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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観上極悪NHK洗脳捏造子孫ポーランド歴史ワルシャワ不屈復興世界遺産子孫へ


日本とポーランド余りに異なる戦後の歴史
 現実界の捏造は、必滅。子孫のために残してはいけない捏造情報操作集団犯日団。日本洗脳犯日凶会(NHK)、諜匪新聞(朝日)、売日新聞(毎日)、凶惨党(共産党)(カルト凶産教団)、邪民党(社民党)、愚条の害(九条の会)などの仮想現実界捏造情報操作集団犯日団は、ただいま捏造情報操作報道まい進中。

 ポーランドと日本は、大国の狭間の小国で酷似する。しかし歴史は、大きく異なる。五回のポーランド分割にも屈せず、復活し続けた不屈復興の歴史である。日本はただ一度の敗戦で、御覧の有様だ。余りにも対比が際立つ。ポーランドが親日なのは、戦前の日本(唯心時代)に対してで、現在の日本(唯物時代)ではない。他の親日国も同様である。ポーランド親日の背景は、当ブログ「1シベリア難民の孤児救出・・・」参照

 1980年ポーランドのワルシャワ歴史地区(Historic Centre of Warsaw)は世界遺産(文化 遺産)に登録された。半世紀の歴史しか経っていない復元(イミテーション)遺跡、換言すればテーマパークが、なぜ世界遺産に登録されたのか?

 ポーランドの首都・ワルシャワは、ショパン、キュリー夫人を生んだ。14世紀から19世紀までは「北のパリ」と呼ばれた、歴史の都であった。五回も国土が隣国に分割された消滅と復活の歴史、ポーランドの歴史を旅して、現代の日本と比べてみよう。

ポーランド不屈復興の歴史
 10世紀にポーランド公国として世界に認知された。14世紀の西欧のペスト大流行。ペスト流行の犯人というデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国に多数、移住してきた。以後、移住続き、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。寛容的な民族を物語っている。

1385年ポーランド女王ヤドヴィガと、リトアニアの大公ヤギェウォが結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は、人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合、ポーランド=リトアニア連合となった。

1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治した。

1410年、ポーランド=リトアニア連合は、グルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討ち、ドイツ騎士団領を得た。

1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理。当時異教徒リトアニアとキリスト教国ポーランド王国が同盟し、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をしたことが大問題となった。ドイツ騎士団の主張「異教徒と同盟して同じキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪。同罪によって、ポーランド人は地上から消えるべきである」。
 ポーランド全権委員パヴェウ・ヴウォトコヴィツの明快な主張「異教徒リトアニア人もわれわれキリスト教徒も、全く同じ人間である。自らの国家を持つ権利(国家主権)、生きる権利(自衛権、生存権)、私物の権利(財産権)は誕生すれば誰でも得られる自然権である。しかるに、リトアニア人の権利行使、自衛する(自衛権)は、正当」。「自然権」世界で初めての提唱。

1430年にリトアニア大公のヴィトルトが没すると、ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。

1569年、ポーランドはリトアニアを併合。ポーランド王を統一君主とする「ポーランド=リトアニア連合王国」となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア連合王国は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。

1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子、時の国王ジグムント2世が男系を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋断絶。以後ポーランド=リトアニア連合王国は、全てのポーランド貴族参加の選挙で国王を選出する「選挙王政」を採択、貴族共和国となった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等の選挙権が与えられた。

1592年、ポーランド=リトアニア連合王国は、スウェーデン王国と同君連合となった。

1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。

その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争)大洪水時代により、ポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に疲弊していった。

1772年第一次ポーランド分割。プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって分割された。

1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会はこれを可決(5月3日憲法)。この憲法によって王権の世襲制とともに、世界初の立憲君主制が誕生。ポーランド=リトアニア連合王国は単一国家の「ポーランド王国」となった。

1793年、ポーランド=ロシア戦争。プロイセンはロシアと共に第二次ポーランド分割を行った。

1793-94年、ポーランドの愛国者コシューシコは、義勇軍を結成してロシア軍と戦ったが敗れた(コシチューシュコ蜂起)。

1795年、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国、第三次ポーランド分割。ポーランドは残った領土をすべて奪いつくされて完全に消滅滅亡

1807年、ナポレオン戦争でポーランドはワルシャワ公国として再び独立。

1815年ナポレオンの失脚。ウィーン会議によって、ワルシャワ公国解体、第四次ポーランド分割。ロシア皇帝が元首の、ポーランド立憲王国となった。ロシアに征服された。

1830年、ロシア帝国からの独立を目指して「十一月蜂起」。がしかし、翌年鎮圧された。

1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集した。

1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を決起したが、鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった。

