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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観8伊都佐賀淀姫与止日女は与と卑弥農業神の墓質素素朴本庄・与賀神社

967年河上神社(與止日女神社)は「延喜式」内の比定社。肥前国一宮。

1028年能勢頼国が守護仏として妙見菩薩を祀ったのが始まり。妙見山(能勢妙見)は仏教。神仏習合(神仏混淆)

 江上波夫の騎馬民族征服論は、無検証摘み食いの愚論。捏造愚論者に文化勲章とは、仮想界ただの記憶器の証明だ。判決受諾を、裁判受諾と誤訳し信じた輩もこれで理解可能。輩には、丸暗記能力以外は、皆無なのだ。

「君臨すれども統治せず」卑弥呼の時代よりのこれが、日本の比類なき歴史だ。

 年表が語りかけた真実の歴史。稿を改めるので詳細は略記。

 神話と神社の大和朝廷文明は、腰岳、姫島隠岐の黒曜石産地が始まりで、三韓と銅矛圏と銅鐸圏を成した海洋民が、起源。

 倭の五王「最後が斎(いわい・磐井)」王朝を、俀(タイ。大)王が征服し、倭王として君臨、地名等模倣。後に白村江の戦いで敗れ没落。

 以後、近畿天皇が覇権を握り、歴史を改竄した(唐と戦った倭=近畿天皇なら、遣唐使などなかった)。

 基は同じ海洋民なので、水稲栽培伝播、国形成も同じ、かつ船での頻繁な往来が有るので、神話神社等も共通する。

 国産み神話で祖を明確にしたので、従属や国譲りに抵抗は少なかったのではないか。国産み神話は、大乱無き統一のために、必要不可欠なものであった。大乱にしての食料や田畑破壊は敵味方皆消滅する、倭国大乱で学習しているので、避けたはずだ。

 侵略者唐の恐怖が、根源での比類なき団結(大和)となり、日本を成し、連合の新たな根拠地の地名を、「大和」と名づけた。神社団結といえる。

 
黒曜石も陸稲水稲も神社も、海洋民がタイムラグ無く伝播した。その海洋民の信仰の長が出雲だったが、海岸なので唐新羅連合軍に攻められやすい。白村江敗戦以後の唐侵攻に備え、懐の深い土地にに移動し連合。その土地を、連合の証し、「大和(大いなる和)」と命名したと、推察される。

 「旨」、広開土王碑文の「倭」、倭の五王と斎(いわい・磐井)、俀(タイ。)王の出自と中心部は、古墳群の年代測定(全国古墳編年集成・石野博信編・雄山閣出版)で特定され現出。

 岩戸山古墳は、
斎(いわい・磐井)の墓に非ず、八女古墳群は俀(タイ)王一族の墓等々、2009年明解に全貌を現した。そして全国古墳編年集成」は、明確に語った。海洋民は現代同様に、まさにタイムラグ無く、文明を伝播し、同時に、各地に国が産まれたことを。

 
韓半島南から東北までの古墳群の推移に、タイムラグが無い。共同作業水稲で国が生まれ、500年までは群雄割拠し、韓半島南・九州・近畿が残り(人口相応大平野有り)、600年以降に近畿が、一目瞭然である。いずれも食料地(米・魚)を制した者である。P182

 あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒ひ(肥)⇒ひ(火)。あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒天照大神と継承された。紆余曲折はあったが、卑弥呼に回帰した。

 

壹與(いつよ)と卑弥呼(日水子)の墓

 邪馬壹國は武力台頭以前の倭最後の国家「花より団子」で、農業主体、華美な墓想定はしょせん無理。神社創成期でもある、わび、さび、幽玄、素朴が、墓の妥当な形容詞。
 財宝に目がくらみシュリーマンの心を喪失した探究者は皆、この壁に突き当たり方向転換、邪道に走り華美な墓探しを最優先、卑弥呼墓と比定。次に、「魏志倭人伝」を、墓比定地に辿りつく様に邪道解釈した。

