(すがた)(はなはだ)だ浄(きよ)し入れ墨無し)(あに)信ならずや』と、語り畢(おわ)って去る」とある

 隋から唐は禅譲である。俀国の風俗(入れ墨等)を知る、隋の旧臣の言葉であろう。

開元初 又遣使来朝 因請儒士授経 詔四門助教趙(ちょう)玄黙就鴻臚寺教之 乃遣玄黙闊(カツ広い)幅布以為束修之礼 題云「白亀元年調布」 人亦疑其偽 此題所得錫賚(ライたまう、たまもの) 尽市文籍 泛(ハン、ホウ。浮かぶ、浮かべる)海而還

開元(713~741)の初め、又使を遣わして来朝し、儒士(儒者)を請うるに因り経(聖人の著書)を授く。四門(学校名)の助教の趙(ちょう)玄黙に鴻臚寺(外交の官名)に就きて教えることを詔し、乃(すなわち)、玄黙を遣わし幅布を闊(カツ広い)げ、以て束修之礼(干し肉を用いて師弟となる儀礼)を為し、題して云う、「白亀元年調布」(目出度い言葉として用いる)と。人亦其の偽を疑う。此の題得る所の錫(せき)賚(ライたまう、たまもの)(たまもの)は、尽(ことごとく)く文籍(文書書籍)に市(か)(あきなう、とりひきする)え、海に泛(ハン、ホウ。浮かぶ、浮かべる)びて而て還る。

「続日本紀」唐の開元五年(717)にあたる元正朝養老元年二月朔の条「遣唐使、神祗(かみ)を盖(みかさ)山の南に祠る」とあるが、同二月二十三日の条「大宰府言す、遣唐使従四位下多治比真人県守、来朝」とあるので、八ヶ月での帰国となる。


其偏使朝臣仲満 慕中国之風 因留不去 改姓名為朝衡 仕歴左補闕(ケツかける)儀王友 衝留京師五十年 好書籍 放帰郷 逗留不去 天宝十二年 又遣使貢 上元中 擢(テキぬきんでる)衝為左散騎常侍鎮南都護

其の偏使(ともがら)の朝臣仲満(阿部仲麻呂)、中国之風(ならわし)を慕い、因りて留まりて去らず。姓名を改め、朝衡と為し、仕えて左補闕(ケツかける)(官名)、儀王友(官名)を歴(けみ)す。衝は京師に留ること五十年、書籍を好み、帰郷を放(や)め、逗留して去らず。天宝十二年(753)、又使を遣わして貢。上元(760~761)中、衝を擢(テキぬきんでる)(ひきあ)げて、左散騎常侍(散騎者の長官で左右有り)、鎮南(関の名。広東省羅定県の西。安南の地ともいう)都護(官名)と為す。

 冒頭の偏使(ともがら)は、粟田朝臣真人と入唐したから。

 朝臣仲満(阿部仲麻呂)は、光仁朝宝亀元年(770)5月26日、行年73歳。「続日本紀」には、「前学生、阿部朝臣仲麻呂、唐に在りて亡す。家口偏に乏しくして、葬礼闙(か)けることあり、勅して東絁一百疋白綿三百屯を賜う」

貞元二十年 遣使来朝留学生橘免勢学問僧空海 元話元年 日本国使 判官高階真人上言 前件学生 藝業稍(ショウようやく、やや)成 願帰本国 便請与臣同帰 従之 開成四年 又遣使朝貢 
貞元二十(804)年、使いを遣し留学生来橘免勢(橘のはやなり)、学問僧空海、来朝す。元話元(806)年、日本国使、判官(大宝令の第三等の官)の高階真人(たかしなのまひと)上言す。「前件の学生は、藝業稍(ショウようやく、やや)成り、本国に帰ることを願う。便(すなわち)臣と同じく帰えることを請う」と。之に従う。開成四(839)年。又使いを遣し朝貢。

 貞元二十(804)年は、桓武朝末23年で、この年橘免勢と空海が入唐とはあるが、「日本後紀」欠本の箇所で、詳細は不明。

 嵯峨天皇、橘免勢、空海は書道に優れ、三筆。橘免勢は、帰国後政争で、伊豆国流罪途中で死亡。空海は大同元年(824)に帰朝、真言宗開祖となり承和二年(835)3月21日高野山金剛峰寺で62歳で死去。

 末尾の開成四年(839)は、「続日本後期」には、前年の承和五年(838)4月5日の条に「遣唐使の進発の日より、帰朝の日に至り、五機内七道諸国をして海竜王経をよましむ」遣唐使は海難が多かった。4月28日の条には「遣唐大使、藤原朝臣常嗣。副使、小野朝臣篁」とある。

 

九州の地を古事記(673~686年に企画)では、「(ひ)・佐賀、長崎、熊本」、「筑紫(つくし)・福岡から南西部まで」、「(とよ)・九州北東部」、「熊襲(くまそ)・九州南部(宮崎・鹿児島)」の4国としている。

713年から作成の肥前国風土記は、肥君らの祖、健緒組が土ぐも(大和朝廷に従わない、土着の民の蔑称)を討ったとき、火が天から山に降って燃えたため、火の国としたと伝えている。もと、肥の国卑弥呼の国がつまった。7世紀後半肥前肥後2国に分け、「延喜式」に11郡。国府は現在の大和町付近。

 「筑後の風土記(713年以後の伝聞、聞き書き)」磐井(斎・いわい)滅亡時(531年)の記録として、「古老伝えて云う。・・・筑紫の君磐井・・・豊前国上膳県に遁れて南山俊嶺の曲に終わる。是に於て官軍追ひ尋ねて蹤(あと)を失う。士の怒り未だ泄(や)まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕す・・・上妻県、多く篤疾(とくしつ。身体障害者)有りき、蓋し(けだし。まさしく)玆(これ)に由る歟(か」とある。磐井(斎・いわい)滅亡は531年、約200年前の話ではないことを、明白に語っている。

720年日本書紀完成。

720年「隼人」は、大友旅人に平定され、以後完全に服属した。これまで大和政権の九州征伐に反抗し、たびたび反乱を起こしていた。

710年~784(奈良時代)に神仏習合(神仏混淆)思想に基づき、「神宮寺、神願寺、別当時、神供寺、宮寺」として、神社に寺が併設された。福井県敦賀市の気比神宮寺が初見。明治維新の際、廃止または分離された。

927年施工の延喜式の社格が、名神→明神→大明神8につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
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