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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観渡辺はま子加賀尾秀忍戦犯救出署名5百万人と4千万人先人与野党議員


予備知識

戦犯 

項目(級)「平和に対する罪」「() Crimes against Peace」

極東国際軍事裁判所条例の第五条のの以下の定義

 「平和ニ対スル罪即チ、宣戦布告ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加」を犯したとして、極東国際軍事裁判によって)の罪で有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。

項目(級)「通例の戦争犯罪」「() Conventional War Crimes」

項目(級)「人道に対する罪」(老若男女無差別殺人)「() Crimes against Humanity」。

 誤解しないでほしいのは、、は単なる分類であり、罪の軽重を指しているわけではない。級ではなく項目で、項目、B項目、C項目、と訳すのが正解迎合識者やマスコミがランク付け訳、に捏造し、加害者極悪日本軍、被害者か弱い国民の対立に捏造した。なんと醜悪な迎合者の輩なのだ。今後は級ではなく項目と呼称しよう。 

 侵略戦争植民地政策の米英仏蘭ソ中国は、()の罪を犯しているのでA項目(級)戦犯。米英仏蘭ソ中国の()の罪は、隠蔽されて不明。米は、原子爆弾大空襲60万人殺戮で、()の罪を犯しているのでC項目(級)戦犯。同じくソ連もC項目(級)戦犯。これは史上の事実だ。

 ちなみにBC項目戦犯が主役の「私は貝になりたい」は、自ら戦犯として死刑宣告を受けた加藤哲太郎元陸軍中尉の創作、真実の話ではない。「私は貝になりたい」では、上官の命令に従った2等兵が死刑になるわけですが、実際にはこうした事例は現在の所見つかっていない。1等兵でも、命令に従っただけで死刑宣告を受けた人はいても、後に減刑されている。加藤哲太郎

 モンテンルパ (Muntinlupa City)は、フィリピン共和国ルソン島にある市で、首都のマニラに隣接する。太平洋戦争中の激戦地フィリピンにおいて、戦後処刑された山下奉文大将以下17名が葬られた場所である。

 終戦時、フィリピンには14万人の日本人捕虜がおり。昭和21年のフィリピン独立後も、150人のBC項目戦犯がモンテンルパ刑務所に収容されていた。昭和26年1月19日、そのうちの14人が突然、処刑された。14人のうちの13人は、セブ島でのゲリラ退治にまつわる村民虐殺事件で死刑宣告されたのだが、その半数近くは現地に行ったこともなかった。日本軍の雑役夫だったフィリピン人が、対日協力の罪を問われることを逃れるために、やみくもに「この人だ」と指さして歩いたのである。

 昭和24年10月に、フィリピンに派遣されてきた教誨師高野山真言宗の僧侶・加賀尾秀忍は、任期のヶ月を迎えようとしていた。しかし、政府は延長を認めず、支給は任期をもって打ち切られた。獄中の一室に住み、囚人の残飯を食べて生活していた。加賀尾が日本を出発する時、戦犯家族達は加賀尾にすがって泣いた。「同胞を見捨てて、自分だけどうして帰れよう…」加賀尾の心は決まっていた。この日から全員釈放のその日まで、実にヶ月、戦犯たちと寝食を共にした。任期を終えても残留している加賀尾へ政府は支給の再開をせず、しかも後任も送らなかった。

「歌だ。歌しかない」教誨師として、戦犯者たちと起居を共にしつつ、なんとか助け出そうと考えていた加賀尾秀忍は膝を打った。当時「異国の丘」という歌が、日本中でシベリア抑留者の事を思い出させていた。モンテンルパの歌が出来たら、日本の人々に思いが通じるかも知れない。

加賀尾は死刑囚の元憲兵・代田銀太郎に作詞を頼んだ。文学好きの代田はノートもない中で、トイレットペーパーにヨードチンキをインク代わりに詩を書いていた。作曲は元将校の伊藤正康。モンテンルパの中の教会でオルガンを独習し、弾いていた。伊藤も行った事もない土地での住民虐殺で死刑判決を受けていた。

♪モンテンルパの夜は更けて つのるおもいにやるせない

遠いふるさとしのびつゝ 涙にくもる月影に やさしい母の夢を見る♪

昭和27年(1952年)6月、加賀尾は出来上がった歌を「・・・なにしろ素人の歌なので専門家に見てもらって欲しい」と渡辺はま子の元に送った。渡辺はま子はさっそく歌ってみた。そばにいた母の心をまず打った。