 近畿説「箸墓」、九州説「卑弥呼墓平原遺跡、伊都国は糸島郡前原市一帯で、1500里南(
辻褄合せが目的の捏造解釈)の佐賀平野筑後川北岸一帯が邪馬台国(現在は佐賀を都とする筑後川流域と拡大)は、その適例だ。

 箸墓荒唐無稽は、一目瞭然。九州説で吉野ヶ里が発見されたが、この九州説は近畿説同様脈絡皆無、仕掛けた大網に偶然掛かった棚牡丹で、荒唐無稽は箸墓と同じ、解釈は邪道と、「
全国古墳編年集成」は語っている

 シュリーマンは痕跡無き地を、ただひたすら伝説を信じ、私財を投げ打って発掘した。一方は財宝に目がくらんだのか、あろうことか「魏志倭人伝」を無視し華美な墓探しに没頭、見つかると「魏志倭人伝」を遡及可能に改竄解釈。「信ずる」と「改竄」、なんと対比が際立つことか。

 初代「新しい教科書をつくる会」西尾幹二は、「魏志倭人伝」をろくに検証もせず、当てにならないと一笑に付し、己の検証程度を自白した。現在の「つくる会」のていたらくは当然なのである。仮想界の堕落、まさに極まれり。

追記09.5.29。

 箸墓近くの周濠から発掘した土器に付着した炭化物が、卑弥呼の時代と一致するから、卑弥呼の墓だと大騒ぎ。盛り土に混じった土器の破片とは考えないのか。新規の墓に煮炊きの土器はいかにも不自然、まさに、常識皆無の仮想界である。

 

 佐賀県の弥生時代の墓は、甕棺や箱式石棺などを埋めた上に数個の支石を置き、その上に巨石を載せた特徴的な形式である。神崎郡脊振村や唐津の支石墓(ドルメン)は名高い。古墳は、佐賀平野一帯や、伊万里唐津湾沿岸で800余り発見されたが、ほとんどが破壊され、残っているのは少ない。「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」とある。「壹與(與)と卑弥呼(卑弥)」(いつよとひみこ)を「與止日女」として奉斎した子孫なら、破壊されるような墓には決してしていないはずだ。まず、神社の起源を辿ってみよう。

百科事典マイペディア・広辞苑・古語辞典

山の神

 神社は山の民の山の神が起源。始めは特殊な形の祠や石、三股などを祀った。日本神話イザナギ・イザナミの子大山祇(つみの)神は、山を支配する神、後に海と山両方の神となる。娘が木花開耶姫。注・山から海(船)への足跡である。

石神

 神霊が降臨する石。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や、超自然力をもつという石の信仰は古く自然石を神体とする神社は多い。また陽物に類する石を(しゃくじん)、(さごし)などと呼び、安産性病の治癒、雨乞いなどを祈願する例も各地にみられる。依代(よりしろ)が人間である場合を尸童(よりまし)という。

尸童(よりまし)。

 神霊の依代(よりしろ)としての人間。依座とも。清浄な生活をする童男・童女の場合が多く、祭礼の場合などは着飾って行列の中心となる。また、人間を馬に乗せて尸童とすることもある。いずれも神に魅せられた姿とされる。古くは託宣が尸童の口から語られた。また、童児に限らず、成年男女が立てられたこともあった。

依代(よりしろ)

 神の依りつく物をいう。神霊が降臨して、その意志を伝えるためには憑依(ひょうい)体を必要とするとの信仰に基づく。山、岩石、樹木、御幣、動物、人間などがあてられる。神社では普通、依代を霊代(みたましろ)と呼び、神像、鏡、御幣、石などをあてる。

磐座(いわくら)・磐境(いわさか)

 神社の原始的斎場。自然の岩石、またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・陽向(ようご)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないものを普通とする。「日本書紀」によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。

神籬(ひもろぎ)。

 そこに神霊を招き、祭祀の対象とするために設けられたもの。清浄な地にある常緑樹や清浄な地にサカキ(榊)を立てたものと推察される。

榊・賢木(さかき)