1871年からの、抑圧政策。すべてのカトリック教徒対象のビスマルクの文化闘争による、ポーランド人抑圧政策。この抑圧に対するポーランド人の抵抗は頑強で、抑圧に対してはポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策により、さらにポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は堅固なものになった。

1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。

1918年に第一次世界大戦が終結すると、1919年ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家として再生した。

 ヴェルサイユ条約の民族自決の原則「一国家における少数民族の自決」アメリカのT.Wウイルソン大統領が唱えたが、これはドイツとソ連の影響が拡大しつつあった東欧諸国と、バルト三国の独立を支援する目的と、ドイツ食民治の割譲が目的であったため、戦国時代は更に加勢し継続、後のWW2、大東亜戦争の世界大戦となった。

1939年ポーランド侵攻ポーランド滅亡カティンの森虐殺
1939年8月23日、ナチス・ドイツとソ連が締結した期限10年の、独ソ不可侵条約の条項によって、国土は再び分割された。第五次ポーランド分割。
1939年9月1日、ポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始し、ポーランドをドイツ、ソ連で分割占領した。政府は降伏を余儀なくされ、ワルシャワはナチス・ドイツの占領下におかれた。市内居住のユダヤ人はワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、1942年移送。

 この時ソ連に武装解除されたポーランド軍は4万7千人、このうち少尉以上の将校5230人は集められてカティンの森へ送られ、そこで掘られた穴の脇に目隠しをされたまま座らされ後頭部に銃弾を打たれ殺された。死体は穴に蹴落とされ埋められた。残りの兵士たちは、シベリア送りとなった。

 こうしてスターリンはポーランドをソ連領とする際に邪魔となる者を虐殺した。スターリンによって間引かれたのは将校ばかりではなかった。高級公務員、教員、弁護士そして貴族などのインテリ階級もその削除対象リストに載った。発見された日記から1940年5月と判明、2万2千人が虐殺された。

 1943年ドイツ軍が白ロシアに進軍の際、スモレンスク郊外に在るカティンの森で大量の跡を発見、直ちにジュネーブの国際赤十字に報告した。国際赤十字による査察が入り、八千人を超える死体が掘り起こされた。

 戦後も、ソ連占領下のポーランドでは、カティンの森に言及するのはタブーとされ、独立する1989年まで、誰もがタブーであった。ソ連崩壊後、1992年証拠が発見され、認めた。カチィンの森虐殺・命ある人を物体と認識し破壊する情無き機械人間、正に唯物思考凶産主義だ。

1941年6月ドイツ軍ソ連侵入。独ソ不可侵条約破棄。

ワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人街)蜂起
1943年4月19日に親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー解体で、ユダヤ人は国内の絶滅収容所に送られた。強制収容所行きが死を意味することに気付いたユダヤ人(老人女子供全て)が、強制収容所での確実な死より、助かる微かな望みをか懸けて、武装蜂起した。
 4月19日~5月16日の武装蜂起である。ポーランド国内軍は4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行なった。パルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の下、運河を通り脱出した。ミワ18番地の指揮所、そこで残った指揮官と100人以上のユダヤ人(老人女子供全て)は、集団自殺した。

 7千人のユダヤ人が戦死し、6千人が防空壕の中で焼死し、残った5万人は絶滅収容所に送られ、虐殺された。

 ナチス(食民治主義)もソ連(凶産主義)も米国(食民治主義)も、人間を物として扱った唯物時代、ポーランドは、者(人間)として対処し、14世紀迫害されたユダヤ人難民を受け入れ、今度また助けた。日本も、者(人間)として対処し、ポーランドシベリヤ難民孤児や、ユダヤ人を助けた。殺し合いの時代、両国の観点は世俗(宗教や民族)を超越し、一つの高みにある。子孫はこのことを、心に深く刻印すべきだ。

 ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びたユダヤ人(100人ほど)が、後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った