はま子はビクターへ行き、控え室でピアノを弾いて、この歌を歌っていると、ディレクターの磯部氏が入ってきて、じっと聞いていた。感動して「いいね、なんの歌」と聞き、「これ吹き込みしよう」と即決した。こうして死刑囚達の作った歌は、そのままはま子の歌としてレコード化された。昭和27年7月、「あゝモンテンルパの夜は更けて」が発売され、またたくまに20万枚を超える大ヒットとなった。

はま子が念願のモンテンルパを訪れて、この歌を歌ったのは、この年の暮れ昭和27年12月24日の事である。

 渡辺はま子は、日華事変が本格化した昭和13年から7年間、陸軍報道部からの依頼で、従軍慰問に明け暮れた。国内では「愛国の花」「支那の夜」「蘇州夜曲」などが次々と大ヒットしていた。貨車の上でも、戦闘機の前でも、はま子は美しい衣装を着て歌った。戦場の将兵たちは「僕らの歌姫」に慰められた。「それが私の戦争協力」というのがはま子の覚悟だった。

 戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされるが、収容所の中でも、引き揚げ船の上でも、はま子は歌い続けた。自分の歌に、打ちひしがれた人々がハッと顔を上げて明るさを取り戻すのを見ると、「ああ、よかった。この人、元気になった」と喜んだ。

 帰国すると、国内には「あの戦争は間違っていた」と言う声が広がり、戦争犯罪人として捕らえられた人々の家族は「戦犯の子」「戦犯の妻」と後ろ指をさされていた。「冗談じゃないわ。それじゃ国のために命を捧げて戦った人々が可哀想すぎるわよ」と、はま子は巣鴨拘置所や、傷病兵、戦犯家族などを慰問して廻っていた。

慰問中渡辺はま子は、来日中のフィリピンの元駐日大使国会議員ピオ・デュランと知り合った。ピオ・デュランは親日派で、来日の度に味噌や醤油畳ゴザなど戦犯捕虜の方々に必要な品々を運んでくれていた。会食中、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数のBC級元日本兵が収監されており、前年の1月19日、すでに14人が処刑されたと聞かされた。昭和27(1952)年1月25日のことであった。聞いたはま子は居ても立っても居られず、即座に銀座鳩居堂から現地に香を送った。ここから、ピオ・デュラン議員を介して、加賀尾と戦犯との文通が始まり、同年6月歌が送られ、同年7月に発売され、大ヒットとなった。

そして同年12月、渡辺はま子はある決断を下す。それは現地のモンテンルパを渡辺はま子自身が訪れ、受刑者たちを直接、慰問する事だった。しかしフィリピン政府のビザはなかなか下りない。12月23日捕まっても行き先は同じ刑務所と腹を決め、通過査証を使ってフィリピン行きを決めた渡辺はま子であった。出発ぎりぎりになってフィリピン政府からビザが下り。これで晴れて、戦犯慰問の名目で、モンテンルパへと向かう事が出来たのである。

フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパ刑務所死刑囚の、独房の奥のステージは花で飾られ、「歓迎 渡辺はま子様」と横断幕が掲げられていた。

 昭和27年12月24日、歌手渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中に流れた。聴衆は戦争犯罪人とされた百八名の元日本兵たち。12月とは言え、40度を超す酷暑をものともせず、はま子は振り袖を着て、歌った。「荒城の月」や「浜辺の歌」を歌い続けた。長い間、日本の女性の着物姿など見たことのない元兵士たちへの心尽しであった。

 やがて「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌う時となった。「どうすれば泣かずに歌えるのか」と胸をいっぱいにしながら、はま子は歌い始めた。聴衆の中から、すすり泣きが聞こえ始めた。

