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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観靖国参拝昭和天皇の御意を捏造三昧凶産迎合金儲けに走った言葉と文字界

靖国参拝昭和天皇の御意を捏造三昧凶産迎合金儲けに走った言葉と文字界
 翌昭和62年9月22日天皇、腸の通過障害のバイパス手術で入院、10月7日ご退院。

 昭和63(1988)年4月25日天皇誕生日(29日)のための記者会見(最後の)。体調不良のため15分で切り上げ。卜部日記「陛下の涙が話題に(目に光るものがあった・記者証言)」

 4月26日徳川は参与職となり、最初の出勤が28日。

 4月28日は、当時宮内庁長官富田のメモ日付。同様のことを聞いたとされる、報道担当の卜部の日記も同じ日付。体調不良の天皇に非ずは明白。徳川は、侍従長を退任し4月26日から参与職。問われたので答えたで、辻褄が合う。富田メモ研究委員会は“合祀に不快”と捏造。御製が亡国奴を暴いた。

 昭和63(1988)年8月15日御意は御製のままで、最後まで揺らいでいない。その証が、全国戦没者追悼式最後の御製「やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」にある。天皇は日本最上位臣職、靖国(国をやすらかにすること)を願い、「祈りし」は日本、世界ではない。いまだならず くやしくもある」、戦後沈黙の天皇、最後に「くやしく」といみじくも御心中を明かされた。御意くやしくは敗戦などに非ず、日本存亡の危機に、一丸で戦った先人への、国思わぬ輩の冒涜を、一掃出来なかった天皇御自らの自責「くやしく」と、余名無き命では きざしみゆれど」も見れず、あの世で臣に語れない「くやしく」である!戦没者への最後の御製となった。子孫よ!以って瞑すべし。・・・

 9月19日(御製から35日後)、大量吐血で病床に臥す。9月22日皇太子へ全権委任。

 昭和64(1989)年1月7日8月15日を迎えることなく崩御。まさに「くやしく」である!

 4年後の平成2年刊行前出の「おほうなばら・昭和天皇御製集」徳川義寛解題には、「靖国とは国をやすらかにすることであるが、とご心配になっていた」とあるのみで、工作はない(質問ではないから)。徳川義寛侍従長は、死後刊行の侍従長の遺言・昭和天皇との50年平成9年1月徳川義寛終戦日記」平成11年10月朝日新聞刊等で、前述の富田メモや、後述の卜部日記と同類を述べている。

侍従長の遺言・昭和天皇との50年

 「私個人とすれば、今の憲法を変える必要はないと思いますね」149P

 「私は、東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋石さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいじゃないかと、言ったんです」181P

 「しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから。それに靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人々も合祀するのでは、異論もでるでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんです」182P

 拓殖大学総長だった、小田村四郎氏は、徳川氏に会った際、しきりに松平さんは「親の心子知らずだ」と言っていたと証言している。

 徳川は戦後教育の負の遺産、昭和からの近眼史観(2D)丸暗記、天皇は神武からの鳥瞰史観(3D)記憶

 侍従在職52年侍従長の天皇擁護発言が因で、拝金子孫が守秘義務違反、訳有り嘘売り屋日経朝日が飛びついたのだ。翌2007年8月4日、朝日・共同等、この徳川侍従長天皇庇護目的の歪曲解釈工作論報道。同年11月21日宮内庁御用作歌指南歌会始の選者岡野弘彦、「報道と辞任とのつながりはありません」の言を残し退任と、訳有り朝日・毎日等が報道。拝金子孫と亡国奴が、御意を改ざん捏造した、中国ナベツネ中曽根の影有り分祀騒動の、顛末である。

松平永芳宮司の至論昭和殉難者(A級戦犯)合祀と私論中曽根参拝

第6代松平永芳(~)宮司は1978(昭和53).7.1~1992(平成4).3.「別冊歴史研究神社シリーズ」人物往来社平成1年10月刊。「誰が御霊を汚したのかー靖国奉仕14年の無念」文藝春秋「諸君!」平成4年12月号

 

増すゴミ新聞社やTVが無辜善良な国民を洗脳する虚実混交の手口

靖国関連卜部亮吾侍従の日記原文(太字紫が報道部分)

1、昭和63(1988)年「4月28日(木曜)・・・お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと、・・・」

2、平成13(2001)年「7月31日(火曜)[一時退院中]・・・10時昨夜予約の入った朝日の岩井記者来 

応接間にて会う、予想どおり靖国神社のご参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず 50/11/21が最後 この時戦没者墓苑にも 行幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更に 30分ぐらいで辞去

全5巻に、わずか二つの文を、あたかも御意であるかのごとく尾ひれを付けまくりプロパガンダ報道。

平成19(2007)年4月26日卜部亮吾侍従の日記「朝日新聞」靖国参拝お取りやめの経緯 A級戦犯合祀が御意に召さず。平成13(2001)年7月31日(一部抜粋)

