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真実史観を子孫へ!スパイ捏造史破壊大和九九年戦争適者生存史

歴史は線!点丸暗記丸鵜呑みは亡国!植民地独立付与宣言を考え一億総歴史家へ!転載可要出自記載
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真実史観1生きて虜囚カウラ戦陣訓に非ずアサヒル朝日捏造記事が悲劇の元凶


1戦陣訓に非ずカウラの悲劇のすべての元凶は朝日新聞捏造記事だ

オーストラリア・カウラ・日本人捕虜1104人大脱走(COWRA BREAK OUT) 

 日テレスペシャルドラマ あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった-カウラ捕虜収容 からの大脱走 公式サイト。2008年7月8日(火)午後9:00日本系で放送。発案脚本は中園ミホ。伯父の佐藤憲司(87)の証言が基だという。

 降伏禁止を命令した極悪軍と蹴落とし捏造、か弱き国民の味方を演じる仮想現実界の道理無視捏造番組。またまた偽善者番組だ。仮想現実界はまさに、秋葉原殺戮者やオウム殺戮者と同類の、無道理の輩の巣だ。日本系にもナベツネが工作員を住まわせたのか。中園ミホも、絵に描いたような無検証無道理だ。軍人勅諭軍法に記載無き「降伏禁止」が、訓に記載ありとは、現実界の道理には無い。検証せずとも現実界の道理があれば、明白なことだ。何度も記載しているが。再度記す。「虜囚は日本国の囚人。虜囚の辱は、日本国の囚人となる辱めだ」 

戦陣訓

『第八 名を惜しむ 

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』

戦陣訓意訳

『第八 名を惜しむ(名誉の尊重) 

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳

 内容は今村均将軍が証言したように、正に「諭したもの」だ。

詳細は当ブログ内(憂国の辞書の解析生きて虜囚

「死は、鴻毛より軽し」は、命を軽んじた言葉ではない。

 「死は、或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し」「死と言うものはある場合には、中国の高く大きな名山、泰山よりも重いものであるが、また、ある場合には鴻(おおとり)の羽毛より軽いものである。人には、場合によって潔く死ぬべきときと、また逆に、命をたいせつに守らねばならないときがある」司馬遷(前145ごろ~前86。「史記」の著者)

戦陣訓の本意

「続今村均回顧録」芙蓉書房抜粋

島崎藤村先生と戦陣訓P165

 「戦陣訓は―私は良く出来ていると思い込んでいた。ところが、翌年自分が戦地の軍司令官に親補され、全部下とともにこの大臣布達の訓を尊守する立場に立ち、読みなおして見て、後悔を覚えた。

 と云うのは、戦陣で守るべき道徳の主眼点がはっきりと映っておらず、ただ徳目だけをずらっと並べて平等に説かれ、又あまりに文を練りすぎたためにかえって迫力を感ぜしめず、とくに長文になり過ぎていることはいけなかったと反省された。むしろ簡潔に、

 “抗戦する敵は撃破するが、降伏してきた者をいつくしみ、無辜の住民を愛護し、掠奪強姦の如き、不法な行為を行わないことが軍人軍隊の最大最高の義務であり、責任である。戦勝獲得上、戦力発揮と同程度に必須不可欠の要件である。

 国際法に依る陸戦法規の尊守は、国家と国軍の威徳を昂揚し、とくに敵兵の投降を誘致し、戦勝に資し得るものである。日清、北清、日露、日独の緒戦役はこれを確証している。

 戦場に於ける最大の勇者は、責任を重んずる者がこれである

 ぐらいに短くはっきり表明すべきであった。―相済まなかったと反省された」

 島崎藤村「戦陣訓を拝見し、戦地では戦争の特性上どうしても心がすさむのでそれをご心配しての訓と推量し、戦場の人たちにお気の毒さを感じさせられました」

 今村均「そうです。激しいたたかいの後などはしばらく昂奮がおさまりません。戦陣訓は、この昂奮の発作に伴って生じやすい不善に対するいましめであります―抗戦するものは砕きましても、服してきたものはこれを容れ、とくに無辜の民をあわれむ恩威並び行われるのでないと、徒に抵抗者を多くし、戦争を長びかせて勝利を得ることをむずかしくします。それで今度この訓を陸軍全人員に普及させることにいたしたものです」。