 会が終わりに近づくと、傍らに立っていたピオ・デュラン議員が、「私が責任を持つから君が代でお別れなさい」と言った。「君が代」は禁じられていた。

 一同起立して祖国の方に向かって歌い始めたが、ある者は泣いて声が出ず、またある者は途中で座り込んでしまった。

 年明けて28年1月10日、モンテンルパ慰問録音テープはラジオで放送され、大反響を呼び、本格的な戦犯救出運動の原動力となった。

 
同年元軍人でオルゴール会社を経営していた吉田啓人は、はま子の歌を聴いて感動、当時できたばかりのアルバム式のオルゴールにし、はま子に送った。吉田から富士山の蒔絵のアルバム式オルゴール2冊を送られたはま子は、その1冊を加賀尾に送った。加賀尾はちょうどその時、キリノ大統領との初めての会見が許された所だった。昭和28年5月16日のことである。

ようやくの思いで大統領との面会を果たした加賀尾秀忍は、ただ黙ってキリノ大統領にオルゴールを差し出した。静かにオルゴールの音色に聞き入ったキリノ大統領は「この哀しい歌は何という曲か」と加賀尾にたずねた。「モンテンルパの死刑囚が作った曲です」との加賀尾の答えに、キリノ大統領はしばし瞑目した。その1時間後、キリノ大統領は自身の戦争中の思い出を静かに加賀尾に語った。それは昭和20年、日米のマニラ市街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と娘を失った話であった。

大統領はふかく頷いて、もう一度メロディーに耳を傾けた。聞き終わると、静かにアルバムを閉じて、こうつぶやいた。

 「7月4日の独立記念日には日本人を二人釈放しましょう。この二人というのは小池君と藤崎君です。戦争中、私が捕虜になっていた時、こっそりとかばってくれたこの二人については、早くからなんとかしたかったのです」

 たった二人とは言え、胸の内を語る大統領の言葉に加賀尾は「春は近い」と感じていた。

 6月27日、大統領府からの連絡で、加賀尾が再びマラカニアン宮殿に参上すると、「7月4日の独立記念日を機会に、一部の者に恩赦、釈放の恩典を与えるので、それに値すると認められるものを指名せよ」とのことだった。

 ところが、一夜明けると、その決定は「死刑囚、無期刑囚を全員釈放。死刑囚は無期に減刑して、日本の巣鴨に送還する」に変わった。その前日、日本からの戦犯釈放嘆願書がフィリピン外務省に届けられた。それには何と日本人500万人分もの署名が添えられていたのである。レコード発売が昭和27年7月、翌年の1月10日モンテンルパ慰問録音テープのラジオ放送、同年6月27日の500万人の署名到着である(実動日数は6ヶ月以下)、短期間の署名は全国民の団結なくしてはあり得なかった。国民が一丸となって、必死で集めた署名であった。

 はま子の歌に感動した500万人もの日本人の同胞救出の願いが、フィリピン政府を一夜にして動かしたのである。

 日本政府は衆参両議院それぞれの本会議でフィリピン政府の措置に対して、感謝決議を行った。

 この恩典を与えられたことは、一人本人およびその家族のみならず、日本国民のひとしく喜びとするところである。日本政府は一刻も早く戦犯たちを帰国させるために、最初飛行機輸送を計画したが、直前に墜落事故があったので、安全な船舶輸送に切り替えた。モンテンルパの戦犯者たちは日本政府の思いやりを聞いて感激した。7月15日、加賀尾も含めた帰国者111名が日の丸を掲げた白山丸に乗り込む。囚人服から政府から支給された白ズボン、開襟シャツに着替えて、皆見違えるようだ。短い人で9年、長い人では15年ぶりの帰国である。

 船の一等サロンには祭壇が設けられ、17体の遺骨が黒塗りの木箱に納められて安置されていた。処刑された人々である。加賀尾がフィリッピン政府の特別許可を得て、「一緒に帰ろうね」と呼びかけつつ、掘り出した遺骨だった。

 7月22日午前8時半、白山丸は横浜の大桟橋に着岸。待ち受けたのは、港を埋め尽くす2万8千人もの大群衆であった。これほど多くの人々が自分たちを出迎えてくれたことに、帰国者たちは驚き、そしてこんなに大勢の人たちが関心を持ってくれたことが釈放の原動力になったにちがいないと思った。