 〈4月28日〉10時半過ぎ宮殿へ、藤森次長を表御座所棟各室案内、主階のみ、お召しがあった

 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと

注・ここまでが卜部亮吾侍従の日記。以下は日記そのものの記載ではなく朝日の勝手な解釈。

 卜部はこのくだりに自ら赤いアンダーラインを引いている。

 奥野誠亮・国土庁長官が、同月22日の記者会見で、閣僚の靖国神社参拝に関連して「白色人種がアジアを植民地にしていた。それが、日本だけが悪いことにされた」「何が日本が侵略国か」などと述べた。これに中国や韓国が強く反発していた。生前、卜部は天皇に奥野発言や反響について説明した際に天皇が「英国人や米国人にすら私の気持ちをわかってくれている人がいるのに」と涙ぐんだと語っていた

注・語っていた証拠の開示無し。日記原文を記載もせず読者に見せず朝日の勝手な解釈文。日記原文と錯覚する。判断は読者がする、やましくないのであれば、原文掲載が、道理。もし事実なら、涙ぐんだ御意は「英国人や米国人すらわかっている対戦の原因、適者生存戦国時代の真実史観を語らず、いまだに侵略、被侵略の善悪史観を語る、WGIP被洗脳国民を哀れんだ」以外に無い。

 富田朝彦長官のメモが06年7月に明るみに出て、A級戦犯の靖国神社への合祀に対し昭和天皇が不快感を語ったと報じられた。富田メモ〈注〉の日付は、この4月28日(注・昭和63)。卜部の日記は、この日に同長官が吹上御所で拝謁し、入れ替わりで入った卜部に対して天皇が「靖国の戦犯合祀」などについて語ったことを記録しており、富田メモとつじつまがあっている。

 天皇は、あえて「いやな」と述べた「私の心」(富田メモ)について、長官と報道担当の卜部に語ったともみられる。

 〈注〉富田メモ 私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私はあれ以来参拝していない それが私の心だ。

注・朝日の勝手な辻褄あわせの解釈。天皇の言葉なら最重要、崩御12年後に「原文2、予想どおり」などと書かず、この日の日記に記した。狼少年アサヒル君の捏造解釈など不要、原文掲載で事足りる。卜部日記の原文は「1、」のみで、天皇の言葉など皆無。

平成19(2007)年4月26日08時01分「asahi.com」

逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ

 晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇の靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。

 日記で詳細をきわめるのが、昭和天皇の闘病から逝去までの記述だ。

 天皇が強い意欲を示していた戦後初の沖縄訪問は、体調の悪化で中止に追い込まれる。

 87(昭和62)年9月14日、「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」。

 腸のバイパス手術を受けた天皇は国事行為や公務への復帰に執念を燃やす。しかし、ブレーキをかける卜部侍従に「突然摂政にした方がよいのではと仰せ」(88年2月9日)。そんなことなら、天皇が重篤な場合などに立てられる摂政を決めたらどうか、といらだちをぶつけている。

 88年9月の吐血以降の容体、肉親の悲しみも痛々しい。見舞った皇族から「助けてとかどうにかならないかの頻発でお気の毒の由 点滴の針も難しくなる」(11月3日)。天皇の意識が遠のいていく中、意識をはっきり保たせるために侍医団は血中アンモニアを減少させる薬剤を使用していた。「今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由 とにかく摂政の話を消すためにも意識混濁の表現は禁句と」(同29日)。肉親への反応も徐々に鈍っていく。「常陸宮同妃御参 殿下おもうさま(お父さま)と呼びかけ わずかに眼お開きか」(12月17日)

 翌89年1月7日、卜部侍従は、息を引き取った天皇の髪を整えひげをそる。「たんかにて御尊骸(そんがい)を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く」

 靖国神社参拝取りやめの理由についても記述されている。

 最後となった天皇の記者会見から数日後の88(昭和63)年4月28日。「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」。

 「靖国」以降の文章には赤線が引かれている。

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に不快感を吐露したとみられる富田朝彦宮内庁長官(当時)のメモも同じ日付。天皇は富田長官と前後して卜部侍従にも戦犯合祀問題を語っていたことになる。そして、卜部侍従は亡くなる直前、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(01年7月31日)と記している。

注・このように眼目に無関係な部分は日記原文記載するが、肝心要の「2、」の原文記載無く、解釈のみである。無関係な原文の後に解釈、これで原文と錯覚する。4月28日の富田卜部への発言者は、天皇に非ずを、この卜部日記は明々白々に記している。天皇なら最重要、必ず日記に記したはず。