 

カウラの大脱走 1944年8月5日、午前1時55分、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置するカウラ戦争捕虜収容所で、1104人(約80%が陸軍で、20%が海軍。)の日本人捕虜が一斉に脱走した。日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者ゼロ。オーストラリア側の死者4人。捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年だ。

 

 NHK制作の「カウラの大脱走」2005年9月4日に放映された。内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものだ。日本兵の大半は、捕虜となったときに偽名を名乗って入所し、姓名が日本に伝わることを避けたという(捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった。「常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」「公」に、応えられないことを恥じたからである)。

 戦陣訓を意識せずに平和な捕虜として暮らしていた。ところが、ある日、日本軍の下士官の一群が収容されて来た。一人の下士官が軍人手帳を示し『諸君は捕虜である。戦場に臨む軍人の心得として、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と書いてある。生きて捕虜になっていることはこの上なき恥辱である。国に残してきた家族に対しても申し開きができないではないか』と話し始めた。「これは敵につかまるぐらいなら自決しろということだ」とつまみ食い読みし、説明し、皆、戦陣訓に納得し、票決の上決行した、のだという。NHKは戦陣訓原因説だ。

下記はNHK放映内容記載。Mami Yamada|週刊マミ自身 発見の同好会 : 続 NHKテレビ「カウラの大脱走」と民主主義

 

『ウィキペディア(Wikipedia)』の見解 

 士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった) 

 日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするかの多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)

 この際、紙に移送受諾なら○、反対は×として行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いていた可能性を、現生存者は証言。

 

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)カウラ事件』「脱走者のリーダー達は、全員無傷」はウィキ犯日団捏造。集団脱走の3人のリーダーのうち、金澤亮は捕らえられて、暴動の首謀者として軍事裁判にかけられ15か月の重労働の判決。しかし実際には重労働はなかった。小島正男は混乱の中で自ら命を絶っ。南忠男は本名・豊島一はブロード・ウエイで胸に銃弾を受け、大量の出血によって衰弱、自分自身の手でナイフで喉を掻き切って息絶えた。金沢亮(2004年11月逝去)が帰国後にカウラの記録を残したが、未公開。

 

 「カウラの大脱走」はNHKのように、戦陣訓に責任転嫁だけでは語れない事は確かだ。下記は詳細に語られている「カウラの大脱走」だ。戦陣訓はWGIP解釈。

カウラ (COWRA)―ひそやかに眠る日本の兵士たち

真実史観の検証

 真実史観の検証はこうだ。カウラの1000人余りの日本兵は、戦陣訓を降伏禁止とは思っていなかったので、皆平和な捕虜生活を送っていた。そこへ戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じた下士官が現れ、戦陣訓に白紙の兵士は、洗脳され、自虐し、逃亡が目的ではなく自死目的の、大脱走となったというのが「カウラの大脱走」のあらすじだ。

 

 捏造解釈を信じた下士官さえ現れなければ、平和に捕虜生活をおくり、皆帰還していた。皆戦陣訓を、降伏禁止とは思っていなかったのが、ここで証明されている。軍人勅諭や軍法でも無い「」なので、お定まりの、「兵士鼓舞叱咤激励の建て前論」と認識していた。

 

 捏造解釈の元ネタが、下記の1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事だ。この記事は1944年7月3日サイパン島守備隊南雲忠一海軍(戦陣訓示達陸軍のみ)中将訓示の元ネタにもなっている。まったくこの記事は罪の巨魁だ。

1942年2月24日 一等飛行兵、22歳の南忠男、日本人としてのカウラの捕虜第1号となる。

1942年8月~1943年1月 捕虜収容所にいた大部分は、ガダルカナル島での日米両軍の死闘後瀕死の状態で収容された兵士である。

 NHKの番組ではこのあたりの模様を次のように描写していた。

 「収容所では花札を創ったり、手作りのグローブで野球をしたりなど、娯楽に明け暮れていた。食べ物も支給されるのだから。1000人以上もの人がいながら、ケンカひとつなくおだやかなものでした」。1942年2月24日~1944年3月23日までの約2年間はこのように平和であった。