 自分のことだけで精一杯の時代、そして戦犯者の家族もマスコミが愚弄の時代に、出迎えた2万8千人の中には、帰国者とは縁もゆかりもない人々も大勢いたであろう。

キリノ大統領は後にこう語っている。

大統領は、妻と3人の子供を日本軍と米軍の戦闘の巻き添えで殺されており、どうせ加賀尾も、涙でも流して、戦犯を釈放してくれと泣き落としにかかるのだろうが、そんな涙には騙されないぞ、と身構えていた。言葉の代わりに、音楽をアルバムにして、それを黙って手渡された。それが私の心の琴線に触れた。私は初めて、心を動かされた。(注・唯心国家の国民だから以心伝心となった、凶産党では有り得ない。凶産党や韓国や在日は唯心否定で唯物のみ。民主党鳩山の友愛なんぞ、他意無しなら、鴨ネギでしかない。輩は唯物、生命体を物扱いし、物欲のみでしか動かない、ソ連中国北朝鮮韓国在日が見本であり、歴史が証拠だ。恥も外聞もなくひたすら自己中で、相手なんぞ無視は当たり前の折伏一辺倒、唯我独尊カルト教が輩の正体である)

終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党共産党まで含めて一人の反対もなく決議された。護国のために全国民がいかに一丸となっていたか、その証しがここにはある。戦後、戦犯追及を恐れたマスコミや、鵜呑み識者が米軍に迎合し、先人冒涜をし続けた捏造報道の嵐の中での、この先人の赤心を、子孫はけして忘れてはならない。ここには、迎合マスコミに汚染されていない、心に日の丸を掲げた、生(公)の、日本人が生きている。

 そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免(しゃめん・罪を許すこと)し釈放された。社会党や共産党という野党でさえも、かっては愛国者だったのだ。

終戦から7年後の昭和27(1952)年、まさしく存在した、生(公)の、日本人成人。この、生(公)の、日本人が、敗戦後の日本の礎となった。

戦犯追及の恐れの無くなった独立後も、愚かなマスコミや鵜呑み識者の捏造報道は止まなかった。生(公)の、日本人成人以後の、未成人を洗脳し続け、ここまで日本を貶めた。日本人の回帰する原点は、心に日の丸を掲げた、生(公)の、日本人が生きている、昭和27(1952)年だ。

フジTVおまえもか!改竄されたモンテンルパ!
 09.9.12.「戦場のメロディ・108人の日本兵を救った奇跡の歌」が放映されたが、自叙伝記載肝心要のビオ・デュラン議員、別れの「君が代」、そして署名数が削除されていた。フジも犯日スポンサーに屈服か

 当時のフィリピンは米の食民治で、親米派と独立(親日)派に分裂していた。対フィリピン戦争などではなく、日米戦争なのだが、日米市街戦で巻き込まれた市民も多かった。市民の惨禍責任は米日比、互に有り、日本のみを責めるのは善悪史観で、公平ではない。戦後政権のキリノ大統領は当然親米派であったが、日本の戦争起因も比の内乱も知っていた。親日のビオ・デュラン議員は親日の独立派。フジTVは独立派を削除し、フィリピンの侵略者日本とした。別れの「君が代」と署名数を削除し、軍民団結を隠蔽した。フジTVよ、「私を捨てた」公理公道の鑑、加賀尾秀忍・渡辺はま子に、顔向け出来るのか

参考サイト
誰か昭和を想わざる モンテンルパの夜は更けて
あゝ忘られぬ胡弓の音 渡辺はまこフォト自叙伝 星雲社 


 
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 先人の汚名払拭は、子孫の責務。全ブログ、転載可要出自記載ですのでどうぞ。

No title
・小生の伯父で、比島陸軍報道部で活躍し、ゲリラに襲われて戦死された望月重信中尉について、その業績を調べています。その中で、1944年の11月に、首都マニラの比島第一の劇場メトロポリタンにおいて、決起した比島青年たちの手で国柱会なる者の発会式が盛大に行われ、その会長は親日家で東洋主義者のビオ・デュラン博士であることを知り、インターネットで調べて、ブログを拝読いたしました。
小生がこのことを知ったのは、「比島の国柱」(非売品)に、旺文社発行「新若人」昭和20年3月号に掲載された、当時の海軍報道部班員浅見淵氏の玉稿からです。
機会がありましたら、小生が発刊している「円福」にこのブログの内容を紹介してもよろしいでしょうか。ご返事をお待ち申し上げます。
[ 2011/02/16 18:39 ] [ 編集 ]
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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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