1943年の冬、ドイツはスターリングラード(現在はカリングラード)攻防戦で十五万人の死者、そして十万人もの捕虜を取られてソ連に完敗。

1944年7月23日には、第二白ロシア軍団ソ連が、首都ワルシャワの真中を流れるビスワ川西岸付近にまで侵攻して来た。

ワルシャワ蜂起

1944年ソ連軍に追われたドイツ軍は、ボロボロの姿でワルシャワを次々と撤退。ワルシャワ残留部隊も七月末には四千人を数えるほどに激減した。ポーランド人の誰もが「遂に勝機が訪れた」と確信した。更にソ連軍が、ワルシャワの南百キロのブラービで、ビスワ川渡河成功の情報は、ポーランド国内軍を大いに力づけた。このような情況の中で7月29日、モスクワ・ラジオ放送はポーランド人の決起を促す放送を流した。「これまで決して降伏せずに名誉ある戦いを続けてきたポーランド人同胞に告ぐ、いよいよ行動のときが来た。決起せよ、勝利を自らの手で掴め」

 この放送を、ソ連蜂起支援と理解した国内軍は、八月一日をもって全軍で蜂起することを決定した。4千名の婦人も参戦、動員数総勢5万人。更に十代前半の沢山の少年少女たちは、拠点間の連絡係り伝令として参戦した。

 ところが手薄となったはずのドイツ軍は、東部戦線建て直しの拠点となるの死守が、新たな参謀方針として発令され、7月26日から29日の4日間で強力に補強されていた。重火器装備の精鋭十万人の強力な軍団に変貌していたのだ。

 ワルシャワ国内軍も、情勢は掴んでいた。しかし、29日のモスクワ放送を、「国内軍の蜂起待ちで、それを合図にソ連軍加勢」と信じ、追い風と読んだ。

1944年8月1日午後2時頃に約5万人の国内軍は蜂起した。蜂起軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。当初数人に一人しか銃が無いという状態を脱し、奪ったドイツ軍の小火器、軍服が国内軍兵士に支給され、装備面で改善が見られた。これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、国内軍兵士はポーランド国旗の腕章を着用し、識別を行った。さらに多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。

 ドイツ攻撃部隊にはカミンスキー旅団やSS特別連隊ディルレヴァンガー といった素行の悪さで有名な部隊が加わっており、これらの部隊の兵士たちは戦闘より略奪や暴行、虐殺に励んだ。このことはワルシャワ市民と国内軍の結束を一層強め、戦意を高揚させた。

 特に悪名高いのはカミンスキー部隊であった。それはバルバロッサ作戦でドイツ軍がソ連に侵攻した時に、ドイツ軍に協力した地元の反共ウクライナ人たちで組織された、ドイツ軍の制服をまとったウクライナ人部隊であった。

彼らはドイツ軍と共にウクライナから撤退し、以降はドイツ軍の中に組み入れられて戦った。祖国を裏切って外地で転戦する彼らの屈折した心情は、民間人への度を超えた残虐な行為となって、ドイツ軍の撤退する途中の各地で蛮行を繰り返し、ポーランド人たちに恐れられていた。その彼らが無防備となったマリア・スクワドロフスカ記念病院へと突入してきたのだ。獣と化した彼らは戦闘のことなどほっぽりだして、病院内で残虐の限りを尽くして暴れまわり、殺戮は一時間も続いた。

始めに医者が一個所に集められて、一度に銃殺された。その次には若い看護婦やアシスタントとして働いていた女性達が探し出されてあちこちで暴行を受け、その後で殺された。最後に、病床で動けずにいた負傷者達が一人また一人と、端から順番になぶられるようにして撃ち殺されていった。

 8月27日、あまりにも目に余るカミンスキー旅団の残虐行為に、ドイツハインリヒ・ヒムラーは司令部に対し、カミンスキーの処刑を許可した。カミンスキーは逃亡を図るが、逮捕されて処刑された。カミンスキー旅団はワルシャワから撤退し、解散した。

 ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に蜂起軍を追いつめていった。ワルシャワ蜂起は時間が経つにつれていよいよ絶望的な状況となっていった。旧市街地に残って抵抗を続けていた蜂起軍本部では既に弾薬と食料が尽き果てていた。

 多くの生き残り部隊が下水道を通って旧市街の外への脱出を計ったが、上から待ち構えるドイツ軍にマンホールから毒ガスを落とされたり、火炎放射器を浴びせられて丸焼きとされたりで、無事に脱出できたのはたったの二千五百人に過ぎなかった。逃げる途中で見つかり、降伏勧告を受け入れて手を上げてマンホールから出てきた兵士たちは、全員が下水道から出終わった後で、壁に向かって並ばされて機関銃で一斉射撃を受けて殺された。