アッツ島玉砕戦陣訓 - Wikipedia「」原文

1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令 

 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり (注・戦陣訓の虜囚の辱ではない、捕虜の辱めをと、なっている。決戦直前、兵士としての建前を打電したに過ぎない。戦国武将の出陣の言葉や、現代のスポーツ選手の宣誓と同じ。この発令 は、ウィキ以外には見当たらない。出自不明

アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践との見出しを見ることができる。(谷荻報道部長の談話)

1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事。

【】朝日新聞1943年5月31日朝刊原文朝日新聞記事縮刷版〇は判読不明。『』谷荻大本営報道部長の放送

大本営発表(五月三十日十七時)

一、「アッツ」島守備部隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し、血戦継続中の所、五月二十九日夜敵主力部隊に対し、最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈な攻撃を敢行せり、爾後通信全く途絶え、全員玉砕せるものと認む、傷病者にして攻撃に参加し得ざるものこれに先立ち悉く自決せり、我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり、敵は特殊優秀装備の約二万にして五月二十八日までに与えたる損害六千を下らず

二、「キスカ」島はこれを確保しあり

一兵も増援求めず 谷荻報道部長放送 烈々戦陣訓を実践

(注・アッツ島は米軍の皆殺し作戦で、全滅した。米軍の殲滅作戦のため全滅とは士気に影響するので発表出来ないため、兵士の名誉を尊び、玉砕と発表した。玉砕=米軍の皆殺し作戦で全滅が真相。「一兵も増援求めず 谷荻報道部長放送 烈々戦陣訓を実践は朝日新聞の記事見出しで、上の放送内容『』に一切無いが、ほとんどが大本営報道と錯覚し、玉砕=戦陣訓を実践と記憶した。ウィキもこの手法を真似、見出から「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践と、谷荻報道部長の放送を削除、分離し談話と捏造大本営談話であるかのように印象操作した。谷荻大本営報道部長の放送、談話ではない。実に巧妙、素人ではない、まさに工作員の成せる技

・・・以って皇軍道義の昂揚を図らんとした戦陣訓を其儘実践したものであります、本訓其の一第五共同において「諸兵心を一にしてその任務に邁進すると共に全軍戦捷のため欣然として没我協力の精神を発揮すべし」と教え、第六攻撃精神に於いて「防御又、克く攻勢の鋭気を包蔵し必ず主動地位を確保せよ、陣地は死すとも敵に委すること勿れ」と訓じ、本訓その二第七死生観に於いて「心身一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」と示し、又第八名を惜しむに於いて「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と戒められてある、その悉くがこの部隊の上に〇動し〇現されてゐるのであります、あゝ何たる荘厳何たる壮烈でありましょう

(注・一面最下段に立川市議選挙の結果報道有り、民主主義は戦後からではない。軍国主義は戦国時代に対応、対処したからである。戦国時代でなければ、軍国主義もなかった)

 朝日新聞記事がこのように戦陣訓を摘み食いし、引用、アッツ島米軍皆殺し作戦(玉砕)と関連付けて、計二ヶ所で繰り返し洗脳。米軍皆殺し作戦のため全滅、大本営殉国死を尊び、玉砕と報道、朝日記事戦陣訓引用し捏造扇動。葉隠れ(1716年)「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」、戊辰戦争や白虎隊の自決、兵士の本分で勇ましい建前「あくまでも降伏せずに戦う」、「恥を知る」民族、古来からの「潔さ」等々日本人精神が、朝日新聞の捏造扇動で簡単に喚起され、捏造「戦陣訓虜囚の辱=降伏禁止」を、安易に信じてしまった。国民や兵士は建前を、戦時下ゆえに現実としてしまったのだ。