3昭和天皇の御意が破壊分祀派遺族古賀中曽根アサヒル工作員の陰謀

 日記の随所にみられるのが、終戦記念日や原爆の日に律義に慎む天皇の姿だ。2・26事件の日もその一つだった。

 事件から41年たった77(昭和52)年2月26日。天皇は意外な言葉を口にする。「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」。天皇のトラウマの深さがうかがえる。

 忍び寄る老いとの闘いも記録されている。75年2月17日、73歳の天皇は祈年祭の最中、賢所(かしこどころ)の中で2度倒れていた。その後の新嘗祭(にいなめさい)でも卜部侍従が天皇の体を支えており、高齢の天皇に祭祀がいかに過酷になったかがわかる。

 このほか、77年7月、皇后が那須で腰椎(ようつい)骨折した際の御用邸内の様子、皇后が次第に心身の不調に陥るプロセスや天皇の心配ぶり、また石油危機では御料車の使用をためらい、行革が叫ばれた時には歴代最長寿の祝賀をやめさせるなど国民感情に気配りする天皇の姿も記録されている。

 日記は「昭和天皇最後の側近・卜部亮吾侍従日記」全5巻として、5月以降朝日新聞社から順次刊行される。

 

平成19(2007)年4月26日14時28分A級戦犯合祀が御意に召さず、侍従日記に昭和天皇の不快感(読売新聞)

 昭和天皇に仕えた故・卜部(うらべ)亮吾元侍従の日記に、昭和天皇が靖国神社への参拝を取りやめた理由について直接的にはA級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さずと記されていることがわかった。

 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことは富田朝彦・元宮内庁長官の日記で明らかになったが、その事実が改めて確認された形だ。

 卜部日記は、1969年に侍従となってから32年間に及び、横書きの日記帳33冊に記されていた。日記は卜部元侍従の生前に朝日新聞社に託され、出版を予定している同社が26日に一部を公開した。

 靖国神社に関する記述は、88(昭和63)年4月28日の「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のことと、2001年7月31日靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず2か所。4月28日の「靖国」以降の記述には赤い下線が引かれていた。

注・狼少年アサヒル君に疑問点も問わず、鵜呑みし報道しただけか。

平成19(2007)年4月26日12時42分毎日新聞〈A級戦犯合祀〉「御意に召さず」…卜部元侍従が日記に記述

 晩年の昭和天皇に仕えた卜部亮吾(うらべりょうご)元侍従(故人)の日記に、自らが亡くなる直前の01年に昭和天皇の靖国神社参拝取りやめについて、A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さずと記していたことが分かった。日記には、昨年7月に判明した故富田朝彦・元宮内庁長官の昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示したことを示すメモの日付と同じ日に、昭和天皇から卜部侍従に靖国神社の戦犯合祀に関する話があったことを示す記述もあった。昭和天皇のA級戦犯合祀への気持ちが改めて浮き彫りになった。

 日記は卜部さんが侍従になった69年から亡くなる直前までの32年間、市販の日記帳33冊に書かれていた。靖国神社に関しては88年4月28日の日付で、「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこととあり、「靖国」以降は赤線が引かれている。

 この日付は、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀に関して、「私は 或(あ)る時に、A級が合祀され その上 松岡、白鳥までもが(中略)それが私の心だ」などとつづった富田元長官のメモと同じ日だ。富田元長官と前後して卜部さんが戦犯合祀についての気持ちを聞いたことになる。

 この時は、昭和天皇のこの問題への気持ちについての記述はないが、01年7月31日の日記には、靖国神社の御参拝をお取り止(や)めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記し、天皇が合祀に不快感を持っていたことをつづっている。

 日記は、昭和天皇の闘病についても詳しく記されている。昭和天皇が腸の手術を受けるため沖縄訪問を取りやめた際の87年9月14日には「ついに来るべきものがきたということだが、暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」と不安をつづっている。

 また、2・26事件から41年たった77年2月26日に「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」など戦中の記憶が消えない様子がうかがえる。石油危機では専用車の使用をためらったり、財政難を気にして小旅行を取りやめるなど、国民感情に気配りする姿も記されている。

 卜部さんは京大卒業後に人事院に入り、宮内庁に移って69年から約20年間昭和天皇の侍従を務めた。91年4月から皇太后宮職御用掛として香淳皇后に仕え、00年の香淳皇后死去に伴う大喪儀では、祭官長を務めた。02年3月に78歳で死去した。