 境(さか)木の意か。ときわ木(常緑樹)の総称。特に神事に用いる木をいう。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。古来神木として枝葉は神に供した。ヒサカキも同様に用いる。古くはシキミなども含めてサカキといったらしい。(注・佐賀の神社にはクスノキ(クスノキ科の常緑高木)の巨木が実に数多だ。最初の榊は、ときわ木(常緑樹)の、クスノキではなかったか)

祠・叢祠(ほこら)

 ホクラ(神庫)の転。神をまつる小やしろ。

社(やしろ)。

 百科事典:天神地祇を鎮祭する殿舎。語源的には屋代であり、斎場をもって殿舎に代える意。

 古語辞典:神が来臨する所。古代では、地を清め臨時に小屋などを設けて、神を迎えたという。

 広辞苑:屋代(やしろ)の意。神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。神の降下する所。神をいわい祭った斎場。後世、神社。

神社

 磐座(いわくら)・磐境(いわさか)のような神聖な場所に、神籬(ひもろぎ)を設けて神をまつったものと考えられる。春の豊年祈念と、秋の収穫感謝の祭りが中心であった。

八百万の神々の降臨の場が、神社といえる。

古墳時代

 弥生時代についで、ほぼ三世紀末(卑弥呼、壹與の時代に該当)から七世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。


神社建築

 神を祭るための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代(三世紀末)には存在したと考えられる。


卑彌呼の墓の大きさ

 「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」 この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」。径(直径)は20数mである。


卑彌呼と壹與(いつよ)の墓は?

「全国神社名鑑」記載、佐賀県の総神社数と与止日女神社の推移。

日本書紀完成(720年)まで。総神社数45社の内、6社が与止日女神社。

奈良時代(784年)まで。50社の内、6社。

平安時代(1183年)まで。63社の内、7社。


 墓の該当地は古社だが、まずは現資料からの仮説、その1。

前記のように、与賀(よか)神社本庄神社は社号も淀姫と異なり、縁起も特異な二社である。鎮座場所も他社(河岸)と異なり本流からは離れ、この二社は特異。しかも直線で1350メートルと非常に近い。ここは都の立地条件が揃っていた、故に後継も皆牙城にした。

 与賀(よか)神社は壹與(いつよ)の墓でやしろ(社)。元の呼称は、壹與神、與神、與ミヤ、與社、與神社。「壹與」の「壹」は、旧国名でもあるので、隠蔽。本庄神社は日水子の墓でやしろ(社)。元の呼称は、本神、本ミヤ、本社、本神社、または卑弥呼神、卑弥神、比売神(ひめがみ)、日水ミヤ、日水社、日水神社。「卑弥呼」の「呼」は、隠蔽のため、省略。

 神水川と呼称が今に残る嘉瀬川平野部流入の基部、佐賀市大和町川上の、與止日女神社(河上神社)は、最初の合祀で、與と日水社、與と日水神社となり、以後、主要な川の河岸に分社された。

 
二人の墓や伝承の痕跡皆無の原因は、このこと以外に有るだろうか。河上(与止日女神社が二人の墓、合社して分社も有る。上流淀姫神社、これも捨てがたい。

 結論は古社年代測定と発掘以外に無いが、原資料では上記を仮説とする。
本庄神社、与賀神社、佐賀城址、この界隈が、邪馬壹國の中心であったといえる。日の巫女の墓は、日が没する邪馬壹國やしろの西、本庄神社で、やしろの北が、壹與の墓、与賀神社と推察する。

 王は交代したが食料破壊の愚行は犯さず、邪馬壹國の子孫は「肥の国」として代々厚遇され、子孫も代々「肥の国」の神として崇めた

 呼子の田島神社境内「佐与姫社」は、「佐嘉の與と日水」、風土記「世田姫」は、「與と日水」が語源であろう。

 「神宮寺。神仏習合(神仏混淆)710年~」、「大明神。(延喜式の社格)927年~」、「妙見社。(神仏混淆)1028年~」や、政変等で、度重なる改号を余儀無くされたが、隠れ「與と日水」として現代に至った。「壹与と卑弥呼」は三世紀の古代から、子孫に崇敬され続けて、なんと目前に鎮座していたのだ。