1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事以後「虜囚の辱=降伏禁止」が、兵士としての建前論「最後まであきらめずに戦う」(現代の戦うスポーツ選手の標語と同じ)と結合し、現実論として日本軍の一部に蔓延した。以後建前論が現実論として一人歩きし、戦後のWGIP迎合マスコミが、善悪史観でさらに扇動、蔓延し、嘘が真実となってしまい、前述のように辞書も書き換えを余儀なくされた。

国民の一部も朝日新聞捏造記事で、建前論を現実論として洗脳され、64年後の今も信じているものがいる。

沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実・WAC・曽野綾子著

 「・・・『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉を、少なくとも私はあの時代に疑ったことはなかった。まだ13才と何ヶ月(1931年生まれ+13歳で1944年の出来事である)の少女だったから見抜く力がなかった、と私は言わないつもりである。私がもっと分別のある年頃であったとしても、私はその言葉に虚偽的なものを感ずる能力はなかったと確信している。なぜなら私はそのように育てられ、それ以外の価値観がこの世に存在することを知らないに等しかった・・・」

「私の中の日本軍下巻」・安岡章太郎著

 「・・・『戦陣訓』に戻って言えば私自身も一年半の軍隊生活で、『戦陣訓』を強制的に読まされたり、講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。しかるに現代のマスコミは、なぜ『戦陣訓』を重視したがるのか?それは山本氏(山本七平)も言うように戦陣訓』は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか」

 

1944年3月23日 佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)捕虜となる。戦陣訓朝日新聞捏造解釈、降伏禁止を信じていた。

1944年3月23日+数日後~1944年8月 下士官の一群が捕虜となり入所。戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じ、同胞を呪縛。朝日新聞捏造記事で、約2年間の平和は破られた。

 

大岡昇平の『俘慮記』

 「無益な抵抗を放棄するのは各兵士の権利であるとさえ思っていた。しかし、今現に自分が俘虜になって見ると、同胞がなお生命を賭して戦いつつある時、自分のみ安閑として敵中に生を貪るのは、いかにも奇怪な、あるまじきことと思われた。」(新潮文庫56-57)

NHKの番組

 「味方が戦っているのに、安穏としているだけではだめだ」というような意見が出され、80%が決起賛成に○というような結果になっていった」2につづく

No title
私も洗脳されていた一人でした。情けない。
[ 2008/07/10 07:48 ] [ 編集 ]
No title
tenmondai さん へ
 食民治主義凶産主義に世界が征服される寸前に、先人はたった一カ国で立ち向かい、食民治主義と独占貿易を破壊、共産を凶産主義と暴露し拡散防止、人種平等共存共栄、人類の新秩序を創造しました。先人の真の姿です。
 tenmondaiさんは覚醒した先覚者です。先覚者としての健闘を祈念します。
[ 2008/07/10 10:51 ] [ 編集 ]
下士官は海軍で戦陣訓は陸軍のものですから、戦陣訓が絡んでいるとすると辻褄が合いませんね・・・
[ 2014/01/09 05:47 ] [ 編集 ]
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真実史観

Author:真実史観
 自虐左翼に非ず捏造が正当。
 私は物づくりが業で温室水苔無しの新栽培蘭(空・皿栽培)が趣味。物づくりでの捏造は即、死。
 米国負い目払拭作戦、愚民化洗脳WGIP善悪史観で、侵略者極悪先人と捏造。
 NHK朝日毎日TBS日教祖らが60年経ても捏造洗脳犯日教育。捏造亡国祖国存亡の危機、06年学歴肩書不要虚実検証実事求是子孫へ遺す真実史観HP開設。
 倒幕は独立目的、戦争は、征服者食民治主義凶産主義との、最適者生存戦争。日本は軍民一丸適者生存蜂起軍。全征服者と戦ったのが日本、蜂起戦争は常識。
 迫った時代の激流最適者生存。子孫死守、時代の衣を纏い軍民一丸の蜂起軍と化し、子孫生存を懸けて戦い食民治主義破壊、共産は凶産カルト、捏造が党是と暴露、人類の新秩序共存共栄と平等を創造した先人と世界の同胞に捧ぐ。
 新生日本最速は、不買(新聞・雑誌・犯日スポンサー)不払い(犬HK)不投票(亡国奴)の三不。

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