 日記は、卜部さんが亡くなる約1カ月前に朝日新聞の記者に託し、遺志に基づいて朝日新聞が公開した。〈桐野耕一〉

 侍従卜部日記が語ったのは、全5巻中1、19884月28日「靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と、2、崩御12年後の2001(平成13)年7月31日靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さずのわずか2か所。1は、発言者の記載無し。2は摘み食い、原文は、「7月31日(火曜)[一時退院中]・・・10時昨夜予約の入った朝日の岩井記者来 応接間にて会う、予想どおり靖国神社のご参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず 50/11/21が最後 この時戦没者墓苑にも 行幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更に 30分ぐらいで辞去」である。卜部が、朝日の岩井記者に「50/11/21が最後 この時戦没者墓苑にも 行幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更」と、調査結果報告風(30分ぐらいで辞去が証)に誘導洗脳されて崩御12年後にやっとたどり着いた、卜部個人の感想で、御意ではない。御意なら最重要、当日の日記に記していた。2、「予想どおり」とあるは、天皇の御意、崩御12年後にも開示されずを証言して、余りある。侍従等は、御意開示皆無なので「予想」はしていたが、御意では無い。それを合祀に不快感とは、捏造も甚だしい限りだ。肝心要の部分「予想どおり」等、削除摘み食いは、誘導洗脳を隠蔽し、捏造が目的。原文掲載無き理由である。輩は語るに落ちて、工作員(凶産・韓国・罪日と手口同じ)を白状した。朝日記者の誘導洗脳から2週間後の終戦記念日「8月15日・・・靖国合祀以来天皇陛下参拝取り止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳大馬鹿。・・・」は、完全に洗脳された証し。人間昭和天皇08.3.朝日新聞社刊半藤一利・御厨貴・原武史鼎談でも「予想どおり」は隠蔽し捏造。半藤一利「入江日記『朝刊に、靖国神社に松岡、白鳥の合祀のことなど出、テレビでもいう(原文ふ)、いやになっ(原文つ)ちゃう』79(昭和59)年4月19日・・・みんな符合していたんだなとわかります」と、文意無視し勝手に合祀反対と捏造。新聞に出、テレビでもいう、大騒ぎで「いやになっ(原文つ)ちゃう」で、合祀に非ず、マスコミ非難は明白。

 このように現実界での当て推量紙屑を、証拠として大騒ぎする工作員の巣窟が、仮想現実界の実態である。 卜部は1924年生まれ、終戦時21歳、28歳まで7年間のWGIP、以後引き継いだNHK朝日毎日の犯日、狂産の嵐である。当事者で53年の侍従職徳川侍従長の言動、8ヶ月前の朝日岩井記者の誘導洗脳で予想どおり」と闘病中の卜部、日記に記載、1ヶ月前朝日に日記を託し、02年3月に78歳で死去。そして07年4月26日、朝日新聞摘み食いし報道。卜部騒動の顛末である。

 公開も出来得ぬ単なるメモ書きを、素人委員会が御意と判断し報道。病人を誘導洗脳、書かせた日記をさらに摘み食いし報道。仮想現実報道界は、異常である。文系には整合性が皆無、鳩山総理(理系だが、実技皆無なので、理系丸暗記のまま)、大江健三郎がサンプル。検証回路ゼロ(65年間の無検証が証)近眼史観文系丸暗記稗田阿礼の、教授や作家や記者は、整合性皆無の2D。2Dの捏造なんぞ、現実界記憶3Dの、整合する道理で検証すれば、前述のように真実が現出する。東條自決未遂事件もそうだが、整合が宗の記憶3D警察が検証すれば、真実判明は瞬時。

 真贋検証の職責も果たさず、丸暗記日経やアサヒルを鵜呑みし、分祀を叫ぶ石原都知事国会議員、付ける薬が無い。輩は丸暗記仮想現実報道界に操られる、脳みそ無き、単なる人形だ。遺族会よだまされるな!空識者工作員の、亡国奴を信じたが故の、靖国分祀騒動の顛末である。

2007(平成19)年7月30日「従軍慰安婦」問題。2007年7月30日に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を可決。これも(抗日連合会)がマイク・ホンダ議員(民主党・カリフォルニア州選出)を操り仕掛けた。アメリカは負い目払拭のため追随した。

平成19(2007)年8月12日NHK水木しげる原作の「ドラマ・鬼太郎が見た玉砕」。受動戦争を能動戦争に捏造。玉砕せよと命令した極悪日本軍と捏造放送。

平成19(2007)年8月NHKスペシャル「パール判事の真実」。パール博士、ガンジー、ネルーも、インパール作戦までは、日本を侵略者としてみていた。戦国時代なので当然で、非常時の常識。そのパール博士の当初の発言をつまみ食いして、放送した。工作員の巣、NHKの証明である。

平成19(2007.9~08.9)年福田康夫首相
平成20(2008)年8月12日朝日新聞日本経済新聞などは東條英機鉛筆書きのメモ報道。このメモは、東京裁判(46年5月~48年11月)で東條の主任弁護人だった清瀬一郎が法務省へ寄贈したもの。後日の東京裁判対策メモは明白なのに、当日のメモであるかのように終戦の8月15日直前に捏造報道した。東條英機鉛筆書きのメモ工作員操作真贋無検証仮想現実界報道作家迎合  5につづく⇒

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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