 8月31日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出した。

9月末には蜂起軍はほぼ潰滅する。 食料と弾薬の補給の見込みも無く、組織的な抵抗も出来なくなった旧市街本部の蜂起軍は九月三日、ついに降伏した。

 ワルシャワでの戦いは旧市街の北西部ジョリボシ地区、南部のモコトフ地区でまだ続いていたが、旧市街の本部以外では装備も貧弱な部隊しかなく、小銃ですら一人一丁も携えていなかったほどだ。少ない銃弾を大切に使い、いろいろな構造物の陰から一撃必殺でドイツ軍兵士を狙撃する国内軍に対し、ドイツ軍はそうした拠点を重火器で砲撃しながら、なぶり殺しにするような残忍さで、一つまた一つつぶしていった。戦いの後にはレンガとコンクリートの瓦礫の山だけが残った。

 ワルシャワの建物は口径60センチの雷神砲とユンカース機の降下爆撃、そして戦車砲弾で多くの民間人の命とともに徹底的に破壊つくされた。

 八月一日から始まったワルシャワ蜂起は、十月三日に蜂起軍が正式に降伏して終結した。同盟国であるイギリスやアメリカから遂に援軍は来ず、ソ連にはまたしても裏切られ、孤立無援の中で精一杯戦った末での敗北であった。ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に終わった。

 蜂起軍はポーランド国歌「ポーランド未だ滅びず」を歌いながら最後まで武器を手に列を作って行進し、降伏した。

 その後、ナチス・ドイツ軍による復讐攻撃によりワルシャワは徹底して破壊された、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス市民約22万人が戦死処刑で、死亡したと伝えられている。

  当時対岸にいたソ連同盟軍は、蜂起軍を助けなかった。「ポーランドを解放したのは自分たち」というプロパガンダのためと、占領に、愛国者は邪魔なので、ソ連はワルシャワ蜂起軍を見殺しにした。正に凶産は唯物である。

 ソ連軍は1945年1月に入ってようやく進撃を再開し、1月17日に廃墟と化したワルシャワに入城した。

 対岸のソ連駐屯地からビエスワ側の西岸の様子は十分に見える。兵士、多くの民間人、子供、男女の別なく皆、死に物狂いで戦って死んでいる。同胞達のそうした状況を黙ってみていることができず、ソ連の指揮下にあったポーランド人民軍も命令を無視、蜂起軍に加わって戦った。入城したソ連軍の探索。蜂起軍兵士の生き残りと同じ運命が待っていた、士官は銃殺、一般兵士はシベリア強制労働キャンプへと送られた。

 さらにソ連軍はレジスタンス幹部も逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。ソ連が、同じ連合軍側のメンバーであるポーランド人に対してとった仕打ちである。凶産主義の正体を語って余りある。生き残った少数のレジスタンスは地下水道に逃げ込み、ソ連軍進駐後は、裏切ったソ連を攻撃目標とするようになった。共産政府樹立後も、要人暗殺未遂など混乱が続いた。

ワルシャワ市民蜂起の代償

蜂起軍軍人の戦死者1万6千人、負傷者 6千人

蜂起軍と一般市民の死者 20万人 (当時のワルシャワ市の人口は100万人10人に二人の戦死

ワルシャワ全都市の建物、八十四%が瓦礫の山と化す。完全に滅びた。残った建物はたったの6軒

 後に西のヒロシマ・ナガサキとも称される、悲惨を極めたワルシャワ蜂起の結末である。負傷者に比べて死者の割合が圧倒的に多いが、これはドイツ軍が徹底的な無差別皆殺し作戦を実行した結果である。ドイツ軍は兵士、一般市民の見境無しに徹底的にポーランド人を殺戮した。以前以後このように高い死亡率、民間人被害率は皆無。

 犯日団に洗脳された沖縄県民よ、ポーランド蜂起軍やゲットー蜂起軍を、日本軍同様極悪軍と思うか。軍命戦陣訓など無くとも、侵略者に対して、家族一丸、街一丸、島一丸、国一丸自らの意思で戦うのは道理。蟻でも蜂でも生命体は侵略者に対して、適者生存をかけて一丸と化し戦うのは、古今東西世の習いで、生命体の史実だ。沖縄島の戦いは、侵略者に対してのワルシャワ蜂起ゲットー蜂起と同じ、沖縄蜂起だ。ワルシャワは、戦死者の心を世界遺跡として、子孫へ残した。沖縄は、軍命で自決した愚民と愚弄し、子孫へ残すのか。覚醒せよ、沖縄県民下巻につづく

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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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