 現資料ではここまでが限界。仮説から真理へ。残るは、発見による実証のみである。更に詳しくはネチズンの力をお借りしたい。また下記に対訳してあるので、論理的に果敢に挑戦してほしい。

 シュリーマン(ドイツの商人、後に考古学者。1822~1890)貧しい牧師の家に生まれ、大商人として財を成した後、トロイヤ、ミュケナイなどの遺跡を発見した。著書自伝「古代への情熱」は著名。

 ホメロスの叙事詩トロイヤの物語を、単なる創作物語として一笑に付し、当時の学会学者は誰一人顧みなかった。シュリーマンただ一人、少年時代に愛読したホメロスの世界を信じ、「イーリアス」「オデュッセイア」を疑わず、ダーダネルス海峡のほとりのトロイヤの遺跡を、1870年(48歳)に自費で発掘開始し、発見した。

 末盧國は伊万里か唐津か伊都國不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か地勢図等を参考にすれば、川と地形が鍵なので、机上でかなりの想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんの実証に期待。第一発見者シュリーマンに挑戦してみてください。鍵は水稲栽培、伊都國不彌國。そうとうな確立で特定、発見可能。

 1800年に及ぶ日本文系学者の空論は、現実界の道理で破壊され、2009年真実史観で、陳寿邪まいつ國は眼前に姿を現した陳寿は明解、実証は目前だ。保身至上で肩書にしがみつき、職責放棄のピーマン学者給料泥棒が牛耳る史学界に、敢然と烽火をあげた在野の先人に捧ぐ。 2009.1.23.

陳寿著「三国志魏書東夷伝倭人条」。通称、「魏志倭人伝」原文と対訳。原文にスペース付加。真実史観訳

 

倭人在帯方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
 倭人は郡の東南、大海中に在り。山や島に寄り添って国や村を造っている。昔は百余国。漢の時代には朝見する者もいた。今は使節をつなぐ所30の国である。

 

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

 郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、韓國は、乍(たちまち)南乍(たちまち)東と東南に歴訪、倭の北岸、狗邪韓國に到る。郡より七千餘里。

 

始度 一海 千餘里 至對海(對馬)國 其大官曰卑狗 福曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

 一歩一歩進みやっと、一海、千余里、對海(對馬)國に至る。そこの大官は卑狗という、副は卑奴母離という。ここは離れ島である。領域の距離は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の小道のようだ。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗り、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

 

又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴

 また、南に一海を千余里渡る。名を瀚海という。一大國(壱岐)に至る。ここも官を卑狗という、副も卑奴母離という。領域の距離は三百里ほど。竹や木が群生している林が多い。三千ばかりの家がある。田畑らしきものはある。田を耕してもなお、食べるのには不足。ここもまた、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

 

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之

 また、一千余里を渡る。末盧国に至る。四千余戸あり。浜、山、海に暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚やアワビを捕り、水の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。注・末盧國だけが、官記載無し。

 

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐

 東南に陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支という。副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる。

 

東南至奴國百里 官曰兕(じ)馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

 伊都国東南、百里で奴国に至。官は馬觚という。副官は卑奴母離という。二万余戸り。

 

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘

 伊都国東の道、百里不彌国に至る。官を多模という。副官を卑奴母離という。千余家り。

 

南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

 伊都国南、投馬國到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。官を彌彌という。副を彌彌那利という。五万余戸ばかり。

 

南至邪馬壹國 女王之所 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮  可七萬餘戸

 投馬國南、邪馬壹國到着。女王の居る都に着いたああ帯方郡より水行十日陸行一月の歴訪だった 官は伊支馬有り。次は彌馬升という。次は彌馬獲支という。次は奴佳鞮という。万余戸ばかり。

 

自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

 女王国より北は、その戸数、道を簡に記載しえた。そのほかの国は遠く険しく、詳細は得られない。

 

次有斯馬國 次有己百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌國 次有好古都國 次有不呼國

次有姐國 次有對蘇國 次有蘇國 次有呼邑國 次有華國 次有鬼國 次有爲吾國

9終章につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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